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後編

 あの日から、世界がおかしい。


 というより俺の視ている世界がおかしい。

 通学路にはなにもいない。正しくは人間と散歩をする犬以外がいない。

 草むらの中から何も出てこない、生垣の陰から声が聞こえない、校舎のシミが喋らない。

 これまでの人生で、一番静かだ。



「ねえ、ここ1週間くらい変じゃないか? 異様に何もいない」

「……ああ、やたらと静かだな」

「もともと僕の周りには寄って来づらかったけど、輪にかけてっていうか。隠れてるのかな? いや、だとしてもなんのために」



 変わったのはそれだけではない。



「……今日も橘はいないのか?」

「あ、ああ。来てない。あの日以来、」



 そう言ってから飽海は口を噤んだ。手に持っているメロンパンもあまり食べ進んでいない。


 橘の席は今日も誰も座っていない。


 それ自体は珍しいことではない。だがあやかしたちが同時になりを潜めているのは無関係ではないだろう。むしろ俺は確信していた。少なくとも周囲に奴らがいなくなったのは橘のおかげだ。どういう原理なのかは知らないが、奴らは橘の言うことに従うらしい。



「……さすがに言い過ぎた、かもしれない」



 気まずげに飽海が零す。常に自分は慎重で正しいでござい、とう飄々とした普段の態度とは正反対の様子に思わず視線を落とした。

 おそらくそれもあるだろう。だがもしそういった類、橘が傷ついたために学校へ来なくなったとしたら、原因は間違いなく俺の方だ。


 俺は飽海に橘とのことを何一つ話していなかった。

 飽海にとって橘は突然俺に絡んできた厄介な奴、とだけ認識しているだろう。

 彼にはできるだけ橘のことを話したくなかった。

 飽海はあやかしのことを憎みすぎている。



「僕たちにとって、今がベストの状態だ。腹立たしい人でないものもいない。妙なことに巻き込もうとする同級生もいない。僕らの望んだ、平和そのものだ。だから、長い目で見れば間違ってない、はず」



 一つ一つ確かめるように口にするが、その行為そのものが後ろめたさの証明のようなものだった。

 手に持っていたイチゴミルクのパックジュースを握りつぶす。パヒュ、と情けない音を立ててパックはくしゃくしゃになった。



「……もしもの話なんて馬鹿馬鹿しいんだけどよ、もし俺たちと橘が会ったのが小学生の時だったら、もっと別の関係になってたんだろうか」

「ははは、そりゃあ君。……なってただろうさ。もし小学生の頃の僕らに彼女がいたら、きっと一緒に遊びまわってたんじゃないかな」



 小学生の頃の俺たちは唯一無二の友達だった。

 初めて会った、人でないものを視ることのできる人間だった。

 ただただ人でないものに翻弄され、口を噤むしかなかった幼少期から世界は一変した。怖いだけの世界から、抵抗することのできる環境に変わったのだ。


 俺たちは一人じゃない。その事実が俺たちを変えた。

 橘のあの日の喜びを、輝かしい青天の霹靂を俺はよく知っていた。



「なあ子供のころ、自分たちは特別で、この目があることで新しい出会いとか、冒険とかがあるんじゃないかって期待しなかったか?」

「……してたよ。自分たちは特別で、いつか漫画やアニメの世界みたいに奴らと戦って勝利するような未来が来るかと思ってた。そんな未来はついぞ来なかったけどね」

「飽海は、あいつらが嫌いか?」



 窓の外の入道雲に目を向けた。

なぜそんなこと聞くのか、とは言わず飽海は答えた。



「嫌いさ。大嫌いだよ、あんな奴ら。抵抗することもできない人間を襲って、陰から笑う卑劣な奴らだ」



 つかれやすい人間にとって、奴らは存在自体が脅威だ。俺や飽海の母親のように。



「それが視えて、それに好かれる人間も嫌いか?」



 飽海は答える気がないように押し黙った。

 答えなどわかりきっていた。

 それだけの人間は今の俺たちにとって脅威であるだけで、嫌っているわけではない。数少ない、同じものを視ることのできる人間なのだから。

 そして俺たちは、一度はそんな人間になりたいと夢想した。



「あの日、河童の話をしてほしいって言ったのは、俺だ」

「……善弥、君が?」

「そうだ。あいつの話を聞くのが、楽しかったんだ」



 俺たちは、俺たちのために逃げることを決めた。


 一つ、何も視てはならない。

 一つ、何も聞いてはならない。

 一つ、返事をしてはいけない。


 俺たちが無事に生きるためのルールを決めた。

 そうしておけば問題ないからと。

 そこに夢も希望もない。あるのは無骨な生存戦略。

 俺たちマイノリティが、マジョリティに成りすますための不文律。



「橘の居場所に心当たりがある」



 一人が嫌だと縋るなら、その手を取ってやればよかった。





「善弥、本気? 本当に今からここに入るつもり?」

「本気だ。橘はたぶん、ここにいる」



 7月中旬午後3時。日は高く、空の端から端まで青いペンキをぶちまけたような快晴が広がっていた。

 強い風が吹くと、山を覆う木々が何事か囁き合うようにさざめき揺れる。

 木々の影、草むらの中にはきっと、俺たちが嫌ってやまない、恐れてやまない奴らがいる。

 だがわざわざ恐れ慄くために、山の麓へ来たわけじゃない。



「本当この山の中に橘がいるのか?」

「いる。っていうかいた。開けたところに小さな古民家もある」

「……橘紫苑は家がないっていう噂はこれが原因か」



 呆れたように飽海が呟く。

 橘紫苑は、噂話に事欠かない。尾ひれや背びれが付いていても、おそらく大抵のものにそのもととなる何かがあるのだろう。山に分け入る彼女を目撃した者がいたのと同様に。



「この山自体、橘のばあさんのものらしい。私有地なんだと」

「……それ、僕たちが入って良いやつ? 不法侵入にならん?」

「ならん。友達の家に遊びに来ただけなんだから」



 苦虫を嚙みつぶしたような顔をした後、肺にたまっていた息をすべて吐き出しきって、飽海は顔を上げた。



「腹を括ろうか。橘を探すって決めたのは君だ。でもついていくと決めたのは僕だ。善弥、くれぐれも僕から離れないで」

「了解」



 意を決して山の中へと踏み込んだ飽海に続いた。数日雨の降っていない地面はよく乾いていて、足を取られることもなく、軽々と進んでいける。


 神社生まれの飽海はあやかしたちから嫌われている。雑魚であれば敢えて飽海に寄っていくものはいない。要するに、山の中を先頭切って進んでくれる飽海は天然の虫よけなのだ。



「ここ数日、かなり姿を視なくなったと思ったけど、やっぱり山の中に入るといるね、たくさん」

「ああ、でもお前がいる分だけ少ないんだろうさ」



 俺だけだったら群がられていてもおかしくない、と言おうとして縁起でもないためやめた。口にしたら本当になってしまうかもしれない。余計なことは口にしないことが身のためだ。



「……よく、こんなところで生活できるね」

「まったくだ。俺たちとはまた、視えてる世界が違うのかもな」



 同じようなものが視えていても、在り方が違えば世界は違って視える。

 耳元でやかましく蚊が羽音を立てる。手で払うが一向に姿を消さない。



「っち、腹立つな……」

「どした?」

「蚊がめっちゃ飛んでる」

「山だからそれは仕方ない、諦めな。蚊は境内にもめっちゃ飛んでる」



 気が抜けたような笑い声に少し緊張が解けた。

 左手の甲にとまった蚊を右手で叩き潰す。間違いなく仕留めたと思い、右手をどかすと、そこには何もなく、腫れた手の甲があるだけだった。


 嫌な予感がしてはっと前を視る。

 数秒前まで数歩先を歩いていたはずの飽海の背中がない。



「やられた……!」



 蚊に気を取られた瞬間を逃さず、奴らは俺と飽海をはぐれさせた。同じくらいのスピードで山を登っていたのに、ほんの数秒で背中が視えなくなるほど先へ進むことなどありえない。そうでなくともあ、離れるなと念を押したのは飽海の方だ。


 ぐっと唇を噛む。

 進むべきか、戻るべきか逡巡し、すぐに前へと足を踏み出した。


 どうせすでに化かされているのだ。逃げるようなそぶりを見せる方が悪手。ならばせいぜい前へ進んでやろう。


 まともに整備された道はなく、獣道が続いていく。

 橘に送ってもらった夜に通った道かもしれないが、夜と今とではあまりに様相が違いすぎて比較もできない。

 視界の端で金魚のしっぽのように赤いものが動いた。

 反応はせず、目線も向けず前へ前へと進んでいく。視てはいけない。視てしまえば絡まれて無駄な時間を使うことになる。普通山の中に金魚はいない。そして着物を着た女児が山中にいるはずがないのだ。

 震えそうになる足を叱咤し登り続ける。おそらく飽海も今俺と同じような状況だろう。そして飽海なら絶対に戻ろうとはしない。


 何かが地を這う、何かが宙を舞う。ぶつからないようにだけ気を付けながらそれでも決して直視はしない。

 恐れはしない、怯えはしない。今日の俺は山に迷い込んだわけではない。何かから逃げてここへ踏み入れたわけではない。山に入ればどうなるか、何がいるか、わかったうえでここへ来たのだ。明確な目的をもって立ち入ったのだ。


 深く息を吸い、腹に力を入れる。



「橘―! どこだー!」



 自分らしくもない行動だとよくわかっている。

 目立つことが嫌いで、人と関わることも苦手な俺が自分から呼ぶ相手など普段限られている。それも、こんな風に大声を上げることなど常にない。少し荒くなった息を整えながら、最後にこんなに大きな声を出したのはいつだろうと一人ごちる。

 こちらを見ていたあやかしたちは動揺するようにざわざわと揺れ噂話をする。四方からまとわりつく視線と声、いつもの俺なら一刻も早く逃げ出そうとするだろう。だが今日の俺は違う。足に力を込めて斜面を登り、また叫ぶ。



「どこだー! いるんだろ、橘!」




 叫びながらずんずんと進んでいく。俺の声につられておかしそうにあやかしたちは笑い、後ろへとついてくる。邪魔をしてくることはない。ただ大声につられるように、どこからともなく現れては、小さなあやかしたちが俺の後ろに列をなす。

 視えていないふりをしながら叫び進み続ける俺はさながら鼠を引き連れたハーメルンの笛吹だ。飽海が視たら卒倒してしまうことだろう。



「なんぞ来たの、やかましい」

「人の子誰ぞを探しておるな」

「何を挙って行く。おお、この山で失せ物か。ああ見つかるものか」

「お囃子みたいだ、楽し気な」

「見物といこう、楽しもう」

「夏と言えば、隠しもの」

「神でなくとも神隠し」



 小さな声で笑いながらついてくるあやかしたちに、嫌悪はなかった。今の奴らに俺の邪魔をしようだとか、からかってやろうという悪意は感じられなかった。ただただ面白いものが、物珍しいものが歩いているから見物しよう、とでも言いたげな笑い声だった。

 あやかしたちの列の先頭を歩きながら橘を呼び続ける。



「橘―! 俺だ、牟呂だ!」



 生い茂る青々としたシダをかき分ける。



「牟呂」



 背後から声がしてぱっと振り向く。橘の声だった。

 だがそれが間違いだったとすぐに気が付いた。橘は俺のことを名字で呼ばない。



「牟呂、私を探しに来たのね。そう、ごめんなさい」



 橘らしい独特な言い回し。声色も話し方も橘だった。だが俺の知っている橘なら幅30㎝しかない木の陰に隠れられるはずがない。



「牟呂、どうかした? 牟呂、なぜ無視するの。私が何かしてしまった」

「…………っ」

「ねえ牟呂、牟呂牟呂牟呂牟呂牟呂牟呂牟呂牟呂牟呂牟呂牟呂牟呂牟呂」



 振り向いてしまったことで、声が聞こえていることは知られてしまった。

 一つ、決して返事を返さないこと。

 本能的に口を噤む。

 木の陰に何がいるかわからない。だが返事をすべきでないことだけはわかった。

 返事をすることは相手を認めることだ。俺が返事をすることで、俺がここにいること、相手がここにいることが確定されるのだ。逆に俺が返事をしなければお互いの存在を確定できない。だから橘の声真似をする奴もまた、何度も呼びかけ俺が返事をするのを待っているのだ。

 狂ったように呼ばれる自分の名に、心臓がばくばくと音を立て、嫌な汗が背中を伝う、



「返事をしてよっ」

「私の声真似をするとは、良い度胸をしているのね?」



 背を向けた斜面からもう一つ声が聞こえた。橘の声だ。


 呼びかけを遮られた木の陰の声が止む。斜面から下ってくる足音が聞こえてくると、木の陰から甲高い子供のような笑い声があがり、それきりなんの声もしなくなった。姿を視ることはなかったが、すでにそこに何もいないことは気配でわかった。



「馬鹿じゃないの。彼らを恐れながら巣窟であるこの山で自分の名前を叫ぶなんて」



 近づいてきたもう一つの橘の声が、本当に橘のものなのか、それが判断できなかった。

 本人であればそれに越したことはないが、もしそうでなければ振り向いて姿を確認するのは危険だ。距離もあまりに近すぎる。



「……警戒するのは結構だけど、今度こそ本物の私よ。隣のクラスの牟呂善弥」



 山に入ってから口にしていない名前を呼ばれ、恐る恐る振り向くと、そこには1週間ぶりの橘の姿があった。



「橘……」

「怖いのになぜここへ入ってきたの」

「お前のことが心配だったからだ」



 呆れたように片眉が上がり、軽くため息を吐いた。



「心配する必要はないと言ったはずよ。麓までは送っていく。日が傾く前に帰って」

「断る!」

「はあ?」



 至極面倒くさそうな顔に思わず心が折れそうになるが、橘を見つけるという目的の一つを達成したことを支えに持ち直す。



「俺はお前と話をしに来た」

「今更話すことなどないでしょう。私の立っている場所と君の立っている場所は違うのだから」

「違う、いや、違わないが、違う。あー、その」



 話さなければならないことがいくつもあったはずなのに、いざ目の前に本人がいると何も言葉にならなかった。何から話せばいいのか、どの話なら聞いてくれるのか、そもそもまだ話し合う余地は残されているのか。



「とっとと帰って。私も暇じゃ」

「この前は悪かった! きつく当たりすぎた! あやかしたちの件はお前のせいじゃないのに勝手に俺がイラついた! 悪かった!」



 大声で橘の言葉を遮ると黒い目が見開かれる。足元にいたあやかしたちは面白おかしそうに歓声を上げていた。



「…いきなりなんなの」

「いきなりじゃねえ、あの後からずっと考えてた。俺はお前を理不尽に突き放した。視えてるものが違いすぎて、イラついて、嫉妬した。なのにお前はあれから俺の周りにあやかしたちが来ないようにしてくれた、それで」

「もういい、私がしたくてしたことよ。聞く耳持たない。帰って」

「帰らん! 俺はお前と話をしに来た。お前が俺の話を聞くまでは帰らん。いいのか? 何かとあやかしに襲われる俺が一晩一人で過ごせると思うのか? 深夜になる前に食い殺される自信があるぞ! お前のばあさんの山で同級生が死んでもいいのか? どうだ胸糞悪いだろう!」

「自分の命を懸けてまで脅すな馬鹿」



 呆れた様子を隠すことなく橘は空を仰いだ。決して意思は曲げないと橘を睨み続ける。



「弱い俺は、最初からそのつもりでお前を探しに山に入ったんだ」



もっとも、話すにせよ山を下りるにせよ、俺一人ではどちらもままならないうえ、再び橘を見失ったら、橘が俺を見つけてくれるまで山中を彷徨うこととなるだろう。



「食ってよいのか。食い殺してよいのか」

「目だ、目が欲しいぞ」

「ならわしは右足のももを」

「はらわたは譲れんぞ!」



 俺の言葉に反応して足元のあやかしたちが口々に主張しだす。声は先ほどと変わらない小動物の鳴き声のようなのに内容は俺の身体をどう山分けするかだ。

 あるあやかしが俺のスラックスに手をかけたとき、橘があやかしたちを睨みつける。



「誰が触れていいと言った?」



 怒気を十分に孕んだ声に、あやかしたちがきゃっと短い悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。俺はばらされそうになったのに、橘はにらみを利かせるだけで取っ払うことができるのか、とあまりの差に思わず吹き出す。



「……何がおかしい」

「俺は奴らが怖いのに、奴らはお前が怖いんだなって思って」

「……ああ、そして私は君たちが怖いんだ」



 目も合わさず呟くと、スカートの裾を翻し斜面を登りだした。



「ついてこい。基地まで案内する」

「じゃあ、」

「この山で人死を出したくないだけ。話が済んだらすぐに帰って」




 木々の間を抜けると、先日俺が目を覚ました広場があった。すぐそばには小さな日本家屋が鎮座ましましている。

 家の中へと入っていく橘を追いかけていいものかと逡巡し、前庭の青々とした草地に腰を下ろした。先ほどの不穏な空気など嘘のように、広場から見た空は清々しい夏空で、アブラゼミの声が四方から包み込むように響き渡っていた。


 いつもの夏なのに、今自分がいる場所はいつもの場所ではない。

 どこかむすっとした橘が戻ってくる。その手にはラムネ瓶が2本あった。



「ん」

「悪い。ありがとな」



 雑に突き出され、受け取ると、瓶はよく冷え濡れていた。結露のレベルではない。おそらく冷水に浸けられていたのだろう。周囲を見ても電線の類がなかった。あの日本家屋にはライフラインは通っていないのかもしれない。

 親指でぐっとビー玉を押し外すとさわやかな音とともに甘い匂いが鼻先をかすめた。



「……それで、なに」

「この前のこと、謝りたかった。一方的に嫉妬して、怒った。お前は何も悪くなかったのに」

「悪いんでしょう。君たちにとって私のように周囲に溶けこめない者は」

「お前は悪くねえ。……俺はお前みたいになりなかった。そしてなれなかった」



 一向に目を合わせようとしなかった橘が、不思議そうに俺のことを見ていた。まるで覚えがないとでも言うような顔に、俺は今から子供のころからの夢を彼女に話すのかと思うと、笑えた。



「俺はお前にみたいになりたかった。あやかしたちが視えて、コミュニケーションが取れて、友達になれるような、そんな奴に。でも俺はなれなかった。俺が弱すぎたからだ」

「弱すぎたってなに。まるで私が強いみたいじゃないか」

「強いだろ、お前は。あやかし相手に怯えたりしない。子どものころから怯えっぱなしだった俺は、奴らの餌以外の何物にもなりえなかった」



 恥ずかしさのあまり顔を見ることもできず、空色のラムネ瓶をじっと見つめた。凹凸のある表面に映る俺の顔は歪んで表情もわからない。



「だから俺は逃げるしかなかった。自分の身を守るために、視ない、聞かない、話さない。その三つを守って生きてきた。それが一番安全だと信じてた」



 同じように視ることができた飽海と決めたルール。

 仲良くなろうとはしない。被食者と捕食者は友達にはなれない。

 視えていると気づかれてはいけない。興味を引く原因になってしまう。

 被食者は、隠れ、逃げることしかできないのだから。



「なのにお前は堂々とあやかしと話してた。普通の隣人みたいに。馬鹿だな、と思ったのに、お前は順応して生きていた。この山にいても、お前は被食者じゃない。……だから、お前と俺は同じだと言ったお前の言葉が、認められなかった」



 そこにあったのは異質な者に対する嫌悪ではない。馬鹿馬鹿しく幼い嫉妬心だ。とっくに諦めていた夢物語の中に、橘紫苑は生きている。

 ようやく意を決して顔を上げた。けれど橘ものまた、俺と同じようにラムネ瓶をじっと見ていた。瓶に反射する光が、白い頬に水色の影を落とす。



「うらやましい? 私が?」



 まるで独り言のように薄く唇を開いて囁いた。感情をすべて瓶詰にしてしまった抜け殻のように、橘は口の端だけでわらった。



「君が夢を諦めて、逃げるように現実を生きているなら、私はきっと現実から逃げて夢を生きているんでしょうね」

「……どういう意味だ」

「君があやかしたちとうまくいかなかったのと同じように、私は人間たちうまくいかなかった。君があやかしを恐れるように、私は人間が恐ろしかった」



 なんと言えば良いかわからず、何も言えないまま途方に暮れた。セミの鳴き声が俺たちの間に落ちた沈黙を埋めるようにがなり立てる。


 言わんとすることはわかった。人間が恐ろしい、その思いには身に覚えはあった。

 人と違うものを視て、人と違うものを聞く。異物は排除するという本能はDNAに刻まれているのか、大人も子供も変わらない。

 異物はどこまでいっても異物だ。どれだけ常人の皮を被り続けることができるかにかかっているだけ。



「君も気づいているだろう。私は目がいい。あまりにも視え過ぎた」

「……木の上の猫が、生きているか死んでいるかの判断が付かなかったのか」

「そうだ。私は生きているものと生きていないものの見分けがつかない。それほどまでに、何もかもが色濃く見える」



 帰り道、木に登っていた橘を見たときからそんな気はしていた。

 俺には生きていないものは半透明に視える。よく映画に出てくるような背景が透けた姿で俺の目には映っている。だからすぐに生きているか生きていないかは判断ができる。俺がかかわってはいけないのは半透明のものと完全な異形と判断している。基本的にそれらは常人には視えていない。それさえ無視していれば常人のふりをしていられると知っていた。


 だが橘の視界はどうだろう。

 生きているものとそうでないものの見分けがつかないとしたら。

 衆目の中で生きていないものに話しかけてしまうかもしれない。

 無視していれば生きている者を無視してしまうかもしれない。


 どちらにせよ、周囲との軋轢は決して避けられない状況。

 橘は人間社会に交ざろうとしないのではない。交ざることができないのだ。



「君は私が羨ましいと言った。だが私からすれば善弥、君が羨ましいよ」




 視線がラムネ瓶から俺へと移動する。黒い瞳はまるで石のように感情を感じさせないのに、どこか切実さを纏っていた。

 人間は、人間の中で生きていかなければならない。それが子供であればなおさらだ。

 視えているものを口にすれば、嘘つきと謗られ、未熟な凝集性からはじき出される。小さな頭で一生懸命考えたとっておきの意地悪を囁かれ、指さされる。


 そんな周囲と違う子供は、どう生きていけばよかっただろう。

 どんな傷を負って、橘は堂々と胸を張って高校へ来られたのだろう。

 逃げも隠れもしなかったのではない。逃げも隠れもできなかったのだ。



「……さあ、もう帰るといい」

「は?」

「君は私に謝ることができた。私はそれを受け入れた。話もした。なら君の今日の目的は果たされたはず」



 あっけにとられた俺の手からからのラムネ瓶をひったくると橘はあっさりと立ち上がった。



「ちが、まだ済んでねえよ何も」

「何が。全部済んだでしょう。これ以上君は何を求めているの」



 どこか呆れたような橘の言葉にはたと我に返る。

 とにかく謝ることだけを考えていた俺は、それから先のことを何も考えていなかった。謝って、話して、話を聞いて。確かに目的は果たされていると言えば果たされている。だが胸の奥では何かつかえたような、不完全燃焼な思いがくすぶっていた。しかしうまく言語化ができない。



「早く、また暗くなってしまう前に」

「いや、ちょっと待て、言いたいことがまだある。ある気がする」

「気がするって……それにほら、迎えも来たわ」



 あごでしゃくった方に目を向けると木々の合間から何かが近づいてくる音がしていた。

 大きなものが這いずるような草むらをかき分ける音、巨大な身体木々の幹にぶつかる鈍い音。それからわめくような人間の声。



「蒲焼にしてやろうかっ!」



 叫び声と共に木々の間から飽海が飛び出してきた。そしてそれを追うように、大蛇がぬっと顔を出す。ボウリング玉のような大きな目がじろりと周囲を見渡して、数回長い舌を空気を舐めるようにちらつかせると、再び身体を這いずらせて木々の中へと戻っていった。



「飽海……」



 あまりに壮絶な再会に思わず言葉を失う。



「善弥! 君なに迷子になってるんだ! 早々にはぐれるなんて、君には首輪でもつけておくべきだった。いや、むしろ想像できなかった僕が悪かった。それくらい君が餌になりやすいっていう認識が足りなかったんだ」



 自己完結しながら駆け寄ってきた飽海の身体には木の葉や泥があちこちについていた。だがほぼ自力でここまでたどり着いた飽海はさすがとしか言えない。助けが来るまで叫びながら斜面をうろつくしかなかった俺とは違う。



「無事? けがはない? 手足や指は揃ってる?」

「揃ってる。どこも食われてねえし、怪我もしてねえ」



 ほれ、とすべて指の揃った手を振る。



「お前こそバカでかい蛇に追いかけられてたけど大丈夫だったのか?」

「問題ない。大きいだけの蛇だよ」



 こともなさげに言うと服についた汚れを手で払い落し、じろりと橘の方へ視線を移した。

 誰に対しても柔和で朗らかな飽海に似合わない、のっぺりと作り物めいた顔だった。とてもクラスメイト向ける友好的な顔とはいいがたい。つい頼りがちになる飽海だが、今日同行を願い出たのは失敗だったと初めて気が付く。


 敵意を隠そうともしない飽海の視線を橘は真っ向から受け止め見つめ返した。



「橘さんは見つかったみたいだね。話はできた?」

「まだ途中だ」

「もう終わった。とっとと連れて帰って」

「そっか」



 どちらの言葉を聞いて「そっか」と答えたかなど考えるまでもない。俺を連れて帰りたい飽海と俺を帰したい橘の意思が俺の意思を置いてかみ合ってしまった。



「だからまだ終わってねえって!」

「終わった」

「終わったってさ」

「急に仲良くなるなよ!」



 腕をつかみ引っ張る飽海に抵抗するようにその場でしゃがみこむ。幸い足元は草が覆っていて砂地よりかは滑りにくい。

 しかし座り込む叫ぶ俺、仕方のないものを見るような飽海と橘の視線。まるで俺が駄々っ子のようではないか。



「善弥、あまり我儘をいうものではないよ」

「話したいって言うのがそんなに大層な我儘かよ」

「我儘だろ。橘さんも帰れって言ってるじゃないか。帰れと言われているのに居座る奴があるか」

「お前の方こそ、クラスメイトをそんな目で見る奴があるかよ」



 困ったように微笑んでいた飽海の顔が固まる。



「やっぱ自覚あんじゃねえか」

「……安全第一だよ、善弥。君も重々知っているはずだ」

「知ってる。でもそれは橘を見る目の理由にはならねえ」

「なるさ。十分だ」



 隠しきれない苛立ちが声色に滲んだ。腕を握った手に力がこもる。



「橘は生きた人間だ。……化け物を見る目はやめてやれよ」



 ついてきてもらった分際で言うことではないと承知していた。だが飽海の顔を見れば、言ってやらねばならないという気持ちが勝った。



「化け物は、あやかしは嫌いだ。あいつらは俺たちを食おうとする」

「……そうだよ、奴らは危険だ。近づいてはいけない、感づかれてはいけない」

「でも橘は違うだろ」

「同じだ」



 耳を疑うが、そこにはいつも通りの飽海の顔があった。



「同じだよ、善弥。化け物と関わりのある奴が傍にいるだけでも、害を被ることは十二分にある。わからないか?」

「わかる、わかるけど」

「ならそれが君たちの答えでしょう」



 俺たちの言い合いを黙って見ていた橘がそう切り捨てた。

 嫌悪感が前面に押し出された目は、橘を見る飽海の目によく似ていた。



「麓までの道はある。とっとと帰って。頗る気分が悪い」

「待てよ、まだ話は、」

「これ以上私に聞かせたい罵倒があるの?」



 ぐうの音も出ず黙りこむ。飽海を説得しようとしたが、結局は橘を不快にさせただけだった。おそらくこれ以上飽海を納得させようとたところで話は平行線だろう。


 飽海はあやかしが嫌いだ。

 俺もあやかしが嫌いだ。

 自分たちに害なすからだ。

 俺たちがあやかしに向ける目を、同じように橘が俺たちに向けるのであれば内包されている思いも同じはずだ。



「俺が聞かせたかったのはそうじゃねえっ」

「ならなに?」

「俺はお前と友達になりたい!」



 まるで鳩が豆鉄砲食らったような間抜け面が二つ並んだ。

 口に出してみれば本当にシンプルで簡単なものだった。力の抜けた飽海の手を振り払い自分で立ち上がる。



「俺らがあやかしのことを嫌いなのは怖いからだ。襲われるって怯えてるからだ。お前が俺たちをごみを見るような目で見るのは、俺たちが怖いからだ」

「……何言ってんの?」

「俺たちは怖くない。俺たちはお前に何もしない。お前に視えてるものは、俺たちにも視えてる」

「いや、この前は視えてる世界が違うって言ってたじゃん」

「訂正する。視えてる世界は違う。でも他の人間よりかは近いものを視てる」



 橘の顔に戸惑いが広がっていく。口は何か言いたげに動いては閉じ、目は落ち着きなく宙に浮かぶ。



「違う。やめろ、善弥。橘と俺たちは違う。あいつはあっち側だ」

「飽海、お前小学生の頃の俺らが目の前にいても、同じこと言うのか? いや、関わりたくないからって無視できるか? 幼い方があやかしは寄って来やすい。そうやって見て見ぬ振りできるか?」

「それは、」



 飽海の顔はそういう問題じゃないと言いたげだった。けれどそれを口にできないのは当時の自分たちのことをよく覚えているからだ。

 視えているものを誰にも言えず、誰の共感も協力も得られない。常に被食者として追いかけまわされ、誰も守ってはくれない絶望感を、孤独感を。

 そして同じものを視ている仲間を見つけた時の喜びを。



「わかってんだろ。橘はそこにいる」



誰も仲間がいない場所にいる。たとえあやかしたちに好かれようとも、山の中では一人でなかろうとも、人として生きる上で場所には誰もいない。

だからあの帰り道、橘はまるで子供のように喜んだのだ。饒舌に軽やかに俺に話しかけた。



「よし、帰るか」

「は?」



 ズボンについていた葉を払い落とし、僅かに見える獣道の入り口に足を向ける。



「いや……いやまだ話の途中じゃないか!?」

「終わっただろ。何か言いたかったけどうまく言葉にならなくてもやもやしてたんだが

それが言えてすっきりしたし」

「さっきので終わり!?」



 つい先ほどまであれほど帰りたそうにしていたはずの飽海がなぜか今俺を引き留めにかかっている。我儘なことだ。



「言いたいことは言った。俺は橘と友達になりたい。同じものが視える仲間として」



飽海は理解ができないという顔をし、橘を酸欠の金魚のように口をパクパクとしながら声にならない何かをしゃべっていた。数回会っただけだが、一番の阿呆面に思わず吹き出す。



「俺は友達が少ない。昔から人付き合いは苦手だし、仲のいい友達だとマジで飽海しかおらん。だが少ない俺の経験値からでも言えるが、友達って言うのは無理やり一方的になるもんじゃねえ。だから俺はとりあえず『橘と友達になりたい』ってことだけ表明しておく。どうするかは橘が決めることだ」



 宙を泳いでいたはずの黒い双眸はしっかりと俺のことを見ていた。

 俺は目つきが悪く愛想が悪い。人見知りで無口で近寄りがたい。

 飽海は上っ面は良いが、あやかしの類のこととなると性格が変わり敵意と悪意が苛烈。

 どちらもこの状態から積極的によろしくしたいタイプではないと、自分なりにわかってはいる。



「同じじゃなくても、似たような奴が一人いるだけでも楽になんねえか」



 それで幼いころの俺は救われた。あの日、俺の世界は確かに変わった。

 もし誰かの救いになれたなら、弱くて逃げることしかできない俺も視えた意味があると思える。

 橘は微かに唇を噛み、黙って獣道の入り口を指さした。

 まだ空は明るい。灯りがなくとも麓までたどり着けることだろう。



「……善弥、これ以上は無駄だ。帰ろう」

「ああ、帰ろう。橘、学校はちゃんと来いよ。また、話を聞かせてくれ」



 橘は最後まで何も言わなかった。





「馬鹿じゃないのか。わざわざあんな災厄みたいなやつと関わって」



 蝉の声に背中を押されながら、青々と茂った斜面を降りていく。



「仲間は二人より三人の方が良いだろう?」

「その追加一人が色々連れてくるさ。好き嫌いにかかわらず、好かれる人間はまとわりつかれる」



 後ろを歩く飽海の声を聴きながら微かに笑う。飽海もわかってはいるのだ。そういった類のものはあくまでも体質のようなもので。本人の意思に関係なく好かれる奴は好かれるし、嫌われる奴は嫌われると。何を連れてきたとしても、別に橘のせいではないと。



「でも一人は寂しいだろう」



 飽海は橘と同じように何も言わなかった。けれどその沈黙こそが返事として十分だった。



「……あれといたら、学校でハブられるかもしれない」

「そうだろうとなかろうと、俺は基本ぼっちだ。問題ない」

「変な目で見られる」

「一人で視線に耐えるより、三人で分散させてやれたらいいな」



 口にすればするほど、わかってしまって笑えて来る。

 結局俺たちも、まだまだ人間のことが怖いのだ。



「馬鹿じゃん」

「俺には馬鹿になってくれる友達がいてくれたからな。今度は俺が馬鹿になってやる番だ」



 薄い掌で背中を叩かれた。







 夏休みを前にした最後の開校日。すぐそこまで迫った休みの気配に誰もかれもが浮足立つ。渡された数学のプリント集と英語のワークブックをカバンに詰め込みなかったことにする。

 全校集会とおよそ事務連絡だけの今日の予定は午前で終わる。野球部が走って教室から出ていく様を見届けながら、帰宅部の俺は隣のクラスをのぞきに行く。

 わらわらと小屋から解放された羊の群れをかき分け教室を覗き込む。窓際にはいつも通り飽海がいて、クラスメイトとじゃれるように笑っていた。入り口に立つ俺に気が付いて一瞬真顔になってから、つい、と視線だけ動かした。


 空いてばかりの一番後ろの席に、珍しく生徒が座っていた。

 俺の顔を見て、すっと立ち上がる。どこか緊張した面持ちで、口を開く。



「君と、友達になりに来た」



 律儀な意思表明に笑いそうになるのを飲み込んだ。きっと俺もこんな感じだったろうから。

 もう一度飽海に視線をやるととっとと帰れというように手をひらひらと振られる。どうやらまだ付き合ってくれる気にはなっていないらしい。



「一緒に帰るか」



 硬いつぼみがほころぶように、彼女は笑った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 帰り道の話かと聞かれるとちょっと違うとしか答えられない話だけど、それでも一応は帰り道での出来事だし、そういう不足分を補うほどに練られた前半のお陰で、非常に人情味のある話でした。 [気になる…
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