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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第5話 推しは現実じゃない、でも感情は本物

第5話 推しは現実じゃない、でも感情は本物


河合は泣いていた。推しのグッズを握りしめて。 「推しは現実じゃない。でも、この気持ちは本物なんです」。


四月の第三週。金曜日。


「気づきの場」を設計した。 陽太が放課後の二年A組の教室を確保してくれた。担任に「忘れ物を取りに来る生徒がいるので、少しだけ教室を開けておいてほしい」と頼んで。嘘はついていない。河合が本当に忘れ物を取りに来る。 教室に。その同級生がいる時間帯に。


設計 と呼ぶには雑だ。きっかけだ。偶然を 偶然に見えるように配置するだけ。会話が始まるかどうかは二人次第。始まった会話がどこに行くかは もっと二人次第。


工作室のルール。場を作るだけ。選ぶのは本人。 今日、河合が何を選ぶか。俺たちが決めることじゃない。


四時。二年A組の教室の前。


俺は廊下にいた。教室の中は見えない。ドアの窓から 覗くこともしない。翻訳者が見ていると、それ自体が介入になる。彩音に言われたことだ。 場を作ることが介入だと。だがせめて 見ないことで、介入の度合いを下げる。


教室の中に 河合がいるはずだ。忘れ物を取りに来た。鞄に推しのアクリルスタンドがぶら下がっている。キラキラしたストラップ。


教室の中に 同級生もいるはずだ。部活の準備で教室に残っている。陽太が確認した。金曜の放課後、同級生は十五分ほど教室にいる。その十五分の間に 河合が来る。


あとは 二人に任せる。


凛花が 廊下の反対側に立っていた。ノートを持っている。記録する のではなく。見守っている。


蒼は いない。今日は見学ではなく 不参加だ。「データで介入しない場を見てほしい」と言ったら、蒼は「参加しないことが最適 了解です」と返した。 参加しないことが最適。蒼らしい結論だが、たぶん正しい。


五分が過ぎた。


教室の中から 声が聞こえた。くぐもっている。ドアが閉まっているから。 だが、笑い声だ。河合の声。 高い。楽しそうな声。


もう一つ。 低い声。男子の声。同級生だ。何を言っているかは聞こえない。 聞く必要もない。


十分が過ぎた。


笑い声が 途切れた。沈黙。 三秒。五秒。


教室のドアが 開いた。


河合が出てきた。


顔が 赤かった。赤い だけじゃなかった。目が 大きく見開かれていた。何かを 見た目。初めて見たものを 見た目。


「高瀬先輩 」


声が震えていた。


「先輩 やっぱり。推しとは 違いました」


「何が 違った」


「あの人が 推しのアクスタに気づいて。『好きなんだ?』って言ったんです。推しの話をして。楽しくて。 でも 途中で」


河合が 胸に手を当てた。心臓の位置。


「あの人の目が 私を見たとき。推しの動画を見てるときの気持ちと 全然違った。推しを見ると ここが温かくなる。でもあの人を見たら ここが痛かった。ぎゅって 締まった。苦しかった」


「苦しい」


「苦しいんです。 推しは苦しくない。安全だから。でもあの人は 近くて 手が届いて 苦しい」


蒼のデータが正しかった。 推しへの感情は周期的で安定。同級生への感情は不規則でスパイク。安定は安全。スパイクは 苦痛だ。近いから苦しい。手が届くから苦しい。


だが 苦しいのは悪いことか。


「河合。 苦しいのは 悪いことか」


「え 」


「推しは安全で、苦しくない。同級生は近くて、苦しい。 お前はどっちの感情が 本物だと思う」


「......両方 本物です」


河合が はっきり言った。声が震えていたが 明確だった。


「推しへの気持ちは本物です。好きです。これからも推します。 でも、あの人への気持ちも 本物です。推しとは違う本物」


「二つの本物がある 」


「はい。 推しは現実じゃない。画面の向こうにいる。手が届かない。 でもあの人は現実にいる。隣の席にいる。手が 届く」


河合の目から涙が落ちた。 一滴。頬を伝って 制服の胸元に落ちた。


「推しは現実じゃない。でも この気持ちは本物なんです。両方とも。推しへの好きも。あの人への これも。 どっちも消せない。消したくない」


凛花が 廊下の反対側で、ノートにペンを走らせていた。静かに。 河合の言葉を、記録している。


「河合。 告白は」


「しません。 まだ」


「まだ?」


「この気持ちに まだ慣れてないから。推しへの好きには慣れてます。五年推してるから。 でもあの人への これは、初めてだから。慣れるのに 時間がかかる」


告白はしない。 グレーの着地だ。去年と同じ。完全救済はしない。河合は 自分で「まだ」と決めた。「しない」ではなく「まだ」。 希望の余白がある。


「いいと思う」


「え いいんですか。告白しないって 」


「お前が決めたんだ。 俺が良いとか悪いとか言うことじゃない。お前の恋路は お前のものだ」


河合が もう一度泣いた。今度は声を出して。 廊下に、河合の泣き声が響いた。


俺は 待った。翻訳者は 泣いている人間を急かさない。涙が言葉を運ぶまで 待つ。



工作室に戻った。


河合は 泣き終わった後、「ありがとうございました」と頭を下げて帰っていった。推しのアクリルスタンドが 鞄で揺れていた。キラキラ。 安全な好きの象徴。だがその隣に もう一つの好きが、見えない形でぶら下がっている。


工作室。四人。 蒼も来ていた。不参加 だが、結果報告には出るつもりだったらしい。PCを持って待っていた。


「報告する」


俺がホワイトボードの前に立った。


「依頼①。河合優花。推し活と恋愛感情の境界。 結果」


マーカーを持った。


「河合は 推しへの感情と同級生への感情が、別のものだと自覚した。推しへの好きは 選んだ好き。同級生への好きは 選べない好き。両方とも本物。 告白はしない。まだ慣れていないから。 以上」


「告白 しなかったんですか」


蒼が言った。


「しなかった」


「でも データ上、同級生への感情は恋愛の閾値を超えていました。告白すれば 成功確率は低くないはずです。告白しないのは 非効率では」


「非効率 か」


「はい。感情の自覚ができたなら 次のアクションは告白が論理的帰結です」


凛花が ペンを止めた。蒼を見た。


「星野くん。 河合さんは自分で『まだ』と決めたんです。工作室は その決定を尊重します」


「尊重 ですか。でも 非効率な選択を尊重する意味が 」


「効率じゃないんです。 恋は」


凛花の声が 静かだった。だが芯があった。


「恋に効率を求めるのは 最適化の発想です。でも工作室は最適化をやっていない。翻訳をやっている。 翻訳は、相手の言葉をそのまま受け取ること。河合さんが『まだ』と言ったなら 『まだ』がその人の答えです。効率が悪くても」


蒼が 口を開きかけて 閉じた。反論する言葉があるのに 言わなかった。凛花の目を見て 何かを感じたから。データでは読めない何かを。


「......了解です」


蒼がPCの画面を閉じた。 今日のデータ分析は 行わなかった。不参加。結果だけを聞いた。 データを出さない蒼を見るのは、初めてだった。


凛花がノートに最後の記録を書いた。


「 依頼①:河合優花。推し感情と恋愛感情の境界。依頼者は自力で区別。告白はなし。判定 前進」


パタン。


蒼が 凛花のノートを見た。


「前進 って何ですか。成功か失敗かで書くべきじゃないですか。データには成功と失敗しかありません」


凛花が ノートを閉じたまま、蒼を見返した。


「工作室に 成功と失敗はありません」


「ない ?」


「はい。 前進か、停滞か、後退か。それだけです。河合さんは 自分の感情に名前をつけた。推しへの好きと恋の好き。両方とも本物だと分かった。 それは前進です。告白しなくても。成功してなくても」


「でも 結果が出ていないなら 」


「結果は出ています。 河合さんが泣いたこと。『両方本物です』と言えたこと。それが結果です。 数字にならない結果ですが」


蒼は しばらく黙っていた。


「数字にならない 結果」


声が 小さかった。事務的な口調は変わらないが 処理に時間がかかっている。データベースに存在しないカテゴリを 新しく作ろうとしている。


「......了解 しました。 まだ 完全には 」


「完全に了解しなくていいです」


凛花が 微かに笑った。


「工作室の結果も 完全じゃないんですから。不完全な了解で 十分です」


蒼の目が 少しだけ動いた。凛花の笑顔を データではなく、目で見た。



蒼が帰った後。


俺と陽太と凛花が 工作室に残った。


「恒一。 いい依頼だったな」


陽太がメロンパンの袋をくしゃっと丸めた。 今日で三つ目。依頼の日はメロンパンの消費量が増える。陽太なりの緊張の処理法だ。


「ああ。 河合が自分で気づいた。場を作っただけだ。俺たちは」


「蒼の反応 面白かったな。『非効率』って。 あいつ、効率でしか世界を測れない。でも 凛花に『工作室に成功と失敗はない』って言われて、固まってた」


「固まってた けど、拒絶はしなかった。去年の影山先輩なら 反論してた。蒼は黙った。 黙れるのは、聞いている証拠だ」


凛花が ノートの表紙を撫でていた。


「高瀬先輩。 蒼くん、変わりますかね」


「変わるかどうかは 蒼が決める。俺たちが変えることじゃない。 場を作るだけだ。いつもと同じで」


「いつもと同じ ですね」


「ああ。 工作室は、メンバーに対しても同じだ。場を作る。待つ。本人が選ぶ。 蒼が最適化の人間のままでいたいなら、それも蒼の選択だ」


凛花が 頷いた。


窓の外を見た。 四月の夕暮れ。もう金曜の放課後だ。週末が来る。海が オレンジに染まっている。低い波。穏やかだ。


ふと、窓の外に目が止まった。


渡り廊下。 旧部室棟と本校舎を繋ぐ渡り廊下。二階。


人影があった。


遠い。 五十メートルは離れている。だが翻訳者の目は 遠くの表情も拾う。


彩音だった。


渡り廊下の手すりに手を置いて 工作室の窓のほうを見ていた。遠くから。 観察していた。工作室が動くのを。


目が合った。 距離が遠すぎて、普通なら気づかないはずだ。だが翻訳者の目が 合った。彩音の目と。


彩音は 逃げなかった。目を逸らさなかった。


一秒。二秒。 三秒。


彩音が 頷いた。小さく。ほんの少しだけ。 本当に少しだけ。顎が数ミリ動いただけ。


だが翻訳者には 見えた。


あれは 批判者の顔ではなかった。


認めた 顔だった。全面ではない。ほんの少し。微かに。 だが、ゼロではなかった。


志帆の言葉が ふと蘇った。「ゼロから少しは大きい」。


彩音が 踵を返した。渡り廊下を歩いていく。本校舎のほうへ。 背中が小さくなって、角を曲がって 消えた。


「恒一。 窓の外に何かあったか?」


陽太が聞いた。


「......いや。 海が綺麗だなと思って」


嘘だ。 海ではなく彩音を見ていた。だが 説明する言葉がまだない。彩音の頷きを どう翻訳すればいいか。翻訳者にも まだ分からない。


「高瀬先輩。 顔が変です」


凛花が 鋭い目で俺を見ていた。参謀の目。


「変 ?」


「いつもの翻訳者の顔じゃないです。もっと なんていうか。人間の顔」


「人間の 顔」


「はい。 翻訳者が分析しているときの顔と、ただの人間が何かを見ているときの顔は、違います。今の先輩は 後者です」


翻訳されている。 俺が。凛花に。


「......気のせいだ」


「記録しておきます。 『高瀬先輩、窓の外を見て人間の顔をした。原因不明』」


「記録するな」


「参謀の義務です」


凛花がにこっと笑った。 桐生先輩が見たら「柊、余計な記録をするな」と言うだろう。だが桐生先輩はもういない。凛花は 自分のスタイルで参謀をやっている。余計な記録も含めて。



帰り道。堤防沿い。


四月の夕暮れ。金曜日。 週末の始まり。


海が光っている。 金色の光。波が穏やかだ。朝凪。 だが完全な凪ではない。微かな波がある。


依頼①が 終わった。河合は泣いて帰った。「両方本物です」と言って。 告白はしなかった。まだ。前進。 成功でも失敗でもない。前進。


蒼は 「数字にならない結果」という概念に出会った。凛花が 「不完全な了解で十分です」と言った。蒼の中に まだ名前のない何かが、芽を出しかけている。


そして 彩音。


渡り廊下から見ていた。工作室を。 批判しに来たのは一度だけだ。あれ以来 直接は来ていない。だが見ている。遠くから。


見ている ということは、気にしている ということだ。無関心なら見ない。


彩音は 何を見ていたのか。工作室が依頼を処理するのを。河合が泣くのを。俺が辞書を見せるのを。 何を。


そして 頷いた。微かに。


あの頷きを 翻訳したい。だが できない。彩音は「翻訳されたくない」と言った。翻訳者が近づけば 壁が上がる。近づかなければ 読めない。


近づくのか。近づかないのか。 翻訳者として近づくのか。それとも 。


凛花が言った。「ただの人間の顔だった」と。


翻訳者ではなく ただの人間として。彩音を見ていた。


それは 何を意味するのか。


まだ 分からない。翻訳者にも分からないことがある。 それは去年学んだことだ。自分の感情は翻訳できない。他人の感情は翻訳できるのに 自分のは、できない。


彩音を見たときの あの感覚。翻訳者の分析モードが 一瞬止まった感覚。データではない。辞書にもない。 名前がない。


まだ 名前をつけなくていい。名前をつけたら確定する。確定したら 逃げられない。


去年の俺なら ここで逃げた。志帆のときそうだった。名前をつけたくなくて逃げた。 だが今年の俺は。


逃げない とは、まだ言えない。でも 逃げなくていい場所に、立っている。立っているだけ。それだけで 去年とは違う。


海が 紫に変わっていく。金曜の夜が始まる。週末。 河合が言っていた。金曜の夜に寂しくなる。蒼のデータでもそう出ていた。


俺は 寂しくはなかった。物足りない とは、もう思っていなかった。


工作室が動いている。蒼がいる。凛花がいる。陽太がいる。依頼者が来る。 そして。


彩音が 見ている。


その事実だけで 翻訳者の心は 静かに、揺れていた。


名前は まだ。

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