第1話 - 約一万円の親切
「九千七百六十円になります」
その金額を聞いた瞬間、俺は自分の判断を後悔した。
いや、正確には三十秒ほど前から後悔していた。
レジの横に積まれた本を改めて見て、嫌な予感がした。
参考書が二冊。
文庫本が六冊。
コミックが二冊。
その一番上にあったのは、俺が欲しかった本だった。
新刊コーナーには見当たらなかったので、最後の一冊だったのかもしれない。
その本を求めてこの本屋に来ていた俺は、見つけた瞬間、思わず声をかけてしまった。
「……本当に、いいんですか?」
隣から遠慮がちな声がした。
見知らぬ女の子が、俺とレジの表示を交互に見ている。
彼女は財布を忘れたらしい。
せっかく選んだ本を買えず、店員に頭を下げていた。
俺はそのすぐ後ろに並んでいて、つい口を挟んでしまったのだ。
『よかったら、俺が払いますよ』
せいぜい二、三冊だと思っていた。
レジで積み上げられていった本を、もっと真剣に見るべきだった。
「もちろん」
俺は引きつった笑みを浮かべながら財布を開いた。
財布から紙幣を抜き出すたび、頭の中で今月買おうと思っていた本が一冊ずつ消えていく。
電子音が鳴り、会計が終わった。
店員から差し出された大きな紙袋を、彼女が受け取る。
「ありがとうございました」
店員の声が、妙に明るく聞こえた。
彼女は九千七百六十円分の親切を抱えて、レジを離れた。
◇ ◇ ◇
「やっぱり、返します」
店の外に出てすぐ、彼女が言った。
歳は俺と同じくらいだろう。
俺より先に店外へ出ていたので、もう帰ったのかと思っていた。
先ほどまで慌てていた彼女も、今は落ち着いている。
改めて見ると、整った顔立ちに、すらりとした体つきの美少女だ。
「お金です。今から家に取りに戻ってきますから」
「そこまでしなくても」
「そこまでします。初対面の人に、こんな金額を払わせるわけにはいきません」
もっともな話だ。
そもそも、勝手に払うと言い出したのは俺である。
ここで返してもらえば丸く収まるし、懐への被害もなくなる。
それなのに、なぜか素直に頷けなかった。
反射的に声をかけたとはいえ、傍から見れば格好をつけていたように映っただろう。
値段を見た途端に金を返してもらう姿を想像すると、どうにも情けない。
「気にしなくていいよ」
「そういうわけにはいきません。ちょっと待っていてください」
彼女が近くに住んでいるのかも分からない。
どれくらい待つことになるのか。結局戻ってこず、時間だけを無駄にする可能性もある。
けれど、改めて彼女の目を見ると、そんなことをするような子には思えなかった。
それなら、駄目元で一つお願いしてみよう。
「その……買った本の中の一冊を、今読ませてくれれば、俺的にはそれでいいんだけど。どうだろう?」
「本……ですか? どれですか?」
「今日発売の新刊小説。一度読めればいいから」
「いいですけど……。小説一冊を読むなら、私が財布を取りに帰っても同じくらい時間がかかりますよ」
「一応、速読できるから。三十分くらいで読めると思う。カフェとかで読ませてくれない?」
彼女は目を瞬かせた。
「それで内容は頭に入るんですか?」
「うん。たくさん読みたくて練習してるから」
俺がそう答えると、彼女はしばらく黙った。
変なことを言った自覚はある。
初対面の相手の本代を払ったかと思えば、今度はそのうちの一冊を読ませてほしいと頼んでいるのだから。
断られても仕方ない。
ところが、返ってきたのは了承の言葉だった。
「私も今買った本を読みたいので、付き合います」
「助かる」
「あ、でも、飲み物代は……」
「俺が出すよ。財布ないんだろ」
「さすがに申し訳ないです」
「じゃあ、ネタバレしないから感想だけ聞いて」
彼女は少し考え、それから笑った。
「感想で飲み物代まで払えるんですか?」
「俺の中では」
自分でも妙な理屈だと思う。
それでも、彼女が笑ったことで、ようやく少し肩の力が抜けた。
* * *
書店から歩いて数分のところに、落ち着いた雰囲気のカフェがあった。
窓際の二人席に向かい合って座り、紙袋から本を取り出す。
俺は目当ての新刊を一冊手に取った。
彼女も先ほど買った別の小説を読み始めた。
その姿を見て、俺も本を開いた。
店内には食器の触れ合う音と、ほかの客の話し声があった。
窓から差し込む光が、テーブルの上をゆっくり移動していく。
本を読み始めると、周りの音や視線がまったく気にならなくなる。
行を追い、次々とページをめくっていく。
宣言通り、三十分ほどで小説を読み終えた。
お気に入りの作家の新刊を読めた満足感に浸りながら、感想を考える。
癖なのか、本を読み終えると、つい視線を上げて考え込んでしまう。
しばらくして視線を戻すと、彼女と目が合った。
どうやら、少し前から俺のことを見ていたらしい。
彼女の手元の本は、半分を少し超えたところで開かれていた。
「本当に、速読できるんですね」
「うん。感想を言おうと思ったけど、ネタバレになりそうだからやめておく」
「それでいいんですか?」
「いいよ。それに、読んでいる間、話しかけずにいてくれたのは結構助かった」
「読んでる途中に話しかけられるの、私もあまり好きじゃないので」
そう言って、彼女はカップの飲み物を一口飲むと、手元の本へ視線を戻した。
妙な一日だ。
初対面の女の子と向かい合っているのに、互いにほとんど話さず本を読んでいる。
けれど、不思議と居心地は悪くなかった。
◇ ◇ ◇
スマートフォンで時刻を確認すると、席に着いてから二時間近く経っていた。
そのまま、さっきまで読んでいたWeb小説の画面に戻る。
すると、パタンと本を閉じる音がした。
顔を上げると、彼女が本を閉じていた。
どうやら、一冊読み終えたらしい。
目が合ったが、彼女はどこか上の空だった。
きっと、今読み終えた本のことを考えているのだろう。
その気持ちはよく分かる。
「……あ、ごめんなさい。あなたは一冊読めればよかったのに、私が読み終わるまで待っていてくれたんですね。もしかして、さっき私が読んでいる途中に話しかけられるのは好きじゃないって言ったからですか?」
「そうだね。自然と本に戻っていたから、声をかけるタイミングを逃した」
残っていた飲み物を飲み干し、店を出る準備を始めた。
「あの、私もその新刊を読むので……読み終わったら、感想を言い合いませんか?私の周り、小説を読む人が少なくて……」
正直、悪くない提案だと思った。
俺自身も感想を語り合える相手がいないので、話せるとなれば嬉しい。
ただ、問題がある。
彼女が読み終わるのを待つと、また二時間ほどかかるだろう。
それに、このカフェではドリンク二杯だけで二時間近く居座ってしまった。
「いいけど、場所は移動したいな。さすがにここにこれ以上長居はしづらい」
「あ……それもそうですね」
彼女は少し考え、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、図書館はどうですか?」
「図書館?」
「ここから歩いて行ける場所にあります。読む場所もあるし、静かですよ」
なるほど。
図書館なら気兼ねなく本を開ける。
ただ、俺はその図書館の場所を知らない。
「どこにあるの?」
「え?」
「最近、こっちに引っ越してきたばっかりで、この辺りのこと、まだ全然知らなくて」
彼女は少し驚いたあと、納得したように頷いた。
「そうだったんですね。じゃあ、案内します」
そう言って、彼女は手元の本を紙袋に収めた。
* * *
図書館は、カフェから十分ほど歩いたところにあった。
読む本を一冊選び、彼女が座っている四人掛けのテーブルの向かいに腰を下ろした。
今度は彼女と感想を言い合うための読書だ。
急ぐ必要もないので、ゆっくりと本を読み進めた。
読み終えた本を元の棚に戻しに行った。
速読をしなければ、やはり一冊読むのに二時間ほどかかってしまう。
テーブルに戻ると、ちょうど彼女も読み終わったようで、本を閉じて考え込んでいた。
俺が戻ってきたことに気づいた彼女が、何かを話し始めようとした、そのとき。
館内に『蛍の光』が流れ始めた。
図書館を二人で出ると、少しひんやりとした風が頬を撫でた。
昼間は暖かかったが、夕方になるとまだ少し肌寒い。
「今日はありがとうございました」
彼女が紙袋を抱え直す。
「感想、結局言い合えませんでしたね」
「時間だから仕方ないね。でも、今日読みたかった本が読めたから結構満足してる」
感想を言い合い始めれば、きっとまた時間を忘れてしまう。
彼女も同じことを考えていたのか、それ以上、感想について話すことはなかった。
短いやり取りのあと、俺たちは別々の方向へ歩き出した。
しばらく歩いてから、名前も聞いていないことに気づいた。
もちろん、連絡先も知らない。
振り返ったが、彼女の姿はもうなかった。
まあ、こんな日もあるか。
そう思いながら、再び前を向いた。
彼女は今日、一万円近くの本を手に入れたので、しばらく本屋に来ることもないだろう。
もう会うことはないかもしれないが、そこまで悲しくはなかった。
それよりも、GW明けから通い始める転校先の学校のことが頭をよぎり、少し憂鬱になった。
あの子みたいに、話さなくても居心地のいい相手がいたらいいな。
そんなことを思いながら、帰路についた。




