第21話 炎上前夜
第21話 炎上前夜
噂は、いつも同じ場所から生まれる。匿名の、暗い場所から。
夏休み前日 七月の終業式の朝だった。
教室に入った瞬間、空気が違った。佐々木の件のときと同じ いや、それ以上に重い。声を潜めているのに興奮が隠しきれない、あの独特のざわめき。スマホを見ている生徒が多い。画面を覗き込んで、顔を見合わせて、囁き合っている。
俺の名前が 聞こえた。
「恋路工作室」「嘘の依頼」「他校の女」 断片的に拾えるキーワードが、全て一つの方向を指していた。
スマホを取り出した。匿名掲示板 「裏板」を開いた。
トップページに、新しいスレッドがあった。今朝の投稿。
タイトル 『恋路工作室、嘘の依頼を受けてたらしい件について』
心臓が 止まった。
スレッドを開く。
『情報提供です。恋路工作室に他校の女子生徒が来て恋愛相談をした。でもその依頼は最初から嘘だった。彼氏に好きな人ができたって相談だったけど、実際は彼氏は普通に依頼者を好きだった。工作室はそれを見抜けずに受けちゃったらしい。ていうか参謀の高瀬ってやつの知り合いの女だったんだろ? 身内の嘘も見抜けない翻訳者(笑)』
全身の温度が 下がった。
書かれている。全部、書かれている。嘘の依頼のこと。志帆が他校の生徒であること。及川が志帆を好きだったこと。俺の名前まで。 精度が高い。断片的な噂ではなく、事実関係の骨格が正確に捉えられている。
スレッドの書き込みが 加速していた。
『マジで? 工作室って嘘も見抜けないの?』
『参謀って高瀬だろ。翻訳者(笑) 自称だったんだ』
『他校の女って誰だよ。身内贔屓?』
『そもそも工作室って非公認だろ。何の権限があって人の恋愛に首突っ込んでんの』
『断罪リストにも入ってたよな。ようやくネタが来た』
断罪リストの件と 結合した。以前から掲示板に「恋路工作室」の名前はターゲットとして載っていた。だが燃料がなかった。 今、燃料が投下された。嘘の依頼という、致命的な燃料が。
俺はスマホを握ったまま、教室の自分の席に座った。周囲の視線を感じた。目を合わせる生徒はいない。だが 見ている。俺を見ている。「高瀬」という名前がスレッドに書かれている。工作室の参謀。嘘の依頼を見抜けなかった男。
陽太が駆け寄ってきた。表情が 険しい。
「恒一。掲示板、見たか」
「見た」
「......誰が書いたんだ。これ」
「分からない」
「分からないって 知ってるのは俺たち四人と志帆ちゃんだけだろ? この情報。漏れるはずが 」
「漏れた。 もう広がってる」
陽太が唇を噛んだ。スマホの画面を見ている。 スレッドの書き込みが、リアルタイムで増えていく。五分で十件。十分で二十件。加速している。
「恒一」
「何だ」
「これ 止められるのか?」
「......分からない」
分からなかった。噂の上書きは 水谷のときに使った手法だ。だが今回は規模が違う。対象が工作室そのものだ。工作室が自分自身の噂を上書きするのは 矛盾だ。消防士が自分の家の火事に対応するようなものだ。
「放課後、工作室に集合だ。 桐生先輩に連絡する」
「おう」
終業式が終わった。成績表の配布。クラスの連絡事項。 俺は何一つ頭に入らなかった。スマホの中で、掲示板のスレッドが膨張し続けている。終業式の間だけで、書き込みは百件を超えていた。
正午。工作室。
全員が揃っていた。桐生先輩、陽太、凛花、俺。 夏休み前最後の日に、この四人がパイプ椅子に座っている。ホワイトボードには五つの依頼が並んでいる。三つの「了」。一つの「進行中」。そして一つの「取下げ(虚偽依頼)」。その最後の一行が 今、工作室の全てを脅かしている。
「状況を整理する」
桐生先輩が立ち上がった。ホワイトボードの横に立つ。声はいつも通り平坦だった。 だが、目の下に影がある。昨夜、眠れなかったのかもしれない。
「匿名掲示板に、工作室の虚偽依頼に関する情報が投稿された。今朝の七時十二分。投稿から六時間で書き込みは百件を超えている。 情報の精度は高い。依頼者が他校の生徒であること、依頼が虚偽だったこと、工作室がそれを見抜けなかったこと。全て正確だ」
「情報源は?」
凛花が聞いた。ノートにペンを走らせている。 だが今日のペンの速度は、いつもの二倍だった。記者モードだ。
「特定できていない。 柊、分析を」
「投稿のタイミングと情報精度から推測します」
凛花がノートを開いた。朝からモニタリングしていたデータが整理されている。
「まず この情報を知っていた人間は限られます。工作室メンバー四名。依頼者の宮前志帆さん。 あとは、宮前さんが誰かに話した場合、その相手」
「志帆が及川に話した可能性」
俺が言うと、凛花が頷いた。
「宮前さんは『及川くんにちゃんと話す』と言っていました。及川さんに何をどこまで話したかは不明です。ただし 投稿の情報精度が高すぎます。『彼氏に好きな人ができたという依頼だったが、実際は彼氏は依頼者を好きだった』 これは依頼の内部情報です。及川さんが知っていた場合、及川さん経由でこの精度の情報が出回る可能性はあります」
「及川は 隣町の学校だ。朝凪高校の掲示板に書くか?」
「直接は書かないと思います。ただし 及川さんが友人に話し、その友人が朝凪高校の生徒と繋がっていれば。あるいは SNSで拡散されれば」
もう一つの可能性があった。
「忘却屋」
俺が言った。全員が こちらを見た。
「忘却屋は工作室の動向を把握していた。工作室が手を引いた後に依頼者に接触する。工作室のターゲットリストが掲示板に出たとき、忘却屋が情報を握っている可能性を凛花が指摘していた。 忘却屋がこの情報を投稿した可能性は?」
「根拠は?」
桐生先輩の問い。
「根拠は弱い。状況証拠だけだ。ただ 忘却屋は工作室に敵意を持っている可能性がある。凛花の記事が出たとき、掲示板で『工作室はどうなんだ』という反応が出た。忘却屋がその流れを利用して 工作室の信用を落とす情報を投稿した」
「投稿の文体は分析できますか」
凛花が聞いた。 自分で自分に問いかけるように。
「します。 今朝の投稿と、忘却屋の過去の投稿を照合します。文体が一致するかどうかで、忘却屋が投稿者かどうか ある程度判断できます」
桐生先輩が頷いた。
「やれ。 ただし、情報源の特定は二の次だ。今の最優先は 炎上の拡大を止めること」
「止められますか」
陽太が聞いた。声が低い。いつもの軽さがない。
桐生先輩は しばらく黙っていた。ホワイトボードの「取下げ(虚偽依頼)」の文字を見つめている。
「事実関係を整理する。 嘘の依頼を受けた。これは事実だ。意図的ではなかったが、結果として工作室の審査が甘かった」
「俺の翻訳が 」
「黙れ、高瀬」
桐生先輩の声が 鋭かった。
「お前の翻訳が機能しなかったのは事実だ。だが 審査の最終判断は私が下した。依頼を保留にするか、却下するか その権限は私にあった。私が保留を選んだ。お前を泳がせた。 だからこれは、私の責任だ」
工作室が静まった。桐生先輩の声に 怒りはなかった。だが 決然とした重さがあった。自分の失敗を認める声。ルール設計者が 自分のルールで裁かれることを受け入れる声。
「嘘の依頼を受けた事実は 覆せない。弁明しても意味がない。佐々木のときに学んだだろう。弁明は燃料になる」
「じゃあどうするんですか」
陽太が食い下がった。
「対応は三つある」
桐生先輩がホワイトボードにマーカーを走らせた。
「一。無視する。掲示板の書き込みに一切反応せず、嵐が過ぎるのを待つ。 リスク:無視すれば『逃げた』と解釈される。断罪が長期化する」
「二。事実を認め、謝罪する。掲示板上で工作室の名前を出し、嘘の依頼を受けた事実を認め、審査体制の改善を約束する。 リスク:匿名掲示板に名前を出すこと自体が燃料になる。佐々木のケースと同じ」
「三。活動を停止する。工作室を一時閉鎖し、炎上が収まるまで沈黙する。 リスク:閉鎖は敗北と見なされる。再開が困難になる可能性」
三つの選択肢。 どれも、痛い。
「桐生先輩はどれを選びますか」
凛花が聞いた。ペンは止まっていた。
桐生先輩は マーカーを置いた。
「今日は決めない。 終業式が終わった。明日から夏休みだ。一週間 状況を見る。掲示板の書き込みの推移、校内の空気の変化、情報源の特定。 一週間後に判断する」
「一週間 放置するってことですか」
「放置ではない。観察だ。 噂の消費サイクルを、高瀬が一番よく知っているだろう」
俺は頷いた。噂の消費サイクル。水谷の件で分析した アクティブ寿命は二十四時間から四十八時間。ただし、新しい燃料が投下されなければ。
「夏休みに入れば、校内掲示板のアクティブユーザーは減る。通学がなくなるから 掲示板をチェックする頻度が落ちる。書き込みの加速も鈍化するはずだ。 ただし」
「ただし?」
「新しい燃料が 投下されなければ。追加情報、歪曲されたスクリーンショット、過去の依頼の詳細 そういうものが出てきたら、火は消えない」
「過去の依頼の詳細が漏れる可能性は」
「工作室内部からの漏洩がなければ ない。だが、忘却屋が工作室の内部事情をどこまで知っているかによる」
桐生先輩は 腕を組んだ。
「柊。忘却屋の文体照合 いつ終わる」
「明日中には。最終段階です」
「急げ。 忘却屋の正体が分かれば、情報源の特定にも繋がる」
「はい」
凛花がノートを閉じた。パタン。 今日のパタンは、いつもより 乾いた音だった。乾いて、硬い。記者が戦闘態勢に入る音。
全員が解散する前に 桐生先輩がもう一つ、言った。
「全員に確認する。 夏休み中も、工作室のグループチャットは維持する。掲示板のモニタリングは柊が担当。情報共有は即時。 そして」
桐生先輩は全員を見回した。
「この件について 外部に一切話すな。友人にも、家族にも。特に掲示板への書き込みは厳禁。匿名であっても 工作室の名前で反論するな。燃料を増やすだけだ」
「了解です」
凛花が即答した。陽太が頷いた。俺は 黙って頷いた。
「それと 志帆のことだ」
桐生先輩が俺を見た。
「宮前志帆に連絡しろ。掲示板に情報が出たことを伝えろ。 志帆の名前は出ていないが、『他校の女子生徒』として書かれている。特定される可能性がある。志帆が掲示板を見る前に お前から直接伝えろ」
「......了解です」
「志帆に 工作室への被害を最小化するために 及川への情報共有を最小限にするよう伝えろ。及川経由のリークを止める」
「及川は 志帆の彼氏です。志帆が及川に何を話すかは 志帆が決めることじゃ」
「それは分かっている。 だから命令ではなく、お願いだと伝えろ。工作室を守るためではなく 志帆自身を守るために」
桐生先輩の声が ほんのわずかだけ、柔らかくなった。ルール設計者が ルールの外側で、人を守ろうとしている。この人は 中学のときの失敗を繰り返さないために、常にルールで動いている。だが、ルールの隙間からときどき 人間が、滲み出る。
工作室を出た。旧部室棟の廊下。蛍光灯が点滅している。夏休み前の最後の日 校内は既に半分空になっていた。終業式が終わって、帰宅する生徒たちの声が遠くで聞こえる。
陽太が隣を歩いていた。
「恒一」
「何だ」
「......大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」
「だよな。 俺もだ」
陽太の声が 重かった。陽太にとって 匿名掲示板の炎上は、中学時代のトラウマに直結する。告白の手紙を晒されたこと。笑い者にされたこと。 あの経験を知っているから、工作室に入った。噂の暴力と戦うために。だが今 その暴力が、工作室自体に向けられている。
「恒一。 掲示板の書き込み、俺の名前も出てた」
「え?」
「『工作室のメンバー』って。実行班長は天野陽太、二年 って。名前 出てた」
俺は 足を止めた。陽太の名前が。工作室のメンバーとして、匿名掲示板に晒されている。
「......見たのか」
「見た。まだ大丈夫。 大丈夫だけど」
陽太は 笑った。いつもの笑い方。だが 目が。
「また なのかなって。中学のときと同じことが また来るのかなって」
目が 笑っていなかった。
「陽太 」
「大丈夫だって。俺はタフだから。メロンパンあれば生きていける。 でも、もしさ」
陽太が 立ち止まった。渡り廊下の真ん中。七月の日差しが、コンクリートの床に白い光を落としている。
「もし これ以上ひどくなったら。俺の中学のこととか晒されたら。 ちょっとだけ、休むかもしれない」
声が 小さかった。陽太の声がこんなに小さくなるのは 初めてだった。
「休んでいい。 いつでも」
「ありがとな。 でも、まだ休まない。まだ大丈夫。たぶん」
たぶん。 そのたぶんが、怖かった。
陽太は歩き始めた。俺もついていった。渡り廊下を抜けて本校舎に出る。校庭では、帰る生徒たちが笑い声を上げている。夏休みが始まる。 彼らにとっては、ただの長い休みの始まりだ。
俺たちにとっては 嵐の始まりだった。
その夜。自室。
志帆にメッセージを送った。
「志帆。 匿名掲示板に、依頼の件が投稿された。お前の名前は出ていないが、『他校の女子生徒』として書かれている。 気をつけてくれ」
返信は三分で来た。
『え......。 ごめん、恒一。私のせいだ。ごめんなさい。及川くんに 少しだけ話しちゃった。工作室に相談に行ったことだけ。嘘のことは言ってないけど......。及川くんが誰かに話した かも。ごめん。本当にごめん』
及川に話していた。 工作室に相談に行ったことを。嘘の内容までは言っていなくても、「志帆が工作室に行った」という事実は及川に伝わっている。及川がそれを友人に話し、友人が朝凪高校の掲示板に 。
経路が 見えた。志帆→及川→及川の友人→朝凪高校の生徒→掲示板。だが この経路だけでは、「依頼が嘘だった」という内部情報の精度は説明できない。「志帆が工作室に行った」だけなら 嘘の依頼だったという事実までは伝わらないはずだ。
誰かが 工作室の内部情報に近いレベルの精度で、掲示板に投稿している。及川経由の情報と、別の情報源が 合流している。
忘却屋。
頭の中で その名前が点滅していた。忘却屋は工作室を知っている。工作室の弱点を知っている。工作室が手を引いた場所に現れる。 そして、忘却屋は生徒の恋愛の詳細な個人情報を蓄積している。その中に 志帆の情報があるかもしれない。水谷の件のとき、忘却屋は水谷にDMを送っていた。今回も 志帆にアプローチしていた可能性はないか?
推測だ。根拠は薄い。 だが、構造的に辻褄が合う。
志帆に追加メッセージを送った。
「志帆。 一つ聞く。忘却屋っていうアカウントから、DMが来たことはないか?」
一分。二分。 五分。
『......あるよ。掲示板で見つけた。工作室に行く前 及川くんのことで悩んでたとき。「忘れ方、教えます」って。でもDMは返さなかった。恒一に相談しようって決めてたから』
DMは返さなかった。 だが、忘却屋は志帆にDMを送っていた。志帆が工作室に相談していたことを 忘却屋は知っている可能性がある。掲示板上で志帆の書き込みを追跡していれば 志帆が工作室に接触したタイミングを掴める。
そして 及川経由で漏れた「志帆が工作室に行った」という情報と、忘却屋が持っている工作室の内部構造の知識を 組み合わせれば。
「嘘の依頼を受けた」という精度の情報が 構成できる。
全部 推測だ。だが パズルのピースが、嫌な形で嵌まりつつある。
スマホを閉じた。
ベッドに横になった。天井を見た。 真っ白な天井。夏の夜。窓の外で蝉が鳴いている。
俺が志帆の嘘を見抜いていれば。
いや 見抜きたくなかっただけだ。翻訳者が翻訳を拒否した結果が これだ。工作室に嘘の依頼が入り込み、それが掲示板に漏れ、断罪ゲームの燃料になった。陽太の名前が晒された。桐生先輩が「私の責任」と言った。
全部 俺のせいだ。
翻訳者が翻訳者として機能していれば 志帆の最初の依頼で嘘を見抜けた。「忘れさせてほしい」の裏にある本音を その場で翻訳できた。依頼を却下できた。工作室を 守れた。
守れなかった。自分の感情を制御できなかったから。志帆に対する 名前のない感情が、翻訳者の目を塞いだ。
自責。
そしてもう一つ 怒り。忘却屋への怒り。匿名で人の傷口に触り、情報を蓄積し、工作室を攻撃する。 いや、攻撃しているかどうかはまだ確定していない。推測だ。だが 怒りは推測では止まらない。怒りは 構造を飛び越えて、感情のまま走る。
翻訳者は 怒りで動いてはいけない。怒りは設計を歪める。 だが今、翻訳者は機能していない。翻訳者でない俺が残っていて、その俺は 怒っている。
忘却屋。 お前は何者だ。何がしたい。工作室を壊したいのか。俺たちが救えなかった人間を拾いたいだけなのか。それとも もっと個人的な動機があるのか。
凛花の文体照合が 明日、完了する。忘却屋の正体が 分かるかもしれない。
分かったとき 何が変わるのか。変わるのか。変わらないのか。
スマホがもう一度振動した。凛花からだった。
『高瀬先輩。緊急の追加報告です。 今朝の掲示板投稿の文体を分析しました。忘却屋の過去の投稿との一致率は 低いです。投稿者は忘却屋ではない可能性が高い。 ただし、投稿に含まれる情報の精度は、外部からの推測では到達できないレベルです。工作室の内部、またはそれに非常に近い人間からのリークだと判断します』
内部、またはそれに非常に近い人間。
忘却屋ではない。 なら、誰が。
四人のメンバーは 自分自身を除けば 信頼できる。桐生先輩が工作室を自ら攻撃する理由はない。陽太も凛花も。志帆は 嘘はついたが、工作室を攻撃する動機はない。
「それに非常に近い人間」 工作室の内部事情を知っている、メンバーでない人間。
そんな人間がいるのか?
いる。
桐生先輩が言っていた。工作室は 桐生先輩が「作った」。だが一人で作ったとは言っていない。工作室の歴史の中に 俺が知らない過去がある。
工作室の 元メンバー。
凛花に返信した。
『忘却屋の文体照合の最終結果 明日出るんだよな。一つ確認してくれ。忘却屋の正体が校内の生徒だとして 工作室の過去のメンバーと一致する可能性はあるか』
返信は すぐに来た。
『高瀬先輩。 それ、私も考えていました。忘却屋の文体照合の候補に 一人だけ、気になる名前があります。三年生。文章力が非常に高い。 明日、詳細を報告します』
三年生。文章力が高い。工作室に非常に近い人間。 元メンバー?
桐生先輩に聞くべきだ。工作室の過去を。 だが今日は、桐生先輩に聞ける状態ではない。今日の桐生先輩は 「私の責任だ」と言って、自分を裁いている最中だ。
明日。 夏休み初日。凛花の文体照合が完了する日。忘却屋の正体が 判明する日。
掲示板の炎上は まだ序章だ。夏休みに入れば書き込みは減るかもしれない。だが 忘却屋の正体が分かったとき、新たな火種が生まれる可能性がある。
嵐は これから本格化する。
目を閉じた。 眠れるとは思えなかった。蝉が鳴いている。夏の夜。七月の最後の日。明日から 八月。夏休み。
朝凪高校の恋路工作室は 創設以来、最大の危機を迎えていた。
そしてその危機の震源には 翻訳者の翻訳拒否があった。俺が 自分の感情から逃げた結果が 全てをここに導いた。
明日 凛花が、匿名の顔を見つける。忘却屋の仮面の裏に 誰がいるのか。
その名前を聞いたとき 何が起きるのか。
まだ、分からなかった。




