第22話 匿名の顔
第22話 匿名の顔
匿名には、いつも顔がある。 凛花がその顔を見つけた。
八月一日。夏休み初日。
朝九時に凛花からメッセージが来た。
『高瀬先輩。文体照合が完了しました。 工作室に来れますか。桐生先輩にも連絡済みです』
夏休み中の工作室は通常閉室だが、鍵は桐生先輩が持っている。非常時には使える。 今は非常時だ。
俺は家を出た。八月の朝。空が高い。蝉の声が壁のように降り注いでいる。海沿いの道を歩いて、朝凪高校へ向かった。夏休みの校舎は静かだった。部活動の生徒がまばらにいるだけで、廊下にはほとんど人がいない。
旧部室棟。二階の奥から二番目。 工作室のドアが開いていた。
中に入ると、凛花と桐生先輩がすでにいた。陽太は いなかった。連絡はしたが返信がない、と凛花が言った。
陽太の名前が掲示板に晒された件 あれから陽太はグループチャットでも発言が減っていた。「ちょっとだけ休むかもしれない」と言っていた。 今日は、休んでいるのだろう。無理に呼ぶべきではない。
三人で 始まった。
凛花がノートを開いた。いつもの几帳面な字 だが今日は、ページの余白にまで分析メモが書き込まれていた。データの密度が異常に高い。記者が本気を出したノートだった。
「報告します。 忘却屋の文体照合、最終結果です」
凛花はノートを俺と桐生先輩に見せた。
「過去六ヶ月の匿名掲示板の投稿データ、忘却屋のDMの文体、そして校内で確認できた生徒の文章サンプルを照合しました。対象は校内新聞への投稿、文芸部の部誌、作文コンテストの受賞作、SNSの長文投稿 利用可能な文章データを全て使いました」
凛花がページをめくった。
「忘却屋の文体的特徴。一、丁寧語と砕けた口調の混在。二、論理構造が整っている 主張・根拠・帰結の三段構成。三、挑発的だが知的。四、『 』ダッシュの多用。五、倫理的・哲学的な議論が可能。六、メタ認知 自分の行為を客体化して語ることができる」
「これらの特徴が一致する校内の人物を 文章サンプルとの照合で絞り込みました。候補は最終的に 一名です」
凛花が ノートの一行を指差した。赤ペンで二重線が引かれている。
「影山透。三年C組。 文体の一致率、九十二パーセント」
影山透。
その名前を 俺は知らなかった。三年C組。名前も顔も知らない。だが 凛花が「工作室に非常に近い人間」と言っていた。三年生で、文章力が高い人間。
俺は桐生先輩を見た。
桐生先輩の表情が 変わっていた。
いつもの鉄の表情ではなかった。目が わずかに見開かれ、唇が ほんの一瞬だけ動いた。声にならない言葉を飲み込むような動き。そしてすぐに 鉄の表情が戻った。だがその一瞬の揺れを、俺は見た。翻訳者の目が 久しぶりに、正確に機能した。
「桐生先輩。 影山透を知っていますか」
沈黙。
桐生先輩は 腕を組んだ。いつもの姿勢。だが、腕を組む動作がわずかに遅かった。考えているのではない。 言葉を選んでいる。覚悟を決めている。
「知っている」
声は 平坦だった。完璧に平坦だった。だがその平坦さの下に 何かが、重く沈んでいた。
「影山透。工作室の 最初のメンバーの一人だった」
凛花のペンが止まった。俺の呼吸が止まった。
「私と一緒に 工作室を作った」
共同創設者。
桐生先輩と 影山透が、二人で恋路工作室を作った。今、工作室を攻撃している可能性のある人間が かつては工作室の内側にいた。
「一年前に 離脱した」
「理由は」
「工作室の方法に 限界を感じた、と言っていた」
桐生先輩の声が わずかに、低くなった。
「影山は 私と同じポジションだった。翻訳者だ。人の感情を読み、言葉にする。 高瀬、お前と同じ能力を持っていた」
翻訳者。 俺と同じ。
「影山がいた頃の工作室は 今とは違った。私と影山の二人で始めた。影山は翻訳を担当し、私がルールを設計した。 お前と私の関係と、同じ構造だ」
同じ構造。 つまり、俺は影山の後任だ。影山が抜けた穴を 俺が埋めている。
「影山が離脱した理由を もう少し詳しく」
「......影山は、工作室の原則に疑問を持つようになった。『心は操作しない。場を作るだけ』 この原則では、本当に傷ついた人間を救えないと。場を作っても 選べない人間はどうなる。忘れられない記憶を抱えた人間は、どこに行けばいいのか。 影山は、そう言った」
「それで 忘却屋を」
「離脱した後に、忘却屋を始めた かどうかは、知らなかった。今日 凛花の報告で、初めて確認した」
桐生先輩は 嘘をついていない。翻訳者の目で見て 声のトーン、視線の動き、呼吸のリズム 全てが一致している。桐生先輩は、忘却屋の正体が影山であることを今日初めて知った。
「ただし 」
桐生先輩が付け加えた。
「影山が忘却屋をやっていることに驚いたかと聞かれれば 驚いていない。影山なら やりかねない」
やりかねない。 その言葉に、桐生先輩と影山の間に流れた一年分の距離が凝縮されていた。
「影山に 会います」
俺が言うと、桐生先輩が俺を見た。
「会ってどうする」
「確認する。忘却屋が影山であること。そして 掲示板のリークに影山が関与しているかどうか」
「影山が認めると思うか?」
「認める。 影山は隠さない人間だと、凛花の分析が示唆している。忘却屋のDMの文体 挑発的だが知的。自分の行為を客体化できる。 こういう人間は、問い詰められたら否定しない。自分の正しさを主張するタイプだ」
桐生先輩は 少し考えて、頷いた。
「行け。 ただし、一人で行くな。凛花を連れろ。記録者として」
「了解です」
「それと 影山を追い詰めるな。影山は敵ではない。 少なくとも、まだ」
少なくとも、まだ。 その留保に、桐生先輩の影山への複雑な感情が滲んでいた。
夏休みの朝凪高校は、部活動の生徒だけがまばらに活動していた。
俺と凛花は、影山透を探した。凛花が新聞部のファイルで確認した影山の情報 三年C組、帰宅部、文芸部に在籍歴あり(一年時に退部)。夏休み中に校内にいる保証はないが 凛花が追加で調べたところ、影山は図書室の自習スペースを頻繁に利用しているらしい。受験勉強だろう。三年生だ。
図書室に向かった。夏休みの図書室は冷房が効いていて、自習する生徒が数名いた。 その中に。
窓際の席。一人で座っている男子生徒。参考書を開いているが 目は参考書を見ていない。窓の外を見ている。海が見える席だ。
痩せ型。髪は少し長めで、前髪が額にかかっている。顔立ちは 整っている。だが、目つきが鋭い。穏やかさの裏に、何かを計算している目。眼鏡はかけていない。
凛花が小声で言った。
「影山透。 三年C組の名簿と一致します」
「行く」
俺は影山の席に歩み寄った。凛花が数歩後ろについてくる。ノートを手に。記録者の構えだ。
「影山先輩」
声をかけた。影山が ゆっくりと、窓から視線を移した。俺を見た。
目が 鋭かった。だが敵意ではなかった。値踏みしている。観察している。 翻訳者の目だ。俺と同じ 人を読む目。
「誰?」
声は低かった。だが どこか柔らかい。丁寧語ではない。ぶっきらぼうだが、棘がない。
「高瀬恒一。二年です。 恋路工作室の参謀を、やっています」
影山の目が 変わった。
ほんの一瞬 瞳孔が広がった。それから 口の端が、わずかに上がった。笑み ではない。もっと複雑なもの。認識。予想が当たった人間の表情。 影山は、俺が来ることを予想していた。
「工作室の 参謀か。玲奈の後輩?」
桐生先輩を 「玲奈」と呼んだ。苗字ではなく名前。共同創設者の間柄だ。
「はい」
「......そうか。俺の後釜ってわけだ」
後釜。 やはり、影山は翻訳者だった。桐生先輩が言った通り、俺と同じポジション。
「影山先輩。 場所を変えませんか。ここは図書室なので」
「いいよ。外に出よう」
影山は参考書を閉じた。鞄に入れもせず、机の上に置いたまま立ち上がった。 戻ってくる前提だ。長い話にはならないと踏んでいる。あるいは 長くさせるつもりがない。
校舎裏に出た。夏の日差しが強い。だが校舎の影に入れば 涼しい。コンクリートの壁に背を預けて、影山が俺を見た。
「で、何の用? 分かってるけど」
分かっている。 この人は、最初から全てを予測して待っていた。
「単刀直入に聞きます。 忘却屋は、あなたですか」
影山は 一拍も置かずに答えた。
「俺だよ」
隠さなかった。否定しなかった。 予想通りだ。この人は自分の行為を隠さない。隠す必要を感じていない。自分が正しいと思っているから。
「忘却屋は俺だ。匿名で 失恋した生徒に忘れ方を教えている。上書きストーリーを提供している。 それが何か?」
声は 穏やかだった。挑発ではない。事実の確認だ。「何か問題がありますか」という、対等な問いかけ。
「一つ聞かせてください。 なぜ忘却屋を始めたんですか」
「工作室を辞めたからだ」
影山は壁に背を預けたまま、空を見上げた。八月の空。青い。雲がない。
「工作室にいたとき 俺は翻訳者だった。お前と同じだ。人の感情を読んで、言葉にして、場を作る。 けど、限界があった」
「限界」
「場を作るだけじゃ 救えない人間がいる。告白の場を作った。告白は成功した。でも その後、うまくいかなかった。噂が立って、関係が壊れて。俺は翻訳者として全力でやった。でも ダメだった。工作室のメソッドでは 救えなかった」
影山の声が 少しだけ、沈んだ。
「工作室は綺麗事なんだよ。『心は操作しない。場を作るだけ。選ぶのは本人』 聞こえはいい。でもそれって、結局 選べなかった人間の面倒は見ないってことだろ?」
翻訳する。 影山の言葉の裏にあるもの。
影山は 個人的な失敗を経験している。工作室のメソッドで誰かを助けようとして、失敗した。その失敗が 影山の中で、工作室そのものへの不信に変わった。
「お前たちは『選ぶのは本人だ』って言う。 でも、選べなかった人間はどうなる? 告白して振られた人間は? 忘れたくても忘れられない人間は? 工作室は 場を作って終わりだ。その後のケアは ない」
「だから 忘却屋を」
「忘却は 最も合理的な救済だ。場を作っても救えない人間がいる。でも、忘れることならできる。痛い記憶を上書きして、無害な形に書き換えれば 少なくとも、夜眠れるようにはなる」
影山は 空から俺に視線を戻した。
「工作室は理想論だ。忘却屋は現実論だ。 どっちが正しいかなんて、俺には分からない。でも 工作室にできなかったことを、忘却屋はやっている。それは事実だ」
俺は 反論しようとした。工作室の原則は正しい。心を操作しないことが大事だ。撤退線を越えないことが大事だ。 反論の言葉は頭にある。
だが 反論が、口から出なかった。
影山の言葉に 一部、納得してしまう自分がいた。工作室のメソッドでは救えない人間がいる。それは 俺自身が経験した事実だ。水谷は泣いて帰った。佐々木の彼女は「信じられなかった自分が嫌だ」と言った。園田と瀬尾は 名前のない距離を見つけたが、それは完全な解決ではなかった。
完全救済はしない。 それは工作室の原則だ。だが、完全救済をしないことで 取りこぼされる人間がいる。影山は その取りこぼしを拾おうとしている。方法が間違っていたとしても 動機は、理解できた。
「影山先輩。 もう一つ聞かせてください」
「何だ」
「掲示板のリーク。嘘の依頼の件が掲示板に投稿された あれは、あなたですか」
影山の表情が 変わらなかった。一ミリも。
「違う」
「嘘じゃないですか」
「嘘じゃない。 あの投稿は俺じゃない。忘却屋のアカウントで書いたものでもない。文体照合すれば分かるだろう」
凛花が 後ろで、小さく頷いた。凛花の分析では、掲示板のリーク投稿は忘却屋の文体と一致しなかった。影山の言い分と 合致する。
「ただし 」
影山が付け加えた。
「あの情報が漏れた経路に、俺が間接的に関わっている可能性は 否定しない」
「間接的に」
「忘却屋の利用者の中に お前の幼馴染の周辺にいる人間がいた。及川の友人だ。及川の友人が 失恋の相談で忘却屋にDMを送ってきた。その中で、及川の彼女 宮前志帆が工作室に行ったという話を こぼした。俺はそれを 流さなかった。だが、忘却屋の利用者は複数いる。利用者同士の会話で 情報が横に広がった可能性はある」
情報の横漏れ。 忘却屋が直接リークしたのではなく、忘却屋の利用者ネットワークを通じて 情報が掲示板に到達した。忘却屋は意図的にリークしなかったが、忘却屋が蓄積した個人情報のネットワークが 情報漏洩のインフラになった。
「忘却屋の利用者に 個人情報を送らせている。その情報が 管理できていない」
「管理はしている。 だが、DMで得た情報を利用者が自分の口から漏らすことまでは 制御できない」
「それは 忘却屋の構造的な欠陥じゃないですか」
影山の目が 鋭くなった。
「欠陥? 工作室だって、依頼者の嘘を見抜けなかった。翻訳者が翻訳を拒否して、嘘の依頼を通した。そっちのほうがよほど 構造的な欠陥じゃないか」
刺さった。 正確に。
俺の失態を 影山は知っている。掲示板の投稿を見たのだろう。あるいは 忘却屋のネットワークで、もっと早くから知っていたのかもしれない。
「お前 高瀬恒一。翻訳者だろう? 俺と同じポジション。人の感情を読んで言葉にする。 なのに、幼馴染の嘘は読めなかった。なぜだ」
翻訳者が 翻訳者に問い詰められている。影山は俺の弱点を正確に把握している。元翻訳者だからだ。同じ能力を持っていた人間だから その能力の限界も知っている。
「自分の感情が絡むと 翻訳が機能しない。そうだろう? 俺も同じだった。工作室にいたとき 俺が翻訳できなかった相手が、一人だけいた。自分の感情が邪魔で 読めなかった」
影山の声が 一瞬だけ、揺れた。すぐに戻った。
「だから工作室を辞めた。翻訳者でいられなくなったから。 お前もいずれ同じことになる。翻訳者のフリは いつか限界が来る」
翻訳者のフリ。 影山は俺を「翻訳者のフリをしている人間」だと見ている。本物の翻訳者ではなく、翻訳者を演じている人間。
「 フリじゃない」
声が出た。低い声。 だが、揺れていなかった。
「俺は翻訳者だ。志帆の嘘を見抜けなかった。それは事実だ。翻訳者として失格だったのも事実だ。 だが、翻訳者であることをやめてない。まだ」
「まだ、か。 その『まだ』が、いつまで保つかな」
影山は壁から背を離した。
「一つだけ言っておく。 炎上はまだ序章だ」
「序章?」
「掲示板に一つ投稿が出ただけだ。まだ本格的には燃えていない。 夏休みが明けたとき、生徒が戻ってきたとき 本当の炎上が始まる。工作室が 本当に試されるのは、これからだ」
影山は 歩き始めた。校舎裏から、表に向かって。日陰から日向へ。夏の光が影山の背中に当たって、白いシャツが光る。
「影山先輩」
俺は 呼び止めた。
影山が振り返った。
「工作室にいたとき 翻訳できなかった相手。それは 誰ですか」
影山の表情が 固まった。一瞬。それから 口の端が上がった。笑みではない。苦笑に近い何か。
「それは まだ言わない。お前には関係ない。 少なくとも、今は」
影山は歩き去った。校舎の角を曲がって 消えた。
俺と凛花が 校舎裏に残された。蝉の声が降り注いでいる。八月の太陽がコンクリートを焼いている。影山がいた場所に 影だけが残っている。
工作室に戻った。桐生先輩がデスクに座っていた。 待っていた。
「会った」
「はい。 忘却屋は影山透です。本人が認めました」
桐生先輩は 表情を変えなかった。知っていた のではない。覚悟していたのだ。凛花の報告を聞いた時点で、この結論は見えていた。
「掲示板のリークは 影山の直接の投稿ではありません。ただし、忘却屋の利用者ネットワークを通じて情報が横に漏れた可能性がある。 影山は間接的な関与を否定していません」
「そうか」
「影山は 工作室を『綺麗事』だと言っていました。場を作るだけでは救えない人間がいる。忘却こそ最も合理的な救済だ、と」
桐生先輩は しばらく黙っていた。窓の外を見ていた。海が見える。八月の海。青い。眩しい。
「影山は 間違っていない」
俺は驚いた。
「間違っていない?」
「工作室のメソッドでは救えない人間がいる。 それは事実だ。私も知っている。水谷は泣いて帰った。佐々木の彼女は壊れた。 完全救済はしないと決めたとき、取りこぼす人間が出ることを 私は受け入れた」
桐生先輩の声が 静かだった。
「影山は その取りこぼしを拾おうとしている。動機は 理解できる。私と影山が一緒に工作室を作ったとき 影山は私より優しかった。人を救いたいという気持ちが 私より強かった。だから 救えなかったときの痛みも、大きかった」
優しかったから 壊れた。工作室を辞めた。忘却屋を始めた。 影山の動機は、優しさの変形だ。救えなかった痛みが 方法論を変えさせた。
「ただし 」
桐生先輩が俺を見た。
「方法が間違っている。忘却は 救済ではない。記憶を書き換えることは、人間を壊すことだ。影山はそれを分かっているはずだ。分かっていて やめられない。 それが、影山の問題だ」
分かっていてやめられない。 忘却屋自身が「忘れる側の暴力を知っている」と凛花に言っていた。知っていて 続けている。なぜか。
「影山に 翻訳できなかった相手がいた、と言っていました。自分の感情が絡んで読めなかった相手。 誰ですか」
桐生先輩の表情が 微かに、固くなった。
「......それは影山の話だ。私が答えることじゃない」
「桐生先輩は 知っているんですか」
「......知らない。推測はある。だが 確証はない」
嘘 ではないが、全てでもなかった。桐生先輩は何かを伏せている。影山との過去に 俺がまだ知らない層がある。
「桐生先輩。 影山は『炎上はまだ序章だ』と言っていました。夏休みが明けたとき、本当の炎上が始まると」
「......分かっている」
「対応は 決まりましたか。三つの選択肢 無視、謝罪、活動停止」
桐生先輩は 立ち上がった。ホワイトボードの前に歩み寄った。五つの依頼が並んでいる。三つの「了」。一つの「進行中」。一つの「取下げ(虚偽依頼)」。
「......まだ決めていない。 だが、一つだけ確実なことがある」
「何ですか」
「影山が正しかろうと 工作室は工作室の方法で応じる。忘却ではなく。操作ではなく。 場を作ることで」
桐生先輩がマーカーを取った。ホワイトボードの隅に 一行だけ書き加えた。
「忘却屋=影山透(元工作室メンバー) 確認済み」
赤マーカー。 記録の一行。だがその一行の重さは ホワイトボードに書かれた他の全ての文字を合わせたより、重かった。
帰り道。堤防沿いの県道。
八月の午後。太陽が照りつけている。海が 白く光っている。眩しい。日傘もなく歩いている。汗が背中を流れる。
影山透。忘却屋。工作室の元メンバー。桐生先輩の共同創設者。 俺の前任者。
同じ翻訳者。同じ能力。同じ限界。 自分の感情が絡むと翻訳できない。それを知っていた人間が 翻訳者をやめ、忘却屋を始めた。
「お前もいずれ同じことになる」 影山はそう言った。
ならないとは 言い切れなかった。志帆の嘘を見抜けなかった。翻訳者として失格した。影山と 同じ道を辿りかけている。
だが 違う。俺は翻訳者をやめていない。まだ。
影山は「翻訳者のフリ」だと言った。 フリではない。だが、本物かどうかは まだ証明していない。志帆の依頼で失敗した。翻訳者の信頼を 自分自身から、失った。
取り戻さなければならない。翻訳者としての機能を。 だがどうやって。
影山の問い。「選べなかった人間はどうなる? 忘れることすらできない人間は、どこに行けばいい?」
俺は 答えられなかった。今も答えられない。工作室の原則は 場を作ること。選ぶのは本人。だが選べなかった人間には 場も、選択肢も、意味を持たない。
忘却屋は その隙間に入り込んでいる。工作室の原則の外側に。取りこぼされた人間の 最後の受け皿として。
方法は間違っている。だが 存在する理由は、ある。
堤防の上で立ち止まった。海を見た。八月の海。夏の光。水面が銀色に輝いている。凪ではない。風がある。だが波は穏やかだ。 穏やかに見えて、底の流れは速い。
掲示板の炎上。影山の挑戦。陽太の離脱。桐生先輩の沈黙。 全部が同時に動いている。夏休みが明けたとき 何が起きるか。
影山が言った。「炎上はまだ序章だ。工作室が本当に試されるのは、これからだ」。
俺たちは 試される準備ができているのか。
翻訳者は 翻訳者に戻れるのか。
スマホが振動した。陽太からだった。 二日ぶりの連絡。
『恒一。 ごめん。ちょっとだけ休む。もう少ししたら戻る。 でも今は、少しだけ。ごめん』
俺は返信した。
『待ってる。 いつでもいい。焦るな』
送信して スマホを仕舞った。
四人でいた工作室が 三人になった。三人で 嵐に立ち向かわなければならない。翻訳者は機能不全。実行班長は離脱中。記録者と団長 凛花と桐生先輩だけが、まだ倒れていない。
だが 桐生先輩も。「私の責任だ」と繰り返している。あの言葉の裏にあるものを 俺はまだ翻訳していない。翻訳すべきかどうかも、分からない。
八月が始まった。夏休みが始まった。 だが、工作室に休みはなかった。
炎上は序章だ。嵐は これからだ。




