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「もう……だめじゃ、ぬしさま」


「まだいける。耐えてくれ」


「ぅ……これ、以上は……入ら……」


「もっと足を開け。もしくは上げろ」


 ヴァンがユフィの膝をぐいっと押すと、可愛い悲鳴が聞こえた。

 思わずヴァンは手を止めてユフィの顔を見る。

 悪戯好きの狐のような顔にまるで虐めてくれと言わんばかりの涙がうっすらと浮かんでいた。


「そんな声を出す事もあるんだな」


 涙を指で優しく拭いながら声をかけると、ユフィの瞳は途端に目端が釣り上がる。


「他人事じゃと思って」


「今は他人事だからな」


 ヴァンが狭い隙間を無理矢理こじ開けながら押し込んでいく。

 が、抵抗が大きくなかなか入っていかない。


「ほんと、きついな」


 額にうっすらと汗を滲ませたヴァンがもう一度ユフィの膝を持って押す。

 一瞬、ユフィがビクンと反応するが、ユフィはもう耐えるだけで言葉を発しなかった。

 若干前進したものの、まだ半分にも達していない。


「ちょっと休憩」


 すぐ近くにあったユフィの肩上へと額を乗せてヴァンが一息吐く。

 壁の隙間に挟まるように立っていたユフィは、先行していた方の手で鉄扇を掴みヴァンの頭を叩いた。


「我が辛い思いをしておるというのに、しれっと休むでない」


「一番苦労してるのは俺なんだが」


「最初に言い出したのはぬしさまじゃろうに。いくら我が細身でも、この隙間を通り抜けるのは至難の業じゃと言ったろうに」


「いけると思ったんだがな。尻尾の分を考えるのを忘れていたか」


「我の尻には尻尾は付いておらぬ!」


 つまりその尻の肉が予想よりも多かったんだな、という言葉は流石にヴァンは飲み込んだ。


「シェイニー、そっちはどうだ? 手が必要なら加勢するが」


 ヴァンが振り向くと、少し離れた場所でシェイニーが弓を番え、2つの通路に向けて次々と矢を射続けていた。

 ユフィが隙間に身体を滑り込ませつっかえた所で現れた敵の姿。

 右からはゴーストゾンビ、左からはユニオンスライム。

 機動力がないので弓矢の恰好の餌食になっているが、いかんせん数が多かった。

 しかも途切れるという様子が全く感じられない。


 罠というのは本当にどんな所でも仕掛けられているのだとヴァンはうんざりする。


「雑魚はいらないわ。掃除は私だけで十分よ」


「そうか」


 やや声が低くなっていた事には気付かないふりをして、ヴァンはユフィへと視線を戻す。

 ユフィは上げた右足の爪先を壁に引っ掛け、ずりずりと自力で前進を試みていた。

 袴の裾が足首まであるのでヴァンがドキッとするような光景ではなかったが、あまり他人には見せられない恰好である事には違いない。


「この通路の先に宝箱が見えているのは、やっぱり罠だったんだな」


「これで中身がしょぼかったら我は泣くぞ」


「人食い箱だったら?」


「八つ当たりじゃ! もちろん、ぬしさまを含めての」


 ヴァンは冗談で言ったつもりだったのだが、ユフィの八つ当たりは現実となった。


「中身はまぁまぁだったのに、何でだ……」


「乙女を辱めた天罰じゃ」


 その後で、今度はシェイニーの八つ当たりが始まる。


「あら、こっちの雑魚は中々にしぶといわね」


 ユフィが隙間を通り抜けた事で元の位置まで戻った壁が、シェイニーの手によって再び罠が発動し閉じていく。

 前後をユフィとシェイニーに挟まれていたヴァンは、逃げる事叶わず。

 左右から迫ってきた壁に押し潰された。


 壁は僅かな隙間を残して止まったが、ヴァンの体格はユフィと比べるべくもないので盛大にダメージを発生させる。

 壁が元の位置に戻った後、倒れたヴァンを癒やすシェイニーの顔はどこか嬉しそうだった。

 ――残虐的な意味で。


「これで右側の通路はすべて調べ終わったの」


「結局、こっちには次の階層への階段は無かったか」


 右側の通路とは、この迷宮に入って最初に現れるT字路の分岐の事である。

 ヴァンの提案で右手の法則――右手を常に右の壁につけて進むという探索方法――を使って探索し始めた3人は、今日になってようやく右側の通路の先を全て調べ終わった。

 と言っても、シイナの救出劇を繰り広げた後の約3日間はずっと狩りに興じていたため、地図を埋めるのにかかった日数は約半分だったが。


 それでも、右手の法則がアッサリと用済みになった初日、およびヴァンが地図係になった2日間のマッピング達成率は芳しくなかったため、ほとんど今日一日で地図の半分以上を埋めたと言っても過言ではなかった。


「まだ時間はあるようじゃが、左に進むかや? それとも今日はこれで帰るかや?」


 時刻はだいたいオヤツの時間――この世界の刻限で言えば《火の絶刻》もしくは《闇の始刻》という時間帯。

 日はまだ高い位置にあるもののこれから約2刻ほどの間(約4時間)は魔者達の力が少し活性化するため注意が必要な時刻であった。


 現在の季節は〈地季〉の終わりの〈星月〉。

 日本で言えば秋の11月。

 だんだんと日が沈む時間も早くなっているため、慎重を期すならば間違いなく帰るという選択肢を選ぶところ。

 ただ場所が迷宮内だけあって内部は闇に閉ざされているため、昼だろうが夜だろうが基本的にはあまり関係がない。

 シェイニーが常時展開し続けている灯り――ホーリーアローを応用した聖光なのだが――それさえあれば、ヴァンの体力が続く限り迷宮に潜り続ける事は可能だった。


 ちなみにユフィとシェイニーは瞬間的な疲労は発生しても、スタミナ的な疲弊は生じない。

 MP固定やらSP固定やら、ユフィとシェイニーが意外に恵まれた環境下にあることをヴァンがかなり羨ましがっていたのは言うまでもなかった。


「探索続行だな」


「たわけ。ここは帰るの一択じゃ」


 鉄扇の角で叩かれるとはヴァンは思っていなかった。

 正確に言えば、鉄扇で叩かれる可能性は危惧していたが、それが斜め45度からの死角から襲い掛かってくるとは考えていなかった。


「あまり良い音では鳴らなかったわね」


 そう言いながらユフィに鉄扇を返すシェイニーに、ヴァンは痛がる事に忙しくて何も言い返せない。


「安全第一じゃ」


 行動方針を決めたらすぐに出発する。


「その言葉の中に俺は含まれていないんだろうな。必ず先頭を歩かされる俺の身の安全はいったいどこにあるのか」


「罠に引っかからなければ良いじゃない」


「だよな……というか、普通に見分けがつかない」


「そんな簡単に見つかるなら罠として失格じゃろうに」


「つまりこの迷宮の罠は優秀だという事か」


「否定してあげる」


 何事も経験じゃと言われて前を歩いているが、罠に引っかかる経験値はたまっても罠の看破が出来る様になる気配は一向に無かった。

 それでもヴァンを先行させて歩かせるユフィ。

 後衛のシェイニーが後ろを歩くというのは至極当たり前の事なのでヴァンも納得がいくが、同じ前衛の筈のユフィがヴァンから若干距離を取って歩いている事には少し納得がいかない。


「ほれ、早く進むがよい。次は右じゃ」


 ヴァンが立ち止まると同時にユフィ達も立ち止まる。

 たまに近くに罠が仕掛けられていないかどうか調べるために立ち止まり、周囲だけでなくユフィ達の様子も観察して罠の有無を調べる。

 調べた結果は異常なし。


「ここの罠に引っかかるのは何度目かしらね」


 実際の結果はシェイニーが指摘した通りだった。

 突然に口を開けた床に、ヴァンの姿が一瞬で奈落の底へと消えていく。

 流石にヴァンも慣れたもので、もはや悲鳴をあげる事はなかった。


「スライムプールの通路だったか。てっきり遭遇する方の道だと思ってたんだがな」


「お金が出来たら真っ先に紙を買わねばならぬの。ぬしさまの頭は地図との相性が悪いらしい」


「無駄使いね」


 尚、落とし穴の底は浅く、ヴァンがジャンプをすれば手がギリギリ届く深さだった。

 底には竹槍などの追加トラップもなく、正真正銘の落とし穴である。

 但し、穴の中にいると近くでユニオンスライムが沸き続けるため、悠長に穴の中に居座り続けるとユニスラ達が落ちてきてプールと化す仕組みになっていた。


「さて、こっちで良かったよな?」


 答える前にヴァンが右折し、直後に足を滑らせて転倒する。


「近道には違いないが、進むには余計に時間が掛かるからお勧め出来ぬ道じゃの」


「あら不思議。この地面、生暖かくてふにふにしているわ」


 僅かな躊躇いもなくシェイニーが転んだヴァンの背中の上を歩く。

 そして当然、途中で止まって足踏み。


「おお……マッサージみたいで意外に気持ちが良い」


「二人分じゃと?」


「流石にそれは……ぐふぉっ」


 実は狙って罠を発動し続けているのではと勘ぐってしまうぐらいにヴァンは罠に愛されていた。

 固定SPの御陰でシェイニーが無限に回復出来なければ、とっくにヴァンの命は3回ぐらい散っていただろう。


 ユフィとシェイニーの2人だけならば半刻程度で踏破できるだろう道程を、3人はその3倍近くの時間を費やしてようやく迷宮最初の分岐路まで辿り着く。


「折角ここまで来たんだ。この次の分岐路ぐらいまでは進んでみないか?」


 迷宮の作りから言えば、入口が見える所までしか進んでいない事になる。


「次の分岐路までじゃぞ」


 それぐらいの距離ならば道に迷う事もまずないので、ユフィはその提案を受け入れた。

 とりあえず致命的な罠がない事を確認した後で、更に念を押すためシェイニーに目配せをする。

 心得たとばかりにシェイニーが頷く。


 この迷宮の罠はそのほとんどが聖力もしくは魔力を内包していたため、ユフィとシェイニーにとっては簡単に見つける事が出来た。

 先程の落とし穴にしても、中に召喚装置が仕込まれているからなのか、床下から魔力が滲み出るように溢れているため、少し目を凝らせば見つけるのは容易い。

 ただ全てが全てそういう訳でもないので、そういう時にはまずヴァンの命を最優先に行動する必要があった。


 具体的に言えば、未探索の通路を歩く場合にはユフィは出来る限りヴァンの近くに陣取り、シェイニーも弓に矢を番えておく事を忘れない。

 初日はユフィが先行してこの迷宮の脅威度を測りつつ罠を発見して説明していたのだが、途中からヴァンが勝手に前を歩き始めたので方針を変更したのである。

 ヴァンが前を歩きたがったのは見栄からくるものと、ユフィとシェイニーを危険な目に合わせたくないというやっぱり見栄のような思いによるものが大きい。


 実力はユフィとシェイニーの方が上でも、2人はやはり女の子。

 このPTメンバーで盾となるのは自分しかいないとヴァンは思い、その思いが次第に強くなり欲となるにはあまり時間は掛からなかった。

 欲となれば、後は呪いの効果によって増幅されるのみ。

 悪い欲でもないので、ユフィとシェイニーは喜んでそれを受け入れた。


 ただ、今回ばかりはそれが裏目に出てしまう。


「またか。余程、縁があるらしいな」


 突如として走り出したヴァンに、2人は慌ててその後を追ったのだった。










 分岐路すらなかった通路の先には、とても広い部屋があった。

 迷宮内であるため天井はヴァンの背丈4つ分といった程度ではあるものの、幅と奥行きは相当なもの。

 例えるならばボス部屋。

 それを証明するかのように、ヴァンが入ってきた通路から見える位置に巨大な蜘蛛が天井からぶら下がっていた。


 その蜘蛛の手足はお尻から吹き出す糸を使って、目の前にいる獲物を絡め捕ろうと奮闘していた。

 ねっとりとした水分を含んだ糸は柔らかく伸びやすいため獲物に絡みついてもそこまで動きを束縛する事はなかったが、揮発性の水分はじきに蒸発して糸はだんだんと堅くなっていく。

 故に蜘蛛は、獲物が振るう斬れ味の鋭い短剣だけには注意しながら、今はとにかく糸を出来るだけくっつける事に専念していた。


 すぐに身動きが取れなくなると一目で理解したヴァンが一陣の風と化し、蜘蛛へと襲い掛かる。

 それに気が付いた蜘蛛――ベルセルクスパイダーは、当然の事ながら回避しようとした。

 自身の身体を支えていた天井へ繋がっている糸を後ろ足で器用に引っ張り上昇する。


 しかし、ヴァンの攻撃はベルセルクスパイダーの巨大な身体へとヒットした。


「ナイスじゃ、シェイニー」


 蜘蛛の細い糸を見事に射貫いた黒髪の相方にユフィが絶賛の声をあげる。


「あなたはっ……!?」


「話は後だ。先にこいつをやってしまおう」


 息も絶え絶えになりながらも強い視線を投げ付けてきたその女性――シイナにそう言葉を返しつつ、ヴァンはベルセルクスパイダーにもう一撃叩き込む。


 ピンチに陥っている女性を助けるというシチュエーション。

 ヴァンの心は自然と弾んだ。

 前回も似たような状況ではあったが、あの時はすぐにシイナが気絶してしまったので存分にその心境を味わう事が出来なかった。

 しかし今回は違う。

 前回の鬱憤もあり、ヴァンは己の内に燃え上がったその思いを心地好く闘志へと変換する。


「はぁあっ!!」


 まるで居合い斬りをするかのように、重心を低くして右手で持った棍棒を振るう。

 力を込めた右薙ぎの一撃。

 だが威力が足りず、ヴァンが思い描いていたような事態――漫画やアニメのように、ベルセルクスパイダーが盛大に吹っ飛ばされて壁を突き破っていくようなスカッとする光景――にはならない。

 振り抜けなかった棍棒が、まるでゴムマットを撃ったかのような鈍い音を鳴らす。

 しかしその衝撃でベルセルクスパイダーが仰け反り、隙を作る。


 そのベルセルクスパイダーの身に、シェイニーの放つ矢が容赦なく次々と突き刺さっていった。


「浅いわね。面の皮が厚いのかしら」


 矢尻のみが刺さった矢を、ベルセルクスパイダーが手足で払い落とす。

 傷口もすぐに糸で接着されていく。


「さて、どうするんじゃ? ぬしさまよ」


「糸に注意しつつ、シェイニーがメインアタッカーになるしかないだろう。この巨体だからな。打撃だけだと倒せる気がまるでしない」


「懸命な判断じゃて。流石は我のぬしさまじゃ」


「後半を棒読みにするなよ……嬉しい台詞が思い切り味気なくなってるじゃないか」


「ねぇ、お願い。早く死んでくれない?」


「滅茶苦茶気持ちが込められていても、その台詞だと全然嬉しくない!」


 戦闘はヴァン達が有利に運んでいた。

 シェイニーの放つ矢は【火】属性も持ち合わせていたため、蜘蛛の糸とはとても相性が良い。

 放つ矢は糸を簡単に射貫き、場合によっては燃やしていく。

 ベルセルクスパイダーは獲物を捕獲するためと自身の攻防を有利にするため部屋の中に蜘蛛の巣を張り巡らせていたが、無限に射続けられるシェイニーの矢の前には糸は為す術なく散っていくのみ。


 その代わり、ユフィとの相性はあまり良くなかった。

 ユフィの使える強化法術は【水】属性。

 乾くと堅くなるが同時に取れやすくもなる糸が乾かなくなるため、強化した鉄扇で触れるとネバネバした糸が貼り付いたままとなってしまう。

 糸数本程度ならば動きは阻害されないが、束になると厄介なことこの上ない。

 それは先に糸まみれになっていたシイナと、自ら糸まみれになっていったのではと言いたくなるヴァンの様子を見なくても、少し考えればすぐに分かる内容だった。


 ――訂正。

 ヴァン達が有利に運んでいるのではなく、シェイニーとユフィの息のあったコンビが戦闘を有利に運んでいた。


「あなたも燃やしてあげる」


「うぁっち!」


 あらかたの掃除を終えたシェイニーが、今度はヴァンに絡まった糸を標的にして矢を放ちまくる。

 その間、ベルセルクスパイダーはユフィが相手をしていた。


 蜘蛛の糸は鉄扇で触れる事が出来なくとも、蜘蛛本体に触れる事は出来る。

 お尻から噴出した糸を使って距離を取ろうとする蜘蛛の足を、ユフィは開いた鉄扇で容赦なく斬り裂いていく。

 ただの紙でも指が切れるように、鉄扇も刃筋を通して鋭く振り抜けば容易に凶器となる。

 鉄扇は元々凶器として製造されているため扇面の先端は鋭くなっていた。


 流石に斬るというほどの鋭さはないので、ユフィは己の技量で蜘蛛の足を断っていた。


「む……攻撃パターンが早くも変化したな」


「そりゃ手足を斬られれば攻撃方法も変えざるをえんじゃろうに」


 後ろを向いたベルセルクスパイダーが、そのお尻から糸玉を吐き出してユフィを攻撃する。

 逃走と攻撃の両方を可能とする一石二鳥の技。

 だがユフィは見切ってヒラリヒラリと躱す。

 まるで舞いを踊っているかのように。


「ほれ、そっちにいったぞ」


「我が刀の錆びとなりにくるとは良い度胸だな。成敗してくれる」


 ヴァンが縦向きにした棍棒を前に出しながら何やら口走る。

 ちなみにバーサーク状態ではないので、ただの悪ふざけであった。

 もちろん刀などどこにもない。


「ぬしさまの腕の方が錆び付いていそうじゃがの」


「錆びる以前の問題でしょ」


 外野の声を無視してヴァンが飛ぶ。

 大きく振りかぶった一撃は、しかし横にぴょんっと跳ばれた事で呆気なく空振りした。


「逃がさ……っ!?」


 追撃に移ろうとしたヴァンの身に矢の雨が降り注ぐ。


「おぉおっ!?」


「ドンピシャね」


 シェイニーが誇らしげにそう言うが、ヴァンは矢の雨を防ぐのに手一杯でまったく聞こえていなかった。

 だがその攻撃がいったいどこから来たかなど考えるまでもない。


「シェイニー!」


「あら、まだ生きているの? 仕方ないわね。追加をあげる」


「ひぁっ」


 今度は真っ直ぐに突き向かってきた矢に、ヴァンが素っ頓狂な声をあげて横に跳ぶ。

 その一瞬後を、ベルセルクスパイダーが放った糸玉が通り過ぎた。


「ほれ、まだ戦闘中じゃぞ。ぬしさま遊びはそれぐらいにして、そろそろトドメを刺さぬか」


「良い所だったのに……」


「後でいくらでも出来るじゃろうに」


「流石にいくらでもというのは困るんだがっ!?」


「じゃから戦闘中じゃと言っておろうに。よそ見するでない!」


 ユフィのその注意は、しかし僅かに間に合わず。

 ヴァンはベルセルクスパイダーの体当たりを受けて吹き飛ばされた。


「いたたっ」


 咄嗟のガードが間に合い、ヴァンが着地しながら苦鳴を漏らす。

 同時に、二度三度とヴァンの身を守った棍棒がついに限界をむかえ砕け散った。


「形ある物はいつか壊れる、か……」


 砕けた棍棒の柄を見ながら名残惜しそうにヴァンが口ずさむ。


「あなたもいつかそれと同じ運命を辿る事になる……いえ、今すぐにでも辿りなさい」


 その棍棒は、シェイニーが手作りしたヴァンへの贈り物。


「いや、すまん! 俺が悪かった! だから俺を攻撃するのはやめてくれ!」


「問答無用!」


「敵さんはあっちのでかい蜘蛛なんじゃがの」


 さしものベルセルクスパイダーも、何度となく仲間割れしているヴァンとシェイニーの姿に戸惑いの色を浮かべているようだった。


 そのベルセルクスパイダーの瞳が、一匹の獲物の姿を映し出す。

 シイナは運悪く糸玉の直撃を受けて身動きが取れない状態にあった。

 好機と見て、シイナ目掛けてベルセルクスパイダーが疾走する。


 元々ベルセルクスパイダーの標的はシイナ一人だった。

 ベルセルクスパイダーは子蜘蛛を作って周囲に放ち、獲物となる者を探させる。

 獲物が見つかった場合、子蜘蛛は体内で生成した混乱と催眠の効果を持つ毒を標的に撃ち込み、親蜘蛛の下へと獲物を誘導するという特性を持っていた。

 撃ち込んだ毒が効果を及ぼすには時間がかかるものの、その毒は体力を奪うものではない上に思考力を徐々に下げていく類のもの。

 そのため、毒を受けた本人がその毒に気付く可能性はとても低かった。


 シイナは、未だ自身がその蜘蛛の毒を受けたとは気付いていなかった。

 混乱や催眠、思考力の低下という症状を自覚出来なくとも、シイナの身体はほぼいつも通りに動いてくれる。

 今も必至に蜘蛛糸から抜け出そうとがむしゃらに動いていた。

 この部屋に入ってすぐにベルセルクスパイダーが襲い掛かってきた時もすぐに応戦し、何とか生き延びようと奮闘していた。

 既にベルセルクスパイダーの術中にはまっているとは知らないまま。


 シイナは自分がどうしてここにいるのか理解していなかった。

 手に持っている短剣をいったいどこで調達したのか疑問にすら思わない。

 身体中に絡まっている糸から抜け出す方法を考えないまま、ただがむしゃらに身体を動かして抜け出そうとしていた。

 襲い掛かってきた巨大な蜘蛛には絶対に敵わないのだという事実を認識する事が出来ず、逃げ出すという選択肢も頭の中に思い浮かばない。

 ただただ生きるために応戦し続ける。


 但し、ハッキリと認識している事もあった。

 それはヴァンの存在。

 シイナは、ヴァンに対して募らせていたある思いだけは頭の中に強く残っていた。


「まったく、何で我がこの娘を守らんといけんのじゃ」


 ベルセルクスパイダーが矛先を変えても一向にその場から逃げようとしなかったシイナの前に、ユフィがそんな言葉を呟きながら躍り出る。

 構わず、ベルセルクスパイダーは獲物の中で一番小柄だったユフィに向けてそのまま突進を敢行した。


「ほれ、そっちに行くがよい」


 ユフィはその突進の軌道を、ベルセルクスパイダーの眼前に突きだした鉄扇を素早く左に振ることで変えた。

 猫騙しに似た注意の引きつけに続き視線を誘導する事で首も反らさせ、最終的に身体も反らしてしまう技である。

 失敗した場合は鉄扇を返して横殴りの一撃を入れるつもりだったのだが……。

 ベルセルクスパイダーは見事に引っかかり、明後日の方向へとその進路をずらした。


「それと、ついでに最後の一本ももらっておくとするかの」


 そう言って、ユフィはすれ違いざまにベルセルクスパイダーの前足4本のうち、最後まで残っていた一本を鉄扇で断ち斬った。

 瞬間、ベルセルクスパイダーはバランスを崩して転倒する。

 後ろ足で走り、前足でバランスを取っていたが故の結果だった。


 お返しとばかりにベルセルクスパイダーが尻から糸玉を発射する。

 拳大の直球が空気に触れてみるみる粘り気のある糸へと変化していく。

 もともと蜘蛛の糸は体内では液状で存在し、体外へ排出される際に空気と応力によって繊維状となる。

 ベルセルクスパイダーの糸の場合、含まれている水分の揮発度によって粘性や硬度が変わるという特徴を持っており、体外へ排出された時が最も粘性が高く硬度が低い。

 つまりその糸玉は相手を倒すためのものではなく、捕獲するためのもの。


 当然、ユフィは先程までと同様にその糸玉を避けようとした。


「むっ!?」


 だが、それはただの糸玉ではなかった。

 今までよりも高速で発射された糸玉が、空気抵抗に負けて花開く。


「しまった! これは……」


 それはスパイダーネットと呼ばれる広範囲に広がる蜘蛛糸の網だった。


「我としたことが……シェイニー!」


「そんな叫ばなくても、ちゃんと見ているわよ。私を誰だと思っているの?」


 ホーリーアローの矢が正確にユフィへと絡まった糸だけを射抜き、燃やしていく。

 発射された次弾の糸玉もシェイニーは見事に撃ち抜いていた。


「今、矢が曲がらなかったか?」


「あなたの性根ほどじゃないけどね。法術なんだから、曲げる事だって出来るわよ」


「俺のは曲がってるんじゃなくて腐ってい……って、俺は何を言っているんだ」


「知ってる? ゾンビはたまに腐った心臓を残すのだけど、何の価値もないそうよ。錬金術ですら取り扱えないって言うのだから、本当にゴミよね。まぁそれでもあなたのその胸の中に収まっている腐った何かさんよりは価値はあるのかもしれないけれど」


「俺の心臓はまだ新鮮だ! でなければ俺は死んでいる事になるじゃないか」


「はぁ……いつになったらあなたが本当は死んでるって事に気が付いてくれるのかしら。脳も腐ってると本当に物分かりが悪いわよね。そう思わない?」


「いや、だかぐはっ!?」


 隙だらけだったヴァンを、ベルセルクスパイダーが突進で吹き飛ばした。


「だから今は戦闘中じゃと言っておろうに。以前ぬしさまが言っておった真剣に闘っているという言葉はいったいどこにいってしもうたんじゃか」


 もう一度ヴァンを突き飛ばそうとしたベルセルクスパイダーの残った足をシェイニーが矢で射抜き、ユフィが鉄扇で頭を殴り撃つ。

 瞬間、5つある巨大な目玉が赤く明滅し、ベルセルクスパイダーが怒りの感情を灯した。


 ベルセルクスパイダーがキシャァァァーっと叫び、口から大量の糸を吐き出す。


「今更泣いても遅いわよ」


「こ、腰が……」


「今頃泣き言を言うなら本当に殺すわよ」


 天井へと向けて吐き出された糸が巨大な網となってその場にいた全員へ襲い掛かった。

 すぐにシェイニーが矢を放つ。

 が、面に対して点の攻撃で効果が薄い。

 だけでなく、ベルセルクスパイダーは途切れることなく糸を吐き出していたので、ホーリーアローの矢で焼き空けた穴もすぐに塞がっていく。


「さしずめ、スパイダーシャワーだな」


「暢気に命名しておる場合か。あれが落ちて来たら我等の負けじゃ」


 口から吐き出した蜘蛛の網は非常に軽く、すぐには落ちてこなかった。


 これまでベルセルクスパイダーが尻から出していた糸は、元々は液状の物質。

 水分を含んでいるためそれなりの重さがあった。

 だが今現在ベルセルクスパイダーが口から吐き出しているのは、水分をほとんど含まない糸。

 しかも粘性を最小限におさえた糸だったので、蚕が作る繭の絹糸のようにほぼ繊維といっていい状態にあった。


 そんな糸を、口から数百数千という数でベルセルクスパイダーは吐き出し、最後の賭けに出る。

 それは自身の命を削る捨て身の必殺技。

 糸の生成に大量のエネルギーを消費する上に完全な無防備状態となるため、獲物を捕獲できても自らは殺されているという結果を招く可能性が高かった。

 だけでなく、糸の効果範囲から獲物が逃げてしまうと、すぐに餓死してしまう。

 まさに一か八かの賭けだった。


「逃げの選択肢はなしだな」


 未だ身動きが制限されているシイナを見てヴァンが言う。


「上の糸は我とシェイニーが何とかしてみせる。じゃから、ぬしさまは美味しい所を持っていってくりゃれ」


「打撃で倒すのは難しいと最初に言ったんだがな」


「奥の手でも裏の手でも何でも使うがよい。後のフォローは任せよ」


 ユフィはそう言っているものの、ヴァンはシェイニーを見て意見をうかがう。


「猫の手ほども役に立たないあなたの力の見せ所じゃないかしら? 安心しなさい。例え骨が残っても全部ちゃんと砕いてあげる」


 その言葉はヴァンの脳内で「頑張ってね。期待しているわ」という言葉に変換された。


「即行で片をつけるぞ!」


「その意気じゃ!」


 天井を埋め尽くすほどのどす黒い糸が落ちてくるまで残り約20秒。

 ヴァンは、狂戦士と化した。










「《殺》の一文字、心に刻み《刃》と成せ」


 その言葉を機動の鍵として、ヴァンがバーサークモードを発動させる。

 それまで涼しかった顔が途端に修羅の如き鬼面と化した。


 一足で黒い疾風となったヴァンが勢いそのままに棍棒をベルセルクスパイダーのお腹に叩き込む。

 だが、まだ体内に残っていた糸の原料が弾力となって棍棒を押し返す。

 筋肉の限界を取っ払った一撃でも、ベルセルクスパイダーには大きなダメージを与える事は出来なかった。


 構わず、ヴァンは棍棒を振り上げベルセルクスパイダーのお腹を執拗に殴りまくる。

 そのたびにベルセルクスパイダーが口から吐き出している糸の量が瞬間的に減る。

 苦痛を感じているのか、赤く灯った5つの瞳も時々その色を薄めていた。


 最も攻撃しやすい腹部の攻撃があまり効果なかったため、ヴァンは攻撃先を早々に頭胸部へと変える。

 頭胸部から出ている残り3本の足をよじ登り、瞳の一つへと棍棒を振り降ろした。


 瞬間、ベルセルクスパイダーが大きく鳴き叫んだ。

 だが理性を取っ払ったヴァンに躊躇の二文字はない。

 もう一度大きく棍棒を振り上げて、その残酷な一撃を容赦なく振り降ろす。


「ククク……今宵の棍棒は血に飢えておるわ」


 3つ目を叩き潰した時、盛大に飛び散る血飛沫でヴァンの身体は赤く染まっていた。

 まさに悪鬼の所業。

 そんな壮絶な光景を、ヴァンが助け出そうとした女性の瞳が食い入るように見ているなどとはヴァンは気付かない。

 客観的に見れば、ヴァンの方が明らかに悪者だった。


 不死者や精霊型などの例外を除いて、魔者は基本的に人を捕食する。

 元は魔の瘴気でも、大半は具現化する際に生命体を取り込んで命を持つからである。

 ユニオンスライムの場合は生命体としては微妙な線だが、ハウンドヴォルフを代表する動物型魔者や、ダンジョンバタフライやベルセルクスパイダーのような昆虫型魔者はその生命の維持に栄養を必要とする。

 ただ、必ずしもその栄養源が人である必要は無かった。


 魔者によっては、別種の魔者を命の糧とする場合も決して少なくない。

 例えばこの迷宮にいるハウンドヴォルフは、シイナが標的とされるまではベルセルクスパイダーの主食という扱いを受けていた。

 しかしそれは、ベルセルクスパイダーにしてみれば自らの命を維持するための最低限必要なエネルギー源としてでしかなく、確かに腹を満たすことには一役かっていたが、味の欲求および血や肉となる栄養素としてはまるで条件を満たしておらず、食事というのも憚れるようなものだった。

 人に言いかえれば、味のない堅いパンと塩水だけを毎日食しているようなものである。

 いつまでも耐えられるものではない。

 加えて、大半の魔者にとって人という種は大の好物でもあった。


 本来ならばベルセルクスパイダーもそんな迷宮での生活にはさっさと見切りを付けて、別の場所に移動するのだが。

 そのベルセルクスパイダーは、この銀狼の迷宮第一階層のボスとしてランダム召喚の網に運悪く引っかかってしまったために、己の意思ではそのボス部屋から出る事が出来ないという制約に縛られていた。

 しかもこの銀狼の迷宮は、ほとんど誰も入ってこないという立地条件。

 何が善であり、何が悪なのか。

 そんな事はC級眷属魔者ベルセルクスパイダーにとっては全くどうでも良い事であり、ただようやく目の前に現れてくれた己の食欲を満たしてくれるシイナという獲物を、是が非でも食べたいという強い思いに突き動かされているだけだった。


 その願いが後1歩の所で叶う。

 そんな時に現れた邪魔者――ヴァンという存在は、ベルセルクスパイダーの瞳にはまさに悪魔として映っていた。


「これで……終わりだっ!」


 そして振り降ろされた棍棒が最後まで残っていた瞳を叩き潰し、遂にベルセルクスパイダーの世界が完全な闇に閉ざされた。









 ヴァンが狂戦士化し、ベルセルクスパイダーの瞳を叩き潰した時から僅かに遡ること、数秒。


「普通に私があれを倒してしまった方が良かったんじゃないの?」


 天井に向けて矢を撃ち続けていたシェイニーが、そんな質問をユフィに投げかけていた。


「ならば何故さっさと倒さなかったんじゃ? おぬしもとっくに気付いておろう。じゃからそんな無駄撃ちばかりをしておるんじゃろう?」


「愚問だというのは理解しているわ。ただ、言葉を交わして確認しておくのは必要だと思っただけよ」


 シェイニーの力量から考えれば、ベルセルクスパイダーの8本の足を全て射抜き、5つある目玉を潰すことはそれほど難しい事ではなかった。

 この迷宮に入った頃はブランクがあまりにも長かった事と低下した自身の力の扱いに慣れていなかったため標的に命中させるだけでも一苦労ではあったが、ここ数日間の戦闘で勘を取り戻し、条件付きで命中率を飛躍的に上昇させる方法も使えるようになっている。

 ヴァンが棍棒の一撃で隙を作った時でも、ユフィが突進を反らし転倒させた後でも、いつでもベルセルクスパイダーに致命傷を与える機会はあった。


 しかしシェイニーはそれを意図的に行っていない。

 普通に考えれば、それはただの怠慢でしかなかった。


「限界は見えて?」


「とっくにの」


「なら、やっぱりそういう事なのね。私達の力は、あいつの力に左右されている」


「ぬしさまの力量に制限されておる、と我は見ておる」


「どっちでも良いわよ、そんなの」


 蜘蛛糸によって作られた捕縛天井の高度が半分まで下がってきた所で、シェイニーは矢を放つのをやめた。

 矢を放てば小さな穴が空く。

 その周囲が若干燃えて穴が少し広がる。

 しかしすぐにベルセルクスパイダーが常時吐き出し続ける大量の蜘蛛糸によって塞がれてしまう。

 いくら矢が無限に撃ち続けられるといっても、効果がなければ撃っていない事と同じだった。


「この階層では問題なかったようじゃが、このままでは遠からず我等の力では対処出来ぬようになるの」


 目の前に差し迫っている脅威を、まるで大した事ではないという口ぶり。


「ほんと、歯がゆいわ」


 ヴァンが死んでしまうことを2人が懸念しているというのは変わらない。

 ヴァンに召喚される事で自由の身を得ている2人にとって、ヴァンの命は何よりも優先すべき事である。

 そして、ヴァンの機嫌を完全に損ねて自由に外に出れなくなるというのも回避しなければならない事だった。

 何故なら、外に出られない間にヴァンが死んでしまう可能性が、決して無視出来ないほど高かったために。


 そこに、新しく発覚した事実によって、もう一つ条件が付け加えられてしまっていた。

 それは元来2人が持ち合わせていた力の低下、その制限。

 当初、2人はそれをヴァンと召喚契約を交わした際に引き起こった一時的なものではないかと考えていた。

 しかしその予想……というよりも願望に近い考えは、悪い意味で裏切られてしまう。


 ヴァンの聖力を源に召喚されたシェイニーが、魔力がまるでない状態にあり、しかも聖力が最大値で固定されている(あまりにも低いが)という驚愕の事実が発覚した事を皮切りに、次々と明るみになっていく異常な状況。

 ヴァンの魔力を源に召喚されたユフィは、その反対であったこと。

 通常の成長とは全く異なる感覚で、自身の強さが突然に上昇するという不可解な現象。

 ヴァンから聞かされた、現在の職業とレベルという謎の情報。

 どれもまるで聞いた事のないものばかりだった。


 とはいえ、2人ともこの地に住まう悪しき賢者の実験によって色々と弄られているという身の上。

 自身の身に何が起こっても不思議ではない。

 実験の内容は違えど同じ境遇にあるヴァンとの間に出来た、人を人として扱っていない境遇――召喚契約の繋がりも含めて、2人はそれほど驚いてはいなかった。


 故に2人は、自身の力がヴァンの力量に左右されるというあまりにも異質な状態にあることは、それほど不思議には思っていない。

 不思議には思っていないが、問題がないというわけではなかった。


「せめて我等の強さが独立してれば良かったのじゃが……」


 力が独立しているのであれば時間を掛けて己を研鑽するのみなので、ヴァンの育成とお守りを無理に両立させる必要はない。

 まずは己の力を高めヴァンのお守りを優先し、ヴァンの成長は長い目で見るだけだった。


 しかし、失った力が容易には取り戻せないことは2人にとって大きな誤算だった。

 ただ力を失っただけであれば、鍛錬を重ねて取り戻せばいい。

 幸いにして知識も経験も地盤も持ち合わせているので、あとは効率良く己の身を鍛え上げるだけで事足りる。


 また、腕は鈍っても以前持ち合わせていた勘はそのままなので、シェイニーの弓の腕前のように誤差を地道に修正していけば精度をあげるのはそれほど難しくなかった。

 ユフィの扇さばきにしても、扇自体は武器として扱った事はないものの、現時点の力と身体の動きを計算し今へ当てはめることで受け流したり往なしたりするは出来る。


 法術にしてもそう。

 シェイニーは最初から2つの聖術――ホーリーアローとセレスティアホーリーハンドを使用する事が出来た。

 ユフィも黎水の理という魔法を使う事が出来る。

 流石にSP/MP最大値が低いので威力や効果は低かったが。


「法術がいくらでも使えるというのがせめてもの救いね」


 ただその代わりに、いくらでも行使する事が出来るというあまりにも出鱈目すぎる強力なメリットが発生していたのは幸いだった。

 正直、2人はユニオンスライムと遭遇した時に、心底この力を感謝したものである。

 ユニスラ単体としては脅威にはならないが、合体したユニスラはさしもの2人も法術の力なしには勝利を掴み取る事は難しい。


 相手は最下級であるD級の魔者といえど、一般人にとっては強敵以外の何者でもない。

 同じD級のハウンドヴォルフにしても、集団で連携して奇襲攻撃を仕掛けてくる狼を相手にいったいどれだけの一般人が命を落とさずに済むだろうか。


 D級というランクはあくまで全体的な位置づけとしての脅威度を表しているだけであり、最下級だからといって油断していいものではない。

 C級ならば、一般人にはまず間違っても勝ち目などない。

 この迷宮に潜る直前までその一般人の枠組みにあったシイナがベルセルクスパイダーに勝てる道理などなかった。


「その法術すら使えないあいつが、あの化け蜘蛛を時間制限付きで倒す事が出来るのかしら?」


 そして、ヴァンが単身でC級魔者に勝てる道理もまるでありはしない。


「倒してもらわねば困る。なにせ、ぬしさまの強さが我等の強さを左右しておるからの。こればかりは悠長に待ってはおれぬ事をおぬしも理解していよう」


「いっそ閉じ込めてしまうというのも手よ?」


「それでは我等の願いが永遠に叶わぬではないか」


「そもそもその願い、叶えられるのかしらね。例え私達が以前の力を取り戻しても、あの化け物には手も足も出ないのよ?」


 ここで言う化け物とはベルセルクスパイダーの事ではなく、彼女達を現在の境遇へと陥れた悪しき賢者の事である。

 2人は非常に厄介な呪いを受けており――特定の条件を満たした者と契約を結び、使役される事でしか自由を得る事が出来ない等々――その呪いから解放されるためには、何としてでもその悪しき賢者を倒すか、もしくは非常に望み薄ではあるがお願いして呪いを解いてもらうしかなかった。


 呪いの内容は違えどヴァンも同じ目的を持っていたため、そんなヴァンと2人が召喚契約を結ぶ事が出来たのはある意味では喜ばしき事ではあった。


「分かっておる。だが望みがない訳でもない」


「まさか、あいつが倒してくれるなんて事を期待している訳ではないでしょうね」


「そこまで我も夢見がちではないの。むしろ、ぬしさまは我等よりも強くなる事が出来るかどうかの方が問題じゃて」


「私の見立てでは、その望みは皆無よ」


「随分と辛口の評価じゃの。まぁ、そこは我等が力を貸すことで越える事は出来よう」


 ユフィとシェイニーを自由に使役出来るという事は、2人の力を含めてヴァンの戦闘力となる。

 それは例えば、魔獣使いの力が従えている魔獣の強さと数で評価されるのと同じであり、また例えば騎乗した騎士がどれだけ巧みに手綱を操れるかでその真価が変わるといったもの。

 つまり、ヴァン自身は弱くともユフィとシェイニーが強ければそれはヴァン個人の戦闘力して評価する事ができ、ユフィとシェイニーとどれだけ連携して戦う事が出来るかによってPTとしての戦力も劇的に変わってくる。

 しかし前者においては、ヴァンの力量が2人の能力限界にも関係している事が分かったためヴァンの成長が必須。

 後者においてもまずはヴァンの成長を待つ必要があり、また聖力のみ魔力のみというシェイニーとユフィの相性問題もあって、そう簡単に解決出来る問題でもなかった。


「いつになる事やら」


「その時期を出来る限り早めるのが、今我等が優先すべき課題じゃて。ぬしさまが力を付けることで我等の力の限界をあげるというのはあくまで通過点じゃの。優先すべき事ではあるが、主眼におくことではなかろう」


「あいつが死ぬ時期を早めているだけじゃなくて? 無謀と無茶をあわせ持った呪いを受けてるようなものなのよ」


「かも知れぬが、だからといって温室育ちで甘やかすわけにもいかぬであろう。増長されても困るしの」


「まるで飼い主のような物言いね。でも同感だわ」


「我等は虐げられてしまう側じゃからの。少しでも保険をかけて境遇を良くしようとするのは当たり前の事じゃて」


 拒絶は出来るが、それをすれば加速度的に悪い方向へと進んでしまうのが目に見えていた。

 最悪で言えば、もう2度とユフィとシェイニーは表へと出られなくなる。

 互いの信頼の強度、それがヴァンがユフィとシェイニーの召喚を可能としている絶対の条件。

 2人がヴァンとの契約後に力を失った理由として妥当なのは、その強度が足りないからなのだとユフィは考えていた。


「お金の件はちょっとやりすぎだと思うけどね」


「それはおぬしがぬしさまに無理強いした事であろうが。しれっと我の功績とするでない」


 対して、シェイニーは単純にヴァンの力量不足が原因だと考えていた。

 その問題を解決するに至ってはユフィが躍起になっているため、シェイニーはあまり口出ししない。

 その代わりと言っては何だが、ユフィが考える信頼関係の構築をシェイニーは頑張って行っていた。


 例えば、見えない所で女将に頭を下げて、傷口の消毒用にサンレモンを譲り受けたり。

 例えば、密かに棍棒を作成し、素手で困っていたヴァンにプレゼントしてみたり。

 普段の言動が言動だけに、その献身的な態度はギャップ萌えという形でヴァンの心の中に深い楔を打っていた。


 まぁ、普段の口調も実はシェイニーなりに頑張った結果なのではあるが。

 生来の趣味趣向に長年閉じ込められていた事で酷くねじ曲がってしまった性格は、そう簡単に直せるものでもない。

 直す気もさらさらなかったが。


「それで? これはいったいどうするの?」


 チラッと上に視線を動かしてシェイニーが問う。

 もはやタイムリミットは目前という光景。

 どす黒く埋め尽くされた蜘蛛糸の天井は、手を伸ばせば触れる所まで落ちてきていた。


「あの化け蜘蛛を今更私が倒しても、この問題は解決しないわよ。まさかこのまま糸塗れになるというわけではないでしょうね。そんなの御免よ」


「わかっておる。そろそろ頃合いじゃな。ちと試してみたい事があるのじゃが、協力してくれるかや?」


「それこそ愚問ね。ただ、何で今頃になって行うのかしら。出来ればもっと早い段階で試して欲しかったわね」


 その問いに対して、ユフィは少し嫌そうな表情を浮かべながら答える。


「手が届かぬからじゃよ」


 シェイニーよりも頭一つ分以上低いユフィが手を伸ばしても、その手の先端が蜘蛛糸天井に触れる事はなかった。


「……ああ、そういうこと」


「これこれ。可哀想な目で見るでない」


 ユフィが鉄扇を開き、力を込める。

 薄い青黒い光が鉄扇を包み込む。


「我の力だけでは相性が悪いからの。じゃから、この鉄扇におぬしの力を纏わせてから舞おうと思う」


「出来るの?」


「詠唱を破棄せねば恐らくいけるじゃろう」


「いえ、そうではなくて。他人の力で強化する事が可能なのかと聞いているのよ。私はまだ強化系は使えないわよ」


 本来、何を強化するにしてもそれは自分自身の力で行うのが常である。

 筋力増加などの自己強化、防護障壁構築などの他者強化、属性攻撃付与などの武器強化。

 どれをするにしても、それは法術を行使する者の力を使用する。


「強化と言うにはちと微妙な線じゃな。どちらかというと利用と言った方がよいか。まぁたぶん大丈夫じゃろう。ほれ、はよせんと髪がくっつくぞ。この鉄扇に向けて詠唱付きの矢を頼む」


「痛い目を見ても知らないわよ」


「その時はおぬしも糸塗れじゃな」


 シェイニーが片足を伸ばして腰を落としながら弓を引く。

 天井が下がりすぎて、もう通常の姿勢では行う事が出来なかったため。


炎の精霊を(アーカード)恐れぬ(オグ)愚かなる者よ(ヴィシャス)

 気高き(ウェルンド)戦乙女の髪を(ディア・ヴェルキュ)|払いのけようとするものよ《ラグ・ズ・スカウ》。

 聖なる怒りに(ジ・ハド)射抜かれ(ディス・ラガン)その身を焼き尽くせ(エグ・ゾーダズ)


 シェイニーが詠唱するとほぼ同時に、ユフィも鉄扇を構えながら詠唱する。

 普通にたったままの姿勢で。


『雨地の、別れし時ゆ、守さびて、

 高く尊き、群雲なるを、

 不尽の高嶺に、雨の原、振りさけ見よう』


 この世の法術は、決まった形が存在しない。

 詠唱の言葉も、行使する力の名も、すべては使用者の思いのまま。

 その分、使用した法術の威力や効果はすべて使用者の力量や集中力、イメージ、ほぼ無意識下で構築する法術の形に左右されてしまう。


 例えば、詠唱を破棄して時間を短縮した分、威力は落ちる。

 詠唱をしない分だけ集中力やイメージが落ちるからだ。

 どれだけ使ってきたか……つまり、熟練度によっても異なってくる。

 法術使用時に動作を伴っていた場合、それを行わなかった場合にも然り。

 自由度は高くとも、それによる代償もしっかりとあった。


「壱ノ四季、黎水の理!」


 一瞬早く詠唱を終えたユフィが、鉄扇を目の前に翳して力強い言葉を発する。

 瞬間、鉄扇がこれまで以上に青黒い光を強めた。


「ホーリーアロー!!」


 その鉄扇に向けて、シェイニーが矢を放つ。

 見た目は今まで散々放ってきた矢と同じだったが、内包されている力はまるで違う。

 もしこの矢をベルセルクスパイダー目掛けて放てば、間違いなく射抜く事が出来ただろう。

 しかしそれでも時間最優先で矢を紡いだため、その威力は全力にはまだ届いていなかった。


「そこじゃ!」


 その鉄扇目掛けて飛来したホーリーアローの矢を、ユフィは同じ方向に鉄扇を素早く振って叩く。

 否。

 ホーリーアローの矢を黎水の理で強化した鉄扇によって絡め捕った。


 そのままユフィは身体を回転させながら鉄扇をグルグルと回す。

 直進しようとするホーリーアローの軌道を鉄扇で巧みに変えて、自分の周りへグルグルと回す。

 【水】属性である黎水の理で【火】属性を持ったホーリーアローの力をうまくコントロールしながら転がしていく。


 次第にホーリーアローは炎の尾を引いて、ユフィの周囲を燃やし始めた。


「そーれ! 炎技、扇の舞じゃーーーっ!」


 そしてそのまま、ユフィは蜘蛛糸で埋め尽くされた上空へと舞い上がった。


 回転すればするほど炎の尾の回転直径は大きくなっていく。

 回転直径が大きくなったところでユフィは鉄扇の軌道を変えて鞭のように、まるで炎の竜のように蜘蛛糸を焼き払っていく。

 それはまさに曲芸のような必殺技だった。


「追加は必要かしら?」


「無用じゃ!」


 荒れ狂う炎の鞭により室内が炎熱地獄と化すのを、シェイニーは涼しい顔で眺めていた。

 燃え飛ぶ鞭の飛距離が最も遠い壁まで到達し、あちらこちらで蜘蛛糸の塊が燃えながら落ちていくという光景は、火事で燃え落ちていく家の中にいるような感覚だった。


 シェイニーは、その紅蓮に染まる光景に少しばかり瞳を奪われた。


「!?」


 だからこそ、気が付くのが遅れた。


 2人が最も気をつけなければならない事……。

 それが疎かになった時、誰もまるで予想していなかった事が引き起こる。


「なっ……ぬしさまっ!!」


 ヴァンは、背中を突き刺されて口から血を吐いていた。

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