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 事の発端は、シイナがとても親しくしていた女性が失踪した事から始まった。


「え? いなくなったのですか?」


 いつも通りに目を覚まし、いつも通りに職場へと出勤し、いつも通りの姿に着替えて朝の給仕を彼女なりに頑張って行っていたところ。

 いつも通りではなかったこと――職場の同僚の一人がいつまで経っても姿を現さなかったのが気になり、別の同僚に話し掛けて返ってきた答えがそういう内容だった。


「一昨日の夜から……」


 仕事はローテーションが組まれているため、失踪した女性とシイナが一緒になるのは一日ごととなっている。

 加えて、昨日は村の外にある教会へシイナは一日中詰めていた。

 一昨日の夕食時の仕事を終えてから今日に至るまで、その女性と仕事中にシイナが会う事はまずないという状況。


 シイナの耳にその噂が今になって入ってくるのは、当然と言えば当然と言えた。


「最後に見かけたのは……そう、あの人とですか」


 その失踪した女性への好きという感情が段々と歪んだ方向へと向かっていた事にシイナはこの時まだ気付いていなかったが、特定の男性と夜に会っていたというその噂を聞いて、何かの感情がメラメラっと燃え上がったのをシイナはハッキリと自覚した。

 但し気にするべきところはそこではない。

 シイナは、この地で失踪するという事がいったい何を意味しているのか知っていた。


 この地はコーネリア教団の手によって管理されているが、元々は聖域指定を受けていた不可侵領域だった。

 それ以前に、大陸の南一帯を占めるテーゼの森は魔者の巣窟。

 いつからか悪しき賢者が住まうようになったものの、色々な意味で危険な土地である事には変わりない。


 魔者の巣窟であり、聖域指定された土地であり、悪しき賢者のテリトリー内であり、そして迷宮の存在する土地。

 国境を越えて大陸中に支部を持つ巨大な組織であるコーネリア教団と言えど、すべてに対処するのは不可能だった。

 但し、北にある森の出口は教団によって厳重に管理されている。

 つまり、失踪の意味するところは逃亡などではなく、何らかの事件に巻き込まれてしまったという事をほぼ確実に物語っていた。


 その中で最も可能性が高いのは、魔隠しと呼ばれるもの。

 神隠しとほぼ似たような意味で使われているが、それをする輩が明確となっていたのでそう呼ばれていた。

 その輩とは、悪戯妖精の類ではなく、この地に住む悪しき賢者。

 姿が直接誰かによって目撃された訳ではないが、ごく稀に忽然と姿を消した者の痕跡を辿ると、ほぼ必ずと言っていいほど強い邪悪な魔力の残滓が確認されていた。


「その人は、今は?」


 返ってきた言葉は、同じ答え。

 その男性もまた、シイナが気にしている女性と同様に失踪したという。

 但し失踪した地はこのルーラストンの村ではなく、ここから北西に山を一つ登った場所に建てられている教会での事。


「もう一人、消えた方がいるのですか?」


 2人連続して起こる事だけでも珍しい事なのに、そこへ更にもう一人失踪したとう情報を告げられ、流石にシイナも事態の深刻度を遅まきながら理解する。

 ただ不可解だったのは、教会から失踪した女性もやはりその男性と繋がりがあるという事だった。

 この事件は悪しき賢者の仕業ではなく、その男性が引き起こしたものではないかという考えがシイナの頭の中に浮かび上がる。


 だが、警戒の薄いこの村の中でならば可能な蛮行も、枢機卿のお膝元でもある教会の中では不可能に近いということをシイナは知っていた。

 迷宮の管理と悪しき賢者への対策で教会の中は堅牢な牢獄以上に監視の目が厳しく、法術による多重結界やら通行証も兼ねている迷宮紋章具の裏仕掛けやらで、まともな方法では教会の目を欺くことは出来はしない。


 とどのつまり、まともではない方法を使える力の持ち主――悪しき賢者以外にはまずあり得ないという結論に至るしかない。


「……お疲れ、さまでした」


 一日の仕事を珍しく一切のトラブルなしでキッチリ終えた後、シイナは教会から自分に対して宛がわれた個室へと引き上げ、窓際に置いていた動物型の木細工を叩き割った。

 瞬間、中が空洞となっていた木細工の中からジャラジャラと小銭が溢れ出る。

 その数を数えながら、シイナは明日以降の予定を大きく塗り替え始めた。


 次の日の早朝。

 今週は宿に泊まり込みで働いていたシイナの同僚の一人は、テーブルの拭き掃除をしていると突然に姿を現した見知った人物を見て驚いた。

 何故なら、シイナは朝が非常に弱く、間違ってもこんなに朝早くから出勤してくるような女性ではなかったからだ。


「女将さんはいらっしゃいますか?」


 返事は厨房から返ってきた。

 朝の仕込みがあるため、女将の朝は誰よりも早い。

 その分、夜は泊まり込みの働き手に任せてすぐに寝床へと引き上げていく。

 それは当然シイナも知っている事なので、返事が返ってきてすぐにシイナは厨房へと入っていった。


 途中、目を丸くして口をあけたまま固まっていた同僚が慌てて手を引っ掴んで引き留めてくるが、シイナは強引に突破する。

 それだけでその同僚はもう手遅れだという事を察した。

 昨日、トラブルメーカーのシイナが一度もボカをやらなかった時点で気が付くべきだったと、後になって後悔する。

 それぐらいにシイナは端から見て分かりやすいぐらいに失踪した女性に対して強い感情を露わにしていた。

 気付いていないのは本人ぐらいなものである。


 触らぬ神に祟り無し。

 藪をつつくと蛇が出る。

 それでもつい聞き耳を立てると、やはり聞こえてくる会話の内容は考えていた通りのもの。

 話が終わり、シイナが足早に通り過ぎていった時、その目に隈ができていたのを同僚は確認する。

 ああ、寝ていないからなんだ……と納得した時には、シイナの姿は扉の向こうに消えていた。


 それからシイナは教会に行き、本当に許可を得るべき相手との謁見を望んだ。

 最悪門前払いされる可能性を考えていたのだが、それならば一切の支援無しに迷宮へ潜るつもりだった。


 悪しき賢者にさらわれた場合、必ずしも二度と帰って来ないという訳ではなかった。

 運良く発見された時は大抵が以前の記憶を失った状態にあるか、一部の記憶は残っていても人の枠から外れている場合が多い。

 ただどちらにしても、この地にある迷宮の中で発見される。

 つまり失踪した者を探すならば迷宮以外にはあり得ない。


 ならば普段迷宮に潜っている者達に捜索をお願いすれば良いのだが……。

 困った事に彼等の目的は教会の内部に入口がある大迷宮の探索であり、他の迷宮にはまず目を向けない。

 しかも失踪者は一度捜索した場所でも現れる可能性があるため、いるかどうかも分からない相手を探し続けるという依頼を受けてもらうにはそれなりの報酬を用意しなければならなかった。

 そして当然、大迷宮の実入りに比べてシイナが払える報酬などたかが知れている。

 教団もわざわざ追加報酬を払ってまで探してもらおうとは思わないので、シイナ自身が迷宮に潜って探すというのが最も現実的な方法だった。


 幸いにして、シイナの願いは本人が危惧していたほどには興味を持たれなかった。


「これで、後は迷宮に潜るだけ」


 迷宮へ潜る許可を出している者――コーネリア教団、第二位神意執行官、教皇の最高顧問であり教皇からこの地の全権を任されている枢機卿との謁見を終えたシイナは、つい先程の事は綺麗サッパリに忘れる努力をしながら次の目的地へと向かった。


 つつがなく教会での雑事を終わらせ、一度村に戻ったシイナは今度こそ本当の別れを告げるために宿を訪れた。

 迷宮に潜るという事は、教団から命じられていた仕事を放棄する事に等しい。

 そのため、シイナが昨日まで使っていた部屋はもう使えないという事を意味していた。


 幸いにして今週が丁度宿住まい中だった仲の良い同僚の好意に甘え、今日だけは宿代を払う事無く一晩を明かす。

 同僚は夜通し喋り尽くしたかったみたいだが、昨日は一睡もしていなかったためシイナは途中で力尽きた。


 明くる朝。

 シイナはこの地に唯一存在する店、万屋で装備を整えてから村を出る。

 向かう場所は、誰も潜らない迷宮。

 教会にある大迷宮は常に誰かが潜っているのでわざわざシイナが潜って探す必要はない。

 西の地にある銀狼の迷宮へとシイナは向かった。


 そしてそこで待っていたのは、予想していた以上に過酷な現実だった。


「これが、魔者(ましゃ)……」


 襲い掛かってきたゾンビの群れに、自分の力が遠く及ばない事を痛感したシイナは、逃走先の通路で壁にもたれながらそう言葉を零した。

 たった数分の出来事。

 それなのに身体中から汗が吹き出て、もう歩くのも嫌だというぐらいに足が重い。

 それ以上に手に握っていた武器の重みがもどかしく、そのまま崩れ落ちるように膝を曲げて地面にへたり込んだ。


 シイナはゾンビの特性をよく知らなかったため、いったいどうすればゾンビを倒せるのか分からなかった。

 手に持った武器で何度も腕を斬ったり足を突いたりするばかりで、弱点である頭部への攻撃は一切行っていなかった。

 いくら相手が死者だからといっても元は人だった存在。

 人の姿をまだ若干保っているため、胸などの急所や顔へ攻撃するのをシイナは躊躇ってしまったのだ。

 初戦闘の相手が子供の体格だった事も、シイナが倒しきれなかった要因でもあった。


 魔者という存在がどんなものなのか、迷宮がいったいどんな場所なのかを良く知らなかった事もシイナの敗因でもあった。

 通常、ゾンビというのは人の死体に魔瘴の気が入り込み、魔者へと変貌させた存在の事を言う。

 しかし迷宮内にいるゾンビの大半はそれとはまったく異なる方法により誕生する。

 迷宮のゾンビは死者の魂が瘴気に犯され、周囲にあるあらゆる物を取り込んで生前の姿を模す。

 但し完全に模す事は出来ず形は不完全。

 また人の形はしていても肉も骨も仮初めの物であり、体内には血も流れていない。

 つまり、実際の死体と言うよりも、死体を模した人形でしかなかった。


 人の死体から生まれた魔者。

 無から作られた人の形を模した死者人形。

 その違いを知っていれば、例え姿形が子供だったとしても剣先はもう少しまともな動きをしていた事だろう。


 相手はたかだかD級の魔者。

 1対1であれば、いずれシイナも次第に攻撃する事に慣れて最低でも行動不能にする事ぐらいは出来た。

 しかし、現れたのはゾンビの群れ。

 幸いにして相手は前述の通りゴーストゾンビだったので血塗れ傷だらけという絶叫をあげそうになるほどのホラーじみた姿ではなかったものの、ペタリペタリと足音を鳴らしながらゆらゆらと近づいてくる怪物集団は容易にシイナの心を恐怖で満たしていった。


 戦意を喪失し、逃走に至ってからいったいどれだけ走ったのか。

 へたり込んでからどれだけの時間が流れたのか。

 迷宮に入ってすぐに現実を思い知らされて放心していたシイナがようやく回復した頃。


 獲物がいる事を第六感で感知したユニオンスライム達が、ゆっくりと包囲網を築きつつあった。


「今日はきりあげて、明日仕切り直しましょう……」


 しかしユニスラ達の包囲網はシイナが何気なく選んだ進路上にはまだ構築されていなかったため、結局ユニスラ達はシイナを捕食する事は出来ず。

 代わりに獲物がいた場所で一度集まった後、三々五々解散していった。

 ちなみにこの時、ユニスラ達はシイナが流した汗や臭いを吸収し、シイナの味をたっぷりと堪能した。


 そして次の日。

 ウェストンの宿を取り仕切っている女将から迷宮の情報を仕入れ、再び銀狼の迷宮へと足を踏み入れたシイナを待ち構えていたのは、狩人と化したユニスラ達の猛攻撃だった。

 猛攻撃と言ってもユニスラ達の移動速度は遅いため、端から見ればただシイナ目掛けてゆっくり移動しているようにしか見えない。

 が、ユニスラ達にとっては猛然の勢いだった。


 昨日シイナの味を覚えたユニスラ達は、シイナが迷宮に入るなり再び第六感で察知し、シイナ目掛けて一斉に移動を開始する。

 他のユニスラと合体していた個体は、自ら分離するか、合体した相手を引き連れてシイナのもとへと全速力で向かっていった。

 もし迷宮全体を見渡す事が出来れば、まさに妄執と言えるほどの大移動だったのが見て取れただろう。


 最初、シイナの目の前にはユニスラが一匹だけ現れた。


「今度は負けません!」


 普通、ユニスラ相手に言うような台詞ではないが、一般人であり、か弱い女性でもあったシイナにとって、例えユニスラでもかなりの難敵だった。

 流石にゴキ●リほどの難敵ではないが、捕まったら最後、何をされるか分かったものではない。

 そういう方面の話は女性達の間では割と有名な逸話だった。


「くっ! 意外にしぶといですね。しかも仲間を呼ぶとは卑怯な……」


 核を攻撃すれば倒せる事を女将から教わったものの、なかなかシイナの武器は核を攻撃する事が出来なかった。

 ユニスラも核を攻撃されれば消滅すると分かっているので、頻繁にその位置を変えながら何とかシイナに取り付こうと頑張り続ける。

 その頑張りは少し報われ、シイナ目掛けて爆走している(とユニスラ本人?達は思っている)仲間が到着した。


 早速回り込んで挟撃……という思考は持ち合わせていないので、二匹は仲良く並んでシイナを攻撃する。

 そして攻撃の最中、ぶつかって合体してしまう。


「それならば好都合です! まとめて葬り去ってくれましょう!」


 その言葉が実践させる前に、たまたま3番目に近い位置にいたユニスラが合流する。


「相手にとって不足はありません」


 不足を補うかの如く、追加でユニスラが2匹現れる。

 例に漏れず、先に駆けつけていたユニスラ達にぶつかってしまい合体してしまった。


「えっと……あまり太りすぎると、後が大変ですよ?」


 最初はシイナの顔ぐらいのサイズだったユニスラが、持ち上げるのも苦労しそうな大きさにまで変化してしまった事に、流石にシイナも少し戸惑いを浮かべる。

 体積が増えた事で核の位置が遠くなり、体液の濁りのせいで発見しにくくもなっていた。

 これでは間合いを取りながら斬っても核には届かない。

 それ以前に、いまだに一匹も倒せていない。


「あの、すみません。それ以上はもう……」


 膝ぐらいまでの大きさが一気に腰まで増えた事でシイナは後退る。


「さよなら!」


 通路の奥に大量のスライム達が姿を現した瞬間、シイナは戦いを放棄して一目散に逃げ始めた。

 しかし回り込まれてしまう。

 別の経路から向かっていたユニスラ達の群れだった。


 その後の事は、シイナはあまりよく覚えていない。

 結局ユニスラ達に捕まってしまい、そのまま意識を手放すまでずっとユニスラ達に身体を弄ばれ続けたという記憶(ほぼ本人の妄想)だけがうっすらと残っていた。

 その記憶の中には首筋を何か鋭い物でチクッと刺される痛みがあったものの、ユニスラ達が体内に色んな物を取り込んでは物色する癖があるので、大方それだろうと思う。


 そして気が付くと、シイナは見慣れない天井を見上げていた。


「私は……助かったのでしょうか?」


 部屋を見ればすぐにここがどこであるのか見当がついた。

 シイナが借りた宿の一室。

 必要以上の物が何も置かれていない、ベッドとテーブルと水差し、そして壁掛けだけの簡素な部屋。


「そうですか……あいつが、私を助けてくれたのですか」


 部屋から出て下に降りると、笑顔の上に多少の怒りを乗せた女将が事情を話してくれたが、その時シイナは初めてとある感情を芽生えさせる。

 嫉妬。

 シイナの窮地を救ってくれたのは、シイナが命を賭して探そうとしている失踪した女性が最後に一緒にいたという男性だった。


 その男性のことをシイナも少しだけ記憶に覚えている。

 何しろシイナと同じ特徴的な風貌を持っている男性だ。

 黒い髪に、黒い瞳。

 それは元来、この大陸には存在しない人種が持っている色だった。


 今ではもうその血が大陸に住んでいる者達の間に入り、そこまで珍しいものではなかったが、それでも数が少ない事には変わりない。

 鎖国している国なので、血もほとんど大陸に流れ込んでこない。


 シイナ自身は先祖返りでその色を持つに至ったが、亡くなった両親から聞いた故郷の話では、昔はこの大陸の北側にも黒髪黒瞳の部族が存在していたという。

 恐らくはその鎖国している国から流れてきた者達を祖先に持つ部族。

 シイナの父は、その血を祖母から受け継いでいるのだという。

 だから今でもよく次のように言われていた。

 先祖返りで黒髪黒瞳を持った者の大半は、その部族の末裔であると。

 更に辿れば大陸外にある鎖国している国へと辿り着くのだろうが、現存しているためかあまり引用される事は無い。


 とにかく、その男性が失踪した二人の女性と何らかの関わりを持っていたのは確かである。

 そんな男性と同じ瞳と髪の色をしているというだけで、シイナはその男性の事がとても嫌いになった。


 そして気絶から回復した次の日。

 その男性の隣に可愛らしい2人の少女の姿を認めて、更に嫌いになる。

 片方はシイナと同じ瞳と髪の色をしていたが、そんな事はもうどうでも良かった。


「私はまだ意識が回復していない事にしていただけませんでしょうか?」


 シイナのその申し出に、女将は何も聞かずに頷く。

 直前まで武器の返還をしつこく求めていたというのに、同じ女性として何か思う所があったのだろう。


 一緒にいた少女達と別れ一人になった男性が女将と何やら話をしている間、シイナは改めて昨日の事――意識を失っていたため、既に3日が経過していることをシイナはまだ知らない――を思い出す。

 スライムによって受けた屈辱の記憶(被害妄想)が、その男性の蛮行へと書き換わっていくのにはそれほど時間はかからなかった。

 加えて、シイナが万屋で買ったあらゆる装備もその男性によって奪われ、教団に提出されてしまい既に報酬へと変えられている。


 嫉妬が憎悪へ、嫌悪が害悪へと成長するのにそれほど時は必要としなかった。

 故に、女将がこの後絶対に受け入れたくない提案をしてきた時、シイナの心は閉じてしまい女将の言葉すら入ってこなくなる。

 女将が親切心でシイナを鍛え上げようと重い腰をあげても、シイナは鬱陶しさしか感じられなかった。


 午前中の稽古が終わってすぐに、シイナは女将の目を盗んで逃亡する。

 その手には女将が練習用にと持たせてくれた短剣が握られていた。


 短剣を片手に、再び迷宮へとシイナは潜る。

 その目的は復讐――。


 一昨日はゾンビに負けた。

 昨日はスライムに負けた。

 だから、今日こそは勝つ。

 絶対にあの男を殺すのだと強く思う。

 ――既にこの時、シイナは冷静な判断力も思考力も失っていた。


 最初の分岐路を、今日は左に曲がる。

 意識した訳ではない。

 自然に足がそちらへと向いていた。

 右の通路は苦い思い出が詰まっていたからという適当な理由をつけて、シイナは進む。

 実は誘導されているとはまるで気が付かずに。


 そして――。











 背中に突き刺さった短剣の刃が肺へと到達し、急激に嘔吐感がこみ上げてきた事でヴァンは意識を現実へと引き戻した。


 そしてまず認識したのは、吐血したという事実。

 続いて、吐き出した赤い血が目の前に広がるベルセルクスパイダーのどす黒い血に比べて随分と綺麗だなという感想。

 肝心の痛みは、悪しき賢者によってかけられている呪いによってほとんど感じなかった。


「コロス……」


 原因を求めて背後の状況を確認する前に告げられた言葉。

 それはつい今し方までヴァンがベルセルクスパイダーに向けていた強い思いと同じものだった。


 それが、助け出そうとした女性から自分に向けて発せられている。

 理解が出来なかった。


「離れなさい!」


 その聞き慣れた声が耳に届くと同時に突き向かってきた矢を目にした時。

 ヴァンが取った行動は――。


「危ない!」


 シイナの頭目掛けて飛んできた必殺の矢を掴んで、自らを刺して殺そうとしてきた相手を助けるという愚行だった。


 ヴァンが動いた事で短剣がヴァンの背中から抜ける。

 紅色に濡れた刀身が血を滴らせ、地面に落ちて血痕を作った。


 その刃が再び目標へと向けて突き出される。

 だが短剣は空を斬った。


「力が……」


 痛みを感じていないからといって、ダメージがない訳ではない。

 シェイニーが放ったホーリーアローの矢を無理矢理に掴んだ際にバランスを失い、ヴァンはそのまま崩れ落ちていた。

 それがシイナの第二撃目を空振りに終わらせる。


 その二人目掛けて、一瞬誰からも存在を完全に忘れ去られていたベルセルクスパイダーが残っていた足を槍のように突き出す。

 巫女装束の少女の必殺技により蜘蛛糸天井の捕縛攻撃が焼き尽くされて失敗に終わった事を認識したが故の攻撃。

 体内に隠していた最後の切り札――3つの瞳を開眼したベルセルクスパイダーが真の姿を表す。


「外野は大人しくしておるがよい!」


 が、足槍が標的へと刺さる前にユフィが放った炎の舞いによって、ベルセルクスパイダーの身体は炎に包まれた。

 弱点の【火】属性による強力な一撃。

 ほぼ体力が尽きていたベルセルクスパイダーは、その強烈な一撃によって完全に沈黙した。


「離れなさい!」


 再度の警告の言葉とともに、シェイニーが走りながら無数の矢をシイナ目掛けて放つ。

 シイナはそれを後ろに跳んで躱す。

 先の一撃目は不意をつかれて反応出来なかったが、今度は警戒していたため回避する事が出来た。


 だがすぐに床を蹴り、目標であるヴァンの身へと短剣を突き立てようとシイナは動く。

 シェイニーもすぐに矢を放つが、連続射撃だったため十分な力が込められていない矢はシイナの身体に弾かれてしまう。


 法術による攻撃の弱点――それは、威力が弱すぎると相手の抵抗力の強さによっては弾かれてしまうこと。

 ダメージは与えられるものの、攻撃を受けた本人が意に介さなければその攻撃は行動の阻害にはならなかった。


 凶刃がヴァンの身に襲い掛かる。


「ここは任せよ! おぬしはぬしさまの治療を!」


 空中ダッシュで滑り込んできたユフィがシイナの短剣を鉄扇で弾きながら言う。


「今、すごいものを見た気がするのだけれど……」


「奥の手は色々と隠し持っておる! 今のはその一つじゃ!」


「年のこ……いえ、これは失言だったわね」


「禁句じゃな」


 邪魔者のユフィをシイナが攻撃するも、その攻撃は力任せのつたないものであったため、ユフィによって軽くあしらわれた。

 但し一撃一撃の威力がやたらと強かったため、受ける事は選択せず、全て往なすか受け流すだけ。

 ユフィは直感で、暴走する少女がヴァンと同じ技……肉体の限界を取っ払う荒技、バーサーカーモードのような状態にある事を察する。

 ユフィの力量ならばシイナを行動不能にするなど朝飯前だったが、どうにも腑に落ちない点が多すぎるため、ユフィは暫し様子を見る事を選択する。


「傷は深いわよ。あなたもとうとう年貢の納め時ね」


 シェイニーが倒れたヴァンの前に膝を付き、傷付いた背中に手を当てながら縁起でもないことを言う。


「膝枕はないのか?」


 対して、ヴァンの方もまるで死に急いでいるかのような軽口を口走っていた。

 その願いは、当然の事ながら叶えられない。

 その代わりに傷口でもえぐられる可能性をヴァンは予想していたが、その予想に反してシェイニーからは何の反応も返ってこなかった。


「あなた一人の身体ではないのだから、無茶はしてほしくないわね」


 そんな妊婦に夫がかけるような言葉を口にしたシェイニーに、ヴァンは訝しむ。


「……いつになく殊勝なんだな。何か悪いものでも食べたか?」


「サンレモン以外、今日はまだ口にしていないわね。あなたも食べる?」


「い、いや……全力で辞退させてもらう」


 傷口をえぐるどころか一発で気絶確定の超強烈な攻撃――サンレモンの傷口直塗りの刑をされると勘違いしたヴァンが思わずその壮絶な痛みを想像して恐怖で身震いする。

 別にシェイニーはそんな陰謀を企てながら問いかけた訳ではないのだが、ヴァンの反応でそれを理解し少しムッとする。


「一応、消毒しておこうかしら」


 口元にうっとりとした笑みを浮かべながら言うシェイニーに、ヴァンはもう一度恐怖する。


「少し黙っていなさい。動いたら殺すわよ」


 何かを口に仕掛けたヴァンを、シェイニーが死の宣告を発して黙らせる。

 シェイニーが意識を集中し、ヴァンの傷口に触れている手に力を込めていく。


大自然の精霊よ(ウィ・オープス)、|母なる大地ハマ・カーンよ《ウィム・ハマ・カーン》。

 我が命に従い(ゼナード・アルバ)この愚かなる者の傷をリ・ヴィシャス・ペイン喰らいたまえ(ブラディ・カリス)

 |暗黒に閉ざされた未来を《ララ・ル・ダーセス》、|この者へと再度授けたまえ《エグ・リ・エト・カリス》。

 セレスティア・ホーリーハンド』


 シェイニーが発音した言葉の意味をヴァンはまるで理解出来なかったが、何となく癒しとは正反対な言葉が使われているような気がした。


 詠唱で使用する言葉は本人が自由に作れるので、ほとんどの場合、本人や本人が使っている言語を知っている者しか理解出来ない。

 ユフィのように誰でも理解出来る言葉を使って詠唱する者も多いが、シェイニーのような例は決して少なくなかった。

 何故なら、詠唱の言葉を知ることで法術の内容もある程度予測出来るからである。


 命をかけた戦いの最中に相手が発動しようとした法術を予測出来るというのは時に勝敗を左右する。

 勿論、全く関係のない言葉を使って詠唱する事も出来るが、その場合、行使する法術のイメージと噛み合わないため大抵の場合が威力を大きく落としてしまう。

 即席であれば失敗する可能性も高い


 また、己の集大成である法術を隠匿するために使用される場合も多々あった。

 例えばある程度中身を理解出来る言葉の綴りで詠唱を作っておくことで、弟子への伝授を容易にするという手法である。

 言葉の意味を知った上でその詠唱を聞けば、同じ法術が使えるようになる。

 もちろんそれ相応の実力と理解力も必要だが、逆にそれを利用した試験を行ったり資格の有無を計る事も出来る。


 もっと一般的な例で言えば、予め決まった言葉を使って皆が法術を使う事で、イメージ自体を刷り込みやすくするという手法もある。

 国家が戦力増強の為に自国の兵士に教育を施す時などでもこちらの手法がよく使われていた。

 法術を成功させるためにはイメージと集中力が鍵なので、皆が同じ方法を使う事でイメージしやすくなり集中力が増すという訳である。


 シェイニーが使用している法術も、若干独自性が組み込まれているが、基本的にこれまで述べた例の幾つかに該当していた。

 使用している言語は、シェイニーが生前に暮らしていた部族で使われていたもの。

 その部族で祭礼などを行う際に使われていた言葉の一部も引用している。

 法術を体現する最後の力ある言葉――法術名は、この大陸では一般的なものだった。


「なんか……だんだん気持ちが良くなってきたな。眠い……」


「永遠の眠りにつきたいのであれば、ご自由に」


 そう言いながらもシェイニーはヴァンの膝を空いている手でつねっていた。

 しかし痛みの感じないヴァンにはほとんど効果がない。

 それでもシェイニーはヴァンが意識を失わないように膝をつねながら話し掛ける。


「何故、あの子を助けたの? いくら痛くないからといって、無防備なあなたが素手で私の矢を掴めばただではすまないという事ぐらい分かるでしょうに」


 矢を掴んだヴァンの手は焼け焦げていた。

 但し、中途半端に焼けたため焼灼止血までには至らず、今も血は流れていた。


 だが問題はそこにはない。

 背中の傷ほど手の火傷は酷いものではなかったからというのもあるが、問題は法術攻撃をヴァンが受けたという所にあった。


「MPがごっそり減っているな」


「ごっそりというほどでもないでしょうに」


「だが、66.6%も減っている。これは由々しき事態だ」


 瞼が落ちてくるのを必至に堪えながらヴァンは答える。

 気絶することが何を意味するのかようやくヴァンも気が付いていた。


 気を失うということは魔力(MP)が空になるということ。

 それは同時にユフィの召喚維持が途切れることを意味する。

 この状況下でそれが起こるということは、ヴァンが助けたいと思っているシイナが死ぬという事を意味していた。


 つまり、シェイニーが邪魔者であるシイナを殺すということ。


 シェイニーは聖力(SP)によって召喚維持されているのでヴァンの魔力が尽きても消える事はないが、ヴァンを回復させるためにはシイナを黙らせておく必要がある。

 ユフィはシイナを殺す気はないようだったが、シェイニーはヴァンを殺そうとしたシイナを許す気はなかった。

 何故なら、それは同時に、ようやく手に入れたシェイニーの第二の人生をも奪う事になるため。

 ユフィほどシェイニーは寛容ではない。


 だが、それはヴァンの望む事ではない事もシェイニーは理解していた。

 それをしてしまえば、今現在の境遇――ヴァンが召喚するまでもなく自分の意思で自由に外へと出られるという関係――を失ってしまう可能性がある。

 先程はカッとなってシイナを本気で殺そうとしてしまったが、それをヴァンがわざわざ防いだ事で、シェイニーは改めてそれを理解し少し頭を冷やす。

 若干殊勝な態度となってしまったのは、それが一つの原因だった。


「……あなた、もしかしてたった3しかないの?」


「間違っている、間違っているぞ。ユフィを召喚している分があるから、最大値は6だ」


 その数値が意味することを正確には理解出来なかったが、シェイニーはそれがあまりにも小さな数値である事だけはすぐに理解していた。


 ヴァンが持っている魔力の最大値が6。

 恐らく聖力もそれと同じぐらい。

 つまり、シェイニーが持っている聖力は、ヴァンの聖力最大値の半分である3。


「ほんと、クズね」


 シェイニーは自分が2つの聖術しか使えない理由を悟った。


「それで? 私の質問にはまだ答えてもらっていないわよ。なぜ、あの子の命を助けたの? あなたを殺そうとした人を助けるなんて、あなたの頭には脳味噌が入っていないのかしら」


 そう言いながらシェイニーはヴァンの頭をコンコンと叩く。


「あら、音の響きが随分と良いのね。きっと中はほとんど空洞ね」


「何だか頭が重い……血を流しすぎたか」


「早く答えなさいと言ってるのが、聞・こ・え・な・い・の、かしら?」


 痛みがないという事で、シェイニーは思い切りヴァンの頬をつねっていた。

 ヴァンはなけなしのHPが更に減っていくのを眺めながら、重い口を開ける。


「……美人が死ぬのは、もったいないじゃないうぉっ!?」


 ヴァンの瞳に向けて突き出された人差し指は、反射的にヴァンが顔を反らした事で空をきる。


「その汚い目がなくなれば、あの子は別に殺しても良いって事よね」


「どういう理屈だ、それは」


「誤魔化さないでちゃんと答えなさい。何故、あの子を助けたの?」


 今度は逃げられないようにヴァンの顎をガッチリ掴みながらシェイニーが問う。

 シェイニーの瞳が逃げるなと言わんばかりにヴァンの目の前まで迫っていた。

 そんな状況にありながらも回復の手は止めていないのだから、ヴァンはシェイニーが本気で目潰しを仕掛けてしたわけではない事を察する。

 いや、そう思い込む。

 でないと、本当にシェイニーが怖くて直視できなかった。


「……殺さず」


 観念してヴァンは吐露する。


「それは何?」


「不殺、無殺、活殺。言い方ならいくらでもある。俺は……人を、殺したくない」


 それは、ごく当たり前の感情だった。

 但し……平和な世にあって植え付けられた贅沢な願いとしてではあったが。


 この世界の世にあっては、それは綺麗事でしかない。

 勿論、大半の者は殺したくないと思っている。

 が、それは「不必要に」という言葉が前につくものであり、厄介ごとがまるで関わらないのであれば、殺せる殺せないに関わらず必要とあらば殺すことを選ぶ。

 相手が殺す気で刺してきたならば、出来る出来ないに関わらず、自衛のために殺すことを選ぶ。

 それが普通。


「あなた、いったいどこの温室で育ったの?」


 生前が身近に人を殺す機会がよく転がっていた時代――部族間の抗争や国との戦争と常に隣り合わせだったシェイニーは、ヴァンの言っている事がまったく信じられなかった。


「記憶がないと言っただろう? 育ちはよく分からん。だが、これだけは言える。俺は、殺さずを胸に生きていた」


「よほど屈折した人生を歩んでいたのね」


 ヴァンが異世界からやってきたという事は知っていたが、それがどのような世界なのかはまるで理知外のことだったためシェイニーは想像出来ない。

 それは数百数千年前の地球において、当時の人々が現在の光景をまるで思い浮かべる事ができないのと同じことである。


 今では情報網が発達し仮想空夢想想像の産物が至るところで見受けられるため未来の光景を人々は色々と想像出来るが、そんなものがない昔の人々は夢物語ですらその未来の光景を思い浮かべる事は出来ない。

 法術は便利だが、それが高度に発達した世界を人々はまだ想像する事すら出来ないというのが、ヴァンのいるこの世界の文明レベルだった。


「いいわ。とりあえず納得してあげる。たまにそういう莫迦もいない訳ではないしね」


「助かる」


「その台詞は本当に助かってからにしてほしいものね」


 そう言ったシェイニーの顔に、少し焦りの色が浮かぶ。


「血が、止まらない」


「おおぅ……」


 そういえば、とヴァンは思い出す。

 シェイニーが詠唱をしてまで回復法術を使っているというのに、HPが回復していない事にヴァンは今更ながら気が付いた。

 HPが減り続けているということはシェイニーに頬をつねられた時に気が付いていたというのに。


「あぁ~っと……俺、助かる?」


 その当然のような問いかけに、それまで直視していたシェイニーの瞳が横に反らされる。

 咄嗟に出てしまった言葉の意味は、シェイニーには理解出来なかった。

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