第14話 忘却屋の顧客リスト
第14話 忘却屋の顧客リスト
忘却屋の利用者が増えている。
恋の忘れ方が、商品になっていた。
園田と瀬尾の依頼がひと段落して数日。断罪ゲームのターゲットリストに工作室の名前が載っている件は玲奈に報告済みだ。玲奈は「把握した。しかし今は動かない。火がつく前に騒ぐと逆に目立つ」と判断した。冷静だ。いつも通り。
工作室は平穏を装いながら、水面下で別の問題が膨らんでいた。
忘却屋だ。
凛花が新聞部の取材を兼ねて、忘却屋の利用者を追跡していた。追跡と言っても尾行ではない。掲示板上で忘却屋に好意的なコメントを書いている生徒を特定し、さりげなく話を聞く。新聞部の記者という立場は、こういうとき便利だ。「匿名文化について記事を書いている」という名目で、誰にでも声をかけられる。
放課後。工作室に凛花が来た。取材メモのノートを脇に抱えている。いつもの記録ノートとは別のほうだ。
「報告します」
凛花が俺の向かいの椅子に座った。ノートを開く。びっしりと文字が詰まっている。凛花の取材メモは新聞部の記事用と工作室の情報収集用が入り混じっていて、本人にしか区別がつかない。
「忘却屋の利用者を三人特定しました。全員、失恋後に忘却屋にDMで相談しています」
「三人。思ったより多いな」
「はい。しかも全員、利用開始から二週間以内です。口コミで広がっています。匿名掲示板の忘却屋の投稿にいいねがついて、そこからDMに流れるパターンです」
マーケティングとしては効率的だ。無料で相談に乗り、利用者の満足度で口コミを発生させる。匿名のサービスだから紹介にリスクがない。利用者は自分が利用していることを公言する必要がなく、匿名のまま「忘却屋良かったよ」と書き込める。低コスト高効率の拡散モデル。
「利用者に話を聞けたのか」
「一人だけ、直接話せました。二年の女子です。名前は伏せます」
凛花がページをめくった。
「この子は二ヶ月前に彼氏と別れて、忘却屋に相談しました。忘却屋が提供した『上書きストーリー』を毎日読んでいたそうです」
「上書きストーリーって、具体的には何だ」
「利用者が忘却屋に思い出を詳しく書いて送ると、忘却屋がその思い出を元に別のストーリーを作ってくれるそうです。たとえば、元カレとの楽しいデートの記憶を送ると、同じ場所で別のシチュエーションが展開される短い物語が返ってくる。その物語を繰り返し読むことで、本物の記憶と物語が混ざって、痛みが薄まるという仕組みです」
記憶の上書き。物語で記憶を塗り替える。心理学のナラティブ・セラピーに似ている。しかしナラティブ・セラピーは専門家が管理する。忘却屋は匿名の素人だ。
「その子、楽になったって言ってたか」
「言ってました。『楽になった』って。でも」
凛花のペンが止まった。
「表情が変だったんです。楽になったと言いながら、目が笑ってなくて。水谷さんのときに見た表情に似てました。言葉は前向きなのに、顔が空っぽっていうか」
空虚。
楽になったのではなく、感情が鈍くなっている。痛みが消えたのではなく、痛みを感じる回路が麻痺している。忘却屋の上書きストーリーは鎮痛剤だ。痛みの原因を治療しているのではなく、痛みを感じなくしているだけだ。鎮痛剤は便利だが、効果が切れれば痛みは戻る。しかも長期間使い続けると、痛みへの耐性が下がる。
「恒一。忘却屋のやり方、本当に大丈夫なのか」
陽太が窓際から口を出した。珍しく真面目な声だ。
「大丈夫じゃない」
俺は断言した。
「思い出を書き換えるのは、記憶の改竄だ。最初は楽になる。痛い記憶がぼやけて、別の物語に置き換わる。しかし本物の記憶は消えない。脳の奥に沈んでいるだけだ。上書きストーリーと本物の記憶が混ざったとき、自分がどっちを生きているか分からなくなる」
「つまり、副作用があるってことか」
「ある。しかも匿名だから、副作用が出ても忘却屋に連絡できない。利用者が壊れても、忘却屋はそれを知らない。知る仕組みがない」
工作室は依頼者と対面する。名前を知り、顔を見て、声を聞く。依頼が終わった後も、校内で顔を合わせる。フィードバックのループがある。忘却屋にはそれがない。匿名の相手に匿名でサービスを提供し、結果を追跡しない。片道の支援だ。
玲奈が口を開いた。
「忘却屋の方法論に問題があることは分かった。しかし工作室が介入する根拠はまだない」
「根拠がないって、利用者が空虚な顔してるのに」
「空虚な顔は主観だ。利用者本人が『楽になった』と言っている以上、工作室が外から『お前は楽になっていない』と断定する権利はない」
正論だ。しかし正論が苦い。玲奈はいつもそうだ。感情で動くことを許さない。
「工作室は依頼を受けて動く組織だ。忘却屋の利用者から依頼が来たら対応する。来ていない段階で動くのは越権だ」
「でも予防は」
「予防と監視は別だ。監視は続ける。予防的介入はしない。柊、引き続き情報収集を頼む。利用者の変化があれば報告しろ」
「はい」
凛花がノートに書き留めた。対応方針、監視継続。忘却屋への予防的介入なし。
会議が終わった後、凛花が工作室に残っていた。
俺が鞄を持って帰ろうとすると、凛花が声をかけた。
「先輩。一つ、やっていいことがありますか」
「何だ」
「忘却屋に直接DMを送りたいんです」
予想していなかった。凛花は慎重な人間だ。記録者として距離を取ることを信条にしている。その凛花が、忘却屋と直接接触しようとしている。
「目的は」
「取材です。新聞部として。匿名文化の記事を書いている名目で、忘却屋の運営者にインタビューを申し込みます。受けてくれるかは分かりませんが」
「玲奈に許可取ったか」
「まだです。先輩に先に相談したかったので」
凛花の目がまっすぐ俺を見ていた。記録者の目ではない。もっと熱い何かが灯っている。ジャーナリストの目だ。真実を追いたいという衝動。
「凛花。お前の中で、忘却屋はただの取材対象じゃないだろう」
凛花の肩が微かに揺れた。図星だ。
「取材という名目は嘘じゃないです。記事は本当に書きます。でも、正直に言うと、忘却屋の正体が気になって仕方がないんです。あの文体。あの論理の組み方。校内の人間だと思うんです。しかも、かなり頭がいい人」
凛花は分析を進めていた。記録者は情報を蓄積し、パターンを見出す。忘却屋の投稿の文体、語彙の選択、論理構造。凛花はそれらを校内の既知の文章と照合しようとしている。
「DMを送ること自体は問題ないと思う。ただし、深入りするな。忘却屋が何者かは分からない。善意の人間かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「分かっています。深入りはしません。まずは接触だけです」
「玲奈にも報告しろ」
「はい」
凛花がノートを閉じて立ち上がった。新聞部室に向かうのだろう。取材の準備をするために。
翌日。
凛花が忘却屋にDMを送った。
内容は凛花が考えた。俺は確認しただけだ。
『はじめまして。朝凪高校新聞部の者です。校内の匿名文化について記事を書いています。忘却屋さんの活動について取材させていただけませんか。匿名のままで構いません。掲示板上のやりとりでもDMでも、形式は問いません』
丁寧で、距離感が適切な文面だ。凛花らしい。圧をかけず、しかし逃げ道を塞がない。取材という名目を前面に出しつつ、忘却屋の匿名性を尊重している。
返信は半日で来た。
凛花がスマホの画面を見せてくれた。
『取材はお断りします。僕の活動は匿名であることに意味があります。記事にされると利用者に影響が出る可能性があるので』
想定内の返答だ。匿名のサービスが取材を受けるメリットはない。
しかし返信には続きがあった。
『ただ、もしあなた自身に忘れたい恋があるなら、相談に乗ります。新聞部の取材ではなく、一人の利用者として。どうですか』
凛花がスマホを持つ手が、微かに強張った。
「この返信、どう読みますか」
凛花が俺を見た。
「翻訳してくれ、と」
「ああ」
俺は画面の文字を読み直した。
表面上は親切な誘いだ。取材は断るが、相談なら受ける。利用者を増やそうとしている。マーケティング。
しかし裏を読むと、別のものが見える。忘却屋は凛花のことを知っている。「あなた自身に忘れたい恋があるなら」。この一文は、凛花の個人的な領域に踏み込もうとしている。取材を断りながら、凛花の弱みを探ろうとしている。情報を渡す側ではなく、引き出す側に立とうとしている。
「防御反応だ」
「防御」
「取材を受けると自分の情報が外に出る。それを避けるために、逆に凛花の情報を引き出そうとしている。情報の非対称を作ろうとしている。凛花が忘却屋を知る量より、忘却屋が凛花を知る量のほうを増やそうとしている」
「つまり、警戒されてる」
「警戒されてる。お前のDMで、忘却屋は工作室が自分を追っていることに気づいた可能性がある」
凛花の表情が引き締まった。記録者の顔に、ジャーナリストの緊張が混ざっている。
「返信、どうしますか」
「忘れたい恋がある、なんて返すなよ。嘘になる」
「嘘じゃなかったら」
凛花の声が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「忘れたい恋は、ないです。でも」
凛花が視線を落とした。ノートの表紙を指でなぞっている。
「忘れたい記憶なら、あります。書くことでしか距離を取れない自分のことを。観察者でいないと不安な自分のことを。当事者になるのが怖い自分のことを。そういうのを、忘れたいって思うことは、あります」
凛花の声は静かだった。しかしその静けさの中に、正直な痛みが滲んでいた。
記録者・柊凛花。書くことで世界と距離を取る少女。観察者でいることが防衛機制になっている。他人の感情を記録することで、自分の感情から目を逸らしている。忘却屋に共感しかけている。忘れたいものがある人間として。
「凛花。返信は保留にしろ。忘却屋のペースに乗るな」
「はい。分かっています」
凛花はスマホをポケットにしまった。しかし目は少しだけ潤んでいた。記録者が自分の内面に触れた瞬間の、微かな揺れ。
俺は凛花の頭を叩く代わりに、声のトーンだけ変えた。
「お前が忘れたいと思ってることは、忘れなくていいぞ」
凛花が顔を上げた。
「書くことでしか距離を取れないのは、弱さじゃない。お前の武器だ。忘却屋に共感するのは自然なことだ。でも共感と同調は違う。お前は記録者だ。記録者は距離を取る。忘却屋に飲まれるな」
凛花が小さく頷いた。「はい」と言ったが、その声には「ありがとう」も混ざっていた。翻訳者にはそれが聞こえた。
凛花が帰った後、俺は一人で工作室に残った。
忘却屋の返信をもう一度頭の中で反芻した。「あなた自身に忘れたい恋があるなら」。あの一文の裏にある計算。取材を断りながら相手の弱みを探る手法。これは頭がいい人間の動きだ。しかも経験がある。人の心理を読み、情報のコントロールに長けている。
忘却屋は何者だ。
校内の人間であることはほぼ確実だ。投稿時間帯、文体の特徴、校内事情への精通。凛花の分析は正確だ。
そして俺自身も、ずっと引っかかっている違和感がある。忘却屋の文体。論理の組み方。読点の打ち方。どこかで見たことがある。読んだことがある。あの冷静さ。感情を排した、構造的な文章。
思い出せない。脳の奥で何かが引っかかっているのに、手が届かない。記憶の棚の一番上にあるはずの本が、なぜか見つからない。
翻訳者は他人の言葉を翻訳する。しかし自分の記憶を検索するのは、翻訳とは別の技術だ。記憶は論理ではなく連想で動く。論理で探すと見つからない。
考えるのをやめよう。忘却屋の正体は今すぐ分からなくてもいい。凛花が文体の照合を進めてくれる。記録者は時間をかけてパターンを見出す。翻訳者は別の角度から攻める。
帰り道。六月の夕暮れ。梅雨の合間の晴れ間だ。湿った空気の中に、夕日の光が差し込んでいる。海面が金色に光っている。
陽太が隣を歩いていた。
「忘却屋、面倒なことになってきたな」
「ああ。利用者が増えてる。しかも利用者は楽になったと言ってるから、外から問題を指摘しづらい」
「本人が満足してるのに、外野が『それは間違いだ』って言うのは変だもんな」
「そうだ。工作室だって同じ構造だ。依頼者が満足していれば、外から文句は言えない。忘却屋の利用者が満足しているなら、工作室が口を出す筋合いはない」
「でもさ」
陽太が立ち止まった。
「楽になった、って言ってる利用者の顔が空っぽだって凛花が言ってたろ。あれ、気になるんだよ」
「俺もだ」
「楽になるのと、感じなくなるのは違うからな。楽になるのは治療だ。感じなくなるのは麻酔だ。麻酔は切れる」
陽太の言葉が的確だった。陽太は難しい言葉を使わないが、本質を突く。治療と麻酔の違い。工作室は治療を目指している。痛みと向き合い、自分で決断する力を支援する。忘却屋は麻酔を提供している。痛みを感じなくする。しかし原因は残ったままだ。
「でもさ恒一。麻酔が必要な人もいるんじゃねーの」
「ん」
「痛すぎて動けない人には、まず痛みを止めないと。治療は痛みが引いてからだ。忘却屋がやってることは間違ってるかもしれないけど、需要はある。痛くて動けない人間がいるから、忘却屋に行くんだ」
陽太の視点は、俺にはないものだった。翻訳者は正しさを追求する。しかし陽太は現実を見る。正しくなくても、必要とされるものがある。工作室が正しくても、忘却屋が必要とされている現実がある。
「お前の言う通りだ。痛みを止める手段として、忘却屋には需要がある。問題は、痛みを止めた後の出口がないことだ。忘却屋は痛みを止めるだけで、痛みの原因に向き合わせない。止めっぱなしだ」
「出口を作るのは工作室の仕事か」
「たぶん、な。忘却屋が入口なら、工作室が出口になるべきなのかもしれない。でも今はまだ、そういう連携は不可能だ。忘却屋が誰か分からない。匿名のままでは対話できない」
対話できない相手とは連携できない。匿名の壁が、工作室と忘却屋の間に立ちはだかっている。
家に帰った。
自室の机に向かって、忘却屋のことを整理しようとした。しかし頭がうまく回らない。情報が多すぎる。忘却屋の方法論。利用者の空虚な表情。凛花の共感。断罪ゲームのターゲットリスト。園田と瀬尾の新しい距離。全部が六月の湿った空気の中で混ざり合って、境界が見えなくなっている。
スマホを取り出した。匿名掲示板を開く。忘却屋の最新の投稿を確認する。
投稿があった。今夜の分。
『忘れたい恋、ありませんか。痛みを抱えたまま眠れない夜があるなら、僕に話してください。あなたの思い出を、穏やかな物語に書き換えます。無料。匿名。あなたの秘密は守ります』
文体を観察する。翻訳者の目で。
読点の位置が正確だ。文末処理が統一されている。「ありませんか」「ください」「書き換えます」「守ります」。丁寧語の「ます」で揃えている。崩した表現がない。感情的な言葉もない。冷静で、構造的で、計算された文章。
この冷静さ。感情を意図的に排除した書き方。
俺の中で、何かが閃きかけた。この文体を知っている。見たことがある。しかし思い出す寸前で、記憶が滑り落ちる。手を伸ばしても掴めない。
「あの文体。論理の組み方。どこかで読んだことがある。いや、聞いたことが」
声に出して言ってみた。しかし記憶は応答しない。
諦めてスマホを置いた。
しかし脳の隅で、翻訳者の直感が静かに回り続けていた。忘却屋の正体。校内の人間。文章力が高い。心理学の知識がある。冷静で論理的。感情を排した文体。
いつか、パズルのピースが揃う。そのとき、忘却屋の顔が見える。
凛花が文体の照合を始めている。記録者のデータベースは広い。校内の掲示板の過去の投稿、新聞部の記事、学校行事の配布物。あらゆる文章から、忘却屋と一致するパターンを探している。
時間はかかるだろう。しかし凛花は諦めない。記録者にとって、パターンの発見は存在意義だ。
その夜、凛花からメッセージが来た。
『先輩。忘却屋のDMの文体を、校内掲示板の過去の投稿と照合し始めました。まだ途中ですが、一つだけ分かったことがあります』
『何だ』
『この文体の持ち主は、過去に掲示板に別のアカウントで投稿しています。文体の特徴が一致する投稿が三件見つかりました。投稿時期は去年の冬。つまり、忘却屋は今年になって始まったアカウントですが、書き手は去年から掲示板にいた人間です』
去年の冬。俺が朝凪高校に転入する前。忘却屋の書き手は、俺より先にこの学校にいた。
『もう一つ。この言い回し、校内の誰か、しかもかなり文章力のある人間です。パターンを絞り込んでいます。もう少し時間をください』
凛花の分析が核心に近づいている。忘却屋の正体。校内の人間。去年から掲示板にいた。文章力が高い。
パズルのピースが集まりつつある。しかしまだ絵柄は見えない。
『分かった。焦るな。正確にやってくれ』
『はい。それと先輩。忘却屋の返信を読んでから、ずっと考えてることがあるんです』
『何だ』
『忘却屋の文体を分析していて、ふと思ったんです。記録することと、書き換えることは、紙一重だって。私は記録する側です。でも記録も、書き方次第で事実を歪められる。記録者が嘘を書けば、それは忘却屋と同じことになる。書く力は、使い方を間違えると暴力になる』
凛花の言葉が、翻訳者の胸に刺さった。
書く力は暴力になりうる。記録者が自覚すべき真実。凛花は忘却屋を追いかける過程で、自分自身の「書く力」の両義性に気づき始めている。
ペンは剣より強い。つまり、ペンは人を切れる。
その言葉が頭に浮かんだ。凛花がやがて直面するであろう問いだ。書くことの力。記録の暴力性。真実を書くことと、誰かを守ることは両立するのか。
『凛花。大事なことに気づいたな』
『はい。大事で、怖いことです』
『怖くていい。怖いと思えるなら、お前は大丈夫だ。怖がらない人間のほうが危ない』
返信を送って、スマホを置いた。
六月の夜。窓の外は暗い。雲が厚い。潮騒が微かに聞こえる。
忘却屋の正体。利用者の空虚な表情。凛花の揺れ。断罪ゲームの影。工作室への視線。
全てが水面下で動いている。穏やかな朝凪の海の下で、見えない潮流が交差している。
翻訳者にできることは、潮の流れを読むことだ。読んで、備えて、そのときが来たら動く。
そのときは、思ったより早く来るかもしれなかった。




