第一楽章 1
柔らかなハープの音色が響く店内。
窓からは穏やかで優しい光が差し込み、木目調のテーブルを美しく包んでいる。
コーヒーの香りが漂うこの店は、カフェ和音─wato─といい、クラシック音楽が流れる少し古びた喫茶店。
オープンは昭和という、今では遠い時代だが、その頃に作られた味を引き継いだ「昭和レトロ」色が強すぎない洗練された空間に、整った顔立ちの男が一人、コーヒーを淹れながらその芳しい香りに深く息を吐き出した。
ここのマスターであるその男は、コーヒーと音楽をこよなく愛したこの喫茶店のオーナーである祖父が大好きで、物心ついた時には既に音楽漬けの日々を送っていた。
珍しいレコードが手に入るとすぐに持ち込んで聞かせてくれる常連客やら、整った音楽設備を誇るこの喫茶店を遊び場にした恵まれた環境の中で育った男は名を音弥といい、これまた祖父が名付け親で、名は体を表す通り、音楽家への道を選んだ。
だが祖父がこの店を引退すると知った時、どうしてもこの空間を手放したくはないという思いで両親を説得し、音楽家を続けながら喫茶店のマスターもしているという風変わりな男である。
音弥は少し細めの目をした、いかにもなさっぱりした日本顔。
それでも整った顔立ちは、音楽ファンだけでなく、大衆からも目を引く風貌の持ち主だ。加えて長身。
専攻楽器はオーボエながらも、大学時代に指揮学に目覚めて転科したこれまた少し変わった経歴の持ち主。
転科が認められる程の音楽センスを備えた音弥は、勿論オーボエの腕前も素晴らしく、器楽科の教授からは何度も考え直せと説得された程だ。
そこで音弥は、教授のためのオーボエ協奏曲を作るからと約束をし、なんとか指揮学を学ぶ事ができたが、同時に作曲の勉強もしなければならなくなった事に内心では舌打ちをする位の根性の持ち主でもある。
そんな音弥は、器用に何でもそつなくこなしてしまう様に思われがち。
そのルックスも手伝い、周囲から人が絶えず集まってくる。本人曰く、不器用だからそう見せない様に振舞っているだけと言うが、そうは思わせないスマートな仕草が多いので憧れの目で見る人も多い。
そんな中、音弥を芯から慕う人もいる。
「音弥さん」
今弥の前のカウンターに腰掛け、コーヒーが淹れ終わるのを待っているこの男、奏もその一人。
「コーヒー淹れ終えたら何か食べ物ももらえます?」
我が物顔で食べ物を要求するこの星宮奏という男。
慕うというのを通り越し、最早相棒のようで、時間があればここに出入りして音弥との時間を共有していた。
「わかった。サンドイッチでいい?」
だから音弥も奏に客のように振る舞うこともなく、友人のようなフランクさで接している。
「エッグサンドがいい。マヨネーズのじゃなくて玉子薄く焼いたの挟んでるやつ」
「注文多いな。いいよ、少し待ってて」
音弥は面倒そうだと言いつつそんな様子は微塵も見せずにドリップの終わったカップを奏の前に差し出してからエッグサンドの準備に取り掛かり始めた。
「ありがとうございます」
上機嫌でカップを受け取り早速口元へと運ぶと、淹れたての芳しい香りに満足そうに口元を綻ばせた。
奏は音弥の大学の後輩だ。
オーボエ専攻の頃に知り合い、音弥の音色に一目惚れした奏。
強引にレッスンスケジュールを合わせたり、同じコンサートを聞きに行ったりと、いつの間にやら音弥にとっても奏の存在は邪魔ではなくなっていた。
そもそも音弥にとって、憧れとして遠巻きに見るだけでなく話しかけてくる奏の事は最初から好意的だったのかもしれない。
だからこうして大学を卒業してからも時間を共有できるし、今では互いの音楽絡みの愚痴なども言い合いできる程の間柄になっている。
そしてそんな距離感もあってか、奏は数少ない、音弥の秘密の共有者でもある。
秘密というよりは特殊能力と言った方がいいのだろうか。
玉子をフライパンで焼き上がる音が止み、トーストした食パンがほぼ同時に出来上がる。
焼きあがった食パンにマヨネーズを塗り、予め用意しておいたレタスを敷いてからその上に焼きたての玉子を乗せる。食べやすいように三角形になるように半分に切ってから皿に盛り付けると、それを奏へと差し出した。
「エッグサンドお待たせ」
「ありがとうございます。美味そう」
頂きますと声をかけてから大きな一口をかぶりつく奏は、パンの甘みとほどよい塩気の玉子焼きのコントラストに、幸せそうな表情を浮かべた。




