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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第40話 影山の選択

第40話 影山の選択


影山透が選んだのは、忘却ではなかった。


十一月の半ば。離脱四日目の朝。


家を出た。学校には行かない。 影山を探しに行く。


朝凪の海岸。 砂浜ではなく、堤防の端にある小さな防波堤。コンクリートの突堤が海に向かって伸びている。釣り人がたまに来る場所だが、平日の朝は誰もいない。


いなかった はずだった。


突堤の先端に 人影があった。


フェンスも柵もない。コンクリートの端に 座っている。足を海側に投げ出して。制服ではなかった。パーカーにジーンズ。 学校を休んでいるのだ。俺と同じだ。


影山透。


俺は突堤を歩いた。コンクリートの上を。波が足元で砕けている。潮の飛沫が靴にかかる。 十一月の海は冷たい。風が強い。


影山の隣に 座った。間を空けて。一メートルくらい。 陽太に学んだ距離だ。近すぎず、遠すぎない。


影山は 振り返らなかった。海を見ていた。灰色の海。曇り空。 冬に近い海。


しばらく 二人とも黙っていた。波の音だけが聞こえる。海鳥が遠くで鳴いている。風が 冷たい。


「学校 サボりか」


影山が 先に口を開いた。


「ああ。 先輩もか」


「受験勉強のふりして自習室にいる つもりだったけど。今日は 無理だった」


声が 低かった。疲弊は消えていた。前に屋上で会ったときの 憔悴した声ではなかった。もっと 静かな声。嵐の後の 凪の声。


「高瀬。 お前もか」


「俺も 無理だった。工作室を離脱した」


「離脱?」


「翻訳者として機能しなくなった。相談者の言葉を 自分の感情で歪めた。桐生先輩に止められた。 ルール⑤に基づいて、一時離脱」


影山が 俺を見た。横顔ではなく、正面。目が合った。


影山の目が 変わっていた。校舎裏で初めて会ったときの鋭い目でもない。屋上で泣いたときの壊れた目でもない。 もっと静かで、もっと透明な目。嵐を通り過ぎた後の 空のような目。


「お前の言った通りだ」


俺は言った。


「俺は 自分の痛みを無害化できていなかった。偉そうに無害化を語る資格なんかなかった。 志帆に告白された。返事ができなかった。翻訳者なのに 自分の感情を翻訳した後の処理ができない。名前はついた。だが 声にできない」


影山は 黙って聞いていた。


「お前が言った。『お前こそ無害化しろ』と。 正論だった。他人に無害化を勧めながら 自分はできていない。壊れかけの人間が壊れかけの人間に説教していた。 傲慢だった」


「......傲慢 か」


影山が 口の端を上げた。笑みではない。苦笑に近い何か。


「傲慢ではあった。 でも、嘘ではなかった」


「え?」


「お前の無害化の提案。傲慢だったが 嘘じゃなかった。本気で言ってた。自分ができてないくせに それでも、無害化が正しい方向だって信じてた。 そうだろ?」


「......ああ。信念は 変わっていない。無害化が正しい方向だって 今でも思ってる。俺ができていなくても」


「それでいい」


影山の声が 穏やかだった。


「完璧な人間の正論は 響かないんだよ。壊れかけの人間が それでもこっちだって指差す。その指が 震えてたから、信じられた」


震えてた か。あのとき 屋上で無害化を語った俺の声は、確かに震えていた。志帆の件で壊れかけていた。翻訳者の仮面にひびが入っていた。 その声が、影山には届いていたのだ。


完璧な翻訳ではなく 壊れかけた声が。


「影山先輩」


「何だ」


「忘却屋は どうする」


影山は 海を見た。灰色の海。波が 低い。風は冷たいが、穏やかだ。凪ではないが 荒れてもいない。


「閉じる」


一言。 短く。静かに。


「忘却屋は 閉じる」


俺は 何も言わなかった。待った。影山が自分の言葉で語るのを。


「忘却は 嘘だった。最初から知ってた。記憶は消えない。上書きストーリーは嘘だ。 俺が作った嘘で、他人の記憶を覆い隠した。結果 利用者が壊れた。情報が漏れた。デマが広がった。 全部、俺のせいだ」


影山の声は 平坦だった。自責ではなかった。もっと冷静な 事実の陳述。自分のやったことを、客体化して語っている。 元翻訳者の技術。自分自身を翻訳する技術。


「でも 嘘だけじゃなかった」


影山が 少しだけ、声を柔らかくした。


「利用者の中に 忘却屋に相談したことで、少しだけ楽になった人間がいた。忘却はできなかった。上書きも失敗した。 でも、痛みを誰かに話せたこと自体が 楽になる要因だった。俺じゃなくても 誰でもよかった。ただ、聞いてくれる相手がいるだけで」


翻訳する。 影山の言葉を。


忘却屋のメソッドは間違っていた。だが 忘却屋の存在意義は「聞くこと」にあった。傷ついた人間が、誰にも言えない痛みを、匿名で 安全だと信じた場所で、吐き出せたこと。それ自体が 不完全ではあるが 一種のケアだった。


「俺のやり方は間違っていた。 でも、動機は本物だった。傷ついた人間を助けたかった。 方法が間違っていただけだ」


「方法は 間違っていた」


「ああ。 間違っていた。認める。全面的に」


影山が 深呼吸した。潮の匂いを 肺いっぱいに吸い込んだ。


「忘却屋は閉じる。 でも、忘れるのはやめない」


「忘れるのは やめない?」


「あの恋を。好きだった子のことを。 忘れようとしたこと自体が、間違いだった。忘れられるわけがない。三年間 同じ場所で 忘れようとし続けた。それ自体が あの子のことを考え続けてたってことだ」


影山が 笑った。自嘲ではなかった。もっと 穏やかな笑い方。痛みを受け入れた人間の笑い方。


「忘れようとした日々も含めて 俺の恋だった。工作室にいた時間も。忘却屋を作った時間も。利用者と向き合った時間も。 全部、あの恋から始まった。消したいと思ったものが 俺の全部を作っていた」


無害化。 影山は、自分で そこに辿り着いた。


俺が提案した「無害化」を、影山は一度拒否した。「綺麗事だ」と。「お前こそ無害化しろ」と。 だが、拒否した後に 自分で考えて、自分の言葉で 同じ場所に着地した。


忘却しない。消さない。 痛みの意味を変える。「呪い」ではなく 「俺の恋だった」に。


「無害化ってのは たぶん、そういうことだろ。痛い記憶を消すんじゃなくて 痛い記憶も含めて、自分の一部だって認めること。呪いじゃなくて 物語にすること。設計図じゃなくて 本文にすること」


本文。 凛花の言葉が、影山の口から出た。影山は凛花の言葉を知らない。 だが、同じ場所に辿り着いた。別の道を通って、同じ答えに。


「先輩。 それは、正しいと思う」


「正しいかどうかは分からない。 でも、忘却よりはマシだ。忘却は嘘だったから。 本文は 少なくとも嘘じゃない」


影山はポケットからスマホを取り出した。 画面を見せた。


忘却屋のアカウント。DM一覧。 利用者からのメッセージが並んでいる。怒りのメッセージ。困惑のメッセージ。 そして、いくつかの 「ありがとう」のメッセージ。


「全員が怒ってるわけじゃない。 怒ってる利用者のほうが多い。当然だ。情報が漏れた。上書きが嘘だと分かった。 でも、何人かは 『聞いてくれてありがとう』って書いてる。忘却はできなかったけど 話を聞いてもらえただけで楽になった、と」


「その人たちのフォローは」


「工作室に 頼めるか?」


影山が 俺を見た。真っ直ぐに。 二度目の「助けてくれ」。だが今回は 頼む側の目ではなかった。対等な目。取引の目。


「忘却屋の利用者で まだケアが必要な人間がいる。俺のメソッドでは救えなかった。工作室の方法なら 無害化の方法なら 救えるかもしれない。やってくれるか」


「やる。 田中美咲の依頼はすでに進行中だ。他の利用者も 工作室が受け入れる」


「ありがとう。 その代わりに、利用者の情報は全部渡す。DMの履歴。棚卸しの記録。上書きストーリーの原文。 全部」


「了解だ。 凛花が分析する」


影山は スマホをポケットにしまった。


「閉じるのは 今日じゃない。利用者への告知が先だ。忘却屋が閉じることを 利用者全員に伝える。フォローが必要な人には 工作室を紹介する。 一週間くらいかかる」


「一週間 待つ」


「待つな。 お前はお前の問題を片付けろ」


影山の目が 鋭くなった。元翻訳者の目。人を読む目。


「高瀬。 志帆のことだろ」


「......ああ」


「翻訳は終わったんだろ。名前はつけたんだろ。 なら、あとは言うだけだ」


「言うだけ が、一番難しい」


「知ってる。 俺も言えなかった。好きだった子に。工作室のメソッドで場を作って 結局、自分の言葉では何一つ言えなかった。翻訳者として完璧に仕事をして 恒一として何も言えなかった」


影山の声が 沈んだ。だが 以前の痛みとは質が違った。受け入れた痛みだった。無害化された とまでは言えないが 少なくとも、向き合っている痛みだった。


「だから お前に言う。翻訳者のフリは もういいだろ」


「フリ 」


「お前は翻訳者だ。本物の。フリじゃない。 だが、志帆の前では翻訳者を降ろせ。翻訳者として志帆の感情を読むのは やめろ。そうじゃなくて 高瀬恒一として、自分の言葉で話せ」


「自分の 言葉で」


「設計書じゃなく。 本文を。俺が言えなかったことを お前は言え」


影山は 立ち上がった。コンクリートの突堤の端で。風が パーカーの裾をはためかせている。


「俺は 翻訳者をやめた。一年前に。好きだった子の恋を設計して、壊れて、やめた。 お前はやめるな。翻訳者のまま 恋をしろ。翻訳者が恋をしちゃいけないってルールはないだろ。 ver.2にも書いてないだろ」


「......書いてない」


「なら いい。翻訳者のまま恋をしろ。翻訳者であることと恋をすることは 両立する。俺はできなかった。でもお前なら ver.2なら できるかもしれない」


影山は 海に向かって、大きく息を吐いた。白い息。十一月の 冬に近い空気の中で。


「行くわ」


「どこに」


「学校。 受験勉強。三年の秋をサボりすぎた。 取り返さないと」


「受験 大丈夫なのか」


「知らね。 忘却屋に使った時間を勉強に回してたら、もう少しマシだったかもな。 まぁ、それも含めて俺の高校生活だ。後悔はない。 後悔は してもいいけど、忘却はしない」


後悔はしても忘却はしない。 影山の新しい原則だ。忘却屋を閉じた人間の 次のステップ。


影山が突堤を歩き始めた。海から 陸に向かって。俺の横を通り過ぎる。


通り過ぎる瞬間 立ち止まった。


「高瀬」


「はい」


「工作室を 壊してくれてありがとう」


「壊して ?」


「ver.1を壊さなかったら ver.2は生まれなかった。お前が志帆の嘘を見抜けなくて、工作室が炎上して、桐生先輩が降りて 全部が壊れた。壊れたから 更新できた。壊れなかったら 俺の穴は埋まらなかった」


「......それは、褒めてるのか」


「褒めてる。 壊す才能がある。お前」


「褒めてない。 それ」


影山が 笑った。声を出して。 初めて聞く、影山の全力の笑い声だった。知的でも皮肉でもない。ただの 十七歳の男の笑い声。


「じゃあな、高瀬。 工作室、頑張れよ」


「ああ。 先輩も。受験」


「おう」


影山は歩いていった。突堤から堤防へ。堤防から県道へ。 背中が小さくなっていく。パーカーの背中。少し猫背。 だが、来たときよりも 肩が楽になっているように見えた。荷物を一つ下ろした背中。


影山透。 忘却屋。工作室の元メンバー。共同創設者。翻訳者。 俺の先輩。


影山は 忘却を選ばなかった。忘却屋を閉じ、痛みを抱えたまま生きることを選んだ。忘れようとした日々も含めて 自分の恋だったと認めた。


無害化。 影山は、自分の言葉でそこに辿り着いた。俺の提案ではなく。俺の翻訳ではなく。 影山自身が、自分で選んだ。


工作室の原則。選ぶのは本人だ。 影山が自分で選んだ。


俺は 突堤に一人で残った。海を見ていた。灰色の海。曇り空。 だが、水平線のあたりに 雲の切れ目があった。光が 薄く差している。


スマホが振動した。 凛花からだった。


『高瀬先輩。忘却屋のアカウントに 新しい投稿がありました。たった今。 最後の投稿みたいです』


画面を開いた。匿名掲示板。忘却屋のアカウント。 最新の投稿。


『忘却屋よりお知らせ。


本日をもって、忘却屋は活動を終了します。


忘れ方は売り切れました。在庫はありません。再入荷の予定もありません。


代わりに 痛みと一緒に生きてみてください。


痛い記憶は消えません。上書きもできません。嘘で覆い隠しても、いつか剥がれます。 それは、俺が証明しました。


でも 痛みの意味は変わります。呪いだったものが いつか、物語になります。


忘れなくていい。思い出していい。痛くていい。 痛いまま、生きていい。


利用してくださった方へ。ありがとうございました。そして、ごめんなさい。


忘却屋にできなかったことを もし必要なら、恋路工作室に相談してください。あそこは 忘却ではなく、別の方法を持っています。


忘却屋 閉店』


最後の一行 「忘却屋 閉店」。


俺はスマホの画面を見つめた。 しばらく。波の音が聞こえる。海鳥が鳴いている。風が冷たい。


「閉店 か」


声に出して 呟いた。


忘却屋が 終わった。影山が 閉じた。自分の意思で。自分の言葉で。 工作室が強制したのではない。凛花の記事が晒したのではない。影山自身が 選んだ。


そして 最後の投稿で、工作室を紹介してくれた。「忘却ではなく、別の方法」 それは無害化のことだ。影山が 無害化を認めた。


凛花に返信した。


『見た。 影山先輩が、忘却屋を閉じた。自分で』


凛花から。


『記録します。 「忘却屋、閉店。影山透の選択」。高瀬先輩 これは、工作室の成果ですか?』


『工作室の成果じゃない。 影山先輩自身の選択だ。俺たちは場を作っただけ。種を蒔いただけ。 芽を出したのは、影山先輩だ』


種を蒔いた。芽が出た。 影山という土壌に。


工作室の原則が もう一度、証明された。心は操作しない。場を作るだけ。選ぶのは本人。


影山は 本人として、選んだ。



突堤から降りた。堤防沿いの県道を歩いた。帰り道。


十一月の午前。空が 少しだけ明るくなっていた。曇りだが 雲が薄くなっている。光が 地面に届き始めている。


影山が去った。忘却屋が閉じた。 だが、俺の問題は まだ残っている。


志帆への感情。翻訳者としてのアイデンティティ。工作室への復帰。 全部が、まだ未解決だ。


だが 一つだけ、影山が教えてくれたことがある。


「翻訳者のまま恋をしろ。翻訳者であることと恋をすることは、両立する」。


影山はできなかった。 だが、ver.2の工作室なら できるかもしれない。ルール⑤がある。当事者になることを 認めるルールがある。影山の時代にはなかったルール。


翻訳者が恋をしてもいい。壊れてもいい。壊れたら 申告して、チームに支えてもらえばいい。 そのためのルールだ。そのためのチームだ。


明日 工作室に戻る。凛花からノートを受け取る。そして 桐生先輩に報告する。影山が忘却屋を閉じたことを。影山が自分で選んだことを。


工作室は もう少しで、完全に動き始める。


だが その前に。


俺自身が 動かなければならない。


志帆に 会いに行かなければならない。自分の言葉で。翻訳ではなく。設計でもなく。 本文で。


影山が言った。「俺が言えなかったことを お前は言え」。


言う。 言わなければならない。志帆に。


「好きだ」と。


まだ 怖い。だが 影山が忘却屋を閉じる勇気を見た。影山が 自分の恋を「俺の恋だった」と認める姿を見た。 あの勇気の隣に、俺も立ちたい。


堤防の上で立ち止まった。海を見た。灰色の海。 だが、水平線のあたりが 少しだけ明るい。雲の切れ目から 光が差している。


十一月の海は冷たい。凪ではない。波がある。 だが、嵐でもない。


ちょうどいいとこ。 陽太が言った。「ちょうどいいとこで戻ってこい」。


もうすぐ ちょうどいいとこだ。


歩き始めた。家に向かって。 明日、工作室に戻る。ノートを受け取る。チームに合流する。そして 志帆に向き合う準備を始める。


翻訳者のフリは もういい。


本文を書く。 自分の言葉で。


影山透の恋は 終わった。忘却されることなく。無害化されて。物語として。


次は 俺の番だ。

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