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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第21話 炎上前夜

 第21話 炎上前夜


 噂は、いつも同じ場所から生まれる。


 匿名の、暗い場所から。


 志帆との公園での会話から二日が経った火曜日の朝。七月に入って空気が変わっている。梅雨が明けた。空は青い。光が強い。朝凪高校の廊下を歩く生徒たちの服装が軽くなっている。夏服。半袖。肌が露出して、空気が明るい。


 しかし俺の中は暗かった。


 玲奈に言われた「自分の辞書を開け。できなければ参謀を降りてもらう」という最後通牒が、ずっと胸の底に沈んでいる。志帆との会話の反響が消えない。「見てくれなかった」「いつか辞書開けてよ」。何度も何度も、頭の中で再生される。


 そんな朝だった。


 教室に入ると、空気がいつもと違った。クラスメイトが何人か、スマホを見ながら小声で話している。笑っているのではない。眉をひそめている。何かが起きている。


 陽太が俺の席に来た。顔が硬い。天野陽太が朝から硬い顔をしているのは、よくない兆候だ。


「恒一。見たか」


「何を」


 陽太がスマホの画面を見せた。匿名掲示板。朝凪高校の掲示板だ。


 スレッドのタイトルが目に飛び込んできた。


「恋路工作室、嘘の依頼を受けてたらしい」


 血の気が引いた。


 スレッドを開いた。投稿は今朝の六時台。登校前の時間帯。


「恋路工作室って結局、恋愛ごっこの自己満でしょ。他校の女が来て、嘘の相談したって。しかも工作室のやつ、嘘を見抜けなかったらしい。翻訳者とか言ってるくせに、依頼者の嘘も分からないとか笑える」


 コメントがすでに二十件以上ついていた。


「マジかよ。工作室って信用できないじゃん」「嘘の依頼も受けるとか、まともな組織じゃない」「前から怪しいと思ってた」「断罪リストに名前あったよね。やっぱりな」


 断罪ゲームのターゲットリスト。あそこに載っていた工作室の名前が、今度は本格的な攻撃のターゲットになっている。


 俺のスマホを持つ手が震えた。


「情報源は」


 声が掠れていた。


「分からん。でも投稿の内容が具体的すぎる。『他校の女』『嘘の相談』『翻訳者が見抜けなかった』。外部の人間が書いたにしては、工作室の内部情報に詳しすぎる」


 陽太の分析は正確だ。この投稿は、工作室の内情を知っている人間が書いている。あるいは、内情を知っている人間から情報を得た人間が書いている。


 志帆が及川に話した。及川が誰かに話した。その誰かが掲示板に書いた。


 そのルートが一番自然だ。しかし確証はない。


 別の可能性もある。公園のカフェで俺と志帆が話しているところを、誰かが見ていた可能性。朝凪高校の生徒が、あのカフェにいた。俺と他校の制服の女子が深刻な顔で向かい合っているのを見て、工作室の噂と結びつけた。


 あるいは。


 もう一つの可能性。


 忘却屋。


 忘却屋は工作室を観察している。凛花が忘却屋にDMを送った時点で、工作室が忘却屋を追跡していることは知られている。忘却屋が先手を打って、工作室の弱点を掲示板に流した。工作室の信用を落とすことで、忘却屋の相対的な地位を上げる。


 推測だ。しかし翻訳者の直感は、最後の可能性を指している。投稿の文体。冷静で構造的。感情的な罵倒ではなく、事実ベースの批判。あの文体には見覚えがある。忘却屋の文体と重なる部分がある。


「工作室に行こう」


 俺は立ち上がった。


 放課後を待てなかった。昼休み。工作室に全員が集まった。


 凛花がスマホを操作しながら報告した。


「掲示板の投稿を分析しました。六時十二分に最初の投稿。その後、二十分以内に同調コメントが五件。コメントの中に、明らかに準備されたものがあります」


「準備されたものとは」


「最初の投稿に対して、すぐに具体的な追加情報を書き込んでいるアカウントがあります。『前から怪しいと思ってた』という内容の投稿が六時十五分。最初の投稿からわずか三分後。三分では掲示板を見て反応するには速すぎます。最初の投稿を知った上で、準備していた可能性が高いです」


 仕込みがある。最初の投稿者と、追加情報を書いた人間は連動している。自作自演か、少なくとも事前に打ち合わせている。


「凛花。投稿の文体は」


「分析中です。最初の投稿は比較的冷静な文体。断罪ゲームの典型的な煽り投稿とは違います。感情的な罵倒が少なく、事実ベースの批判に近い」


 俺が感じた違和感と同じだ。凛花も文体の異質さに気づいている。


「忘却屋の文体と比較できるか」


「やってみます。ただ、匿名掲示板の投稿と忘却屋のDMでは文脈が違うので、直接比較は難しいです。でも特徴的な言い回しがあれば一致を確認できます」


 玲奈が腕を組んでホワイトボードの前に立った。いつもの定位置だ。しかし今日の玲奈は、いつもの冷静さの奥に硬さがある。鉄のような硬さ。


「事実関係を整理する」


 玲奈がマーカーを取った。ホワイトボードに書き始める。


「一。嘘の依頼を受けた。これは事実だ。志帆の依頼は嘘であり、工作室はそれを見抜けなかった」


 マーカーの音がホワイトボードに響いた。乾いた音。事実を書く音。


「二。嘘の依頼を受けた情報が掲示板に漏洩した。情報源は不明」


「三。投稿には工作室の内部情報が含まれている。外部からのリークか、内部からのリークか、現時点では判別できない」


 三つの事実がホワイトボードに並んだ。シンプルだが、致命的だ。


「対応方針を決める」


 玲奈の声が低くなった。


「まず、嘘の依頼を受けた事実は覆せない。弁明しても佐々木の件と同じで逆効果になる。否定すればするほど炎上する」


「上書きメソッドは使えますか」


 凛花が聞いた。水谷の件で使った手法だ。新しい話題で古い噂を押し流す。


「使えない。今回は噂ではなく事実だからだ。水谷の件は誤解を上書きした。しかし今回は事実を上書きすることになる。事実を上書きするのは隠蔽だ。工作室は隠蔽をしない」


 玲奈は正しい。嘘の依頼を受けたのは事実であり、その事実を隠すことは工作室の原則に反する。


「じゃあどうするんですか」


 陽太が聞いた。声に焦りがある。天野陽太が焦るのは珍しい。事態の深刻さを、コミュ力お化けの直感が正確に測っている。


「事実を認める」


 玲奈が言った。


「嘘の依頼を受けた。見抜けなかった。それは工作室の審査が甘かった結果だ」


 全員が黙った。


「これは私の責任だ。団長として、依頼の受理判断を最終的に行ったのは私だ。志帆の依頼を条件付きとはいえ受理した。審査が不十分だった」


「違います」


 俺は声を出した。声が大きかった。自分でも驚いた。


「責任は俺です。俺が志帆の嘘を見抜けなかった。翻訳者として、依頼者の言葉の裏を読むのが仕事だ。その仕事を怠った。志帆に対して客観性を保てなかった。俺の個人的な感情が翻訳の精度を落とした。工作室の危機を招いたのは、俺です」


 工作室が静まった。窓の外でセミが鳴いている。七月の音。しかし工作室の空気は冬のように冷たい。


「高瀬。責任の所在は後で議論する。今は対応が先だ」


 玲奈が切り替えた。感情を切って、論理に戻る。桐生玲奈の強さはここにある。


「掲示板の投稿に対して、工作室として公式な対応はしない。匿名の攻撃に匿名で応戦しても泥仕合になるだけだ。工作室は実名で活動している。実名の人間が匿名の攻撃に応じるのは、非対称な戦いだ」


「じゃあ黙っているんですか」


「黙る。ただし、黙りながら内部を固める。依頼の審査プロセスを見直す。今後、匿名依頼は受けない。他校からの依頼は原則として受けない。依頼者の本人確認を強化する」


 制度的な再発防止策。玲奈らしいアプローチだ。感情ではなくルールで対処する。


「もう一つ」


 玲奈の目が鋭くなった。


「情報源を特定する。誰が嘘の依頼の事実を掲示板に流したのか。志帆からのルートか、外部からの観察か、あるいは」


 玲奈の目が一瞬だけ遠くを見た。


「忘却屋か」


 俺と同じ仮説を持っている。玲奈も忘却屋を疑っている。


「柊。忘却屋の文体照合を急いでくれ。掲示板の今朝の投稿と、忘却屋の過去の投稿を比較してほしい」


「はい。今日中にやります」


 凛花がノートを閉じて立ち上がった。新聞部室に向かうのだろう。記録者が分析者に変わる。凛花の中で、ジャーナリストの火が燃えている。忘却屋の正体に近づいている。その自覚が、凛花の足を速くしている。


 解散。午後の授業がある。しかし授業に集中できる状態ではなかった。


 教室に座っていると、スマホが何度も震えた。掲示板の通知ではない。クラスのLINEグループだ。工作室のスレッドが話題になっている。「工作室やばくね」「嘘の依頼受けてたらしい」「翻訳者って嘘も見抜けないのかよ」。


 笑い声は聞こえない。代わりに、失望と嘲笑が文字になって流れてくる。信用が崩れる音は、意外と静かだ。大きな音は立てない。水が砂に染み込むように、じわじわと広がっていく。


 俺は教室の窓から外を見た。七月の空。青い空。白い雲。セミの声。夏の、あまりにも平和な風景。その平和な風景の中で、工作室の信用が溶けている。


 放課後。


 工作室に戻った。一人だった。玲奈は生徒会の用事で遅れる。陽太は部活の助っ人。凛花は新聞部室で文体照合。


 一人の工作室。ホワイトボードには午前中に玲奈が書いた三つの事実がまだ残っている。消されていない。消す必要がないからだ。事実は消えない。


 椅子に座って天井を見た。


 俺の責任だ。


 志帆の嘘を見抜けなかった。いや、見抜けなかったのではない。見抜きたくなかったのだ。志帆の言葉に対して、翻訳者として当然やるべき精査を意図的に怠った。志帆が嘘をついている可能性を、翻訳者の直感は最初から拾っていた。しかし俺はその直感を無視した。


 なぜ無視した。


 志帆の嘘を暴いたら、志帆が傷つくからか。違う。志帆の嘘を暴いたら、俺自身が向き合わなければならない感情があるからだ。志帆がなぜ嘘をついてまで俺のところに来たのか。その理由を翻訳したら、俺自身の辞書を開かなければならなくなるからだ。


 翻訳者が翻訳を拒否した。その結果が、工作室の炎上だ。


 個人の感情が、組織を危険に晒した。


 玲奈が恐れていたことだ。「翻訳者は自分の感情を翻訳に混ぜるな」。最初の日に言われた言葉。あの言葉を守れなかった。守れなかったから、今がある。


 スマホが震えた。志帆からのLINE。


『恒一。掲示板のこと、聞いた。及川くんに話したの、私だけど、及川くんは誰にも言ってないって。本当に。掲示板に書いたのは及川くんじゃない。私、どうすればいい』


 志帆は及川に話した。しかし及川は誰にも言っていないと主張している。だとすれば、情報源は志帆でも及川でもない。


 別のルートだ。


 カフェで俺と志帆が話しているところを見た人間がいたのか。あるいは、工作室の内部から漏れたのか。いや、工作室のメンバーが漏らすことは考えられない。玲奈も陽太も凛花も、そんなことはしない。


 残る可能性は。


 忘却屋。


 忘却屋は工作室を監視していた。凛花がDMを送った時点で、忘却屋は工作室が自分を追っていることを知った。忘却屋が先制攻撃として、工作室の弱点を掲示板に流した。


 しかし忘却屋はどうやって「嘘の依頼」の事実を知ったのか。工作室の内部情報だ。外部から知りうる情報ではない。


 志帆が工作室に来たこと自体は、校内の誰かが目撃している可能性がある。他校の制服の女子が旧部室棟に入っていく姿を見た生徒がいたかもしれない。しかし「嘘の依頼」という具体的な情報は、目撃だけでは分からない。


 誰かが、どこかのタイミングで、情報に接触している。


 翻訳者の脳がフル回転する。今度は停止しない。志帆の件ではない。工作室の危機だ。個人的な感情ではなく、組織の問題だ。翻訳者の脳は、個人的な感情が絡まない問題なら正常に動く。


 情報の流れを逆算する。


 掲示板の投稿者は、「嘘の依頼」の事実を知っている。この事実を知っている人間は限られている。工作室メンバー四人。志帆。及川。この六人だ。


 メンバーは除外。志帆と及川も、直接掲示板に書く動機がない。


 となると、六人のうちの誰かから間接的に情報が流れた。あるいは、六人以外の七人目が存在する。


 七人目。


 工作室のドアは旧部室棟の奥にある。しかし工作室の会話は、ドアの外に漏れることがある。旧部室棟は古い建物で、壁が薄い。隣の部室から声が聞こえることがある。


 志帆が工作室に来た日。あの日、隣の部室に誰かがいた可能性。工作室のドアの外で、会話を聞いていた可能性。


 推測だ。しかし推測しか手段がない。


 志帆にLINEを返した。


『落ち着け。お前のせいじゃない。情報源は別にある可能性がある。今、調査中だ。何もしなくていい。掲示板は見るな』


 送信。


 志帆からの返信は「分かった。ごめんね」だった。また「ごめんね」。志帆は謝ることしかできない。しかし謝る必要はない。悪いのは志帆ではなく、嘘を見抜けなかった俺だ。


 夕方。凛花からメッセージが来た。


『先輩。文体照合、進捗があります。今朝の掲示板の投稿と、忘却屋の過去の投稿を比較しました。完全一致とは言えませんが、特徴的な点があります』


『何だ』


『読点の打ち方です。今朝の投稿者は、「結局、」「しかも、」のように副詞の後に読点を打つ癖があります。これは一般的な書き方ですが、忘却屋のDMにも同じパターンがあります。さらに、文末の「でしょ」「らしい」の使い方が一致しています』


 文体の一致。完全ではないが、傾向が合っている。


『決定的な証拠にはなりませんが、忘却屋と今朝の投稿者が同一人物である可能性は排除できません。さらに調べます』


『頼む。急いでくれ。炎上が広がる前に情報源を特定したい』


『もう一つ。忘却屋の過去の投稿と、校内の既知の文章との照合も進めています。先日言った去年の冬の投稿三件と、今朝の投稿を合わせて分析すると、書き手の像が見えてきました』


『どんな像だ』


『校内の生徒。文章力が高い。心理学の知識がある。冷静で論理的。そして、工作室の内部情報にアクセスできる距離にいる人間。つまり、工作室に近い場所にいる──もしくは、いた──人間です』


 工作室に近い場所にいた人間。


 その言葉で、脳の奥に沈んでいた記憶が浮上した。


 忘却屋の文体。あの冷静で構造的な書き方。どこかで見たことがある。いや、聞いたことがある。あの論理の組み方を。


 浮上しかけた記憶が、もう少しで形を結ぶ。手を伸ばせば届く場所にある。しかしまだ掴めない。


『凛花。もう少しだけ時間をくれ。俺の側でも心当たりを探る』


『分かりました。明日、工作室で報告します。先輩も、何か思い出したら教えてください』


 スマホを置いた。


 夜の自室。窓の外は暗い。七月の夜は蒸し暑い。エアコンをつけても、体の芯が冷えない。


 工作室が炎上している。嘘の依頼の事実が掲示板に流れた。投稿者は不明だが、忘却屋の可能性がある。凛花の文体照合が進んでいる。忘却屋の正体に近づいている。


 同時に、掲示板では工作室への批判が加速している。午後の間にコメントが百件を超えた。「嘘の依頼も受ける組織」「翻訳者(笑)」「恋愛ごっこの自己満」。匿名の言葉が束になって、工作室の信用を削っている。


 過去の依頼のスクリーンショットらしきものも投稿されていた。歪曲されたもの。工作室が依頼者の個人情報を扱っていること、断罪ゲームへの対応で生徒のプライバシーに介入したこと、忘却屋を敵視していること。全部が事実のかけらを含んでいるが、文脈を歪めて悪意に染められている。


 事実を歪曲する。それは忘却屋の手法だ。記憶を上書きストーリーで書き換える。事実を別の文脈に置き換えて、印象を変える。同じ技術を、工作室の批判に使っている。


 だとすれば、忘却屋は工作室を潰しにかかっている。


 なぜだ。工作室と忘却屋は競合ではないと玲奈は判断していた。しかし忘却屋にとっては、工作室は障害なのかもしれない。工作室が存在する限り、忘却屋の方法論が「唯一の選択肢」にはならない。工作室という対抗勢力を排除すれば、恋の問題を抱えた生徒は忘却屋に流れるしかなくなる。


 独占。忘却屋は市場の独占を狙っている。


 推測だ。しかし論理的に矛盾しない。


 もう一つ、気になることがある。忘却屋が工作室の内部情報を持っているなら、忘却屋は工作室の近くにいる人間だ。凛花の分析と一致する。「工作室に近い場所にいる、もしくはいた人間」。


 いた、という過去形が気になった。今は工作室のメンバーではないが、かつて工作室に近い場所にいた人間。


 工作室は今年できた組織だ。メンバーは四人。俺、玲奈、陽太、凛花。しかし工作室の存在を知っていて、内部に詳しくて、文章力があって、心理学の知識がある人間。


 そんな人間が校内にいるのか。


 いる。


 翻訳者の記憶が、ようやく一つの像を結びかけた。あの文体。あの論理の組み方。冷静で構造的で、感情を排して事実を積み上げる書き方。


 どこかで聞いた。読んだのではなく、聞いた。声で。誰かの声で。


 しかしまだ、名前が出てこない。像がぼやけている。あと少しで焦点が合う。あと一つ、情報が足りない。


 凛花の明日の報告が鍵だ。凛花の文体照合が、忘却屋の輪郭を最終的に浮かび上がらせる。


 明日。全部が動く。


 ベッドに横になった。目を閉じた。


 志帆の涙。玲奈の「参謀を降りてもらう」。掲示板の「翻訳者(笑)」。全部が七月の夜に重なっている。


 翻訳者は追い詰められている。依頼者の嘘を見抜けなかった失態。工作室の炎上。忘却屋の攻撃。自分自身の感情の未整理。


 全方位からの圧力。逃げ場がない。


 しかし翻訳者は翻訳する。それが仕事だ。感情がノイズでも、精度が落ちていても、翻訳は続ける。やめたら、翻訳者ではなくなる。翻訳者でなくなったら、俺には何が残る。


 何も残らない。翻訳者であることが、俺の存在理由だ。工作室の参謀であることが、俺の居場所だ。


 その居場所が今、燃えかけている。


 明日、凛花の報告を聞く。忘却屋の正体に近づく。同時に、掲示板の炎上に対応する。玲奈が方針を出す。工作室が生き残れるかどうか。


 翻訳者は翻訳する。自分自身の翻訳は後回しにしてでも、工作室を守る翻訳をする。


 それが今の俺にできる、唯一のことだった。


 七月の夜。セミが鳴いている。夏の音。生命力のある、うるさい音。あの音だけが、沈黙の中で生きている。


 眠りに落ちる直前、一つの名前が頭をかすめた。忘却屋の正体。あの文体の持ち主。校内の人間。工作室に近い場所にいた人間。


 名前はまだ出てこない。しかし像はほぼ完成している。あと一枚のピースが嵌まれば、顔が見える。


 凛花が、そのピースを明日持ってくる。


 翻訳者は眠った。短い、浅い眠りだった。

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