第49話 恋路工作室は続く
第49話 恋路工作室は続く
四月。新学期。
恋路工作室に、新しい依頼が来た。
桜が散り終わって、葉桜になりかけている。四月の第二週。入学式が終わって、新入生が校内を歩き回っている。大きすぎる制服。真新しい鞄。どこに何があるか分からない顔。去年の四月に転入してきた俺も、こんな顔をしていたのだろう。
三年生になった。
高瀬恒一。三年。恋路工作室、団長。ポケットの中に、玲奈から受け取ったバッジがある。朝凪の海の色。毎日持ち歩いている。
陽太も三年になった。天野陽太。三年。実行班長。相変わらずのコミュ力お化け。新入生にも早速声をかけている。「うちの学校、面白い部活あるよ」。勧誘なのか雑談なのか分からないコミュニケーション。
凛花は二年になった。柊凛花。二年。記録係兼参謀候補。新聞部と兼任のまま。ノートは四冊目に入っている。引き継ぎ資料も完成している。凛花のノートが工作室の教科書として機能し始めている。
朝、掲示板の前を通った。
ポスターが貼ってある。工作室の新年度のポスター。凛花がデザインした。手書きのイラストと文字。海と桜の絵。その上に「恋路工作室。恋の相談、受け付けています。旧部室棟にて。放課後。匿名の依頼はお受けできません」。最後の一文がver.2の証だ。
去年の四月に俺が見たポスターと同じ場所。同じ掲示板。しかし字が違う。去年は玲奈の字だった。今年は凛花の字。丸くて、少しだけ装飾がある字。記録者の字。
「恒一」
陽太が隣に来た。
「お前去年、この掲示板見て工作室に来たんだよな」
「ああ。怪文書だと思った」
「今年も怪文書っぽいな」
「デザインしたの私です」
凛花が後ろから現れた。怒ってはいない。笑っている。
「怪文書は褒め言葉です。目を引くデザインですから」
「前向きだな、凛花」
「観測者をやめてから前向きになりました」
三人で笑った。四月の朝の廊下。新入生たちがちらちらとこちらを見ている。先輩たちが笑っている。何が面白いのか分からない顔で。
「新メンバー、来るといいな」
陽太が言った。
「ああ。翻訳者がもう一人いると楽だ」
「お前以外に翻訳できるやつ、見つかるかな」
「翻訳者は育てるものだ。最初から翻訳できる人間はいない。俺だって最初は下手だった」
「下手だったか」
「先輩にも同じこと聞かれたな。下手だった。温度がなかった。正確だが冷たい翻訳だった」
「今は温度あるもんな」
「壊れたからだ」
「また言ってる。壊れた自慢」
「自慢じゃなくて事実だ」
放課後。工作室。
ドアの紙を貼り替えた。新しい紙。俺の字で。
「恋路工作室」
その下に、三人の名前。
「団長・高瀬恒一」
「実行班長・天野陽太」
「記録係兼参謀候補・柊凛花」
凛花が自分の名前を見て少しだけ照れた。
「参謀候補って大げさですよ」
「大げさじゃない。来年、俺と陽太が卒業したら、お前が工作室を率いる。そのための候補だ」
「私が団長ですか」
「まだ候補だ。一年かけて育てる。玲奈先輩が俺を育てたように」
凛花が背筋を伸ばした。記録者の姿勢が変わった。参謀候補の姿勢になった。
ホワイトボードを見た。五つのルールが新しい字で書き直されている。俺の字。少し右に傾いた字。ルールの内容は同じ。しかし字が変わった。世代が変わった。
ホワイトボードの一番下。玲奈が書き残した一行。
「恋路工作室。創設:桐生玲奈・影山透。引き継ぎ:高瀬恒一」
この一行だけは俺の字ではない。玲奈の字。角ばった、几帳面な字。消すなと言われた。消さない。来年も、再来年も。工作室がある限り。
工作室のドアがノックされた。
三人が顔を見合わせた。依頼だ。新年度最初の。
「入れ」
俺が言った。玲奈が去年言ったのと同じ一語。短い。命令形。しかし今の俺の「入れ」は玲奈の「入れ」とは少し違う。少しだけ柔らかい。翻訳者の声だから。
ドアが開いた。
一年生の女子が立っていた。制服が新しい。まだ体に馴染んでいない。大きすぎる制服。去年の藤川を思い出した。藤川もこんな顔をしていた。不安と期待が混ざった顔。恋をしている人間の顔。
「あの。恋路工作室って、告白の手伝いもしてくれるんですか」
告白の手伝い。
第一話と同じだ。一年前。藤川が来た。告白の手伝いをしてほしいと。そのときは玲奈が対応した。今は俺が対応する。
デジャヴ。しかしデジャヴではない。同じ場所。同じ種類の依頼。しかし対応する人間が違う。ルールが違う。経験が違う。一年分の全てが違う。
笑ってしまった。不思議な気持ちだった。一周した。工作室の物語が一周して、同じ場所に戻ってきた。しかしスタートラインは同じでも、立っている人間は違う。
「座って」
新入生を椅子に座らせた。ホワイトボードの前。俺はホワイトボードの横に立った。いつもの位置。翻訳者の位置。団長の位置。
「恋路工作室は、恋の問題を支援します」
玲奈が去年言った言葉を、俺の言葉に翻訳して話した。同じ内容。しかし俺の言葉。俺の声。
「工作室にできるのは、場を作ること。状況の整理。言葉の設計。撤退線の確保。それだけです」
新入生が真剣に聞いている。目がまっすぐだ。一年前の俺がホワイトボードの前で玲奈の説明を聞いたときと、同じ目。
「心を変えることは、しません。心は操作しない。それが一番目のルールです」
ルール①。心は操作しない。一年間変わらなかったルール。ver.1からver.2へ。設計者が変わっても、このルールだけは変わらない。
「選ぶのは、あなたです。告白するかしないか。どんな言葉で伝えるか。全部、あなたが決める。工作室は場を作るだけです」
新入生が頷いた。小さく。しかし確かに。
「完全救済は約束しません。工作室に来たから全部うまくいくとは限りません。しかし自分で決められる場所は、作ります」
俺の言葉。翻訳者の言葉ではなく。設計者の言葉でもなく。高瀬恒一の言葉。一年間の経験を経て、自分の声で語る団長の言葉。
「依頼を受けていいですか」
新入生が聞いた。
「もちろん。まず話を聞かせてくれ。誰のことが好きなのか。いつからか。どんなふうに」
翻訳者の仕事が始まる。新しい依頼者の言葉を聞いて、裏を読んで、本音を探って、翻訳する。一年前と同じ作業。しかし一年分の深みが加わった作業。
陽太が窓際で腕を組んでいる。コミュ力お化けの出番はまだだが、準備はできている。
凛花がノートを開いた。四冊目の最初のページ。新しいノート。新年度の最初の記録。ペンを持った。書き始めた。
「新年度。四月。恋路工作室。新依頼。一年女子。告白の相談」
記録者は記録する。去年も今年も。来年も。工作室がある限り。
新入生が話し始めた。好きな人のこと。同じクラスの男子。席が近いこと。話しかけたいけど話しかけられないこと。
翻訳者の脳が動き始めた。自動で。依頼者の言葉を分析し、構造を把握し、感情の層を読み解く。一年前と同じプロセス。しかし一年分の精度が加わっている。壊れたことで得た精度。痛みを知ったことで得た温度。
「話しかけたいけど話しかけられない」。表面の言葉。裏の意味は「話しかけて嫌われるのが怖い」。もう一層下。「好きだと気づかれるのが怖い」。さらに下。「好きだと気づかれたら、今の距離が壊れる」。
距離。いつも距離だ。恋の問題の核心はいつも距離にある。近すぎても遠すぎても。
翻訳者は距離を知っている。名前のない距離を。名前のない温もりを。近すぎて壊れた距離を。遠すぎて届かなかった距離を。
全部の経験が、翻訳の精度に加算されている。
新入生の話を聞きながら、翻訳しながら、設計を始めながら。俺は窓の外を一瞬だけ見た。
四月の海。朝凪の海。春の青。一年前と同じ海。同じ色。同じ波。同じ潮の匂い。
しかし見ている人間が変わった。一年前は何も知らない転入生が見ていた。今は翻訳者が見ている。団長が見ている。壊れて直した人間が見ている。恋に着地した人間が見ている。
同じ海。違う目。
新入生の話が続いている。翻訳者は聞いている。翻訳している。設計を考えている。同時に。
工作室は動いている。新年度も。新しい依頼を受けて。新しい恋を翻訳して。新しい場を作って。
新しい一年。新しい依頼。同じ原則。同じ場所。
恋路工作室は、続く。
窓から四月の風が入ってきた。桜はもう散っている。葉桜の匂い。潮の匂い。春の空気。
去年の四月、この工作室のドアを初めてノックした。「入れ」と言われた。入った。翻訳者になった。依頼者の恋を翻訳した。設計した。炎上した。壊れた。直した。辞書を開いた。声にした。着地した。卒業を見送った。バッジを受け取った。
そして今、新しい依頼者を迎えている。
一周した。物語が一周して、同じ場所に戻ってきた。しかし螺旋だ。同じ場所ではあるが、一段高い場所。一年分の経験を積んだ場所。
「恒一」
陽太が小声で言った。新入生に聞こえない声で。
「デジャヴだな」
「ああ。一年前と同じだ」
「でも違う」
「違う。全然違う」
陽太が笑った。九割の笑顔。去年の十割の笑顔より本物に近い。鎧ではない笑顔。壊れて直した人間の笑顔。
新入生の話を聞き終えた。翻訳した。設計の方針を立てた。
「来週の放課後、また来てくれ。設計書を用意しておく」
「設計書」
「ああ。お前の恋の設計書。告白のための場を作る。タイミングを設計する。言葉を翻訳する。全部、工作室がやる。お前がやるのは、自分で決めること。それだけだ」
新入生が頷いた。帰っていった。ドアが閉まった。
工作室が静かになった。新年度最初の依頼者が去った後の、静かな充実感。去年の四月、藤川が去った後にも同じ静けさがあった。翻訳者として最初の依頼者を送り出した後の、手応えと緊張の入り混じった静けさ。
しかし今年の静けさは、去年とは質が違う。去年は初めての経験だった。何が正しいか分からなかった。手探りだった。今年は違う。一年間の全ての経験が足元にある。依頼者の言葉の裏を読む技術がある。壊れた経験がある。直した経験がある。自分の恋に着地した経験がある。全部がある。
三人が残った。
「始まったな」
陽太が言った。
「ああ。始まった」
凛花がノートに書いた。四冊目の最初のページの、最初の記録。
「新年度初依頼。受理。担当割り振り、翻訳・高瀬。場の設計・天野。記録・柊。来週までに設計書作成」
記録者の文字。工作室の新しい歴史の、最初の一行。
「恒一。来年のこの時期には、俺たちが卒業する番だ」
陽太が言った。
「ああ。だから凛花を育てる。一年かけて。俺たちが卒業しても、工作室が回るように」
「参謀候補、ですよね」
凛花が言った。
「参謀候補だ。来年は参謀。再来年は団長かもしれない」
「団長は無理です」
「今の俺も一年前は無理だと思ってた。しかしやれた。お前もやれる」
凛花が少しだけ背筋を伸ばした。参謀候補の姿勢。
窓の外。四月の海。朝凪の海。春の色。
工作室は続く。人が変わっても。年度が変わっても。ルールが更新されても。
場を作ること。それだけは変わらない。玲奈が決めて、恒一が受け継いで、いつか凛花が受け継ぐ。場を作り続ける。恋の問題を抱えた人間が立てる場所を。
帰り道。三人で海沿いの道を歩いた。四月の夕暮れ。去年の四月と同じ色の夕焼け。同じ温度の春の風。同じ潮の匂い。
「恒一」
陽太が言った。
「今年は壊れないようにしろよ。去年みたいに」
「壊れたら直す。ルール③だ」
「いやルール③は完璧を待たないだろ。壊れていいルールじゃない」
「壊れてもいい場所を作るのがルール⑤だ」
「お前、自分に都合よくルール解釈するよな」
「翻訳者だからな。解釈は得意だ」
凛花が笑った。四冊目のノートを鞄にしまいながら。
「先輩たち。来年の今頃、私が一人で新入生に説明してるかもしれないんですよね」
「そうだ。お前が工作室のルールを説明して、お前が依頼者の話を聞いて、お前が翻訳する。翻訳者兼団長だ」
「翻訳、私にできるんでしょうか」
「一年あれば育てる。俺も一年で育った。お前のほうが記録と分析ができる分、スタートラインは俺より前だ」
「先輩が保証してくれるなら、頑張ります」
「保証はしない。ルール④だ。完全救済を約束しない」
「自分のルールで逃げないでください」
三人で笑った。四月の夕暮れの海沿いの道で。桜が散った後の、葉桜の並木の下で。
笑い声が海風に乗って、朝凪の海に向かって飛んでいった。
恋路工作室は続く。
新しい一年が始まった。




