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始めの一手

 とある武家屋敷の奥、当主の部屋。


 今日は良い夜だ。

 妖魔の類は一つも発生しておらず、静かで平和な夜である。


 だが、と翁は思う。


 こんな夜こそ、静かに、何かが起こっている。

 長きに渡る経験から、彼はその匂いを嗅ぎ取っていた。


「…………」


 翁は傍らに置いていた刀を手に取る。


 草薙家に伝わる宝刀だ。

 千年近い歴史を持つ、由緒正しき霊刀である。


 鯉口を切りながら、彼は障子の向こう側へと誰何を投げかける。


「何者か?」


 問いに対して、それは細く障子を開けて、無作法に入ってくる。


「にゃー」


 入ってきたのは、一匹の子猫。

 一ヶ月ほど前から保護している霊獣である。


 観察していた限り、多少、霊的素養が高いだけのごく普通の子猫にしか見えなかった。


 しかし、今はどうだ。


 目には理知を湛え、明らかな知性を宿している。

 身に纏う覇気も英雄のそれであり、放たれる霊圧は鮮烈そのものである。


「名を、訊こう」


 子猫、ではない。

 その主、先日、息子や部下を救った謎の術師だと見切り、再度の問いを放つ。


 瞬間。


 爆発したように黒い煙が子猫から放たれる。

 それは無作為に広がる事はなく、一定の広がりを見せた後、逆再生の様に収束していく。


 煙が消えた後に現れたのは、一人の青年。


 紺色の衣を纏い、深紅の外套を肩にかけ、顔には目元を隠す銀色の仮面、首には複雑な文様の飾りを吊るしている。


(……幻術か)


 それが本体ではなく、幻覚の一種だと即座に看破する。


 失礼、とは思わない。

 敵か味方か、はっきりとしていない以上、当然の措置だ。

 むしろ、その様な対策をしていなかった方が、警戒心も上がっただろう。


「お初にお目にかかる、御老公。

 私の名は、テンマという。

 以後、お見知りおきを」

「そうか、テンマ殿。

 ……儂は、名乗る必要はあるかの?」

「必要はない、草薙竜介殿」


 殊更に隠している訳ではないが、名を知られている、という事に僅かに不快感を覚える。

 術によっては名を楔として用いる物もある。

 対策はしているが、力量どころか、相手の流派すら分からない現状では、決して安心できる物ではない。


 その内心を見て取ったのだろう。

 青年は言葉を連ねる。


「ああ、安心してくれ。

 私は呪法の類は好かん。

 直接殴った方が速かろう、というのが正直な所なのでね」

「……使えない、とは言わんのだな」

「使う事は出来るのだ。そこで嘘を吐いても仕方あるまい。

 人生の先達の目を、そうそう欺けると私は驕ってはいないよ」

「正直と誠実こそ、交渉ごとにおける最大の武器、という訳か……」

「ふふふっ、まぁそういう事だ」


 さて、とテンマは言って、話を変える。


「まずはお礼を申し上げる。

 私の使い魔を手厚く保護していただいた事、心から感謝する。

 最悪、殺処分される事も想定していたのでね」

「感謝はこちらも同じ事だ。

 貴殿に仲間たちの命を救われた。

 その恩を思えば、子猫一匹の世話など、恩返しにもならぬ」

「そうかな?

 間諜の類かもしれぬものを懐に入れる。それは勇気ある決断だと私は思うがね。

 特に、この様に潜む場所では」

「……そうやもしれぬな」


 敵意は、感じられない。

 威圧感の様な物は感じられるが、それはあくまで舐められない為の措置であり、害する為の物ではないと感じられる。


 とはいえ、安堵も出来ない。

 繰り返すようだが、どんな手管を持った輩なのか、まるで分からないのだ。

 こうしている今も、もしかしたら水面下で仕掛けてきているかもしれないのだ。

 刀を手放せない。


「それで、此度は礼を言う為だけに来たのかの?」

「ああ、勿論、違うとも。

 ……そうだな。単刀直入に言うのと、婉曲的に言うのと、どちらがよろしいかな?」

「端的に言うが良い」

「では、簡単に。君達と協力関係を築きたい」


 警戒心が、跳ね上がる。


 目の前の人物の力量は、その一端だけではあるが、十分に理解している。

 致命傷を負った息子を瞬時に癒すなど、並みの術者に出来る事ではない。

 行く所に行けば、聖人や現人神などとして崇められるだろう。


 一方で、己たちはどうだろうか。

 確かに歴史のある古い退魔の一門である。

 しかし、それだけだ。

 取り立てて大きな功績もない、この業界では弱小と言って良い部類だ。


 とても、目の前の人物にとって魅力のある存在とは思えない。


「ふむ。少々、性急過ぎたようだね。警戒させてしまったようだ。

 順を追って説明するので、それを聞いてから判断してくれないだろうか」

「……聞くだけは聞こう」

「おお、それは有難い。

 では、最初なのだが、実は私は貧乏でね。物質的にも金銭的にも何も持たないのだ」

「……それだけの力があれば、金などどうとでもなろう」

「面倒な事情があるのだ。

 ……加えて、私は我流の術師でな。頼る当てもない」

「その力が、我流だと?」


 信じられる話ではない。

 そう思った事が分かったのか、彼は言葉を付け加える。


「ああ、これは誤解を生むな。

 正確には我流ではないのだが、私に諸々を教えてくれた者たちとは連絡を付けられないのだ。

 何故か、は今は教えられん。

 協力関係を結べたら、話してやろう。

 故に、寄る辺なき貧乏人という訳だ」

「それで?」

「その貧乏を解決する為に、君たち、草薙家と手を結びたいと思ったのだ」

「そこが分からん。

 儂らは弱小、木端流派じゃ。

 儂らよりももっと巨大な組織もあろう。

 何故、儂らに話を持ってくる」

「私の技術は異端だ。

 何処に文句を付けられるか、分かった物ではない。特に宗教色が強いとな。

 その点、君たちは宗教色がない、どちらかと言えば完全な武家に近い一派だ」

「ほう?」

「あと、単純に近所だという理由もある。

 私はあまり動ける状態ではなくてな。

 拠点となる場所から自由に離れる事が難しいのだ。

 君たちは、私の家から最も近いので大変に助かるのだ」

「……途端に俗っぽい理由になったな」

「これも、詳しくは協力関係を結べたら教えよう。知れば納得して貰えると思うが」

「よかろう。他に理由は?」

「金銭や物資が欲しいと言っても、別にそう大量に欲しい訳ではないし、あまり特別な物も必要ないのだ。故に、弱小で構わんのだ。

 あとは、成り行きではあるが、恩を売れたのでね。

 穏便に接触できるのではないか、と考えたのだ。

 以上が、君たちを選んだ理由だ。納得してくれるかな?」

「…………ふむ」


 翁は思考する。


 悪くはない。

 この世界において、技術や叡智は門外不出である事がほとんどだ。

 逃げ出せば刺客を差し向けられるし、破門とは死刑とイコールである場合も多い。

 そんな世界において、多少の財を差し出すだけでテンマの叡智を得られるのであれば、割の良い取引と言える。


「そうさな。対価として差し出す御業は、どの様な物か、見せて貰えるかの?」

「デモンストレーションを所望か。

 まぁ、当然だな。よかろう」


 言って、テンマは腕を組んで考える。

 周囲を見回し、ふと翁の持つ刀に視線が留まる。


「ふむ……。ふむふむ。うむ、それが良いか」


 一人納得し、


「では、デモンストレーション用に、鉄を用意してくれ。量は刀一本分で良い」

「霊刀を打つと?」

「君たちの装備は見ている。

 あれよりはマシな物を用意してやろう。

 そして、協力関係を結べた暁には、その技術を伝授しよう」

「よかろう。では、見せて貰おうか」

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