第27話 陽太の告白
第27話 陽太の告白
天野陽太が告白した。二度目の。 今度は、晒されなかった。
夏休み最後の週末。九月が目前に迫っていた。
俺は陽太からの連絡を待っていた。「元気か? サボってるなら殴りに行く」 あのメモから一週間。グループチャットに陽太の発言はぽつぽつと戻り始めていたが、まだ学校には来ていなかった。工作室には もっと来ていなかった。
土曜日の朝。スマホが鳴った。電話。 陽太からだった。
「恒一。 今日、暇か?」
「暇だ」
「ちょっとだけ付き合ってくれ。 隣町まで」
「隣町?」
「駅前のカフェ。 誰かに会う。一人じゃ ちょっとだけ、心細くて」
陽太が「心細い」と言った。 陽太が。あの陽太が。コミュ力お化けで、誰とでも五分で打ち解ける天野陽太が、心細いと言っている。
「行く。 何時だ」
「二時。駅で待ち合わせ」
「了解」
隣町の駅。二時。
陽太は 改札の前に立っていた。
久しぶりに見る陽太だった。掲示板に名前が晒されてから 三週間以上。屋上で「少し休む」と言って以来、直接会うのは初めてだ。
見た目は 変わっていなかった。背が高い。肩幅が広い。髪は少し伸びている。 だが、顔色が前より良かった。目の下の隈が消えていた。休んでいた間に 眠れるようになったのだろう。
「よう、恒一」
「よう」
「久しぶりだな。 痩せた?」
「お前もな」
「俺はメロンパン食ってるから平気」
いつもの 軽口。だが、今日の陽太の声には 少しだけ、緊張が混じっていた。声のトーンが半音高い。足が 小刻みに動いている。落ち着かない。
「陽太。 誰に会うんだ」
「......中学の 奈緒」
奈緒。 陽太が中学時代に告白した相手。そして その告白をグループLINEに晒した相手。
「再会 偶然か?」
「偶然。 三日前にさ、駅前の本屋で。陽太がいた。俺のほう見て 固まってた。俺も固まった。 五秒くらい」
「それで?」
「奈緒のほうから 声かけてきた。『天野くん......?』って。 三年ぶりだよ。中学卒業してから一回も会ってなかったのに」
陽太は 改札の柱にもたれかかった。
「声かけられて 最初、逃げようかと思った。マジで。足が勝手に後ろに動いた。 でも」
「でも?」
「奈緒が 泣きそうな顔してたんだ。俺を見て。懐かしいとかじゃなくて 苦しそうな顔。罪悪感みたいな。 それ見たら、逃げられなかった」
陽太は ポケットに手を突っ込んだ。
「でさ、ちょっと立ち話して。奈緒が 『ちゃんと話したい。時間もらえない?』って。 だから今日、会うことになった」
「それで 俺を呼んだ」
「一人で行ける。 行けるけど。なんつーか 保険? 近くに恒一がいてくれたら、逃げ出さずに済むかなって」
保険。 翻訳者としてではなく、友人として。隣にいるだけでいい。何もしなくていい。ただ、近くにいてくれればいい。 屋上で陽太が「何も言わないでいてくれて楽だった」と言ったのと、同じだ。
「分かった。 カフェの外で待ってる。中には入らない」
「ありがとな。 ほんと、ありがと」
陽太の声が 少しだけ、震えた。すぐに消えた。切り替えが速い。 だが切り替えの瞬間は、もう俺には見えていた。
隣町の駅前のカフェ。俺たちが志帆のヒアリングで使った店とは別の、小さなカフェだった。ガラス張りで、外から中が見える。
二時十分。陽太がドアを開けて中に入った。 俺はカフェの向かいのベンチに座った。ガラス越しに中が見える。陽太の背中が見える。
窓際の席に 女の子が座っていた。
奈緒。 見たことはない。陽太の口から名前を聞いただけだ。だが 想像していたのとは違った。小柄。ショートカット。目が大きい。 おどおどした表情。膝の上で手を握り締めている。
陽太が席についた。向かい合う二人。 ガラス越しに、会話が始まった。声は聞こえない。だが、二人の表情は見える。
奈緒が 頭を下げた。深く。テーブルに額がつきそうなくらい深く。 謝罪だ。中学のときの、あの件の。
陽太は しばらく何も言わなかった。奈緒が頭を上げるのを 待っていた。急かさなかった。
奈緒が顔を上げた。目が 赤い。泣いている。口が動いている。 声は聞こえないが、口の形を読む。翻訳者の目で。
「あのとき ごめん」
口の形がそう読めた。
「友達に 言ったら 広まっちゃって」
「ずっと 謝りたかった」
奈緒の口元が震えている。泣きながら話している。三年間 抱えてきた罪悪感が、今、溢れ出しているのだ。
陽太は 聞いていた。奈緒の言葉を。表情は 穏やかだった。怒りはない。憎しみもない。 ただ、静かに聞いている。
時間が流れた。十分。十五分。奈緒が話し続け、陽太が聞いていた。ガラスの向こうの二人が 少しずつ、距離を縮めているように見えた。物理的な距離ではなく、空気の密度が変わっていく。
そして 陽太の口が動いた。
笑った。 ガラス越しにも分かった。陽太が笑った。いつもの 目を細めて、口を大きく開けて。だが今日の笑顔は いつもより深かった。深くて、少しだけ、悲しい。
「......マジ? もっと早く言えよ」
口の形がそう読めた。陽太の声は聞こえないが 翻訳者には読める。口の動きと、表情と、体の傾きから。
奈緒が 驚いた顔をした。怒られると思っていたのだろう。 怒られなかった。陽太は笑っている。
それから 陽太がテーブルの上で両手を組んだ。真剣な顔になった。笑顔が消えて もっと深い表情に変わった。
何かを 言おうとしている。大事なことを。
口が動いた。ゆっくりと。一語一語、確認するように。
「あのさ 改めて言う」
「中学のとき 好きだった」
奈緒の目が 見開かれた。
「今はもう 違う感情だけど」
「あのときの気持ちは 本物だった」
陽太が 息を吸った。
「恥ずかしい告白じゃ なかった」
恥ずかしい告白じゃなかった。
その一言が、ガラス越しに 俺の胸に刺さった。声は聞こえていない。口の形を読んでいるだけだ。それなのに 涙が出そうになった。
陽太の中学時代の告白は 笑い者にされた。グループLINEで晒されて、二週間笑われた。掲示板でもう一度晒された。 だが陽太は、あの告白を「恥ずかしくなかった」と言い切った。
好きだった。本物だった。 それを、三年越しに、本人に向かって宣言した。
二度目の告白。 中学のときは手紙で。今度は 面と向かって。声で。自分の口で。
奈緒が 泣いていた。声を出して泣いているのが、ガラス越しにも見えた。肩が揺れている。ハンカチで顔を覆っている。
陽太は 泣いていなかった。笑っていた。穏やかに。 強い笑顔だった。壊れない笑顔だった。
過去の清算。 恋愛感情の復活ではない。陽太は奈緒をもう好きではない。好きだった頃の自分を 肯定しているのだ。あの告白は恥ずかしくなかった。あの気持ちは本物だった。 それを認めること。認めたことを 相手に伝えること。
工作室のメソッドは 使っていない。場の設計も、翻訳も、撤退線もない。全部 陽太が自分で決めた。自分の言葉で。自分の判断で。 工作室の助けなしに。
それが 陽太の成長だった。
カフェを出てきた陽太は いい顔をしていた。
目が 澄んでいた。掲示板に晒される前の陽太の目。いや もっと前の、工作室に入る前の陽太の目かもしれない。中学時代の痛みが 消えてはいないが、形が変わっていた。傷ではなく 経験として、整理された目。
「どうだった」
「見てたろ。 ガラス張りなんだから」
「見てた。 口の形だけ読んだ」
「嘘つけ。お前、翻訳者だろ。全部読めたんじゃねーの」
「......だいたいは」
「だいたい、ね。 まぁいいや」
陽太は 伸びをした。両腕を上げて、背中を反らして。八月の空に向かって。 大きな体が、さらに大きく見えた。
「奈緒 謝ってくれた。三年ぶりに」
「そうか」
「ずっと後悔してたんだって。友達に言ったのは軽い気持ちだった。まさかあそこまで広がるとは思ってなかったって。 信じる。たぶん本当だ」
「許したのか」
「許す、って言い方は 違うな。 恨んでなかったんだよ、もう。恨む気持ちは 工作室にいる間に、どっかに行った。水谷の噂を上書きしたとき、佐々木の断罪を止めたとき 噂の暴力の構造が見えた。構造が見えると 個人を恨むのが馬鹿らしくなる。奈緒が悪かったんじゃない。構造が悪かった。匿名で広がるシステムが悪かった」
陽太は歩き出した。俺も隣を歩く。駅に向かって。隣町の商店街。日差しが強いが 風がある。
「でさ 改めて言ったんだ。中学のとき好きだったって」
「聞こえなかったけど、読めた」
「読めたんじゃねーか。 で、言ったの。好きだったって。今はもう違うけど、あのときの気持ちは本物だったって。恥ずかしい告白じゃなかったって」
「 よく言えたな」
「言えた。 不思議なもんでさ。三年間、あの告白が恥ずかしくて仕方なかった。手紙を書いたことも、晒されたことも、笑われたことも。 全部、黒歴史だった。消したかった。忘却屋に頼みたいくらい」
「忘却屋に 」
「頼まなかったけどな。 てか、忘却屋のDMは来た。夏休み中に。『忘れ方、教えます』って。 無視した」
陽太が 立ち止まった。商店街の真ん中。人通りがある中で。
「消さなくてよかった。 あの告白を忘れてたら、俺は工作室に入ってなかった。噂の暴力を知らなかったら、佐々木の依頼も、水谷の依頼も ピンと来なかった。あの痛みがあったから 俺はここにいる」
痛みが 導いた。陽太の中学時代の痛みが、工作室に繋がった。忘却屋がやろうとしていることの対極だ。忘却屋は痛みを消そうとする。だが陽太は 痛みを持ったまま、それを力に変えた。
「忘却じゃない。 更新だ」
俺が言った。及川のときに使った言葉が ここでも使えた。
「記憶を消すんじゃなく 記憶の意味を更新する。黒歴史じゃなく、経験にする。 お前はそれを、自分でやった」
「工作室のメソッドは使ってないけどな」
「使ってない。 全部自分で決めた」
「ああ。 自分で」
陽太は 笑った。いつもの笑顔。だが いつもより深かった。自分の過去を受け入れた人間の笑顔だった。
「恒一。 お前より先に成長しちゃったかもな」
「......うるさい」
「否定しないのか」
「否定できない」
陽太が声を上げて笑った。商店街に響く笑い声。 久しぶりに聞く、全力の陽太の笑い声だった。
帰りの電車の中。並んで座った。
「恒一」
「何だ」
「俺 工作室に戻る」
知っていた。 分かっていた。だが、陽太の口から直接聞くと 重みが違った。
「まだ活動停止中だ」
「知ってる。 じゃあ、停止中の部室で暇つぶしだ。お前と凛花と三人で、ダラダラしてればいい」
「ダラダラって 」
「再起動するまでの準備期間だろ。 お前、ノートに新しいルール書いてたんだろ? 凛花から聞いた」
凛花が 陽太に話していたのか。
「ver.2の原則 まだ途中だ」
「途中でいいよ。完成してから動くんじゃ遅い。 走りながら作れ」
走りながら作れ。 陽太らしい。計画を立ててから行動するのではなく、行動しながら計画を修正する。桐生先輩の方法論とは正反対だ。 だが、今はこっちのほうが正しいかもしれない。
「桐生先輩は いないぞ」
「知ってる。 桐生先輩がいないなら、お前がルールを作る。翻訳者がルール設計者を兼ねるのは大変だけど お前ならできるだろ。凛花もいる。俺もいる。三人で回せる」
「楽観的すぎないか」
「楽観はコミュ力の源泉だ。 舐めんな」
陽太は 窓の外を見た。電車が海沿いを走っている。窓の向こうに 朝凪の海が見える。夕暮れの光を受けて、オレンジ色に光っている。
「恒一」
「何だ」
「今日 奈緒に言えたのはさ。お前がいたからだよ」
「俺は 何もしてない。カフェの外で座ってただけだ」
「そう。何もしてない。 でも、いた。近くにいてくれた。 それだけで、逃げなかった」
場を作る ではなく、場にいる。翻訳する ではなく、隣に座る。設計する ではなく、存在する。
工作室のメソッドではない。 もっとシンプルなもの。人がそこにいるということ。それだけで 人は、もう少しだけ強くなれる。
「陽太。 お前は工作室的メソッドを使わなかった。全部自分で決めた。 だがそれは、工作室の原則に一番近いことだ」
「どういう意味?」
「選ぶのは本人だ。 工作室が場を作る。でも選ぶのは本人。お前は 場を自分で作って、自分で選んだ。工作室の外で、工作室の原則を 体現した」
陽太は 少し考えて。
「......照れるな。そういうこと言うなよ」
「事実だ」
「事実でも照れるっつーの」
電車が朝凪駅に着いた。ドアが開く。潮の匂い。 帰ってきた。
ホームに降りて、改札を出た。
「恒一。 明日、学校行っていいか」
「明日は日曜だ」
「じゃあ月曜。 工作室に行く。鍵、お前が持ってるんだろ」
「持ってる」
「じゃあ開けといてくれ。 昼に行く。メロンパン持って」
「メロンパン 」
「メロンパンのない工作室は工作室じゃないだろ。 常識だ」
常識。 陽太の常識は独特だ。だが 反論する気にはならなかった。
「分かった。 月曜、昼。工作室で」
「おう」
陽太が 手を上げた。じゃあな、のジェスチャー。いつもの。 久しぶりの。
「恒一。 ありがとな。今日」
「何もしてない って言っただろ」
「何もしてないのにありがとうって言ってんの。 受け取れよ」
俺は 少しだけ笑った。三度目 ではない。もう数えるのをやめた。陽太が戻ってきたら 笑う回数を数えるのが馬鹿らしくなるくらい、笑うことになるだろう。
陽太が歩いていった。大きな背中。広い肩幅。 屋上で萎んでいたあの姿が もうない。伸びをした背中。上を向いた顔。 天野陽太が、帰ってきた。
月曜日。九月一日。新学期初日。
朝凪高校に 生徒が戻ってきた。夏休みが終わった。
校門をくぐると 空気が変わっていた。掲示板の炎上は 夏休みの間に鎮火していた。凛花のモニタリングによれば、書き込みは八月後半から急減し、新しい燃料が投下されなかったため、自然消火した。
だが 消えたのは書き込みであって、記憶ではない。「恋路工作室」の名前が掲示板に晒された事実は 生徒の中に残っている。すれ違うときの視線。囁き声。 まだある。だが、断罪の熱は冷めていた。夏休みが 冷却期間として機能した。
昼休み。旧部室棟。
鍵を開けて、工作室に入った。一人で。 掃除した。埃を払い、窓を開け、風を通した。パイプ椅子を並べ直した。ホワイトボードを 拭いた。
五つの依頼の文字が消えた。桐生先輩の赤い文字が消えた。「忘却屋=影山透」が消えた。 全部、白紙に戻った。
白紙のホワイトボード。白紙のノート。 ここから始まる。
ドアがノックされた。
「入れ」
ドアが開いた。 陽太だった。手にメロンパンの袋を持って。
「よう。 久しぶりだな、この部屋」
「ああ」
陽太は 部屋を見回した。掃除されたスチールデスク。並べ直されたパイプ椅子。白紙のホワイトボード。
「きれいになったな。 全部消したのか」
「消した。 ver.2は、白紙から始める」
「いいね。 白紙は好きだ。何でも書ける」
陽太はいつもの椅子に座った。メロンパンの袋を開けた。 匂いが広がった。甘い、小麦の匂い。工作室に 命が戻った気がした。
もう一つ、ノックの音。
凛花だった。ノートを持って。 今日はノートを持っている。記録者モードだ。だが 目が笑っていた。
「陽太先輩。 おかえりなさい」
「おう。 ただいま」
三人が揃った。翻訳者と、実行者と、記録者。 桐生先輩はいない。ルール設計者は 俺が兼ねる。重い。だが 支えてくれる二人がいる。
凛花がノートを開いた。新しいページ。白い紙面。
「 恋路工作室 ver.2。活動準備記録。初日」
ペンが走る。 いつもの音。
陽太がメロンパンを齧った。 いつもの音。
窓の外で 海鳥が鳴いた。九月の海。夏の名残りの光が水面を照らしている。
三人だけの工作室。 まだ再起動してはいない。活動停止中だ。だが 人が揃った。場がある。白紙のホワイトボードがある。
もうすぐ。
凛花がノートに書き加えた。
「メンバー:高瀬恒一、天野陽太、柊凛花。 三名。欠員一名(桐生玲奈・団長辞任済)。ステータス:準備中」
ペンを止めた。パタン とノートを閉じた。
いつもの音。 帰ってきた音。
陽太が立ち上がった。ホワイトボードの前に歩み寄った。マーカーを取った。
「なあ恒一。 何か書いていいか?」
「何を書く」
陽太は にやっと笑った。
ホワイトボードの一番上に 大きな字で書いた。
「恋路工作室 ver.2 準備中」
その下に、もう一行。
「メロンパンは常備する(異論は認めない)」
俺は 笑った。凛花も 笑った。
くだらない。 だが、工作室にくだらなさが戻ってきた。笑い声が戻ってきた。メロンパンの匂いが戻ってきた。
凛花がスマホを取り出した。
「あ、先輩たち。 これ、見てください」
画面を見せた。 匿名掲示板。忘却屋の最新投稿。
「何か 変わり始めているんです。忘却屋の投稿のトーンが。 前とは違う」
俺は画面を見た。忘却屋の投稿。 確かに、文体が微妙に変わっていた。以前の挑発的な知性が 少しだけ、揺らいでいた。
「影山に 何かあったのか」
「分かりません。 でも、何かが動いています」
何かが動いている。 忘却屋の側でも。工作室の側でも。
夏が終わった。秋が始まる。 朝凪高校の恋路は、まだ終わっていない。
三人の工作室。白紙のホワイトボード。メロンパンの匂い。凛花のノートの音。 全部が揃った。
あとは 走り始めるだけだ。




