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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第22話 匿名の顔

 第22話 匿名の顔


 匿名には、いつも顔がある。


 凛花がその顔を見つけた。


 炎上投稿の翌日。水曜日の朝。俺は眠れなかった夜を引きずったまま、工作室に向かった。廊下を歩くとき、すれ違う生徒の視線が変わっている気がした。気のせいかもしれない。しかし翻訳者の耳には、囁き声の断片が聞こえた。「工作室」「嘘」「マジで」。空気が刺さる。


 工作室のドアを開けると、凛花がすでにいた。


 いつもの記録ノートではなく、取材メモのほうを広げている。ページがびっしり埋まっている。赤いペンで丸をつけた箇所がある。凛花の目が鋭い。記録者の目ではない。獲物を追い詰めた狩人の目だ。


「先輩。見つけました」


 凛花の声は低く、しかし確かだった。震えていない。確信がある声だ。


「忘却屋の正体ですか」


「はい」


 凛花がノートのページを俺に向けた。文体分析の結果が並んでいる。読点の位置、文末処理、語彙の頻度分布、論理構成のパターン。凛花はこれらを忘却屋の投稿と校内の既知の文章で照合していた。


「忘却屋のDM、掲示板の投稿、そして去年の冬に別アカウントで書かれた三件の投稿。全部を合わせて文体の特徴量を抽出しました。読点の打ち方、接続詞の選択、文末の『ます』と『です』の使い分けパターン。これらの特徴量を校内の文章データベースと照合した結果」


 凛花がページをめくった。赤い丸がついた名前がある。


「一致率九十二パーセント。影山透。三年C組」


 影山透。


 その名前を聞いた瞬間、脳の奥で引っかかっていたものが外れた。パズルの最後のピースが嵌まった。あの文体。冷静で構造的で、感情を排した書き方。どこかで聞いたことがある、と思っていた。聞いたのではない。読んだのだ。影山の名前を見たことがある。凛花の記録ノートの中に。


「影山透。工作室の元メンバー」


 凛花が言った。凛花自身も驚いている。新聞部のファイルから引き出した情報だ。


「凛花。元メンバーというのは」


「新聞部で去年の部活動記録を調べたんです。恋路工作室の活動開始時、メンバーリストに影山透の名前がありました。工作室の創設メンバーの一人です。去年の春に活動開始して、秋に離脱しています」


 創設メンバー。玲奈と一緒に工作室を作った人間。俺が転入する前にいた人間。


 あの文体に見覚えがあったのは当然だ。工作室の記録に影山の文章が残っていたのだろう。凛花のノートの端に、影山が書いた何かの断片が挟まっていたのかもしれない。翻訳者の脳は、無意識にその文体を記憶していた。


「玲奈先輩に報告しないと」


「ああ。呼んでくれ」


 凛花がスマホでメッセージを送った。十分後、玲奈が工作室に来た。


 玲奈の足音がいつもと違った。速い。桐生玲奈は常に一定の速度で歩く。速くも遅くもない。制御された歩行。しかし今日は速かった。凛花のメッセージの内容を見て、急いで来たのだ。


 ドアが開いた。玲奈が入ってきた。


「報告しろ」


 凛花が文体分析の結果を説明した。忘却屋=影山透。一致率九十二パーセント。校内の三年C組。工作室の元メンバー。


 玲奈の表情が変わった。


 初めて見た変化だった。桐生玲奈の顔が、一瞬だけ崩れた。一ミリの変化ではない。目が見開かれ、唇が引き結ばれ、腕を組む手の力が強くなった。感情が表面に出た。制御の壁を突き破って。


「影山」


 玲奈の声が低かった。


「影山透。工作室の最初のメンバーの一人だった。私と一緒に工作室を作った」


 凛花がペンを止めた。俺も黙った。玲奈が過去を語っている。しかも感情が混ざっている。昨日までの「情報共有」の玲奈とは違う。


「去年の春、工作室を立ち上げたとき、メンバーは三人だった。私と、天野と、影山だ。影山は頭が良かった。論理的で、冷静で、心理学の知識があった。工作室のルールを作るとき、影山が一番多くのアイデアを出した」


 影山がルール設計に関わっていた。「心は操作しない」という原則は玲奈が作ったと思っていたが、影山も関わっていたのか。


「しかし影山は、秋に離脱した。理由は『工作室の方法に限界を感じた』と。場を作るだけでは足りない。もっと直接的に救う方法があるはずだ、と」


「直接的に救う方法」


「記憶を書き換えること。忘却させること。影山はそれを提案した。私は拒否した。心を操作することになるからだ。影山は反論した。『操作と支援の境界線は曖昧だ。玲奈が引いた線は恣意的だ』と」


 影山と玲奈が対立した。工作室の原則を巡って。心は操作しない、という線引きを、影山は認めなかった。


「影山は出ていった。何も言わずに。メンバーリストから名前を消して、工作室に来なくなった。その後、影山が何をしていたかは知らなかった。──今まで」


 忘却屋。影山は工作室を出た後、匿名で忘却屋を始めた。工作室が「場を作る」ことしかしないなら、自分は「忘却を売る」。工作室の対極に位置するサービスを、匿名で運営していた。


「玲奈先輩。影山は工作室の内部情報を持っています。元メンバーだから。昨日の掲示板の投稿も、影山が流した可能性が高い」


「分かっている」


 玲奈の声は平坦に戻っていた。しかし完全には戻りきっていない。薄い震えが残っている。影山の名前が、玲奈の制御を揺らしている。


「影山と話す必要がある」


 俺が言った。


「翻訳者として。影山の言葉を直接聞く。忘却屋としてではなく、影山透として」


 玲奈が俺を見た。目が鋭い。しかし反対はしなかった。


「行け。ただし一つ条件がある。影山を攻撃するな。対峙はしても、対決はするな。影山は敵じゃない。元メンバーだ」


 元メンバー。敵ではなく。


 玲奈の言葉の裏を翻訳する。影山に対する感情は、怒りだけではない。裏切りの痛みと、かつての仲間への残存した信頼が混ざっている。


「了解です」


 放課後。


 影山透を探した。三年C組。しかし教室にはいなかった。クラスメイトに聞くと「屋上にいるんじゃないかな」と教えてくれた。影山は放課後によく屋上にいるらしい。一人で。


 屋上への階段を上った。ドアを開けた。


 七月の午後。屋上は光に満ちていた。コンクリートの床が太陽の熱を吸って、空気が揺らめいている。フェンスの向こうに朝凪の海が見える。青い海。夏の海。波が光っている。


 屋上の隅に、男子が一人座っていた。


 フェンスに背を預けて、文庫本を読んでいる。細身。眼鏡をかけている。髪が少し長い。制服の襟元が緩い。目つきが鋭い。いや、鋭いというより正確だ。相手を測っている目。


 玲奈と似た目だ。


 影山透。三年。工作室の元メンバー。忘却屋の運営者。


 俺が屋上に出ると、影山は文庫本から顔を上げた。俺を見た。一秒。二秒。それから、文庫本を閉じた。


「高瀬恒一、だろう。工作室の参謀。翻訳者」


 知っている。俺のことを。当然だ。忘却屋として工作室を観察していたのなら、メンバーの名前くらい把握しているだろう。


「影山透。三年C組。忘却屋の運営者」


 俺も名乗り返した。同じ形式で。対等であることを示す。


 影山が小さく笑った。笑い方に癖がある。口角が左だけ上がる。非対称な笑み。


「凛花が見つけたのか。文体分析で」


「ああ。一致率九十二パーセントだそうだ」


「優秀な記録者だな。新聞部と掛け持ちだと聞いていたが、分析力もあるとは」


 影山は凛花を評価している。しかしその評価には余裕がある。見つかることを想定していた余裕。バレても構わないという態度。


「否定しないんだな」


「隠す意味がない。忘却屋は俺だ。匿名でやっていたのは、サービスに集中するためだ。正体がバレたからといって、方法論が変わるわけじゃない」


 冷静だ。文体通りの冷静さ。感情を排した、論理的な態度。しかし翻訳者の目で見れば、その冷静さの下に温度がある。低い温度。怒りではない。もっと静かな何か。


「聞きたいことがある」


 俺は影山の向かいに立った。フェンス越しに海が見える。二人の間に、三メートルほどの距離がある。翻訳者の距離ではない。対峙者の距離だ。


「昨日の掲示板の投稿。工作室が嘘の依頼を受けたという投稿。あれはお前が書いたのか」


 影山が目を細めた。眼鏡の奥の目が、俺を射抜いている。


「書いたとしたら」


「なぜだ」


「工作室の限界を見せたかった」


 影山の声は平坦だった。しかしその平坦さに力がある。確信の力だ。


「工作室は場を作るだけだと言う。選ぶのは本人だと言う。心は操作しないと言う。綺麗事だ。嘘の依頼を見抜けなかった時点で、お前たちの方法論には穴がある。依頼者を信じるという前提が甘い」


 反論したかった。しかし反論できなかった。影山の指摘は正確だ。嘘の依頼を見抜けなかった。それは工作室の方法論の穴だ。翻訳者が嘘を検出できなかった。個人的な感情がノイズになったからだが、構造的にも、依頼者の証言を精査する仕組みが不十分だった。


「お前たちは場を作る。でも場を作るだけでは、救えない人間がいる。選べない人間がいる。忘れたくても忘れられない人間がいる。そういう人間に、お前たちは『自分で決めろ』と言うのか」


 影山が立ち上がった。文庫本をポケットにしまった。フェンスに手をかけて、海を見た。


「忘却こそ最も合理的な救済だ。痛みの原因を消す。記憶を書き換える。元の感情をリセットする。工作室が『場を作る』のは、痛みを抱えたまま歩けと言っているのと同じだ。それは支援ではなく放置だ」


 影山の主張は一貫していた。忘却屋の方法論。記憶の上書き。痛みの消去。工作室とは正反対のアプローチ。しかし影山の言葉には、ただの理論以上のものが込められている。


 翻訳者の耳が拾った。影山の声のトーン。「選べなかった人間はどうなる」と言ったときの、声の奥にあるかすかな揺れ。影山は理論を語っているが、理論の裏に個人的な経験がある。


「お前自身はどうなんだ、影山」


 俺は聞いた。


「忘れたいのか。お前自身が」


 影山の目が動いた。一瞬だけ。翻訳者の質問が急所に触れた。


「俺の話はしていない」


「してる。お前の方法論は、お前自身の経験から来ている。忘却を売っているのは、お前自身が忘れたい何かを持っているからだ。他人の忘却を手伝うことで、自分の忘れられない何かから目を逸らしている」


 影山の表情が一瞬だけ固まった。制御の壁にひびが入った。しかしすぐに修復された。影山も感情の制御が上手い人間だ。玲奈と同じ。しかし制御の方法が違う。玲奈はルールで制御する。影山は論理で制御する。


「翻訳者らしい分析だな。しかし的外れだ」


「的外れかどうかは、お前の顔が教えてくれた。今、一瞬だけ目が泳いだ。嘘をつく人間の目だ」


 陽太に教わった技術だ。目の泳ぎ方で嘘を見抜く。影山の目は右に泳いだ。回避の目だ。


 影山が黙った。五秒。長い五秒。海風が屋上を吹き抜けた。影山の髪が揺れた。


「お前たちは場を作る。俺は忘却を売る。方向が違うだけだ。どちらが正しいかは、結果で決まる」


「結果」


「工作室は嘘の依頼を見抜けなかった。炎上している。信用は落ちている。一方、忘却屋の利用者は増えている。満足度も高い。どちらが結果を出しているか、明白だろう」


 数字の上では影山が正しい。忘却屋の利用者は増えている。工作室は炎上している。しかし数字だけでは測れないものがある。


「忘却屋の利用者の顔を見たか」


 俺は聞いた。


「凛花が取材した利用者は、『楽になった』と言っていた。でも顔が空虚だった。楽になったんじゃない。感じなくなっただけだ。お前が売っているのは治療じゃなく麻酔だ。麻酔は切れる」


 影山の目がわずかに揺れた。二度目の揺れ。翻訳者の言葉が影山の制御を突いている。


「痛みを消すことと、痛みと共に生きることは違う。消した痛みは消えたのではなく沈んでいるだけだ。いつか浮上する。そのとき、利用者には痛みに対処する力が残っていない。お前が奪ったからだ」


「奪ったわけではない。選んだのは利用者自身だ」


「『選ぶのは本人』。それは工作室の原則だ。お前が捨てた原則を、都合のいいときだけ使うな」


 影山の口角が下がった。非対称の笑みが消えた。


 沈黙が落ちた。屋上に夏の光が降っている。二人の間の三メートルが、海峡のように広い。同じ学校にいて、同じ問題を扱って、しかし方法が正反対の二人が向き合っている。


「工作室は綺麗事だ」


 影山が言った。声が低い。


「場を作る。選ぶのは本人。完全救済はしない。全部正しい。正しいが、正しいだけだ。正しさでは救えない人間がいる。正しさを貫いた結果、目の前の人間が壊れることがある。お前たちの正しさは、ときに残酷だ」


 反論が喉まで来て、止まった。


 影山の言葉の翻訳。表の意味は「工作室の方法論への批判」。裏の意味は「自分が工作室にいたときに、正しさでは救えなかった誰かがいた」。


 影山が工作室を出た理由。「方法に限界を感じた」と玲奈は言っていた。しかし翻訳者の耳には別の言葉が聞こえている。限界を感じたのではなく、工作室の方法では救えなかった人間がいたのだ。その経験が影山を変えた。忘却のほうが合理的だと信じるようになった。


「お前が工作室にいたときに、何があった」


 影山の目がまっすぐ俺を見た。


「それは今は話さない」


「いつか話すのか」


「話す必要があれば。ただし、今日の話で一つだけ分かったことがある」


「何だ」


「お前は、俺より不器用だ。翻訳者のくせに、自分の感情は翻訳できない。嘘の依頼を見抜けなかったのも、幼馴染の女に対する感情がノイズになったからだろう」


 知っている。影山は志帆の件も把握していた。工作室の内部情報を監視していたのだから、当然だ。


「お前と俺は似ている。他人の恋を扱うことで、自分の恋から逃げている。方法が違うだけだ。俺は忘却で逃げる。お前は翻訳で逃げる」


 翻訳者と忘却屋。方法が違うだけで、構造が同じ。凛花が「書くことで距離を取る」と自覚したように、俺は翻訳で距離を取っている。影山は忘却で距離を取っている。


「玲奈はルールで距離を取る。天野は笑顔で距離を取る。柊は記録で距離を取る。お前は翻訳で距離を取る。──みんな、自分の恋から逃げてる。工作室は逃げ場だ。他人の恋を扱うことで、自分の恋と向き合わなくて済む場所」


 影山の分析は鋭かった。痛いほど鋭い。工作室のメンバー全員の防衛機制を一言ずつで解体した。翻訳者の俺でも、ここまで正確に言語化できたか分からない。


「だから俺は出た。工作室にいると、自分の問題から逃げ続けることになる。だから忘却屋を作った。逃げるのではなく、消す。自分の痛みを消すために、他人の忘却を手伝う。方法として工作室より誠実だ。少なくとも、逃げているとは思っていない」


「消すのは逃げよりマシか」


「マシだ。逃げは終わらない。消すことは終わる」


「本当に終わるのか。消したものは消えたのか。お前自身の痛みは消えたのか」


 影山が黙った。三度目の沈黙。屋上の空気が熱い。セミが鳴いている。遠くの海が光っている。


「消えていない」


 影山の声が、初めて小さくなった。


「消えていない。俺の痛みは消えていない。利用者の痛みは消せても、自分の痛みは消せない。医者が自分を手術できないのと同じだ」


 影山の声に、制御が消えていた。冷静さの壁が崩れた場所から、生の感情が漏れている。低い声。かすかに震えている。


 忘却屋の運営者は、忘却できない痛みを抱えている。他人の忘却を売りながら、自分は忘れられない。


 その矛盾が、影山透という人間の核心だった。


「影山」


「何だ」


「お前の痛みは、いつか聞く。今日じゃなくていい。でもいつか。翻訳者として」


 影山が俺を見た。目が揺れていない。三回目の揺れの後、影山の目は静かになっていた。嵐の後の凪のような静けさ。


「翻訳者として、か。お前に翻訳されるのは嫌じゃないかもしれないな。少なくとも、玲奈に分析されるよりはマシだ」


 それは冗談だったのか。分からない。しかし影山の口調が少しだけ柔らかくなった。


「一つだけ言っておく」


 影山がフェンスから手を離した。俺に背を向けて、屋上のドアに歩いていく。


「炎上はまだ序章だ。あの投稿は俺が最初のきっかけを作った。しかし炎上が広がったのは、校内にもともと工作室への不満が溜まっていたからだ。俺がいなくても、遅かれ早かれ燃えていた」


 影山が振り返った。


「工作室が本当に試されるのは、これからだ。炎上が終わった後、工作室がまだ立っていられるかどうか。お前たちの正しさが、正しさだけで生き残れるかどうか」


 影山がドアを開けた。


「それと、高瀬」


「何だ」


「お前の幼馴染の件。嘘の依頼を掲示板に流したことは、俺の判断でやった。個人的な恨みではない。工作室の審査の甘さを示す事実として。だが、お前の幼馴染を傷つける意図はなかった。──それだけは、信じろ」


 影山がドアの向こうに消えた。足音が階段を降りていく。遠ざかっていく。


 俺は屋上に一人残された。


 夏の光が全身に降っている。暑い。しかし体の芯は冷えている。影山の言葉が、翻訳者の胸に刻まれている。


「工作室は逃げ場だ。他人の恋を扱うことで、自分の恋と向き合わなくて済む場所」


 痛い指摘だった。しかし全面的に正しいわけでもない。工作室は逃げ場かもしれない。しかし逃げ場は居場所でもある。逃げることと、居場所を持つことは矛盾しない。


 影山は工作室を出て忘却屋を作った。「逃げるのではなく消す」と言った。しかし影山自身の痛みは消えていない。消せなかった。忘却のプロが、自分の忘却だけはできない。


 翻訳者が自分を翻訳できないのと同じ構造だ。


 俺と影山は似ている。影山が言った通り。方法が違うだけで、構造が同じ。他人の恋を扱うことで自分から逃げている。


 しかし決定的な違いがある。俺は工作室にいる。影山は一人だ。俺には玲奈がいる。陽太がいる。凛花がいる。影山には誰もいない。匿名の壁の向こうで、一人で忘却を売っている。


 孤独が、影山の最大の弱点だ。そして、最大の痛みの原因かもしれない。


 工作室に戻った。


 玲奈と凛花がいた。陽太がまだ来ていない。俺は影山との対話を報告した。全部を。影山が忘却屋であることを認めたこと。掲示板の投稿を認めたこと。影山の主張。工作室への批判。「炎上はまだ序章だ」という言葉。


 玲奈は黙って全部聞いた。腕を組んだまま。表情は戻っていた。冷静な桐生玲奈。しかし俺には分かる。影山の名前が出るたびに、玲奈の腕の力が微妙に変わることを。


「影山の分析は正確だ」


 玲奈が言った。


「工作室の審査が甘かったのは事実。嘘の依頼を見抜けなかったのも事実。影山がそれを指摘したのは、元メンバーとして工作室の弱点を知っているからだ」


「先輩は影山のことを恨んでいますか」


 凛花が聞いた。


 玲奈は三秒黙った。


「恨んでいない。影山は間違った方法で正しいことを指摘した。工作室に弱点がある。それは事実だ。事実を指摘した人間を恨むのは、事実から逃げることだ」


 玲奈は論理で感情を処理する。恨みという感情を「事実の指摘」に変換して受け入れる。桐生玲奈の強さはここにある。しかし翻訳者の目で見れば、玲奈の声のわずかな揺れが「恨んでいない」の裏にある複雑な感情を物語っている。


 恨んでいないが、痛い。


「影山が言ったことで一つ、気になるのは」


「何だ」


「『炎上はまだ序章だ』。影山がきっかけを作ったが、炎上が広がったのは校内に工作室への不満が溜まっていたから。つまり、これからもっと大きくなる可能性がある」


 玲奈の目が鋭くなった。


「対策を考える。しかし今日はもう遅い。明日、全メンバーで緊急会議を開く」


「了解です」


 帰り道。


 海沿いの道を歩いた。七月の夕暮れ。空がオレンジ色に燃えている。海面が金色だ。夏の夕焼けは鮮やかで、目が痛い。


 影山の言葉が頭の中を回っている。


「工作室が本当に試されるのは、これからだ」


 これから。炎上はまだ序章。本番がある。掲示板の攻撃が激化する。工作室の信用がさらに削られる。メンバーが精神的に追い詰められる。


 陽太のことが心配だった。陽太には中学時代のトラウマがある。告白を晒された経験。SNSでの晒し上げは、陽太にとって最も辛い攻撃パターンだ。炎上が続けば、陽太の傷が再び開く可能性がある。


 凛花のことも心配だ。凛花は記録者だが、忘却屋の正体を暴いた張本人でもある。影山が凛花を標的にする可能性は低いが、ゼロではない。


 玲奈。玲奈は冷静だ。しかし影山は玲奈の共同創設者だった。かつての仲間に裏切られた。いや、裏切りではない。方向性の違い。しかし感情的には裏切りに近い。


 そして俺。嘘の依頼を見抜けなかった翻訳者。志帆に対する感情が未整理のまま。辞書はまだ白紙。


 工作室は四方向から圧力を受けている。外からの炎上。影山からの攻撃。内部の脆弱性。そして翻訳者の個人的な問題。


 全部が同時に動いている。


 しかし工作室は工作室だ。場を作る組織。問題を設計する組織。撤退線を引く組織。


 炎上は問題だ。問題なら、設計できる。設計できるなら、対処できる。


 翻訳者は翻訳する。影山の言葉を翻訳し、炎上の構造を翻訳し、工作室が生き残る道を翻訳する。


 家に着いた。自室の机に向かった。ノートを開いた。白紙のページ。


 影山透。忘却屋。工作室の元メンバー。共同創設者。


 その名前をノートに書いた。影山の文字を書くのは初めてだ。しかしその文字は、工作室の歴史にずっと刻まれていた。俺が知らなかっただけで。


 影山の痛み。忘却できない痛み。それが何なのかはまだ分からない。しかしいつか翻訳する。影山が話す気になったとき。


 まずは炎上を乗り越える。工作室を守る。その後で、影山と向き合う。


 夕暮れが終わって、夜が来た。七月の夜。窓の外にセミの声。


 明日、炎上が本格化するかもしれない。影山が「序章」と言った以上、続きがある。


 工作室は、嵐の中に立っている。


 嵐の中で、翻訳者は翻訳を続ける。それだけが、今の俺にできることだ。

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