第12話 友達のフリは三日で崩れる
第12話 友達のフリは三日で崩れる
友達のフリは三日で崩れた。 当たり前だ。フリは、本物じゃないから。
金曜日。俺は園田と瀬尾の「再定義」の第一段階を設計した。
シンプルな設計だ。園田と瀬尾が、教室の中で自然に会話する機会を作る。 具体的には、席替えの結果を利用した。四組の席替えは来週の月曜日。凛花が担任の予定を確認してくれた。席替えでは生活班が変わるから、新しい班で自己紹介的な雑談が発生する。園田と瀬尾が同じ班になる確率は低いが、隣接する班になる確率は設計で上げられる 班分けの希望アンケートに、凛花が新聞部の取材名目で間接的に介入することで。
「介入じゃない。環境の微調整だ」
桐生先輩に方針を説明したとき、俺はそう言った。
「園田と瀬尾を同じ班にするのは不自然だ。だが、隣の班 つまり物理的に近い位置にするのは、確率の範囲内に収まる。二人が接触する場を作るのではなく、接触しやすい環境を整えるだけだ」
桐生先輩は頷いた。
「それは月曜の話だ。 だが園田は待てないだろう」
「待てません」
凛花が補足した。
「園田さん、昨日から瀬尾くんを意識的に避けるのをやめて 自分から話しかけようとしています。依頼を出した以上、行動を起こしたいという焦りがあるようです」
焦り。それが一番危険だ。
「園田に連絡する。月曜まで待てと」
「高瀬先輩。たぶん もう遅いです」
凛花がスマホの画面を見せた。園田からのメッセージ。さっき届いたばかりだ。
『今日、瀬尾くんに話しかけました。普通に。「おはよう」って。 瀬尾くん、笑ってくれました。大丈夫かもしれません!』
大丈夫じゃない。
「フリ」が始まった。園田は自分から友達のフリを始めてしまった。工作室の設計が整う前に。焦りが先行した。
「陽太の予言 三日、だったな」
俺が言うと、陽太が苦い顔で頷いた。
「三日。 カウントダウン開始だ」
一日目 金曜日。
園田が瀬尾に「おはよう」と言った。瀬尾は笑って返した。昼休み、園田は弁当を広げながら瀬尾のほうをちらっと見た。目が合った。園田が手を振った。瀬尾が軽く頷いた。 表面上は普通だった。
陽太が放課後、報告してきた。
「一日目はセーフ。 ただ、瀬尾の笑い方がちょっと固かった。口は笑ってるけど、目が追いついてない感じ。俺の見立てだけど」
凛花のモニタリング。
「園田さんの声のトーンが、普段より高いです。明るくしようとしている。 意識的に」
意識的な明るさ。それは友達の会話ではなく、演技だ。一日目はまだ筋肉が動く。笑顔を作る筋力が残っている。
二日目 土曜日。
学校は休みだ。だが園田から凛花にメッセージが来た。
『昨日の続きで、瀬尾くんにLINEしました。「明日ヒマ?」って。 既読ついたけど、返事が来ません。一時間経ちました。......大丈夫ですよね?』
凛花が工作室のグループチャットにそれを共有した。
『園田さんが動きすぎています。一日目の成功体験で加速している。 制止すべきでしょうか』
桐生先輩が即座に返した。
『制止するな。園田の自律を尊重する。 ただし、瀬尾側の反応を注視しろ。天野、瀬尾にコンタクトできるか』
陽太。
『了解。瀬尾に別件で連絡入れてみる』
俺はスマホを握ったまま、自室のベッドの上にいた。土曜日の昼。 今日は、志帆と会う日だ。一時に駅前のカフェ。あと一時間。
園田の依頼と、志帆との再会が 同じ日に重なっていた。
『園田の件は任せる。何かあったら連絡くれ』
グループチャットにそう打って、スマホを置いた。
着替える。Tシャツとジーンズ。普通の格好。 普通でいい。普通にしろ。友達に会うだけだ。幼馴染に会うだけだ。
駅前のカフェ。一時五分前。
俺が先に着いた。窓際の席を取って、アイスコーヒーを注文した。ストローの紙袋を剥がしながら、窓の外を見ている。駅前のロータリー。タクシーとバスが行き交う。六月の太陽が照りつけているが、梅雨の合間の晴れだから空気が湿っている。
一時ちょうど。
カフェのドアが開いた。
志帆だった。
黒髪を下ろしている。中学のときのポニーテールではない。白いブラウスに、薄いブルーのスカート。少しだけ背が伸びた気がする。 でも、笑い方は変わっていなかった。目が細くなって、少し首を傾けて。
「恒一! 久しぶりー!」
声が明るい。エネルギーが高い。カフェの中に志帆の存在が一気に広がるような そういう声だ。
「久しぶり」
「ちょっと 何その普通の顔。もうちょっと嬉しそうにしなよ」
「嬉しいよ。顔に出ないだけだ」
「嘘。恒一、嬉しいとき眉が上がるの知ってるからね。 今、上がってない」
......見抜かれている。中学時代から、志帆は俺の表情を読むのが上手かった。翻訳者が翻訳される側に回るのは 居心地が悪い。
「まあいいや。座ろ座ろ」
志帆は向かいの椅子に座った。メニューを開く。アイスカフェラテを注文した。中学のときはいつもオレンジジュースだったのに 変わったものもある。
「恒一、朝凪高校どう? 楽しい?」
「......まあまあだ」
「まあまあ。恒一の『まあまあ』は『結構楽しい』の翻訳だよね」
翻訳される。 この女は、俺の辞書を持っている。
「友達できた?」
「何人か」
「何人か。 恒一が何人かって言うときは一人か二人だよね」
「三人だ」
「おお、三人! 恒一にしては多い」
「うるさい」
志帆が笑った。中学のときと同じ笑い方。あの笑い方が まだ、変わっていない。
しばらく近況を話した。志帆の高校のこと。部活のこと。共通の中学時代の友達のこと。会話は 不思議なほど自然だった。二年以上のブランクがあるのに、言葉が途切れない。志帆の声のテンポに、俺の返事が噛み合う。昔と同じリズム。
だが。
俺は志帆の左手首を見ていた。何もない。アクセサリーもない。だが SNSで見た写真。彼氏と並んで笑っている写真。肩に手を置かれている写真。あの画像が、目の前の志帆に重なる。
聞くべきか。聞かないべきか。
翻訳者としての本能が「聞くな」と言っている。聞いたら、その答えを処理しなければならない。処理する準備が
「恒一」
志帆が、アイスカフェラテのストローを指先で回しながら言った。
「何」
「恒一って、相変わらず人の顔ばっかり見てるよね。自分のことは全然話さないくせに」
......中学のときと同じことを言う。
「俺のことなんか面白くない」
「面白いよ。 恒一が自分のことを話してるの、ほとんど聞いたことない。いつも人の話を聞いて、人の気持ちを言い当てて。 で、自分のことは『パス』って」
パス。 凛花にも同じことを言われた。
「恒一は変わってないね」
志帆の声が、少しだけ ほんのわずかだけ トーンが下がった。
「変わってない。中学のときから。人のことは分かるのに、自分のことは分かんないまま。 それ、ちょっと心配なんだけど」
「心配?」
「うん。だって 自分のことが分かんないまま大人になったら、いつか困るでしょ」
志帆は笑っていた。だが 目が笑っていなかった。心配しているのは本当だ。その心配の奥に、もう一つ 何かがある。だが翻訳しない。今は、しない。
「......俺のことは、そのうち」
「そのうち、って。恒一のそのうちは永遠に来ないやつじゃん」
「来るよ」
「いつ」
「......そのうち」
志帆が声を上げて笑った。カフェの中の何人かが振り返るくらい、明るい笑い声だった。
「恒一、全然変わってない。 安心した。ちょっとだけ」
安心した。その言葉の中に、何がある。 翻訳するな。今は。
二時間ほど話して、カフェを出た。駅前で別れる。志帆は隣町の駅まで電車で帰る。
「じゃあね、恒一。 また会おうよ」
「ああ」
「次はもうちょっと自分のこと話してよ。約束」
「......善処する」
「善処って。 それ、やらないやつ」
志帆が笑って、改札に向かった。振り返って手を振る。俺も手を上げた。志帆の後ろ姿が改札の向こうに消えていく。髪が揺れていた。 ポニーテールではなく、下ろした髪が。
改札の向こうに消えるまで、俺はそこに立っていた。
何も起きなかった。彼氏の話は出なかった。俺から聞かなかったし、志帆も言わなかった。友達として会って、友達として話して、友達として別れた。普通の再会。普通の会話。
普通 のはずだ。なら、なぜ胸の奥がこんなにざわつく。
翻訳するな。まだ。
日曜日。
グループチャットに凛花からメッセージが入った。
『高瀬先輩。園田さんから連絡がありました。昨日のLINEに、瀬尾くんから返信があったそうです。内容は「ごめん、予定あった」。 園田さんは安心したようですが、私は気になることがあります』
『何だ』
『瀬尾くんのSNSを確認しました。昨日、瀬尾くんは自宅にいました。投稿はありませんが、友人のストーリーにタグ付けされていて、「瀬尾と通話中」というスクリーンショットが上がっています。 つまり、予定があったのは嘘の可能性が高い。園田さんを避けるためにLINEの返信を遅らせ、嘘の理由で断った可能性があります』
陽太が反応した。
『あー......それ、やっぱ瀬尾に何かあるな。園田を避けてる。でも嫌いで避けてるんじゃない。 あの顔は、嫌いの顔じゃなかった』
嫌いの顔じゃない。 なら、何だ。好きな顔か? それとも 。
俺は返信を打った。
『月曜日。陽太、瀬尾にもう一段踏み込んでくれ。園田の件について直接聞く必要がある。 園田側は俺が止める。友達のフリを加速させないように』
『了解。 三日のカウントダウン、今日で二日目だぜ』
三日目は月曜日。陽太の予言が当たるかどうか 明日分かる。
三日目 月曜日。
朝。教室に入ると、空気がわずかに変わっていた。 いや、変わったのは空気ではなく、園田だ。
園田が不自然に明るかった。
廊下で俺とすれ違ったとき、園田は笑顔だった。だが 水谷のときに見た笑顔と、同じ質の笑顔だった。口角は上がっている。声のトーンは高い。だが目の奥が 凍っている。
三日目。崩壊が始まっていた。
二時間目の休憩。廊下の窓際で、凛花が小声で報告してきた。
「高瀬先輩。園田さんが朝から瀬尾くんに積極的に話しかけています。声が大きいです。笑い声も大きい。 でも瀬尾くんは、三回に一回しか返事をしていません」
「三回に一回」
「はい。園田さんが話しかけて、瀬尾くんが反応して、園田さんがまた話しかけて、瀬尾くんが反応しない。園田さんがもう一回話しかけて、瀬尾くんがやっと返す。 このパターンが朝から繰り返されています」
園田は加速している。瀬尾は減速している。逆方向の運動。ギャップが開いていく。 このまま行けば、破綻する。
昼休み。
四組の教室の前を通りかかったとき 聞こえた。
「 瀬尾くん、お弁当一緒に食べない? 前みたいに」
園田の声。明るい。明るすぎる。
「......ごめん、今日は 」
瀬尾の声。低い。沈んでいる。
「そっか。じゃあまた明日 」
「園田」
瀬尾の声が、少しだけ強くなった。
「......無理すんなよ」
短い沈黙。
「 無理なんかしてないよ。友達じゃん。普通に話してるだけ 」
「普通じゃないだろ」
瀬尾の声が 苦しそうだった。怒りではない。苦しさだ。
「お前 笑いすぎだよ。前の園田はそんな笑い方しなかった」
沈黙。長い沈黙。廊下を通る生徒の足音だけが聞こえた。
俺は足を止めていた。教室の中の会話を、廊下から聞いていた。 盗み聞きだ。だが、翻訳者としての本能が、この瞬間を逃すなと言っている。
「......ごめん」
園田の声が 小さくなった。さっきまでの不自然な明るさが、一瞬で消えた。
「ごめん。瀬尾くん。 やっぱり、無理してた。かも」
「......だろうな」
「友達に戻りたかっただけなんだけど 全然、戻れなくて」
「戻れないよ。 俺たち、もう元の関係には戻れない」
瀬尾がそう言った。 俺が園田に言ったのと、同じことを。
「分かってる。分かってるけど......どうしたらいいか分かんなくて」
園田の声が震えていた。泣きそうだ。
「......俺も、分かんない」
瀬尾の声も 低く、重く、沈んでいた。
友達のフリは三日で崩れた。陽太の予言が 正確に的中した。
放課後。園田が工作室に来た。
目が赤かった。泣いた後 ではなく、泣くのを堪えている途中の目だ。パイプ椅子に座って、膝の上でハンカチを握り締めている。
「やっぱり 無理かもしれないです」
声は小さかった。先週来たときの穏やかな困り方とは、質が違う。もっと切実で、もっと傷ついている。
「何があった」
「今日、瀬尾くんに言われました。『無理すんな』って。 笑いすぎだって。前の私はそんな笑い方しなかったって」
「それで?」
「それで......自分でも気づいたんです。無理してた。友達のフリしてた。普通に話そうとして、全然普通じゃなくて 」
園田の声が途切れた。ハンカチを握る手が白い。
俺は もう一度、聞き取りをやり直す必要があった。園田の本音を。
「園田さん。一つ聞く」
「......はい」
「お前は 本当に友達に戻りたいのか?」
「え? それは 」
「依頼は『友達に戻りたい』だった。だが、今日の話を聞いて 俺は違うと思う」
園田が顔を上げた。
「友達に戻りたいんじゃない。 『元カレが同じ空間にいても平気な自分』になりたいんだ」
沈黙。園田の目が 揺れた。
「......それ、同じことじゃ......」
「全然違う。主語が変わってる」
俺はホワイトボードに立った。マーカーを取る。
「『友達に戻りたい』 主語は関係だ。園田と瀬尾の関係を、友達に巻き戻したい。 でもそれは不可能だと、最初に言った」
マーカーが走る。
「『元カレが同じ空間にいても平気な自分になりたい』 主語は自分だ。関係ではなく、自分のあり方を変えたい。瀬尾がどうであれ、自分が平気でいられる状態になりたい」
園田は黙って聞いていた。ハンカチを握る手の力が 少しだけ、緩んだ。
「前者は 瀬尾の協力がないとできない。二人の関係だから。だが後者は 園田、お前一人の問題だ。お前がどう変わるかの問題だ。 瀬尾が何をしようと、お前が平気でいられるようになれば、依頼は達成される」
「......でも、友達に戻らなくても 平気になれるんですか。同じクラスにいて、毎日顔を合わせて。友達でも恋人でもない 何でもない関係のまま」
「何でもない関係でいい。 いや、何でもない関係しかない。友達でも恋人でもない。ただのクラスメイト。それが悪いとは限らない」
「ただのクラスメイト......」
「友達にも恋人にもならないけど 同じ教室にいて、たまに目が合って、会釈するくらいの距離。それだって立派な関係だ。名前はつかないけど」
園田は しばらく黙っていた。長い沈黙だった。工作室の窓の外で、六月の海が灰色に光っている。
「......それでいい、のかな」
「いいも悪いも、お前が決めることだ。 ただ、友達のフリを続けるよりは、ずっとマシだ。フリは三日で壊れる。本物の距離は 壊れない」
桐生先輩が口を開いた。
「園田。設計をやり直す。友達のフリではなく お前が平気でいられる距離を探す。そのための場を、工作室が作る」
「具体的にはどうするんですか」
「演技をやめさせる。お前にも、瀬尾にも。 演技の代わりに、二人が別々の文脈で自然に交差する場を作る。友達として話しかけるのではなく、クラスメイトとして同じ空間にいるだけの場を」
「同じ空間にいるだけ......」
「来週から文化祭の準備が始まる。クラスの実行委員の仕事で、園田と瀬尾が同じ係になるように調整する。二人で話す必要はない。同じ係で、同じ教室で、同じ作業をするだけだ。 そのとき、園田がどう感じるかを確認する」
凛花がノートに設計の修正を記録していく。ペンが走る音が、静かな工作室に響く。
「文化祭準備......ですか。それなら 友達のフリをしなくても、普通に一緒にいる理由がある」
「そうだ。理由があれば フリをしなくていい。仕事だからそこにいる。それだけだ」
園田はハンカチを膝の上に置いた。握り締めるのをやめていた。
「......やってみます」
「いい。 ただし」
桐生先輩が付け加えた。
「瀬尾側にも確認が必要だ。天野が動く」
陽太が頷いた。真剣な目だった。
園田が帰った後、工作室に四人が残った。
「設計の修正、了解だ。 だがもう一つ、気になることがある」
俺が言うと、桐生先輩がこちらを見た。
「瀬尾が園田を避けている理由。あれは 単純な気まずさじゃない」
「天野の報告と一致するな。園田の名前で表情が消える。LINEの返信を嘘の理由で遅らせる。 何かある」
「瀬尾に、園田に隠していることがある。 陽太、明日、瀬尾にもう一段踏み込めるか」
「踏み込む。 今度はちゃんと、核心まで」
陽太の声に 自分の過去と重ねる熱があった。友達のフリが壊れる痛みを知っている男の、切実さがあった。
凛花がノートを閉じかけて 止まった。
「高瀬先輩。一つ報告があります」
「何だ」
「瀬尾くんの周辺を取材する中で 園田さんに関してではなく、瀬尾くん自身について、気になることが出てきました」
凛花は眼鏡を直した。
「瀬尾くんの友人に話を聞いたところ 瀬尾くんが園田さんと別れた頃、園田さんに対して『俺といると窮屈でしょ』と言っていた、という証言があります。 園田さんに直接言ったのではなく、友人にこぼしていたようです」
俺といると窮屈でしょ。
翻訳する。
「窮屈」 瀬尾は、自分が園田を窮屈にさせていると思っていた。自分の存在が園田を圧迫している、と。 なぜそう思ったのか。何があったのか。
「もう少し詳しく分かるか」
「まだ確認中です。ただ 園田さんに何か隠してることがあるのは、ほぼ間違いないと思います」
凛花の声は平坦だったが、ノートを握る手には力が入っていた。記録者としての直感が、何かを掴みかけている。
俺はホワイトボードを見た。「依頼④:園田 関係の再定義」。
再定義。 その再定義が成功するかどうかは、瀬尾の隠していることの中身にかかっている。園田側の設計はできた。だが瀬尾側の地図が まだ白紙だ。
「明日 陽太が瀬尾に当たる。凛花は引き続き周辺を。 俺は設計を進める。文化祭の準備を使った場の構築」
「了解」
「了解っす」
全員が動く。依頼④は まだ途中だ。友達のフリは三日で壊れた。だが壊れたことで、本当の問題が見えてきた。園田の本音は「友達に戻りたい」ではなく「平気な自分になりたい」だった。そして瀬尾には まだ語られていない事情がある。
友達のフリは壊れた。 だが、壊れたところから、本物が始まる。
フリは本物じゃない。本物は フリが剥がれた後に、残るものだ。
帰り道。一人で堤防沿いの県道を歩いた。
六月の夕暮れ。雲が多いが、西の空だけが割れていて、オレンジ色の光が海面に長い帯を引いている。
頭の中で、二つの風景が交互に浮かぶ。
園田と瀬尾。教室での会話。「無理すんなよ」「前の園田はそんな笑い方しなかった」。フリが壊れた瞬間。 だがあの瞬間、園田と瀬尾は初めて本当のことを言い合った。フリの下にあった本音が、ほんの一瞬だけ顔を出した。
志帆。カフェでの会話。「恒一は変わってないね」「自分のことは分かんないまま」。 志帆も、本当のことを言っていた。友達としての会話の中に、俺への心配が もう一つの何かが 混ざっていた。
「自分のことが分かんないまま大人になったら、いつか困るでしょ」
困っている。 もう、困っている。翻訳者は他人の感情を言語化できるが、自分の感情は辞書にない。載せたくないから載せていないだけだ。
園田に言った。「主語が変わってる」と。「友達に戻りたい」と「平気な自分になりたい」は、主語が違う。
じゃあ、俺の場合はどうだ。
「志帆と友達でいたい」 それが表層だ。主語は関係。
本音は? 主語を変えたら?
「志帆のそばにいても平気な自分でいたい」? 違う。平気じゃないのだ。平気じゃないから既読スルーを五日もして、平気じゃないから返信に三日かかった。
じゃあ
「志帆に対する気持ちに、名前をつけたくない自分でいたい」?
......近い。近いが、翻訳として完了していない。もう一歩、奥がある。
奥にある言葉を、俺はまだ掘り出せない。掘り出したくない。
翻訳者は自分を翻訳できない。 園田に「主語を変えろ」と言った人間が、自分の主語を変えることだけは、できない。
堤防の上で立ち止まった。海が暗くなりかけている。オレンジの帯が細くなって、水平線のあたりだけが光っている。
スマホが振動した。志帆からだった。
『今日はありがとう! 楽しかったー。恒一、全然変わってなくて安心した:) また会おうね。 あ、次は恒一の話聞くからね。約束だよ!』
俺は 少しだけ、笑った。
「約束、か」
返信を打った。
「楽しかった。 次は、もう少し話す。たぶん」
「たぶん」を足したのは 保険だ。翻訳者の保険。本音を語る約束はできないが、語る可能性だけは開けておく。それが 今の俺にできる精一杯の誠実さだった。
送信。スマホを仕舞った。
明日は火曜日。陽太が瀬尾に踏み込む日。瀬尾が何を隠しているのか。その答えが 依頼④の行方を決める。
風が堤防の上を渡った。潮の匂い。六月の、湿った風。
フリは壊れた。 だがこれは、終わりではない。壊れたところから始まる。園田も。瀬尾も。 たぶん、俺も。




