第4話 依頼①:推しとの距離
第4話 依頼①:推しとの距離
「推しが現実にいるんです。同じクラスの男子なんです。でも好きなのか推してるのか分からなくて」 2020年代の恋は、ややこしい。
朝。三年B組の教室に向かう廊下で C組の前を通った。
彩音がいた。
窓際の席。 朝の光を横顔に受けて、教科書を読んでいた。読んでいる ように見えた。だがページが動いていなかった。読んでいるフリだ。 何を考えているのか、翻訳者の目が勝手に動く。
止めろ。 昨日、凛花に言われた。「翻訳者モードで近づくのはやめてくださいね」。
すれ違った。 C組のドアの前を。歩幅を変えずに。
彩音が 顔を上げた。目が合った。
一秒。 長い一秒だった。
彩音は 目を逸らした。教科書に。 さっきよりも明確に。読むフリではなく 見ないフリだ。
俺は 逸らさなかった。
そのまま歩き去った。B組の教室に入った。
「おはよう恒一。 顔がこわいぞ」
陽太が 机に座ってメロンパンを齧っていた。朝からメロンパンだ。朝食がメロンパンなのか、おやつが朝なのか もう区別がつかない。
「こわくない」
「こわい。 何かあったか。C組の前で固まってたろ」
「固まってない。 通り過ぎただけだ」
「通り過ぎるのに一秒かかってたぞ。 一秒は長い。データ的に言えば 通常の歩行速度から逸脱してる」
「お前まで蒼みたいなことを言うな」
「蒼の影響で俺もデータに目覚めた。 嘘」
陽太は笑った。 朝の教室。日常。
放課後。工作室。
凛花が掲示板の書き込みをプリントアウトしていた。昨日見つけた 推し活の相談。
「依頼者は 河合さん。二年A組。掲示板に書いたあと、今日の昼休みに直接来ました。放課後に改めて来てもらうことにしてます」
「直接来たのか。 掲示板だけじゃなく」
「はい。 昼休みに工作室のドアをノックして。『掲示板に書いた者ですけど 相談できますか』って。緊張してました。でも 真剣でした」
「原則② 匿名依頼は受けない。名乗ってくれたなら受理できる」
蒼がPCを開いて待機していた。昨日の帰りに 凛花経由で伝えた。「新しい依頼が来る。データ分析が役立つかもしれない」。蒼は即座に「準備します」と返していた。 行動は速い。判断は まだ課題だが。
陽太はメロンパンを齧りながら パイプ椅子を一脚追加で並べていた。依頼者用。
四時十五分。ノック。
「どうぞ」
河合が入ってきた。二年の女子。 小柄で丸顔で、目が大きい。制服の鞄に アイドルのアクリルスタンドがぶら下がっていた。キラキラしたストラップ。推し活の装備。
「あの 河合です。河合優花。二年A組で 」
「座ってくれ。 河合。何があった」
河合がパイプ椅子に座った。 膝の上で手を握り合わせている。緊張。だが 怒りでも悲しみでもない。困惑。自分の感情が分からなくて困っている という種類の緊張。
「あの 変な相談なんですけど」
「変な相談 は、工作室では普通だ。何でも言ってくれ」
「推しが いるんです。アイドルの」
「推し 」
「はい。ずっと推してて。ライブ行ったり、グッズ集めたり、SNSで布教したり。 推し活が生きがいみたいな感じで」
翻訳者として聞く。 声のトーンは明るい。推し活の話をしているときの河合は 楽しそうだ。生き生きしている。
「で 問題は」
「同じクラスに その推しに似てる男子がいるんです」
「似てる ?」
「顔が似てるんじゃなくて 雰囲気? 笑い方とか、話し方とか。推しの動画を見てるときの気持ちと その人を見てるときの気持ちが 似てるんです。でも 違うんです。似てるのに違う」
河合の手が 少しだけ強く握られた。
「好きなんです。たぶん。 でもそれって恋の好きですか? 推しの好きですか? 推しには距離があるから安心なんです。画面の向こうにいて。手が届かなくて。 でも同じクラスにいたら距離がなくて。距離がないと 怖くて」
翻訳する。
河合の言葉を 翻訳者のフィルターに通す。「推しへの好き」と「恋の好き」。 翻訳者の辞書には この二つの区別が載っていない。桐生先輩の時代には存在しなかった語彙だ。
「怖い というのは」
「推しは 安全なんです。好きでいても傷つかない。向こうは私を知らないから。 でもクラスの男子は違う。好きだって伝えたら 何かが変わる。変わるのが怖い」
安全な距離で誰かを好きでいたい。 翻訳結果が出た。
「河合。 翻訳させてくれ。お前は 『安全な距離で誰かを好きでいたい』んだ」
河合が 目を見開いた。
「安全な距離 」
「推しへの好きは 安全だ。距離がある。手が届かない。だから傷つかない。 でもクラスの男子への好きは 距離がない。手が届く。届くから 怖い」
「......そう です。そうです。手が届くのが 怖い。推しなら 画面越しに好きでいればいい。でもあの人は 隣の席にいる。距離がない」
陽太が メロンパンの袋を畳みながら、静かに聞いていた。凛花がペンを走らせている。 ここまでは翻訳者の仕事だ。感情を言語化する。
だが ここからが難しい。河合の感情は「推しの好き」なのか「恋の好き」なのか。翻訳者の辞書に この区別がない。
「星野」
蒼を呼んだ。
蒼が 顔を上げた。PCの画面から。
「河合さんのSNSアカウント。 本人の許可を得た上で、分析できるか」
「許可 ですか」
「当然だ。本人の同意なくデータを取得しない。 原則②の精神だ」
蒼が 河合を見た。
「河合さん。 僕のデータ分析ツールで、あなたのSNSの投稿パターンを分析させてもらえますか。推しへの反応と その同級生への反応を比較して、感情の違いを数値化します。 いいですか?」
河合は 少し驚いた顔をした。工作室にデータ分析の人間がいると思っていなかったのだろう。
「えっと どこまで見えるんですか」
「いいね履歴、投稿時間帯、リプライの感情分析です。 DMの中身は見ません。見えません。公開情報だけです」
「じゃあ いいです。見てください」
河合がスマホを蒼に渡した。 蒼が指を走らせる。画面上にグラフが構築されていく。
三分。 蒼が顔を上げた。
「出ました」
画面を全員に見せた。二本の折れ線グラフ。 赤い線と青い線。
「赤い線 推しのアイドルに関する投稿・いいね・リプライの頻度と感情指数。青い線 同級生に関する反応の推定値。同級生の名前は特定していませんが 河合さんの投稿パターンから、特定の人物に対する反応だけ抽出しました」
赤い線は 滑らかだった。規則的な波形。山と谷が一定のリズムで繰り返している。
「推しへの感情は 周期的で安定しています。ライブのある週に山が来て、その後ゆるやかに下がり、次のコンテンツで戻る。予測可能な波形です」
青い線は 違った。不規則だった。突然スパイクが入る。予測できないタイミングで 急に反応が跳ね上がる。そして落ちる。また跳ねる。 心電図に似ていた。
「同級生への感情は 不規則です。スパイクのタイミングに法則性がない。曜日にも時間帯にも相関しない。 制御されていない反応です」
蒼がPCの画面を閉じた。
「データ上 推しへの感情と同級生への感情は、波形が根本的に異なります。推しへの好きは 周期的。予測可能。制御下にある。同級生への好きは 非周期的。予測不能。制御の外にある」
陽太が 口笛を吹きかけて止めた。真剣な場面だった。
凛花がペンを止めて 俺を見た。「翻訳してください」という目。
俺は 蒼のデータを受け取った。翻訳者のフィルターに通す。数字を 言葉に変換する。
「河合。 蒼のデータが出した結論を、俺の言葉で翻訳する」
河合が 俺を見た。目が少し赤い。 自分の感情がグラフで可視化されたことに 動揺している。
「推しへの好きは 選んだ好きだ」
「選んだ ?」
「お前はアイドルを見て、好きになると決めた。推すと決めた。 選択して始まった感情だ。だから安定している。予測可能だ。 いつ好きになるか、どれくらい好きか、コントロールできる」
「それは 推しを馬鹿にしてるわけじゃ 」
「馬鹿にしてない。選んだ好きは 本物の好きだ。自分で選んで、自分で育てた。立派な感情だ。 だが」
「だが ?」
「同級生への好きは 選べない好きだ」
河合の手が 膝の上で止まった。
「制御できない。予測できない。いつスパイクが来るか分からない。 蒼のデータが言っている。お前自身がコントロールできていない感情がある。推しには起きないのに あの同級生にだけ起きる、制御の外の反応」
「制御の外 」
「推しへの好きは 選んだ好き。恋は 選べない好き」
河合が 黙った。長い沈黙。 目が潤んでいた。
「選べない 」
声が震えていた。
「選べないんだ あの人を好きなの。選んでない。勝手に。 推しは選べる。推すって決めたから。でもあの人は 決めてないのに 」
「それが恋だ とは、俺は言わない」
「え?」
「翻訳者は辞書を見せるだけだ。 選んだ好きと選べない好きがある。お前の中に二つの感情がある。 どちらが恋かは、お前が決める。俺が決めることじゃない」
蒼が 首を傾げた。言いたいことがある顔。 だが、言わなかった。原則を思い出したのか。それとも 河合の涙に、データの言葉が不適切だと感じたのか。
凛花がノートに書いている。 静かに。今の翻訳を、一言一句。
河合は 少しの間、手で顔を覆っていた。泣いてはいなかった。 泣きそうだったが、堪えた。顔を上げたとき 目は赤かったが、声は落ち着いていた。
「高瀬先輩。 私、まだ分からないんです。選べない好きが恋だって 頭では分かります。でも 身体がついていかない。推しへの好きは身体が慣れてる。安全で。 恋は慣れてない。怖い」
「怖くていい」
「え」
「怖いのは 距離がないからだ。距離がないということは 手が届くということだ。手が届くということは 関われるということだ。 怖いのは、悪いことじゃない。関われる可能性があるから怖いんだ」
河合が もう一度黙った。
「......今日は ここまでにしていいですか。もう少し考えたい」
「もちろんだ。 いつでも来い」
「来週 また来ます」
河合が立ち上がった。 鞄のアクリルスタンドが揺れた。キラキラしたストラップ。 推しのグッズ。安全な距離の象徴。
「あ 高瀬先輩」
「何だ」
「データの人 星野くん? あの分析、すごかったです。自分の感情がグラフで見えるなんて。 怖かったけど」
蒼が 一瞬だけ、目を見開いた。褒められたことへの反応 ではなかった。「怖かった」という言葉への反応だった。データが人を怖がらせた ということを、蒼は初めて直接言われた。
「......ありがとうございます。 怖くない形で提示する方法を 検討します」
蒼の声が いつもより小さかった。事務的な口調は変わらないが 声量だけが落ちていた。
河合が帰っていった。
工作室に四人が残った。
陽太が ようやくメロンパンを齧った。
「恒一。 蒼との協働、初めてだったけど 噛み合ったな」
「ああ。 蒼のデータが波形を出して、俺が言葉にした。辞書と答えの境界 今日は守れたと思う」
「蒼。 データ、良かったぞ。河合が自分で『選べない好き』に気づく材料になった」
蒼は PCの画面を見ていた。河合のグラフがまだ表示されている。赤い線と青い線。
「陽太先輩。 一つ分からないことがあります」
「何だ」
「河合さんが 僕のデータを見て『怖かった』と言いました。 データは客観的な情報のはずです。なぜ 怖いんですか」
陽太が メロンパンを持ったまま、考えた。五秒。
「自分の感情が 丸裸にされたからだろ。 お前、人に裸を見られたら怖くないか?」
「裸 ? それは文脈が 」
「比喩だよ。 感情は服を着てるんだ。自分でも見えないようにしてる。それをデータで剥がされたら 怖いだろ。見たくなかったものが見えるから」
蒼は 黙った。処理している。 比喩はデータに変換しにくい。だが蒼の表情が いつもの無表情から微かにずれた。何かを 理解しかけている。
「服 ですか」
「服だ。 お前のデータは、服を脱がす力がある。その力を どう使うかが問題だ」
「どう使うか 」
「河合が自分で脱ぐのを手伝うのか。お前が引っ剥がすのか。 前者なら翻訳。後者なら 」
「操作」
凛花が言った。短く。
蒼が 凛花を見た。
「柊先輩。 今日の僕の分析は どっちでしたか」
凛花は ペンを止めて考えた。
「今日は 前者に近かったと思います。河合さんに許可を取った。データを見せる前に高瀬先輩の翻訳を挟んだ。 でも」
「でも?」
「ギリギリでした。 もう少しデータを先に見せていたら。高瀬先輩の翻訳より先にグラフを見せていたら 河合さんは自分で気づく前に、答えを受け取っていたかもしれない」
蒼が 頷いた。ゆっくりと。
「順番 が、大事なんですね。データが先か翻訳が先かで 意味が変わる」
「そう。 辞書が先。答えが後。 その順番を守る限り、お前のデータは工作室で使える」
俺が言った。 団長として。
蒼がPCの画面を閉じた。 河合のグラフが消えた。
「了解です。 順番を、覚えます」
「覚えるんじゃなく 」
「理解します」
少しだけ、笑った。笑ったのかどうか分からないくらい微かに。口の端が 一ミリだけ動いた。翻訳者の目でなければ見落とすレベル。
蒼が 工作室の空気に、ほんの少しだけ馴染んだ瞬間だった。
凛花と蒼が帰った後 俺と陽太が残った。
「恒一。 河合の依頼、次のステップはどうする」
「河合が自分で気づく場を 設計する」
「気づく場?」
「河合は 選べない好きが恋だと、頭では分かっている。でも身体がついていかない。 頭で分かることと、腹で分かることは違う。腹で分かるには 体験が必要だ」
「体験 って」
「河合と同級生が 二人きりになる状況を作る。推しの文脈ではなく。生身の人間同士として。 そのとき河合が何を感じるか。推しを見るときの安定した波形が出るか それとも、制御できないスパイクが出るか。 データではなく、河合の身体が教えてくれる」
「場を作るのは 俺の仕事か」
「ああ。 放課後の教室。二人きりになれる時間。五分でいい。河合と同級生が 自然に会話する状況。その五分で 河合の身体が答えを出す」
「設計は」
「河合が推しのグッズを持っている。鞄にアクリルスタンドがぶら下がってた。 同級生がそれに気づけば、会話が始まる。推しの話 から入って、自然に二人の話になる。設計というより きっかけだ。あとは二人に任せる」
「きっかけだけ作って あとは見守る」
「それが工作室だ。 場を作るだけ。選ぶのは本人」
陽太は メロンパンの最後のかけらを口に放り込んだ。
「了解。 放課後の教室、使えるか確認しとく。来週 セッティングする」
「頼む」
「恒一」
「何だ」
「今日の蒼 良かったな。データと翻訳が噛み合った。初めて」
「ああ。 まだ危ういけど。順番を間違えたら 蒼のデータは凶器になる。でも順番を守れば 翻訳者の辞書を補強する地図になる」
「辞書と地図 か。恒一と蒼で 辞書と地図のセット販売。なかなかいいコンビだ」
「コンビ って。俺と蒼がコンビに見えるか?」
「見える。 凸凹だけど。翻訳者とデータ屋。感覚と数字。 桐生先輩と影山先輩も最初はそんな感じだったんじゃねえの」
桐生先輩と影山。 工作室の共同創設者。ルール設計者と翻訳者。二人の歯車が噛み合って 工作室が生まれた。噛み合わなくなって 壊れた。
俺と蒼は 噛み合い始めた。ばかりだ。まだ一回。 噛み合い続けるかどうかは、分からない。
「期待しすぎるなよ。 一回噛み合っただけだ」
「一回でも噛み合ったなら もう一回噛み合う可能性がある。 データ的に言えば」
「お前 本当に蒼に影響されてるな」
「嘘だって言っただろ」
「嘘じゃないだろ」
笑った。 二人で。工作室に響く笑い声。
帰り道。堤防沿い。
四月の夕暮れ。 桜がまだ少し残っている。花びらの密度は減った。満開のピークを過ぎて 散り始めている。地面にピンク色の絨毯ができている。
海は 穏やかだった。朝凪の海。夕日の金色。波が低い。
今日 初めて、蒼と噛み合った。翻訳とデータが。辞書と地図が。 河合の「選んだ好き」と「選べない好き」を、二つのツールで照らした。一つのツールでは見えないものが 二つ重ねると見えた。
蒼は 「順番」を理解しかけている。辞書が先、答えが後。 暗記ではなく。河合の涙を見て。「怖かった」という言葉を聞いて。 データにない概念が、少しずつ蒼の中に 沈み始めている。
来週 河合の「気づきの場」を設計する。陽太が場を整える。凛花が記録する。蒼は 見学だ。今回は。データで介入しない。場を見る。人間の感情が データにならない瞬間を、見る。
そして 彩音。
今朝、C組の前ですれ違った。目が合った。彩音は逸らした。俺は逸らさなかった。 あれだけだ。会話はしていない。
だが 翻訳者の目が捉えた。彩音の「目を逸らす」動作。あれは 見たくないから逸らしたのか。それとも 見てしまったから逸らしたのか。
翻訳が まだできない。彩音の感情の辞書は まだ持っていない。
蒼のデータでも読めない。凛花の記録にも載っていない。陽太のコミュ力でも たぶん届かない。
彩音という人間は 工作室の持つ全てのツールの外にいる。
だから 面白い。翻訳者は 分からないものに出会ったとき、初めて動く。
物足りないと 一週間前に思っていた。 今はもう思っていない。
河合の依頼がある。蒼の成長がある。彩音の 謎がある。
工作室は動き始めている。 去年とは違う速度で。去年とは違う方向に。
スマホが振動した。蒼からだった。 直接メッセージ。凛花経由ではなく。
『高瀬先輩。 今日の河合さんのデータで、一つ気づいたことがあります。同級生への反応のスパイクですが 曜日に相関がないと言いましたが、もう一度分析したら 教室の席替えの日に最初のスパイクが出ていました。 隣の席になった日です。距離が変わった日に 感情が変わった。これは 翻訳的には何を意味しますか?』
距離が変わった日に 感情が変わった。
翻訳する。 物理的な距離の変化が、感情のトリガーになった。隣の席になった。手が届く距離になった。 安全な距離が消えた日に、選べない好きが始まった。
『翻訳するなら 距離が感情を変えたんだ。推しとの距離は安全だった。隣の席になったことで 安全じゃなくなった。安全じゃなくなった瞬間に 選べない好きが始まった』
蒼から。
『距離と感情の相関 ですか。データでは距離の変数を入れていませんでした。追加パラメータとして組み込みます。 ありがとうございます。翻訳は データが見落としたものを見つけるんですね』
翻訳は データが見落としたものを見つける。
蒼がそう言った。 蒼自身の言葉で。
「翻訳は非効率」と言っていた一年生が。 三日で。
まだ 理解ではない。気づきだ。気づきの芽。 芽が育つかどうかは、これからだ。
『蒼。 いいデータだった。今日の分析。河合に 辞書を見せる材料になった』
『辞書 ですか。僕は答えを出したつもりでしたが。先輩がそれを辞書に変えたんだと思います。 順番の問題ですね。了解しました。次は 最初から辞書として設計します』
順番。 蒼の言葉に「辞書」が入った。
工作室の語彙が 蒼の中に、少しずつ根を下ろし始めている。
スマホを閉じた。
堤防の上。夕日が沈んでいく。海がオレンジから紫に。空に一番星。 四月の夜。まだ寒くない。風が 春の温度。
来週 河合の「気づきの場」。工作室の今年度最初の依頼が 本格的に動き出す。
そして 彩音は、見ているのだろうか。工作室が動くのを。遠くから。
翻訳者モードではなく ただの高瀬恒一として。あの目を もう一度、見たいと思った。
逸らさない目で。




