店主の口止め料
酒場の店主は翌朝、シオンを呼び止めた。昨夜の男たちが店に戻り、あの黒衣の青年が誰か尋ねたという。答えなかったところ、今後も黙っていろと銀貨を差し出された。店主は受け取らず、客の名は商売のうえで必要な時しか話さないと告げた。
シオンは店主を褒めかけたが、男は肩をすくめるだけだった。「あんたのためじゃない。うちの客のためさ」。誰が来ても噂を売らないから酒場が続く。善意の約束ではなく、仕事の決まりなのだ。
店主は昔、客同士の喧嘩で皿を全部割られたことがあるという。それ以来、誰かが危ない話を始めれば先に戸を開け、外へ出てもらう決まりにした。力の強い客へ媚びるためではない。小さな店を続けるため、誰にでも同じ扱いをする。
シオンは銀貨を置き、割れた椅子の背を直す約束をした。店主は顔をしかめ、修繕の値をきちんと取るなら頼むと答えた。悪名を持つ者が無料で働けば、あとで何を要求されるか分からない。二人は費用を紙へ書き、期日を決めた。黒衣の青年へ向けた信頼ではなく、契約書へ向けた信頼がそこにあった。
夜市の広場では、芸人たちが次の町へ旅立つ支度をしていた。アリスは荷車に最後の幕を載せ、シオンの姿を見つけると手を振った。彼らにとって港の黒い花はすでに昔の公演の一部であり、次の町では別の王の仮面を使う。
シオンは店主から聞いた話を思い返した。口止め料を出す者がいるなら、彼の名に何かの価値は生まれたのだろう。しかしその価値を自分のために使おうとする者を、どう拒むか。恐れを売る者が他人から値を付けられることは、予想以上に耐え難いものだった。




