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その手から逃げようと後ろに下がれば、じりじりとせまってくる。まるでちょこまかと逃げる獲物を追い詰めた気怠げな捕食者だ。
殿下の目は私しか映っていない。
隠れていることなんて忘れているのか、手がピアノの鍵盤を雑に押し、不協和音が室内に大きく響く。
音にビクリと驚き動きを止めた瞬間。
制服の裾を踏まれ、背中からころりと呆気なく床へと転がった。
あぁ、逃げられない。そう遅れて気付く。
私の視界は、闇で覆われた。
「──おい! そこにいるのは誰だ!」
闇にのまれそうな刹那。
エドワード殿下の鋭い声がこちらに向けられた。
「──か、風でしょう? 放っておきなさいな」
「──ふん。怪しいな。間男でも隠していたのか」
「──まぁ。ふふっ、それこそ嫉妬というのではありません?」
「──お待ちください。私が確認しますので、殿下はこちらでお待ちください」
マデリン様は、エドワード殿下の急襲により出られなくなった私たちをかばってくださったが、余計に怪しまれてしまった。
どうやら護衛として付き添っていた子息が、こちらに近付いているようだけれど。
今この場面を見られるのは非常にまずい。
王族に押し倒された令嬢なんて、社交界に居場所なんてなくなること確定演出だ!
今も別に親しいお友達がいるわけではないのだけれども!
存在感がないのと、後ろ指を指されて石を投げられるのは違うのよ!
私の口を押さえるアシュバルト殿下の手をペシペシと叩いたが、殿下は一向にどこうとしない。なんなら距離を縮めようとしているような気もする。
なん、もう、ダメだって言ってるでしょう!?
キッと睨み、ひと差し指を伸ばた。
その指で、アシュバルト殿下の形の良い唇にそっと触れる。
今は真一文字に結ばれた唇が、触れた瞬間にわなないた。
ハッと驚いたような顔をした殿下の瞳には、光りが若干戻っている気がする。
殿下の唇に触れた指先を、私の口を塞ぐ手の甲にチョンとつけた。
そこには私の唇がある。
「……えっ、それって、俺と……?」
うんうんと頷いて、もう一度、殿下の唇にそっと触れる。
顔を真っ赤にした殿下は、私の意図を正しく受け取ったようで、押さえつけていた手をおずおずと弛めた。
「ぷはっ」
あーよかった。“話したい”というメッセージは伝わったようだ。
え、なにもじもじしてるんですか。今それどころじゃないんですけど。
そんなことをやっているうちに、護衛騎士見習いの足音は近付いてくる。
もうだめだ! 隠れるところがない!
咄嗟に、妙に至近距離にいた殿下の上着の中に頭を突っ込んだ。
髪と顔さえ隠せれば、個人の特定はできないはず!
「え? キスは? ナタリア?」
「今は見られたくないんです! 私を隠してください!」
そう殿下の胸に向かって頼み込んだところだった。
「・・・・・・!! ア、アルフレッド殿下ではありませんか、なぜこんなところに」
「アルフレッド!? マデリン、まさか兄上と!?」
「おやめください。冗談でも縁起が悪い」
「──うるさい」
アルフレッド殿下はギュッと私の腰をすくうと、隠すように立ち位置を変えた。
「見てわからないか。今、取り込み中だ。邪魔をするな」
低い、まるで物語の中の魔王のような声だった。
隠してもらっている側だが、思わずぶるりと震えれば落ち着くように背を撫でられた。
とたんにバタバタと教室からは足音が去って行く。
そして風の音と、心地よい鼓動だけが残った。
「ナタリア、もう大丈夫だよ」
「ありがとう、ござい、ます」
モゾモゾと出ようとするが、出られない。
いまだ背にまわった手が緩まないからだ。
「あの・・・・・・?」
「続きは?」
なんの?
ハテ、と頭を傾げれば、殿下の顔がついてくる。
「じらしているの? なんて小悪魔なんだ」
「えっ、申し訳ございません・・・・・・?」
なんてことだ、魔物に例えられてしまった。私も先ほどの殿下を魔王だのと言ったので、おあいこだが。小悪魔は小物すぎやしないだろうか。
一難去って、また一難。
うるうると瞳を潤ませたワンコ系王子が、何かを乞うように鼻を私のこめかみにチョンとつけた。
「えっ・・・・・・っと続きって、お話を」
むせかえるほどの色気をふんだんに放出したアルフレッド殿下に、硬直してしまうのもしょうがない。
あぁ、殿下もマデリン様と同じ青い瞳なのかと今更気付く。
最も、マデリン様よりも深い青だけれど。
何が起きているのか目を白黒させていると、教室の扉が勢いよくバタリと開いた。
「ハァ、マデリン様ったらぼくのことも自分の従者だと思ってませんか? アルフレッド様だって馬鹿じゃないんですから・・・・・・ってバカァア!!??」
まーーーーー!! と元気な声の主が、今度はアルフレッド殿下の首にしゅるりと腕を巻き付け、ズダァン! と激しい音と共に引き倒した。そして私に「逃げて!!」と叫んだ。アッ、ハイ、逃げます。
その日、私は全力で逃げた。
ピアノに加えて、走り込みも訓練を怠らないようにしようと心に決めた。




