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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第30話 影山透の恋

第30話 影山透の恋


影山透にも恋があった。


工作室では、救えなかった恋が。


工作室が暫定再起動した翌日。九月を目前にした八月の最後の土曜日。忘却屋の利用者対応を始めたばかりの三人は、まだ手探りだった。しかし影山と向き合うためには、影山の過去を知らなければならない。翻訳者として、原文を直接読まなければならない。


影山を見つけたのは屋上だった。三度目の屋上。一度目は忘却屋の正体を突きつけたとき。二度目は忘却屋の破綻の直後。そして三度目の今日。


影山は屋上のフェンスに寄りかかって、海を見ていた。背中が小さく見えた。以前の影山は背筋がまっすぐだった。論理で身体を支えている人間の姿勢。今は猫背だ。論理が折れている。


「影山」


声をかけた。影山は振り向かなかった。しかし聞こえている。肩がわずかに動いた。


「話がある。聞いてくれるか」


「何の話だ」


「お前の話だ」


影山が振り向いた。目が俺を見た。憔悴した目。しかし敵意はない。先日、校舎裏で会ったときに浮かんでいた「助けて」の色が、まだ残っている。


「俺の何を聞きたい」


「なぜ忘却屋を作ったのか。本当の理由を」


影山の唇が薄く開いた。そして閉じた。開いてまた閉じた。言葉を探している。言語化しようとして、失敗して、もう一度試みている。冷静で論理的だった影山が、言葉を見つけるのに苦労している。


「座れよ」


影山が屋上の端に座った。フェンスに背を預けて。俺はその隣に座った。一メートルの距離。翻訳者の距離ではない。同じ場所に座る人間の距離。


海が見えた。八月の海。夏の終わりの海は、盛夏の強い青から少しだけ深い色に変わり始めている。季節の変わり目の海。


「一年前の話だ」


影山が話し始めた。声が低い。制御を手放した声。構造的ではない。断片的に、ゆっくりと。


「工作室を桐生と一緒に作ったのは、去年の春だ。俺と桐生と天野。三人で始めた。俺はルールの設計を担当した。心は操作しない。場を作るだけ。撤退線を引く。全部、俺と桐生で話し合って決めた」


知っている情報だ。しかし影山の口から直接聞くのは初めてだ。声のトーンが違う。玲奈が語ったときの冷静さとは違い、影山の声には後悔が滲んでいる。


「工作室が動き始めて、依頼が来るようになった。最初の依頼は俺が対応した。恋の相談を受けて、場を設計して、翻訳して。お前が今やっていることを、去年は俺がやっていた」


影山が翻訳者の役割をしていた。俺の前任者。俺が転入する前、工作室には影山という翻訳者がいた。


「夏が来て、俺に好きな人ができた」


声が変わった。さらに低くなった。記憶の底から引き上げている声。


「同学年の女子だ。名前は言わない。同じ委員会で知り合った。頭が良くて、静かで、本の趣味が合って。俺はすぐに好きになった」


影山が恋をした。冷静で論理的な影山が、人を好きになった。


「工作室のメンバーだったから、メソッドは全部知っていた。場を作ること。タイミングを設計すること。言葉を翻訳すること。全部知っていた。だから使った。自分の恋に」


工作室のメソッドを自分の恋に使った。依頼者のためではなく、自分のために。


「場を作った。二人が自然に話せる状況を設計した。図書室の同じ時間帯に通うようにした。委員会の仕事で接点を増やした。彼女の好きな本を調べて、会話のきっかけを作った。全部、工作室のメソッド通りだ。最適なタイミングも計算した」


影山の設計は完璧だったのだろう。影山は頭がいい。論理的で、分析力がある。工作室のメソッドを知り尽くした人間が、そのメソッドを自分に適用した。設計としては最高精度だったはずだ。


「でもダメだった」


影山の声が小さくなった。


「彼女は別の人を選んだ。俺じゃない人間を好きになった。俺が作った場で、俺が設計したタイミングで、彼女は俺じゃない人間と話して、俺じゃない人間に惹かれた」


翻訳者の胸が痛んだ。影山が設計した場が、影山自身を裏切った。場を作ることは結果を保証しない。工作室の原則だ。選ぶのは本人。場が完璧でも、選択は依頼者に委ねられる。影山はそのルールを自分で作り、そのルールに自分が撃たれた。


「告白はしなかった。する前に気づいた。彼女の目が、俺を見ていないことに。俺が作った場で、俺のことを見ていない目をしていることに。翻訳者だったから分かった。言葉にされなくても、彼女の感情が俺に向いていないことが」


翻訳者が自分の恋の失敗を翻訳した。他人の恋を翻訳する技術で、自分の恋の不在を読み取った。相手の目が自分を見ていない。その事実を、翻訳者の精度で読み取ってしまった。


「桐生に言った。工作室の方法では救えなかったと」


影山が膝を抱えた。大きな身体が縮んでいる。


「桐生に詰め寄った。なぜ救えなかった。ルール通りにやったのに。場を作った。タイミングも設計した。全部完璧だったのに。なぜ。なぜ彼女は俺を選ばなかった」


影山の声に感情が溢れていた。一年前の記憶が、今も生々しい。忘却したかった記憶。忘却屋を作った原因の記憶。この記憶から逃げるために、影山は他人の忘却を手伝い始めた。


「桐生の答えは分かってた。言われる前から知ってた」


「何て言った」


「工作室は場を作るだけ。心は操作しない。結果は本人の問題だ」


玲奈らしい答えだ。論理的で、冷静で、正しい。しかし失恋した人間にとって、正しい答えは残酷だ。正しさは痛みを癒さない。


「残された痛みは誰が処理するんだ、って聞いた。場を作るだけなら、場を通り過ぎた後の痛みはどうなる。工作室のメソッドで失恋した人間は、その痛みをどうやって処理するんだ」


影山の問いは深い。工作室は場を作る。場を通り過ぎた後は依頼者の問題だ。完全救済はしない。しかし完全救済をしなかった結果、依頼者が壊れたら。撤退線の外で、依頼者が一人で痛みに飲まれたら。


「桐生は答えなかった」


影山の声が震えた。


「沈黙した。あの桐生玲奈が。いつもは即答する桐生が。三秒。五秒。十秒。何も言わなかった。答えがなかったんだ。できない人間はどうなるか、という問いに。桐生にも答えがなかった」


玲奈が答えられなかった。工作室の設計者が、工作室の限界を突かれて沈黙した。


「俺は出た。工作室を。あの沈黙が答えだと思った。工作室には痛みを処理する方法がない。場を作るだけで、痛みは放置する。それは支援ではなく放棄だ」


影山の離脱の本当の理由。「方法に限界を感じた」ではなかった。自分の恋が工作室のメソッドで救えなかった痛みを、工作室のルールが処理してくれなかった怒り。


「忘却屋を作ったのは、そのすぐ後だ。秋から。匿名で」


影山の目が海を見ていた。焦点が遠い。一年前を見ている目。


「忘れたかった。あの恋を。あの無力さを。工作室のメソッドを完璧に使って、それでも救えなかった自分の恋を。忘れたかった。でも忘れられなかった。忘却の方法を探して、心理学の本を読んで、ナラティブ・セラピーの論文を読んで。上書きストーリーの技法を見つけた」


「自分に使ったのか」


「使った。自分用の上書きストーリーを作った。彼女との記憶を、別のストーリーに書き換えた。図書室で話した記憶を、別のシチュエーションに。委員会で一緒だった記憶を、別の文脈に」


「効いたか」


影山が長い間黙った。海風が髪を揺らしている。蝉が鳴いている。夏の終わりの蝉は、盛夏より声が弱い。命の残量が減っている。


「効かなかった」


声が乾いていた。


「上書きしても、元の記憶は消えなかった。上書きと元の記憶が混ざって、どっちが本物か分からなくなった。図書室で彼女と話した記憶は本物か、上書きストーリーか。分からなくなった。でも痛みだけは残ってた。記憶が曖昧になっても、痛みは曖昧にならなかった。痛みは正確だった」


記憶は曖昧になるが、痛みは正確。忘却は記憶を消すが感情を消さない。感情は記憶より頑固だ。記憶の詳細が薄れても、そのときに感じた痛みの強度は残る。上書きストーリーは記憶のラベルを書き換えるが、感情のファイルそのものは書き換えられない。


「自分に効かなかった方法を、他人に売った」


影山が自嘲した。口角が歪んでいる。


「壮大な自己欺瞞だ。自分が救われなかった方法で、他人を救おうとした。いや、救おうとしたんじゃない。自分に効かなかったことを認めたくなくて、他人に効くかどうか試した。実験だ。利用者は実験台だった」


影山の告白が深くなっている。自己分析が進んでいる。翻訳者が翻訳するまでもなく、影山は自分で自分を翻訳している。忘却屋の動機。善意でも悪意でもない。自己欺瞞。自分の痛みを処理できなかった人間が、他人の忘却を手伝うことで「この方法は有効だ」と自分に言い聞かせていた。


「利用者は楽になったと言った。最初は。だから俺も信じた。この方法は有効だと。俺には効かなかったが、他人には効くと。しかし」


影山が顔を覆った。両手で。大きな手が顔を隠した。


「効いてなかった。利用者は楽になったと言っていたが、顔が空虚だった。お前たちの記録者に指摘された通りだ。楽になったんじゃない。感じなくなっただけだ。麻酔だ。俺が売っていたのは麻酔だ。そして麻酔が切れたとき、俺には何もできなかった」


影山の声がくぐもっていた。手の中で反響している。


俺は黙って聞いていた。翻訳者として。しかし翻訳はしなかった。影山は自分で翻訳している。自分の過去を、自分の言葉で。翻訳者が割り込む必要がない。影山に必要なのは翻訳ではなく、聞いてくれる人間だ。


「全部、俺のせいだ」


影山が手を下ろした。目が赤かった。泣いてはいない。しかし涙の手前だ。


「忘却屋を作ったのも、利用者の情報が漏れたのも、工作室を炎上させたのも。全部、俺が自分の痛みを処理できなかったことが出発点だ」


「影山」


俺は名前を呼んだ。


「一つ聞いていいか」


「何だ」


「今も、彼女のことが好きか」


影山の身体が揺れた。質問が急所に当たった。


「好きかどうかは、もう分からない。上書きストーリーで記憶を混ぜすぎた。本物の感情と偽物の感情が混ざって、どれが本物か判別できない。好きだった記憶はある。痛みもある。でもそれが今の感情なのか、記憶の残響なのか」


忘却の最大の副作用。本物と偽物が区別できなくなる。記憶を書き換えた結果、自分の感情の真偽が分からなくなる。影山は自分の恋を忘却しようとして、自分の恋を壊した。恋を忘れるのではなく、恋の形を歪めた。


「影山。翻訳していいか」


「翻訳」


「お前の話を翻訳する。翻訳者として」


影山が俺を見た。拒否はしなかった。微かに頷いた。


「お前は彼女のことが好きだった。工作室のメソッドで場を作って、タイミングを設計して、全部完璧にやった。しかし彼女は別の人間を選んだ。お前は失恋した。失恋の痛みを処理できなかった。玲奈に聞いたが、答えがなかった。工作室を出た」


ここまでは事実の再確認だ。影山が頷いている。


「忘却屋を作った。自分の痛みを忘れるために。しかし自分には効かなかった。他人に試した。他人には効いているように見えた。しかしそれも幻だった。麻酔だった」


影山の目が揺れている。翻訳者の言葉が影山の内側に届いている。


「ここまでは事実だ。ここから翻訳する」


俺は深く息を吸った。翻訳者の脳が動いている。影山の言葉の裏を読んでいる。影山が言わなかった一行を、翻訳者が見つけようとしている。


「お前が本当に忘れたかったのは、彼女のことじゃない」


影山の目が見開かれた。


「お前が忘れたかったのは、好きだった自分自身だ。彼女を好きだった、あの頃の自分。工作室のメソッドを信じていた自分。場を作れば救えると思っていた自分。その自分が、否定された。否定されたのは彼女にではなく、現実にだ。お前のメソッドは完璧だった。しかし完璧な設計でも結果は保証されない。その事実を受け入れられなかった」


影山の唇が震えた。


「だから忘れようとした。好きだった自分を。しかし自分を忘れることはできない。記憶は消せても、自分は消えない。上書きストーリーで記憶を曖昧にしても、好きだった事実は変わらない。痛みは残る。痛みが残るということは、感情が残っているということだ」


翻訳が核心に達した。影山の目から涙が一筋流れた。泣く前の目ではなかった。泣いている目だった。声を出さずに、一筋だけ。


「お前はまだ好きだ。影山。彼女のことが。上書きで混ぜて歪めて判別不能にしても、感情の核は残ってる。好きだという感情は消えてない。消えてないから痛い。消せなかったから忘却屋を作った。忘却屋が破綻したのは、忘却が不可能だったからだ。最初から。最初から不可能なものを売っていた」


影山が顔を俯けた。涙が顎から落ちた。コンクリートの床に、小さな染みができた。


「分かってた」


影山の声が掠れていた。


「全部分かってた。忘却が不可能だってことも。上書きが嘘だってことも。利用者を実験台にしてたことも。分かってたのに止められなかった。止めたら、俺の痛みが最初に戻るから。忘却屋をやっている間は、俺は忘却が有効だと信じていられた。やめたら、好きだった事実と向き合わなきゃいけない」


逃避だ。忘却屋は影山の逃避装置だった。他人の忘却を売ることで、自分の忘却が有効だと信じ続ける。しかし有効ではなかった。最初から。影山自身がそれを一番知っていた。


「影山。忘却屋はもう終わりだ。お前もそれは分かってるだろう」


「分かってる」


「終わらせろ。自分で。忘却屋をやめると、お前の痛みは最初に戻る。好きだった自分と向き合わなきゃいけない。それはきつい。でも向き合わなきゃ、次に進めない」


「次に進むって、どうやって」


「忘却じゃない方法で。痛みを消すんじゃなく、痛みと一緒に生きる方法で」


影山が顔を上げた。涙の跡が頬に残っている。


「工作室の方法か」


「工作室の方法でもない。工作室のver.2だ。俺たちが今作ってる新しいルールだ。旧版のルールにはお前の問いに対する答えがなかった。残された痛みは誰が処理するのか。玲奈は答えられなかった。でもver.2では答える。忘却ではなく無害化。痛みを消すのではなく、痛みの温度を下げる。痛みと一緒に生きる言葉を見つける」


影山が黙った。海を見ていた。波が防波堤に当たっている。白い飛沫。八月の終わりの海。


「無害化」


影山がその言葉を口の中で転がした。


「痛みを消さずに、温度を下げる」


「ああ。陽太が実践した。中学時代の告白晒しのトラウマを、忘却ではなく清算で乗り越えた。過去を消さずに、過去の意味を変えた。痛い記憶が、ただの記憶になった。痛みの温度が下がった」


影山がまた黙った。長い沈黙。海風が二人の間を吹き抜けた。


「俺にもできるか」


声が小さかった。工作室の元メンバーが、翻訳者に助けを求めている。忘却屋の運営者が、工作室の方法論に手を伸ばしている。


「分からない。でも、試す価値はある。忘却が効かなかったなら、別の方法を試すしかない」


「別の方法を試したら、最初の痛みに戻るんだ。忘却で麻痺させてた分が全部戻る。耐えられるか分からない」


「一人では無理かもしれない。でもお前は一人じゃない。工作室がある」


影山が俺を見た。驚きが浮かんでいた。


「工作室が、俺を」


「助ける、とは言わない。場を作る。お前が痛みと向き合うための場を。選ぶのはお前だ。工作室は場を作るだけだ。ルールは変わってない。心は操作しない」


影山の口元が微かに動いた。笑いではない。しかし何かが緩んだ。制御でも論理でもない、もっと原始的な反応。安堵に似た何か。


「お前さ」


影山が言った。


「俺がルールの設計をしてた頃より、いい翻訳者だよ」


「お世辞は効かない」


「お世辞じゃない。俺は翻訳者としてはダメだった。自分の恋を翻訳できなかった。お前も今はできてないだろうけど、少なくとも俺より先に進んでる」


影山が立ち上がった。屋上の風に吹かれて、髪が揺れた。海を見た。朝凪の海。


「終わりにしなきゃ」


影山が呟いた。スマホを取り出した。忘却屋のアカウントを見ている。フォロワーの数字。利用者からのDM。怒りのメッセージが並んでいるのだろう。


「忘却屋を閉じる。俺の手で。模倣犯の対処は、たぶん一人じゃ無理だ。でもアカウントを消して、サービスの終了を告知することはできる」


「影山。閉じる前に一つだけ」


「何だ」


「利用者に謝れ。匿名のままでいい。忘却屋のアカウントから、最後の投稿として。上書きストーリーが嘘だったこと。痛みを消す方法はないこと。しかし痛みと一緒に生きる方法はあること。それだけ書け。最後に」


影山が俺を見た。長い視線だった。翻訳者と忘却屋が、最後に向き合っている。


「書く。書いて、閉じる」


影山がスマホをポケットにしまった。


「高瀬。工作室がver.2で再起動するとき、俺は何をすればいい」


「何もしなくていい。お前はまず自分の痛みと向き合え。忘却屋を閉じて、上書きをやめて、本物の記憶に戻れ。痛いだろう。でもそこからが始まりだ」


「始まりか。終わりじゃなく」


「終わりじゃない。忘却屋の終わりは、影山透の始まりだ」


影山が小さく笑った。自嘲ではない笑い。初めて見る影山の笑顔。歪んでいない。対称な笑み。口角が両方同じだけ上がっている。


「じゃあな、高瀬。次に会うときは、忘却屋じゃなく影山透として会う」


影山が屋上のドアに歩いていった。ドアを開ける前に振り返った。


「桐生に、伝えてくれ。あのとき答えられなかった問いに、お前が答えを見つけたって。残された痛みは誰が処理するのか。答えは、忘却じゃなく無害化だって。桐生はたぶん、その答えを聞きたがってる」


影山がドアの向こうに消えた。


俺は屋上に一人残された。四度目になるかもしれない次の屋上は、もう必要ないといい。


海を見た。八月の終わりの海。夏が終わろうとしている。空の端に、秋の色が微かに混ざっている。青と紺の間の、名前のない色。


影山透の恋。工作室のメソッドで場を作り、完璧に設計し、それでも救えなかった恋。その痛みから逃げるために忘却屋を作り、忘却屋が破綻し、自分の嘘に飲まれた。


しかし今日、影山は自分で翻訳した。自分の過去を、自分の言葉で。翻訳者が少しだけ手を貸しただけだ。影山は自分の力で、自分の嘘を認めた。


忘却屋は終わる。影山が自分で閉じる。その後に残るのは、好きだった記憶と、好きだった自分自身だ。上書きで歪められた記憶と、忘却で麻痺させた感情。全部が元に戻る。痛みが戻る。


しかし痛みの温度を下げる方法がある。忘却ではなく無害化。陽太が証明した方法。工作室ver.2が提供する方法。


影山にもそれができるか。分からない。しかし可能性はある。凛花が記事を公開しなかったことで得た猶予。あの猶予が、今日の対話を可能にした。凛花の選択が正しかったことが、今、証明されている。


工作室に戻った。陽太と凛花が待っていた。


「どうだった」


陽太が聞いた。


「影山は忘却屋を閉じる。自分で」


「マジか」


「ああ。それと、影山の過去を聞いた。忘却屋を作った理由を」


三人で座った。俺は影山の話を伝えた。恋のこと。工作室のメソッドで失敗したこと。玲奈に問うて答えが返ってこなかったこと。忘却屋を作った動機。自己欺瞞。全部を。


凛花がノートに書いた。記録者は記録する。影山の過去も、工作室の記録の一部として。


陽太が腕を組んで天井を見ていた。


「影山先輩の気持ち、ちょっと分かるな」


「分かるのか」


「告白して晒されたとき、俺も忘れたいって思ったもん。忘れられるなら忘れたかった。でも忘れられなかったから、笑顔で覆い隠した。影山先輩は忘却を試みた。俺は笑顔を試みた。方法が違うだけで、痛みから逃げてたのは同じだ」


陽太の共感。コミュ力お化けは、他人の痛みに共鳴できる。


「先輩たち」


凛花が顔を上げた。


「影山先輩が忘却屋を閉じるなら、利用者への対応が本格的に必要になります。忘却屋が消えた後、行き場のない利用者が出ます。工作室が受け皿にならないと」


「分かってる。ver.2の再起動を急ぐ。玲奈先輩の助言を得て、新しいルールで正式に動き出す」


「玲奈先輩には」


「俺が会いに行く。明日。ver.2のノートを持って。やり方を更新した、と報告する」


陽太が笑った。


「いよいよだな」


「ああ。いよいよだ」


窓の外。八月の夕暮れ。空が燃えている。最後の夏の夕焼け。


九月が来る。新学期が来る。工作室ver.2が動き出す。


影山は忘却屋を閉じる。玲奈に会いに行く。新しいルールを提示する。


全部が動いている。夏の終わりに。秋の手前に。


翻訳者のポケットにはペンがある。ノートには言葉が集まっている。陽太から。凛花から。影山から。志帆から。玲奈から。


全部の言葉を翻訳して、新しいルールにする。


明日、玲奈の前に立つ。


「やり方を更新した」と言う。

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