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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第26話 翻訳者の沈黙

第26話 翻訳者の沈黙


工作室は止まっても、恋の問題は止まらない。


相談は、廊下の片隅で続いていた。


夏休みに入って三日目の午後。終業式は終わったが、部活動や補習で学校に来る生徒はいる。俺もその一人だ。補習ではない。工作室の空の教室に行くために、夏休みでも学校に来ている。


旧部室棟に向かう廊下で、一年の女子に声をかけられた。


「あの。高瀬先輩、ですよね」


見覚えのない顔だった。俺を知っている人間が増えている。炎上のおかげだ。皮肉なことに、工作室の知名度は炎上で上がった。活動していたときより、活動停止後のほうが有名になっている。


「そうだけど」


「あの。工作室って、もうやってないんですよね」


「やってない。活動停止中だ」


「でも、あの。相談だけ聞いてもらえませんか。工作室としてじゃなくて、個人的に」


個人的に。工作室としてではなく、高瀬恒一個人として。


「何の相談だ」


「友達が好きな人を奪ったかもしれなくて。でも奪ったつもりはなくて。友達が怒ってて。どうすればいいか分からないんです」


恋愛の相談。三角関係の派生形。友人関係と恋愛感情の衝突。工作室なら設計書を書くべき案件だ。


翻訳者の脳が自動で動き始めた。一年の女子の言葉を分析する。「奪ったかもしれなくて」の「かもしれない」に揺らぎがある。自覚がないのではなく、自覚があるが認めたくない。「奪ったつもりはなくて」は弁明だが、弁明が出ること自体が罪悪感の証拠。友達が怒っているのは事実。怒りの原因を依頼者は知っている。知っているが、直視できない。


翻訳はできる。


しかし翻訳した後、どうする。設計書を書くか。誰が実行するのか。陽太がいない。潜入も場の設計もできない。凛花がいなければ記録もない。玲奈がいなければ最終判断もない。


一人で全部はできない。翻訳しかできない俺は、翻訳しかできない。


「聞くだけなら聞ける。でも、工作室みたいな対応はできない。俺一人じゃ、設計も実行もできない」


「聞いてもらえるだけでいいです。誰にも言えなくて」


誰にも言えない。その言葉が胸に刺さった。工作室があった頃は、「誰にも言えない」人間が来る場所があった。依頼ボードに紙を貼ればよかった。今はそれがない。行き場のない感情が、廊下に溢れている。


俺は廊下の窓際に寄りかかって、一年生の話を聞いた。十五分ほど。翻訳者として聞いた。言葉の裏を読み、本音を探り、感情の構造を把握した。


しかし翻訳した後、何も渡せなかった。


設計書がない。アクションプランがない。「こうしろ」と言えるものがない。翻訳者は原文を読み解くだけで、翻訳後のアウトプットを形にするのは設計者の仕事だ。俺はインプット側しかできない。アウトプット側が欠落している。


「ありがとうございました。聞いてもらえただけで楽になりました」


一年生はそう言って去っていった。楽になった。それは良いことだ。しかし「楽になった」は解決ではない。問題はそのまま残っている。聞いてもらっただけで問題が消えるなら、工作室は要らない。


工作室は場を作る組織だった。聞くだけではなく、場を設計し、状況を整理し、撤退線を引いた。聞くことは入口であって出口ではない。


一人では出口を作れない。


それが、翻訳者の限界だった。


夏休みの日々が過ぎていく。


七月の終わり。八月に入った。朝凪の海は夏の色になっている。青が濃い。光が強い。空気が熱い。蝉の声が校舎に反響している。


俺は毎日のように学校に来ていた。空の工作室に座って、ver.2のノートを開く。しかし「原則②」の欄はまだ白紙のままだ。


書けない。


翻訳者は他人の言葉を翻訳するのは得意だ。しかし自分の言葉を生み出すのは苦手だ。ルールは言葉だ。言葉を作る行為だ。翻訳は既存の言葉を変換する行為。ゼロから言葉を作るのは創作であり、翻訳とは別の技術だ。


玲奈はルールを作れた。設計者だから。影山もルールに口を出せた。論理の人間だから。俺は翻訳者だ。他人の言葉がなければ動けない。他人の言葉があって初めて、翻訳が始まる。


他人の言葉がない状態で、自分だけの言葉を紡ぐ。それは翻訳者にとって最も困難な作業だ。


夜。自室。


ノートを開いた。白紙を見つめた。


自分の感情と向き合おうとした。玲奈に言われた通り。辞書を開け。志帆に対する感情を言語化しろ。


目を閉じた。志帆の顔を思い浮かべた。


ポニーテール。笑顔。「恒一だって、そういう目するときあるよ」。カフェで泣いた顔。「見てくれなかった」。公園のベンチで「いつか辞書開けてよ」と言った顔。


志帆に対する感情。何だ。


好きか。好きとは何だ。藤川は三浦のことが好きだと言った。猫を見ているときの横顔が好きだと。あの具体性を、俺は志帆に対して持っているか。


志帆の何が好きだ。ポニーテールか。笑顔か。声か。中学のときに隣の席で窓の外を見ていた横顔か。


全部だ。全部が混ざっている。一つの特徴ではなく、志帆という人間の全体に対して感情がある。しかし「全部好き」は翻訳ではない。翻訳とは曖昧なものに正確な言葉を与えることだ。「全部」は曖昧の極みだ。


翻訳を試みる。


志帆に対する感情。表の層。懐かしさ。中学時代の記憶に基づく親近感。幼馴染としての安心感。これは翻訳できる。


裏の層。志帆が彼氏の話をすると胸が軋む。志帆が泣くと手を伸ばしたくなる。志帆のLINEを放置したのは、返信するのが怖かったからだ。返信したら、距離が変わるかもしれないから。


もう一層深い場所。志帆の「見てくれなかった」という言葉が、ずっと消えない。あの言葉が痛いのは、事実だからだ。俺は志帆を見なかった。見ようとしなかった。翻訳しようとしなかった。翻訳したら、自分の感情と向き合わなければならないから。


翻訳したら何が出てくるのか。


怖い。語彙はある。使うのが怖いんだ。


志帆のことが好きだ。


その一文が頭に浮かんだ。浮かんで、沈んだ。言語化された瞬間に、重力が変わった。軽くなったのではない。重くなった。好きだと自覚した瞬間、翻訳者のポジションが揺らぐ。客観的な翻訳者が、主観的な感情を持つ。精度が落ちる。落ちることが分かっているから、怖い。


ノートに書くことはしなかった。まだ早い。まだ形にならない。頭の中に浮かんだだけだ。浮かんで沈んだ。しかし沈んだものは消えたのではなく、底に沈殿している。いつか浮上する。そのときに、言葉にする。


今日は、浮かんだことだけで十分だ。


八月の最初の週。


海沿いの道を歩いていた。夕方。補習帰りの生徒がちらほらいる。海が夕焼けに染まっている。朝凪の海が、オレンジ色に光っている。


「先輩」


後ろから声がした。振り返ると、凛花がいた。新聞部の鞄を持っている。夏休みでも新聞部の活動はあるらしい。


「凛花。新聞部か」


「はい。夏号の編集が残ってて」


二人で並んで歩いた。海沿いの道。夕暮れの光が二人の影を長く引き伸ばしている。


「先輩。ノートの続き、書けましたか」


「まだだ。原則の二行目が出てこない」


「一行目は」


「心は操作しない。それは変えない」


凛花が頷いた。


「私も、工作室がないと落ち着かないんです」


凛花の声が小さくなった。記録者の声ではなく、高校一年生の女の子の声。


「記録する場所がないと、不安で。新聞部の仕事はあるけど、新聞部の記録と工作室の記録は違うんです。新聞部は記事を書く。読者のために。工作室の記録は、依頼者のために。書く先が違うと、気持ちも違うんです」


凛花は工作室の記録者だ。記録者としてのアイデンティティが、工作室の活動停止によって宙に浮いている。書く場所はある。新聞部がある。しかし工作室のノートに書くのと、新聞部の記事を書くのは、凛花にとって別物なのだ。


「観測者でいられないと不安なんです。工作室にいるとき、私は依頼者の言葉を記録して、工作室の動きを記録して、全部をノートに残していた。観測者でいられた。でも工作室がなくなって、観測する対象がなくなって。自分が何者か分からなくなるんです」


凛花の正直な告白だった。記録者は記録する対象があって初めて記録者になる。対象がなくなったら、ただのペンを持った人間だ。


「俺もだ」


俺も言った。


「翻訳する相手がいないと、自分が何者か分からなくなる。翻訳者は翻訳する対象があって初めて翻訳者だ。対象がなければ、ただの言葉に敏感な人間だ。それだけじゃ、何の意味もない」


凛花が俺を見た。


「先輩も同じなんですね」


「同じだ。工作室がないと、居場所がない」


二人で海を見た。夕焼けの海。波がない。朝凪の海は夕方でも静かだ。水面に空が映っている。オレンジ色の空と、オレンジ色の海。境界が溶けて、どこまでが空でどこからが海か分からない。


「先輩」


「ん」


「工作室、再起動しますよね」


「する。必ず」


「なら、私も待ちます。記録者は記録を待てます。書くべきことが来るまで、ペンを持ったまま待てます」


凛花の声に力があった。不安を語った後の、決意の声。記録者は待てる。書くべきことが来るまで、白紙のページを前に座っていられる。それは記録者の忍耐力だ。翻訳者にはない力だ。


「凛花。一つ聞いていいか」


「はい」


「お前にとって工作室は何だ。居場所か。仕事場か。逃げ場か」


影山の言葉が蘇った。「工作室は逃げ場だ」。記録者にとっても同じだろうか。


凛花は五秒ほど考えた。


「全部です。居場所であり、仕事場であり、逃げ場でもある。書くことで距離を取る場所。当事者にならずに済む場所。でも同時に、誰かの役に立てる場所。記録が誰かを守る場所」


「逃げ場であることは、悪いことだと思うか」


「思いません。逃げることと、居場所を持つことは矛盾しません。逃げた先が居場所になることもあります。工作室は、逃げてきた人間が立てる場所です。依頼者も、メンバーも」


凛花の答えが鮮明だった。記録者が自分の居場所を言語化している。逃げ場と居場所は矛盾しない。影山は「逃げ場だ」と批判的に言った。しかし凛花は「逃げ場でもある」と肯定的に受け入れている。


逃げた先が居場所になる。


その言葉が、ver.2のノートの「原則②」の候補として、頭の中にメモされた。まだ形にはならない。しかし方向が見えた。


「凛花。ありがとう。今の言葉、ノートに使わせてもらうかもしれない」


「どうぞ。記録者の言葉は、使ってもらうためにあります」


凛花が笑った。小さく、しかし確かに。工作室が止まって以来、凛花の笑顔を見たのは初めてだった。


「あ、そうだ。先輩」


凛花がポケットからメモ用紙を取り出した。折り畳まれた紙。


「これ。陽太先輩から預かってました。先週、新聞部室に来たんです。先輩に渡してくれって」


陽太が新聞部室に来た。学校に来ていたのか。


メモを開いた。陽太の字。大きくて崩れた字。読みにくいが、温度がある。


『元気か。サボってるなら殴りに行く。──天野陽太』


笑った。


口角が上がった。自然に。無理やりではなく、勝手に。陽太の言葉は翻訳を必要としない。「元気か」は「心配してる」。「サボってるなら殴りに行く」は「早く再起動しろ」。全部が裏表のない本音だ。


「先輩、笑ってます」


凛花が嬉しそうに言った。


「先輩が笑ったの、工作室が止まってから初めて見ました」


「そうか。久しぶりだな、笑うの」


「はい。久しぶりです。記録しておきます。『高瀬恒一、天野陽太のメモで笑う。夏休み中。海沿いの道にて』」


記録者は記録する。こんな小さな瞬間も。笑顔が戻った瞬間を、凛花はノートに書くのだろう。工作室の活動記録ではなく、個人的な記録として。


「凛花」


「はい」


「陽太に返事を伝えてくれ。『サボってない。ノート書いてる。殴りに来るなら手伝え』って」


「伝えます」


凛花が手を振って帰っていった。新聞部の鞄が揺れている。小さな背中。しかしその背中には、記録者の強さがある。


一人になった。


海を見た。夕焼けが終わりかけている。空の端が紫に変わっている。星が一つ見えた。


陽太のメモをもう一度読んだ。


『元気か。サボってるなら殴りに行く』


陽太は休養中だ。しかしメモを書いた。凛花に託した。学校にも来た。つまり陽太は動き始めている。完全には戻れなくても、動き始めている。半分の笑顔を携えて。


工作室は止まっている。しかしメンバーは止まっていない。凛花は記録を続けている。陽太はメモを書いている。俺はノートを開いている。


三人が別々の場所で、それぞれの方法で、工作室に向かっている。


同じ場所には集まれていない。しかし同じ方向を向いている。


ver.2のノートを開いた。


「原則①:心は操作しない」


その下。白紙のまま。しかし今日、凛花の言葉を聞いた。「逃げた先が居場所になる」。陽太のメモを読んだ。「元気か。サボってるなら殴りに行く」。


原則の形にはまだならない。しかし材料が集まり始めている。翻訳者は他人の言葉を翻訳する。凛花の言葉、陽太の言葉。それらを翻訳して、ルールの原料にする。翻訳者は翻訳を通じて設計する。それが恒一流のルール作りだ。玲奈のように論理で設計するのではなく、翻訳した言葉を積み上げて設計する。


まだ完成しない。しかし方法が見えた。翻訳者なりの方法が。


ノートに書き加えた。原則ではなくメモとして。


「居場所は逃げ場でもある。矛盾しない。──凛花の言葉」


「翻訳者は他人の言葉を集めてルールを作る。自分だけの言葉では足りない。──設計方法の覚書」


二行。短い。しかし前に進んだ。


ノートを閉じた。


家に帰った。夜。窓を開けた。夏の夜風が入ってくる。潮の匂い。蝉が鳴いている。


翻訳者は沈黙している。工作室は止まっている。しかし沈黙の中で、言葉が少しずつ集まっている。凛花から。陽太から。志帆から。玲奈の遺した言葉から。


翻訳者は集めた言葉を翻訳して、新しいルールにする。一人では作れない。しかし他人の言葉を翻訳することならできる。それが翻訳者の武器だ。


沈黙は終わりではない。聞くための沈黙だ。他人の言葉を聞くために、翻訳者は黙っている。


八月が始まったばかりだ。夏休みはまだ長い。


工作室の再起動まで、まだ時間がある。しかし時間があるということは、準備ができるということだ。


翻訳者は聞き続ける。集め続ける。翻訳し続ける。


そして九月に、新しい工作室を開く。


陽太のメモをポケットにしまった。あの崩れた字が、今日一番の翻訳者への贈り物だった。


八月の夜。星が見える。海風が心地いい。


夏の真ん中。再起の途中。翻訳者は沈黙の中にいる。しかし沈黙は空白ではない。沈黙は、次の言葉を待つ間だ。

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