存在している音
気持ち悪い。
音に何もこもっていない。
ただそこに存在しているだけの音。
いや。そもそも本当に存在しているのかも分からない。
自分の音が周りに溶けていく。
自分を残して
指揮棒が止まる。
「はい、そこまで」
乾燥した音楽室に音だけが残った。
金管の圧が消える。
フルートの音が衣装が脱げるかのように舞台を降りる。
鮮やかに舞っていた音が空気に溶ける。
そのなかでファゴットだけがまだ息を止めていた。
気持ち悪い。
自分で吹いてるはずなのに自分じゃない。
何かに操られているように音を並べているだけ。
そこに私という存在はいなかった。
「じゃあ次、Bから」
指揮者の声で空気が揺れる。
一斉に動き出す。
楽器を構える。
指先が冷たい。
目頭が熱い。
リードを咥える。息を吸う。
その瞬間、熱さも、冷たさも、何もかもがなくなった。
指が勝手に動く。
音が楽譜をなぞる。
何も間違ってはいない。
リズムも。
音程も。
強弱も。
でも、私がいない。
ユーフォの音と重なる。
テナーの音と混ざる。
誰にも気づかれないまま時間だけが過ぎていく。
それが、とてつもなく気持ち悪かった。
指揮者が時間を刻む。
いつもと何も変わらない。
そう思っていた。
空気の揺れ方が変わった。
誰かが楽譜から逸れた?
いや。
違う。
1人だけ音が違う。
楽譜をなぞるだけじゃない。
ほんの少しだけ。
その人の心が音を奏でている。
その音は大きくない。
圧もない。舞ってもいない。
なのに、耳に直接響いてくる。
揺れが合奏を支配する。
誰も気づかない。
そのはずなのに。
1人の音に全員の呼吸が揃った。
完璧な音が、少し崩れる。
自分の音がわからなくなる。
どうして、あの音が。
楽譜をなぞっていない。合わせていない。
そのくせ不完全だ。
なのに、1人で音の流れを変えた。
音のする方を見る。
一番後ろ。
スポットライトも当たらない薄暗い椅子の上。
そこに、知らないファゴットがいた。




