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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第43話 無害化のレシピ

 第43話 無害化のレシピ


 痛みは消えない。でも、痛みの「意味」は更新できる。


 二月の最終週。森本との二回目のセッション。工作室の窓から見える海が、少しだけ色を変えていた。灰色の中に、春を予感させる青が混ざっている。冬の底を過ぎた海。朝凪の海が、ゆっくりと目を覚ましつつある。


 森本が工作室に来た。先週より顔色が良い。目の乾きが薄れている。一週間の間に、初回セッションで翻訳した記憶が森本の中で発酵していたのだろう。駅のホームでの笑顔。泣かずにいてくれたこと。痛みのラベルが祝福のラベルに貼り替わりかけている。完全には替わっていない。しかし剥がれかけている。


「続きをやろう」


 俺はホワイトボードの前に立った。先週書いた「無害化のレシピ」がまだ残っている。三つの材料。


「先週は記憶の棚卸しの途中まで進んだ。今日は棚卸しを完了させて、感謝の手紙に入る」


「手紙」


「ああ。ただし送らない手紙だ。相手には届けない。お前自身のために書く。あの夏の恋への感謝を、文字にする。文字にすることで、感謝が形を持つ。形を持った感謝は、痛みの隣に置ける」


 森本が頷いた。小さく。しかし確かに。


 棚卸しの続き。


 先週は七月の出会いから八月の花火大会までを言語化した。今日は八月後半。海に行った日から、別れの日まで。


「海に行った日。何があった」


「朝からバスに乗って。二人で。海は混んでたんですけど、ちょっと離れた場所を見つけて。波打ち際で座って。足だけ水に浸けて。何もない話をしました」


「何もない話の中身は」


「本当に何もない話。好きなアイスの味とか。小学校のときの話とか。将来何になりたいかとか。どれも大事じゃない話。でもその時間が一番楽しかった」


 翻訳者の脳が動く。「何もない話」の裏を読む。


「何もない話が一番楽しかったのは、何もない話ができる相手だったからだ。沈黙が怖くない相手。話題を探す必要がない相手。ただ一緒にいるだけで、空気が柔らかくなる相手」


 森本の目が潤んだ。


「それは恋の最良の形だ。ドキドキする恋も恋だが、何もない話で楽しい恋も恋だ。むしろ後者のほうが深い。ドキドキは表面の波。何もない話の楽しさは、海の底流。静かで、穏やかで、しかし確かに流れている」


 翻訳。痛い記憶の裏にある温もりを掘り出す作業。海の日の記憶は痛い。もう一緒に海には行けないから。しかし痛みの裏に、あの日の温もりがある。温もりを掘り出せば、痛みの温度が下がる。


「八月の最後の週。転校を知らされた日」


 森本の声が硬くなった。ここからが核心の領域だ。


「学校から帰ろうとしたら、彼女が待っていて。『話がある』って。校舎裏で。来月、転校するって」


「そのとき、何を感じた」


「何も。何も感じなかった。嘘みたいだった。嘘だと思った。でも嘘じゃなかった」


 翻訳。「何も感じなかった」の裏。


「何も感じなかったんじゃない。感じすぎて、脳がシャットダウンしたんだ。過負荷だ。一ヶ月間積み上げた感情が一瞬で行き場を失って、処理できなくなった。シャットダウンは防衛反応だ。壊れないための」


 森本が瞬きした。翻訳が当たったときの反応。


「転校までの残りの日々。どう過ごした」


「いつもと同じように。毎日話して。帰り道一緒に歩いて。でも、残りの日数をカウントしてた。あと五日。あと四日。あと三日。カウントダウンしながら、いつもと同じふりをしてた」


「彼女は」


「同じだったと思います。いつもと同じ。笑って話して。カウントダウンしてたかは分からないけど」


 翻訳。彼女もカウントダウンしていた。しかし森本にそれを見せなかった。笑顔で過ごした。森本のために。残りの日々を痛みで汚さないために。


 しかしその翻訳は今日は口にしなかった。森本が自分で気づくべきことだ。翻訳者が全てを言語化するのは過干渉だ。撤退線。ver.2のルール③。依頼者の撤退も設計する。ここは森本自身が歩く場所だ。


「棚卸しの最後。別れの日は先週やった。駅のホームの笑顔。翻訳も済んでいる。笑顔で送り出してくれた。お前が前に進めるように」


「はい。あの翻訳で、少し楽になりました。完全にじゃないけど」


「完全じゃなくていい。ルール④だ」


 森本が微かに笑った。工作室のルールを引用されて笑うのは、森本が工作室の空気に馴染んでいる証拠だ。


「次の段階に入る。感謝の手紙」


 俺は白い便箋を一枚、森本に渡した。ペンも一本。


「あの夏への感謝を書け。彼女への感謝ではなく、あの夏という時間への感謝だ。一ヶ月間の恋がお前に何を与えたか。何を教えたか。何を残したか」


「送らないんですよね」


「送らない。これはお前自身のための手紙だ。感謝を文字にすることで、痛みの隣に感謝を置く。痛みだけだった記憶に、感謝という隣人ができる。隣人がいれば、痛みは孤独じゃなくなる。孤独じゃない痛みは、温度が下がる」


 森本がペンを持った。便箋に向き合った。


 書き始めた。ゆっくりと。一行目を書いて、消して、また書いて。言葉を探している。自分の言葉を。翻訳者の翻訳ではなく、森本遥自身の言葉を。


 俺は口を出さなかった。手紙は森本が書く。翻訳者は翻訳しない。設計者は設計しない。依頼者が自分の言葉で書く。工作室にできるのは場を作ることだけ。場は作った。便箋とペンと、書くための静かな時間を。


 十五分ほど経った。森本がペンを置いた。


「書けました」


「読むか。声に出して」


「声に出して」


「ああ。書いた言葉を声にすると、文字とは別の重みが生まれる。自分の声で自分の言葉を聞く。それが感謝の定着だ」


 森本は便箋を持ち上げた。手が少し震えている。しかしペンを置いた時点で、書く勇気は使い切っている。残るのは読む勇気だ。


「あの夏、ありがとう」


 森本が読み始めた。声が掠れていた。しかし止まらなかった。


「七月の補習教室で、隣の席に座ってくれてありがとう。名前を聞いたとき、笑ってくれてありがとう。コンビニのアイス、半分こしてくれてありがとう。花火大会で手を繋いでくれてありがとう。海で何もない話をしてくれてありがとう。残りの日々を、いつもと同じに過ごしてくれてありがとう。最後に笑顔で手を振ってくれてありがとう」


 森本の声が震えた。しかし止まらなかった。


「一ヶ月しかなかった。でも一ヶ月で十分だった。あの夏がなかったら、俺は誰かを好きになるのがどんな感じか知らなかった。誰かと手を繋ぐ温度を知らなかった。何もない話が一番楽しいことを知らなかった。全部、あの夏が教えてくれた」


 声が途切れた。森本が便箋を膝に置いた。涙がこぼれていた。静かに。声を出さずに。


 工作室が静かだった。凛花がノートにペンを走らせている。記録者は記録する。森本の手紙の全文を、一字一句。陽太は窓際で腕を組んでいる。目が潤んでいる。コミュ力お化けは他人の感情に共鳴する。玲奈は腕を組んでいた。表情は読めない。しかし腕の力がいつもより緩い。


 俺は黙って森本を見ていた。


 森本が自分の言葉で感謝を書いた。翻訳者の翻訳ではなく。設計者の台本ではなく。森本遥という人間の、素の言葉で。


 これが本文だ。凛花が言った「本文を書く」。森本は今、自分の物語の本文を書いている。設計図ではなく。他人の翻訳ではなく。自分の言葉で、自分の恋の物語を。


「最後の段階に入る。未来の自分への手紙」


 森本が涙を拭いた。顔を上げた。


「一年後の森本遥に手紙を書く。一年後の自分が、あの夏をどう思い出しているか。どう思い出していてほしいか。未来の自分への約束を書く」


 新しい便箋を渡した。


「これは今日じゃなくていい。持ち帰って、一人で書いてくれ。一年後の自分に向けて。時間をかけて。急がなくていい」


「急がなくていいんですか」


「急ぐ必要はない。未来への手紙は、未来があるから書ける。未来を信じていなければ書けない。お前が未来を信じていると確認できたときに、書けばいい」


 森本が便箋を受け取った。折り畳んで、胸ポケットに入れた。心臓の上。


「高瀬先輩」


「ん」


「痛みに居場所を作るって、こういうことなんですね」


「どういうことだ」


「痛みを追い出すんじゃなくて、痛みの隣に感謝を置く。痛みが一人ぼっちじゃなくなる。一人ぼっちじゃない痛みは、寂しくない。寂しくないから、叫ばなくなる。叫ばない痛みは、静かに存在してくれる。存在してくれるだけなら、一緒に生きていける」


 森本が無害化を自分の言葉で定義した。翻訳者の翻訳ではなく。依頼者自身の言語で。痛みに居場所を作る。痛みが叫ばなくなる。叫ばない痛みと共存する。


 俺の翻訳より的確かもしれない。依頼者のほうが、痛みに近い場所にいるから。痛みを知っている人間の言葉は、痛みを翻訳する人間の言葉より正確だ。


「いい翻訳だ。俺の翻訳より」


「翻訳じゃなくて、自分の言葉です」


「ああ。それが一番いい」


 森本が立ち上がった。今日のセッションは終わりだ。


「次は、未来への手紙を書いたら持ってきます。読まなくていいです。書けたっていう報告だけ」


「了解。ペースはお前が決めろ」


 森本がドアに向かった。出る前に振り返った。


「高瀬先輩。忘却屋に行かなくてよかったです。忘却屋に行ってたら、あの夏を忘れてたかもしれない。忘れたら、あの笑顔も消えてた。笑顔を消さなくてよかった。痛いけど、消さなくてよかった」


 森本が出ていった。ドアが閉まった。


 工作室に四人が残った。


「これが、工作室の最高到達点だ」


 俺は呟いた。独り言ではなかった。全員に向けて。


「忘却ではなく無害化。痛みを消すのではなく、痛みに居場所を作る。森本が自分の言葉でそれを掴んだ。翻訳者の翻訳ではなく、依頼者自身の言葉で。これが俺たちの答えだ」


 陽太が窓際で拍手した。一回だけ。乾いた音。しかし温かい拍手。


 凛花がノートに最後の一行を書いた。


「依頼⑦。森本遥。第二回セッション。記憶の棚卸し完了。感謝の手紙執筆完了。未来への手紙は持ち帰り。無害化プロセス進行中。依頼者自身の言語化能力が向上。翻訳者の補助なしで感情を言語化」


 凛花の記録。正確で、客観的で、しかし最後の一文に記録者の感嘆が混ざっている。「翻訳者の補助なしで感情を言語化」。依頼者が翻訳者を超えた瞬間の記録。


 玲奈が立ち上がった。


「高瀬。一つ確認する」


「何ですか」


「森本の依頼が完了したら、次は」


「志帆に会いに行きます。自分の言葉で」


「いつだ」


「森本が未来への手紙を書き上げて、最終セッションが終わったら。それが俺の撤退線だ。森本の依頼を完遂することが、翻訳者としての最後の仕事。その後、翻訳者の仮面を外して、高瀬恒一として志帆の前に立つ」


 玲奈は二秒黙った。


「了解した。志帆の件は、工作室の管轄外だ。顧問として口は出さない。しかし」


「しかし」


「頑張れ」


 二文字。桐生玲奈が「頑張れ」と言った。論理ではない。感情だ。合理主義の殻の内側から漏れた二文字。名前のない温もりが、二文字になって外に出た。


「ありがとうございます」


 玲奈はそれ以上何も言わずに出ていった。


 陽太が近づいてきた。


「恒一。玲奈先輩、今泣きそうだったぞ」


「分かってる」


「分かってんのかよ。お前、翻訳者だからな。全部読めちゃうんだろ、先輩の感情も」


「読める。読めてしまう。しかし翻訳はしない。先輩の感情は先輩のものだ。翻訳者が勝手に言語化するのは越権だ」


「越権って。お前、玲奈先輩のこと」


「先輩は名前をつけないと決めた。俺はその決断を尊重する。翻訳者として、先輩の選択に口を出さない」


 陽太が俺を見た。五秒。それから頷いた。


「お前もかっけーな。先輩に負けないくらい」


「うるさい」


 笑い声が工作室に響いた。


 凛花がノートを閉じて立ち上がった。


「先輩たち。帰りましょう。今日はいい仕事でした」


「ああ。いい仕事だった」


 四人で工作室を出た。ドアを閉めた。


「恋路工作室 再開しました」の告知が目に入った。九月に貼った紙。五ヶ月経っている。紙の角が擦れて丸くなっている。しかしまだ読める。まだ機能している。


 海沿いの道を歩いた。四人で。二月の夕暮れ。冬の終わりの空。灰色に青が混ざっている。春が近い。日が長くなっている。五時でもまだ明るい。


 森本の依頼があと一回。未来への手紙の報告と最終セッション。それが終われば。


 志帆に会いに行く。


 自分の言葉で。


 三文字を声にする。


 家に帰った。自室の机に向かった。


 ノートは開かなかった。凛花の助言を守り続けている。志帆への言葉は書かない。声にする。


 代わりに、窓を開けた。二月の夜の空気が入ってきた。冬の空気だが、微かに温度が上がっている。春が近い空気。


 目を閉じた。深呼吸した。


 森本が書いた感謝の手紙を思い出した。「あの夏、ありがとう」。あの言葉を、森本は自分の声で読み上げた。震えながら。泣きながら。しかし自分の言葉で。


 俺にも書くべき感謝がある。志帆に対する感謝。中学時代。隣の席にいてくれたこと。「またね」と言ってくれたこと。嘘の依頼を持ってきてまで、俺に会いに来てくれたこと。「いつか辞書開けてよ」と言ってくれたこと。全部に感謝がある。


 しかし志帆への言葉は感謝だけではない。日下部のように「ありがとう」で着地するのではない。森本のように痛みを穏やかにするのでもない。


 志帆への言葉は、三文字。好きだ。


 感謝の先にある言葉。感謝を超えた場所にある言葉。


 三文字を声にする日が来る。森本の依頼が終わったら。もうすぐ。


 声に出した。窓に向かって。二月の夜に向かって。


「好きだ、志帆」


 五文字。何度目か分からない。しかし毎回、声が太くなっている。最初は蚊の鳴くような声だった。今は自室の壁に反響する声になっている。次は、志帆の前で。志帆の耳に届く声で。


 もう少し。


 森本の依頼が終わったら。


 二月の夜。春が近い夜。星が見える。冬の星。しかし冬の星の向こうに、春の星座が待っている。季節は確実に進んでいる。


 翻訳者の中でも、季節が進んでいる。


 冬が終わる。春が来る。


 その春に、翻訳者は翻訳者をやめる。一瞬だけ。志帆の前に立つ一瞬だけ。翻訳者の仮面を外して、高瀬恒一として三文字を声にする。


 その一瞬のために、十ヶ月かかった。四月からの十ヶ月。長かった。しかし必要な時間だった。翻訳者になって、壊れて、直して、辞書を開いて、声を出す練習をして。全部が必要だった。全部が、この三文字に向かっていた。


 好きだ。


 窓を閉めた。ベッドに横になった。


 明日が来る。森本の最終セッションが来る。それが終わったら。


 翻訳者が翻訳者でなくなる一瞬が来る。


 その一瞬を、待っている。

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