58.魔法の実践
虎狼ホンソウの国、翼獣の町、の外。山河カンショウの国はショウリュウの都より来た冒険者、瑞葉、ハクハクハク、ソラと翼獣の町の冒険者である黒滝が張り詰めた空気の中にいた。
その中心は瑞葉とソラ、この二人の間で今、戦いが始まろうとしている。
「な、何、が……? え……?」
ハクハクハクは混乱してその視線を二人の間で行ったり来たりさせていた。先程までは急に瑞葉が身体を鍛えることの重要性を演説していたのだが、これまた突然にソラが怒りを顕わにして彼女を睨み付けたのである。
「ど、どうすれば……?」
とりあえず二人の間に入るべきだろうかと前に出ようとしてハクハクハク、しかしその歩みを黒滝が止める。
「前には出るな」
「な」
「魔力視は出来るか?」
ハクハクハクは瑞葉に教わって集中すれば、であるが魔力視を使うことが出来るようになっている。彼女は呼吸を整えその目で周囲の魔力を視た。
「……あれは?」
彼女が見たのは瑞葉の周囲の地面を覆っている魔力、そしてそれらは全てソラの足元に繋がっている。
「軽い喧嘩で済めばいいんだが……」
幸いここは町から少し離れており余程大きな音でも立てない限りは警備もわざわざやってこないだろう。ソラが加減というものを知っているかはわからないが。
黒滝とハクハクハクは不安そうに事の成り行きを見守っていた。
瑞葉はソラと相対しながら自分でも意外に思う程に落ち着いていた。この状況になることを既に覚悟していたのだろうか、或いはソラが本気ではないと確信でもしているのだろうか。
どちらも違うと彼女は思う。
ただ単に。
「……来る」
瑞葉が呟いた次の瞬間、地面の一部が隆起してその先端が彼女に向かって行く。しかしそれを予期していたかのように地面が動き出すとほぼ同時に彼女は避けていた。
「読まれた?」
ソラは瑞葉をじっと睨み付ける。瑞葉の表情に恐れは無い、ただ落ち着いて周囲の状況を見定めている。
落ち着いてソラの次の手を見抜こうとしているのだ。
戦いは最初の一手が終わったに過ぎない、にも関わらず二人は膠着状態に陥っている。
「瑞葉ちゃん、何で避けられたんだろう……」
ハクハクハクはその様子を見つめながら先の一手を思い返す。
「……そこまで不思議な事でもない」
その独り言のような呟きに黒滝が返事をした。
「さっきの一撃の前に地面に魔力が伝っていたのは見たな」
「は、はい」
「あれは地形を変化させる魔法の前段階であることが多い。知っている者ならば見た瞬間にその手の魔法を警戒するだろう。そして実際に攻撃に移る直前、魔力が一か所に集中したのが見えた。攻撃の起点が事前にわかっているならば避けるのはそう難しくない」
「な、なる、ほど」
そう難しくない、黒滝はそうは言ってみたものの実際にその状況に直面した時に自身のその読みに次の行動を委ねるのは想像以上に緊張感を伴うことを知っている。生死に関わるかもしれない、そうでなくとも大怪我をするかもしれないような場面で半ば自分の勘のようなものにその結果を委ねるのは難しい。
「あっ!」
再び地面が隆起し瑞葉を襲った、が、彼女はまるで先程の再現のようにそれを難なく避けた。
「……あの嬢ちゃん、何者だ?」
黒滝の呟きは平原の風に乗ってどこか遠くへ消えて行った。
瑞葉の頭の中に黒滝が思う程の余裕は無い。彼女はただ不思議なぐらいに目の前の事に集中していた。なぜそれほど集中出来ているのか自分でもわからなかったが、今の彼女にはソラの一挙手一投足、そして彼女が放つ魔力の細部の揺れに至るまで把握できているような感覚があった。
「……少しはやりますね」
ソラが呟く。それと同時に彼女の魔力が地面から引いて行くのが見える。どうやら地面からの攻撃は通じないと察して別の手を講じるつもりのようだ。或いは、瑞葉は今が攻め時なのかもしれないと思ったが、彼女には別に攻撃を仕掛ける意図もそれをする理由も今の所は無い。
故にソラの次の一手を彼女は待っている。
目の前でかかって来いと言わんばかりに待ち続ける瑞葉の姿を見てソラは唇を噛むような思いをしていた。彼女の中にあったのは怒り、或いは嫉妬と後悔だ。反撃して来ない瑞葉を見ていると今すぐこの無意味な争いを終わらせるべきだと理性は叫ぶ、しかし彼女にはそれを抑えつけ頭の片隅の隅に追いやるだけの本能がある。
「……あなたにはあの程度では通じないみたいですね」
ソラはそう呟き魔力を周囲に広げる。今度は周囲の風でも操ろうとしているのか、そう思わせるような魔力の広げ方だ。
しかし瑞葉は直感的にそれをただの目くらましと見抜いていた。魔力で相手の目を塞ぐ事で魔力視を使えなくするように、自身の周囲を魔力で覆うことでその中でどのように魔力が動いているのかを分からなくしているのだ。
「風よ」
詠唱、本来ならばそれは特定の魔法を発動するのを円滑に行う為の一動作。しかしその先に放たれる魔法を知っているならばソラが次に放つ魔法をそれで読むことが出来るという事でもある。
「螺旋を描き」
この時点で魔法は確定した。冒険者の扱う基本的な魔法の一つ、風の槍だ。螺旋を描き中心に向けて収束しながら高速で敵に向かうそれは範囲は狭いものの威力はそこそこ高い。まともに食らえば危険であるが。
瑞葉はそれがはったりだと気付いていた。
「貫け」
詠唱が終わると同時にソラが周囲に放った魔力を抜けて何かが放たれる。それが何かを即座に判断することは出来なかったが、何はともあれ避けるか防ぐかはしなければならない。瑞葉は手と足に魔力を集中させて出方を伺うが。
「あっ!」
その魔法の軌道は瑞葉ではなくその足元を狙っていた。そして彼女は気が付く、この魔法は。
ドオォン!
ソラの放った魔法が地面に当たった瞬間、激しい音と共に地面が爆ぜる。風の槍と見せかけて実際に放ったのは何かに触れた瞬間に風が爆ぜる風爆だ。この魔法は音と見た目の派手さで誤解されやすいが威力は然程でもない、しかし目くらましには最適だ。
爆風と周囲に飛び散る粉塵が瑞葉の視界を奪う。今思えばソラが自身の周囲に魔力を拡散させたのは次の一手がこうして視界を封じることだというのに気付かせない為でもあったのだろう。既に魔力視という視界を奪っていた為に無意識的にその一手を打つ理由が無いと誤認させていたのだ。
当然ソラは止まらない。次は本当に風の槍が飛んで来るだろうか? それともさっき避けられた意趣返しに地面を隆起させる? 或いはまだ見ぬ魔法が飛んで来るか。
何も見えない視界の中で瑞葉が考えていたのはそんな事では無かった。
「喰らえ!」
ソラの声が聞こえる、何かを放ったのだろう。
ところで魔力を感じる方法は魔力視が全てではない。触れればわかるというものもいるし、自身の魔力を通じて解する者もいる、中には匂いでなどと言う者さえ。
瑞葉は思う、ならば自分も視覚以外の何かで感じることが出来るはず。
彼女はソラが魔法を放った瞬間、周囲を飛び散る粉塵を伝い魔力を周囲に展開した。
「……感じる」
放たれた風の槍が粉塵を貫き向かってくるのが彼女には目を開けずともわかる。避けるべき方向は当然、それどころか今のソラの動きも次に何をするつもりなのかも、全て今の彼女にはわかっている。
瑞葉は今ならば全てが思い通りになる、そんな心地さえ抱いている。
ソラの攻撃は四等星にしてはよく工夫されており、また使われる魔法の種類も多岐に渡った。ハクハクハクは以前に一緒に依頼へ行った時に彼女が直接魔物と戦っていなかったのでてっきり戦えないと思っていたのだが、その考えは目の前ではっきりと否定された事になる。
地形変化、風爆による目潰し、風の槍の軌道変化、その合間に速度の違う一撃を入れ込む。それら全てを避け切るのは至難の業だ。圧倒的な実力差が無ければ出来ないだろう、そう感じさせる程に。
ならば彼女らの間にはそれがあるのだろうか?
「はあ、はあ……」
ソラは特別に魔力が多いわけでは無い。魔法師を自称するだけあって他人よりも鍛えてはいるが、それでも生来の魔力の多さが特徴の丙族に比べれば大したことは無い。様々な魔法を連発するばすぐに息が上がってしまう程度だ。
相手が弱い獣や魔物程度なら、或いは普通の四等星ならば既に彼女の魔法は命中しこの戦いは終わっていたはずだ。
しかし。
「何で、当たらないの?」
「何でと言われても……」
今の瑞葉にはその全てが通用しなかった。
瑞葉は不思議な高揚感の中でソラの魔法を見つめていた。そしてその一つ一つに感心し、次の魔法が飛んで来るのを今か今かと待っている。今の彼女は当初の目的も、この戦いの意味も、いつの間にか頭の中から飛んでしまったらしい。
楽しい。
この周囲の全てを掌握しているようなその感覚が。だから早く、早く次を。
黒滝は二人の戦いを見ながら思わず冷や汗を流していた。
ソラはかなりの実力者だ、おそらく彼女はいずれ三等星になるだろうと見える。多彩な魔法が使えるというのはそれだけで得難い才能であるし、使い方にしてもよく練られている。経験と共に実力が増せば上へ行くことに誰も文句は付けられないはずだ。
瑞葉は?
「……あの子は、本当に四等星か?」
黒滝は既に瑞葉がやっていることを理解している。周囲に舞い散る粉塵へ魔力を伝わせることでそれに触れたものや魔力の動きを見切っているのだ。おそらく今の彼女が視覚に頼らずとも周辺の全てを把握しているであろうことは想像に難くない。
問題は彼女がそれをぶっつけ本番で成功させたのだろう、という事だ。
「なあ、あの子は前からあんなことが出来たのか?」
「え? あ、ど、どうだろう……」
ハクハクハクに聞いても案の定、以前にもやっていたというような話は出て来ない。そもそも先に透明化の魔法とその実践について話をした時、彼女は明らかに魔力視以外で他人の魔力を認識する術を持っていないようだった。
魔力で触れることで他の魔力を認識するというのは比較的よくある手法とは言え、それをぶっつけ本番で行い、そして完璧に処理している。
「……化け物じみた才能だな」
黒滝には瑞葉はいずれ自分など軽々と超えて行くのだろうと、疑いようも無くそう思うのだった。
ソラの攻撃は当たらない、瑞葉は攻撃を仕掛けるつもりは無い。二人は一種の膠着状態に陥っていた。
「あ、の、そろそろ、止めた、方が……?」
ハクハクハクはこれ以上は無意味と感じて黒滝にそう提案する。ソラは既に息が上がっており未だ手の内を完全に晒してはいないとしても、息の上がった彼女にはそもそも出来る選択肢の方が削られて来ている。この状態で攻撃を当てることなど出来るとは思えなかった。
「……ま、そうだろうな」
しかし黒滝は別の考えをしていた。
ソラの限界が近いというのに異論は無い。しかし瑞葉が余裕という点に関しては明らかに違うと感じている。
寧ろ、今は瑞葉の方が危険な状態と言っていいだろう。
粉塵に魔力を纏わせ周囲の動きの一切、吹く風や舞い散る破片の一つ一つに至るまでの一切を感じ取る、これは決して不可能ではない。しかし高度な技術であり相当の年月の努力、或いは圧倒的な才能を有する者しか出来はしないだろう。そしてもう一つ、自身が感じ取る情報の一切を処理できるだけの能力。
狭まっていた視界が急に晴れて世界の全てを見通せるようになった時に人はその光景の美しさに涙を呑むが、その一方で突如現れた膨大な情報の波に押し流されるような錯覚を覚えるだろう。多過ぎる情報は時に人の脳の限界を超えて処理し切れない事がある。
そして黒滝は今の瑞葉はそれに近い状態であると推察していた。今の彼女はそれが出来ているという高揚感で気付いていないのかもしれないが、このまま続けていればいつそれが切れるかはわからない。
そうなった時に怪我で済めばいいが……。
「止めるぞ」
故に彼はそう宣言する。
「お願い、します……」
ハクハクハクはそう言って彼を見た。彼が拳に力を入れるのを見た。少し前傾姿勢になるのを見た。唇を真一文字に結んで何事か考えているのを見た。口元を何やらもごもごと動かすのを見た。
「……あ、え、あの?」
いつまでも動こうとしない黒滝に思わずハクハクハクは疑問符を浮かべる。黒滝自身もそれはごもっともな反応だと思った。思ったのだが、動けないのだ。
「何て言って間に入ればいいと思う?」
だって彼は人との付き合い方が下手糞なのだから。
「え、あ、どっ、……どう、でしょう?」
そしてハクハクハクも。
戦いは佳境に入っている。このまま続けばどちらか、或いは双方にとって望むべくもない終わりを迎えかねない。傍にいた止めるべき者達はあまりに頼りない。
どうすればこの戦いは終わるのか。
「……成程、周囲の粉塵を」
ソラはその答えに辿り着こうと必死だ。彼女は既になぜ瑞葉が全ての攻撃を避けられるのか、その絡繰りは解いている。後はどうすれば当てられるか、だ。
粉塵を全て吹き飛ばす? 瑞葉自身も周囲の気流を操作している、完全に吹き飛ばすのは難しいしそれだけの魔力も残っているかは怪しい。そもそも避けられない面での攻撃? やはり魔力量的に厳しいだろう。
ならば答えは。
「速度、これですか」
瑞葉の動きでは避けられない速度。あまり得意ではない魔法であるがそんなことは気にしていられない。そもそも相手の瑞葉がぶっつけ本番でこのような事をして来たのだ、自身が苦手程度に躓いてどうすると言うのか。
彼女は小石を拾い上げるとそれに魔力を込め始める。
瑞葉は自身の限界が近いなどと欠片も思っていない。彼女は変わらず世界の全てを理解できるような全能感に浸っており既にソラの次の動きも理解していた。確かに速さは脅威ではあったがそれを放たれる位置と角度が分かっていれば事前に避けることも可能だろう。
そして彼女はそれが出来るという確信がある。
次の一手が決定的な結果をもたらす、その場の誰もがそう確信してその瞬間を待っていた。
しかしその瞬間は訪れなかった。
「おー! ……どういう状況なんだ?」
場違いな声が響いたからだろうか?
ハクハクハクと黒滝は思わずその声の方角へ視線を向けた。彼らは既に忘れていたが黒滝を探していた人物はもう一人いる。ロロだ、彼がようやくこの場に姿を現したのだ。
しかしそれでもソラと瑞葉は止まらない。瑞葉は視線こそ向けはしたが今の彼女は目を閉じていたとてソラの動きを把握することが出来るのだ、何の支障も無い。
対するソラは身を捩って後ろを向いた瑞葉に向けて、躊躇いなく、その手に持った小石を。
「喰らえ」
放つ直前、彼女は自身の足元に風爆を放った。
瑞葉は新たに巻き起こった粉塵の動きにソラが小石を放とうとする位置と角度、それを見失う。即座に防御の姿勢を取り自身の身体の前方に魔力を集め防ごうとしたのだが。
「……あれ?」
小石は飛んでこない。彼女が目を開けるとそこには。
「少しやり過ぎですね」
ミザロが立ってその手の中で小石を弄んでいた。
ソラと瑞葉は青空の下、正座で地面に座らされていた。その前でミザロが二人を威圧するように立っている。
「私はあなたたちの好きに過ごしたらいいとは思っていましたが町の外で決闘とは、成程、洒落た過ごし方ですね」
完全に嫌味である。ミザロがそんな風に言っているのは、より正確に言えば崎藤やザガなどの一部の者以外に言っているのは、中々に珍しい。それはつまり、彼女が怒っているという事の証明なのだろう。
「少しそこで座っていてください。あちらの二人に話を聞いて来ますので」
有無を言わさぬ圧に二人は何も言い返すことなく素直にその命令に従う。先程までの怒りも熱も既に消えてしまったらしい。今はただ、反省することしきりである。
ミザロはロロを引き連れて黒滝、ハクハクハクの両名に話を聞き向かう。
「えっと、ミザロ、さん。用事、は?」
「先程終わりました。町を歩いていたらロロに会いまして。ソラさんを探していると言うので町の外ではないかとこちらへ来たわけですね」
要するにあの場で割って入れたのは完全な偶然である。少しでも遅れていたらどうなっていたのかはわからない。尤も、ミザロが聞きたいことはそんな事ではない。
一体何があってあんな状況になったのか、だ。早速彼女は二人に経緯を尋ね、それに対して二人は素直に自分たちの知っていることを話し始める。
「――という感じです」
「成程、まあわかっていましたが肝心な所は二人に話を聞かないといけませんね」
未だ正座を続ける二人はどうやら反省はしているように見える。流石に冷静になって来たという事だろう。
それはそれとして、黒滝が驚きの表情でミザロを見つめている事に気が付いただろうか。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや……。『遊剣』、の、ミザロ? さん、ですか?」
「ええ、そう呼ばれることもありますね」
「おお……」
どうやら彼はミザロのような高名な冒険者がこんなところにいることに驚いているだけのようだ。ミザロにとってはありふれた反応でありこれ以上追及する必要も無いと断じる。
「黒滝さんどうかしたのか?」
「いや、『遊剣』のミザロだぞ? 何でこんなところに……」
「知り合いに届け物って言ってたぜ」
「届け物ねえ」
黒滝はどこか疑うような視線を彼女に向けたが、やがて無益と悟りそれを止めた。そして今は彼が抱いた疑問を追及するような時間でもない。
ミザロを先頭に四人は正座をしている二人の前に立つ。
「なぜあのようなことを?」
その見下ろす視線はある意味では魔物の鋭い眼光よりも余程恐ろしいものがある。背筋を冷たいものが走るのを感じるだろう。
「えっと、その、どう言えばいいか……」
「瑞葉」
「はいっ!」
名前を呼ばれて緊張と共に顔を上げるとそこには柔和な笑みを、目は一切笑っていないが口元だけは柔和な笑みを浮かべたミザロの顔が見えた。
「時間はあるのでゆっくり考えて話して構いませんよ」
「……は、はい」
想像しているよりもずっと怒っている。そう感じた彼女は色々なことを上手く誤魔化そうとしていたのを諦める。要するに、諦めて全てありのままに話す決心を固めたのだった。
「あの、と、りあえず、今日の朝から、その、全部、話します」
そして瑞葉は朝に食堂で黒滝と出会ったところから安川にソラがどうして魔法にあれほど執着しているのか探るように頼まれた事、そしてここに来てソラを挑発するような事を言った結果このような争いになった事。その全てを話した。
「……成程。ソラさん、何か間違いやあなたの主張などあればどうぞ」
「……いえ、これと言ってそのようなものはありません。安川さんがそのような頼みをしていたことは知りませんでしたが」
ソラは一見すると至って落ち着いた様子だった。ミザロが現れて仲裁を始めたことで普段の落ち着きを取り戻したのだろうか。
いや、そんなことは無い。
「瑞葉、あなたはまだやり足りないと思っているかしら?」
「え?」
瑞葉はなぜそんなことを聞かれたのか分からなかった。
「いや、私は別に、元々そういうつもりでも無かったと言うか……」
彼女は別に戦いを望んでいたわけでは無い。口頭で、ならば話は別だが、直接的な暴力などは全く想定していなかった。
瑞葉の目的はソラの神経を逆撫ですることで彼女の本音を引き出そうとしただけで、まさか互いに魔法で以て戦うなど考えもしなかったのだ。
「ではソラさん、あなたは?」
皆の視線が彼女に集まる。そして気付くだろう、彼女の中の怒りは未だ全く収まっていないことを。
「私はこの度の件は喧嘩両成敗で事を収めるつもりでしたが、まだやる気ならば話が変わってきますよ?」
暗にミザロは自身の介入を匂わせる。はっきり言って彼女がこの喧嘩に参戦するならばソラや瑞葉が万全の状態であろうと相手にもならない。そんなことは誰もが百も承知であり、それ故に抑止力としての効果があるのだ、が。
「たとえそれでも、私は……」
ソラは狂っている。彼女は魔法に狂っている、のだろうか?
魔法師の朝は早い。日が昇る前に目覚める彼女は身だしなみを整えると自身が得意とする探知系の魔法の鍛錬を一時間する。それが終わると自身が苦手とする魔法の鍛錬を一時間ほど行い、それから一度風呂へ向かう。汗を流して髪を乾かすとそれから身支度を整え食事の時間だ。彼女は食事中も魔法の鍛錬を怠ることは無く、例えばある日には周囲の音をより大きく聞こえるようにする魔法を試していたようだ。残念ながらあまり成果は無かったようだが、彼女は食後にも魔法の勉強をする。この時間は主に食事の際に使っていた魔法の改善点などを探る時間だ。
その他にも一日を通しての彼女の習慣と言うのはあまりに多く全てを語ると長くなってしまう故割愛しよう。ここで言いたいことはただ一つ。
魔法師ソラは魔法を偏愛している、そのことだけだ。
しかしその偏愛はどこから来ているのだろうか?
「ソラさんはさ」
ロロが何気なく尋ねた。
「何でそんなに体鍛えるの嫌なの?」
魔法師ソラは魔法を偏愛している、が。それは彼女が身体を、肉体を鍛えることに対して強烈な拒否感を抱いていることに端を発しているのである。
ソラが生まれた村は既に滅んでいる。そこは長閑な村で人々は田畑を耕し森の獣を狩って日々の糧を得ていた。町や都からは遠く訪れる者もほとんどいない。彼らは外界からは隔絶された暮らしを送っていたが、その一方でそのことを悲観することも無い。なぜなら日々の暮らしは穏やかに流れ、時に隣人の幸福を祝う程度の余裕があったのだから。
そんな村のとある家で生まれたのがソラだ。彼女は幼い頃から村人たち皆に可愛がられ活発な子供として育った。同世代の子供と共に近隣の森を駆け回り木の実をつまみ食いするのが好きだったらしい。時には農作業の手伝いも積極的に行っていた。
幼い彼女は体を動かすことが好きだったのだ。
「あ、お父さん!」
そんな彼女は村一番の狩人である父を慕っていた。
「いいか、最後に頼れるのは自分の肉体だ。これを鍛えてなきゃどうにもならねえ」
彼はよくそんなことを言っていた。実際彼の身体は大きく、強く、他の者が二人がかりで運ぶような丸太を一人で担ぎ上げていた程だ。
ソラはそんな父にある種の憧れを抱いていたのだ。父に少しでも近付こうと子供らしい微笑ましさを持つ程度に身体を鍛えながら。
そしてその憧れはいとも無残な形で引き裂かれることになる。
「魔物が出たぞ!」
ある日そんな声が村の中に木霊した。まだ戦えるような年齢ではないソラは他の子供や老人と共に建物の中に隠れていた。
多くの獣を引き連れた魔物は小さな村にとってあまりにも大きな脅威だった。多少は狩りの経験がある者も多かったが彼らは別にその専門家という訳ではない、ましてや村を囲う程に多くのそれを前に彼らは次々と命を落として行く。
何が策を講じなければすぐに全員が死んでしまうだろう。その時に手を挙げたのは村一番の狩人であるソラの父だ。
「群れの長を狩る。そうすれば……」
その時に襲って来た魔物と獣の群れの長はソウガジュウと呼ばれる魔物だ。これは牙獣を従える特性があり、そいつを倒すことが出来れば襲って来たそれらの七割程度を占める牙獣が散り行く可能性があった。また他の魔物や獣も多くの牙獣が逃げて行けばそれに追従するものが現れるだろう。
彼らに出来る生き残りを賭けた唯一の策である。
「皆、後は頼む」
しかしそれは死出の旅路であることをその場の誰もが理解していた。
ソウガジュウは基本的に人前に姿を現さない。主に山中に潜み自身が従える牙獣に人を襲わせる魔物だ。そして木々の影を渡り歩き牙獣と対峙する人々の死角から巨大な爪と牙で急所を狙う狡猾さを持つ。それはつまりこの群れの中でソウガジュウを見つけることは至難の業であることを意味しており、しかし簡単に見つける方法があることも意味している。
自身の事を省みなければ、だ。
村一番の狩人が牙獣の群れの中へと駆け出す。他の村人たちは襲い来る魔物や獣をどうにか抑えながら弓や魔法の準備をしていた。
「おおおおおぉ!」
牙獣の唸り声とそれをかき消すほど大きな狩人の声が響き渡る。村一番の、彼はその称号を冠するだけの強さを持っており、四方から襲い来る牙獣を手に持った斧で首を斬り身に付けた手甲で殴り飛ばす。幾つもの傷を付けながらも確実にその数を減らして行く。
そんな彼の姿を見てソウガジュウはこの脅威を放っておくことは出来ないと考えるだろう。木々の影を渡り歩きその死角へと潜り込む。後はいつものようにその長い爪を彼の急所に向けて。
振り下ろす。
「がっ……」
胸を貫いた鋭い爪、赤い血がどくどくと流れて行くのを彼は見た。そして彼は、にやりと笑みを浮かべた。
「はっ、馬鹿が」
死に向かう彼は僅かな躊躇も無くその身を翻しその場にいるソウガジュウを捕らえた。彼にとって既に死は必然だった。
故に叫ぶ。
「撃てええええぇ!」
多くの矢と魔法がその声の元へ飛んで行った。
長を失った牙獣はその多くが方々に散って行き、それに追従する魔物や獣も現れる。一方で最も強く優秀な狩人を失った村人たちは仇を討てと声を張り上げる。
如何に長を失おうと魔物や獣は危険な生物だ、そしてただの人はか弱く脆い。剣が折れ、弓は切られ、革製の鎧を貫き牙が食い込む。それでも彼らは抵抗を続けたが、それが勝利をもたらすことは無かった。
ソラは建物の中で自分よりも小さな子たちをあやしながら外から人の声が聞こえなくなったことに気が付いていた。それが外の戦いの終わりを意味していることも。
ただ彼女はどちらが勝利したのかを理解できてはいなかった。
だって尊敬し憧れる村一番の狩人の父がいるのだ、負けるはずないだろう?
彼女は一人、外の様子を見に行った。他の者も止めはしなかった。それは勝利を信じていたからでもあるし、もしも魔物や獣が襲ってくるならもはや自分たちに手など残されていないことを知っていたからだろう。
ソラは走った。村の外、戦場となっている場所へ。戦いが終わったのなら傷の手当ぐらいは手伝えるかもしれない。彼女は皆の役に立つのを夢見てただ走った。
その先にあったのは。
「……誰?」
たくさんの死体が地面を埋める。人も魔物も獣も関係なくそれらは地面を赤く染める。真っ赤な大地の上に一人の男が立っていた。
「村の子か」
返り血で服を染めた男が彼女に声をかける。ソラには彼が敵では無いと理解できていた、しかしそれなのになぜだか恐ろしくて一歩後ずさった。
「話を聞き急ぎ駆け付けたつもりであったが……、この老いぼれの足では一歩遅かったようだ。済まぬ」
何が恐ろしいのだろうか。彼は何を謝っているのだろうか。彼女は怯えてそれに目を向けたくなど無かったはずなのに、何かに引き寄せられるように地面を彩る死体の山に目を向けた。
そこには偶に肉を分けてくれた近所のおじさんが、料理の仕方を教えてくれた友人の母が、傷の手当の仕方を教えてくれた医者のお兄さんが、その他にも見知った人々が血と肉に塗れて横たわっている。
「うっ……、ぷ」
彼女はその凄惨な現場を直視して思わず吐き気を催す。胃液が口の中にまで戻って来る感覚は不快で今すぐにこの場を離れるべきだと彼女の理性は警鐘を鳴らしている。
それでも、彼女にはまだそこから離れる事は出来なかった。目を皿のようにして、不安と恐怖を押し殺して、未だ見つからない最も尊敬する者の姿を探している。
男は何かを探す彼女の事を止めなかった。安全だけは確保する為に近くにはいたが、ただただ自身の無力さに唇を噛むだけでこれ以上出来ることなど無いと知っていたからだ。
死体の川を渡り、血で足を濡らし、幾つもの肉を掻き分ける。
そしてついに彼女は辿り着く。
「おとう、さん」
多くの魔物や獣に囲まれていた彼はその猛き肉体に幾つもの爪や牙が食い込み、元の姿の面影はほとんど残っていない。しかしソラにはその優しい眼差しが彼の物であるとすぐにわかった。
わかってしまった。
「うっ……」
襲い来る吐き気はこれまでで最も強く、彼女は口の中に広がる胃液の味を噛み締める。崩れ落ちる様に膝を付く彼女は、しかし本当に崩れ落ちたのは膝ではなく彼女の中にあった心の芯のようなものなのかもしれない。
故に、彼女はこの時から、狂ってしまったのである。
ゆっくりと胃液を飲み込み、彼女は立ち上がる。それからふらふらと歩き出した。
「どこへ行く」
流石にそれを見過ごすことは出来ず男が声を掛ける。
「未だ魔物や獣がどこへ潜んでいるかはわからぬ。応援を呼んでおる、それが来るまでは村で大人しくしていてもらおう」
ソラは彼の言葉をどこか違う世界からの呼び掛けのように遠いものに感じていた。だから脈絡なく彼女は聞いた。
「おじいさんはどうやって魔物を倒したの?」
男はその問いに少し困惑していたが、少し考えた後に。
「このように」
彼は掌の上に風の弾を作り出したかと思うと、それを木の影から自分たちを狙っていた牙獣に向けて放った。それは牙獣の身体を貫くと周囲の木々や地面に当たる前に霧散する。
「見た通り自分は老いぼれではあるが多少は魔法の心得がある。あの程度の獣や魔物なら後れは取らぬよ」
彼の胸には二等星のバッジが光っている。この村には冒険者は居らずソラはそれを意味するところは分からなかったが、ただ目の前の人物が凄いという事だけは理解していた。
かつての憧れが音を立てて崩れ去った今の彼女にはそれがどれ程の意味を持っていたことか。
「魔法って凄いんだね!」
血の海の中でそう言って彼女は笑みを浮かべた。その男は自分が何をしたのかようやく理解したようだが、既に取り返しは付かなかっただろう。
その後、応援が来て周囲の魔物や獣はそのほとんどが討伐された。しかし村に残されたのはほとんどが老人や子供、彼らだけでは生活もままならず生き残った者はほとんどが都への移住を決断した。村との心中を決めた者は数年の後にいなくなり都へ移住した者によって墓が建てられたという。
都へ移住した者の中にソラの姿はあった。そしてしばらく彼女の村を助けた男の元に居候し、その間に魔法の基礎を学んだ。彼女の魔法に対する向上心は異常なほどであり、時には寝食を忘れて鍛錬に励んでいたこともあった。今では年相応の落ち着きを身に付けたのかそのようなことは無くなったが、それは多くの者に指摘される中で正常な状態を擬態するようになっただけに過ぎない。
彼女の中身は未だに狂ったままである。
魔法師ソラ、彼女の過去を知る者はほとんど居らず彼女がそれを明かすことも無い。ただ彼女とある程度の長い付き合いになればロロが指摘した通り彼女が肉体の鍛錬を嫌い、魔法への偏愛がその裏返しであることに気付けるかもしれない。
「身体を鍛えることが嫌? 当たり前でしょう、身体を鍛えて何になると言うんですか?」
そして彼女はそれを当然のこととして受け入れている。
「どれほど身体を鍛えても獣や魔物の爪や牙の前にはそんなもの役に立ちません。しかし魔法は奴らをいとも容易く打ち抜くことが出来ます」
その言葉は誰もが間違っているとわかっている。確かに人の肉体は獣や魔物に比べて脆い、が、上位の冒険者にも剣や拳で戦う者もいるのだから。
例えばここにいるミザロもその一人だ。彼女は剣を用いて敵と相対する。類稀な身体能力を身体強化の魔法でより強く速く動くことが出来る。
ここで身体強化の魔法という魔法を使っていると指摘する者もいるだろう。身体強化の魔法など誰もが使っておりほとんどの者はやはり魔法を使わなければ獣や魔物と相対することは出来ない、という主張ならば間違いではない。しかしそれを使った上で複雑な動きをするのは難しく、身体に大きな負担もかかる。
例えばハクハクハクは彼女が生まれ持った大量の魔力により強力な身体強化を使うことが出来る。しかし彼女がそれで出来るのはごく単純な一つの動作、単に押したり、引いたり、精々が目の前の物を殴るぐらいが限界だ。それはまるで身体を鍛えていない彼女では動作が複雑になるにつれて動きを制御できなくなって行くからだ。敵の攻撃を避けて反撃するとなれば紙一重で避けるなど不可能で、一度大きく、誰もがその距離に驚くぐらいに、跳んで避けてそれから再び敵に向けて跳びかかることになるだろう。
確かに魔法は人の理を簡単に超越する力があるが、それは身体を鍛えることの意味を無くすには至らない。
「私は見たことがありますよ、鍛え上げた肉体がいとも容易く魔物の爪に貫かれ牙獣の牙に食い散らかされた姿を。それなのにそんなことに何の意味があるのか理解に苦しみます」
しかしソラはそれを頑なに認めようとはしない。誰もが理解できる理であろうと彼女はそれに目を向けたくなど無いのだ。
「よくわかんねえや」
そう言ったロロは彼女がそんな風にしていることなど気付きもしないし、だからと言って彼女の意見に理解を示そうともしない。
「俺はどんな方法でもかっこいい冒険者に近付けるなら何だっていいと思うぜ。魔法が上手くなれば大勢助けられるだろうけど、身体を鍛えて助けられる人だっているだろ」
「ならばより多くを救える方法を選ぶべきでは?」
「でも俺あんまり魔法の才能無いみたいだしなあ……」
魔法は才能の世界でもある。言うまでも無く努力しない者が華開くことは無いのだが、どれだけ努力をしようとも如何ともし難い差と言うのはあるものだ。
特にロロにとってそれは身近だ。
「……それは」
ソラが思わず言葉を失う程度には。彼女は瑞葉と相対しその魔法技術に対する才の高さを既に知っている。戦っている間はそんなことを気にする暇は無かったが、少し落ち着きを取り戻した今ならばどれほど高度な事をしていたのか理解できる。彼女の魔法に対する鍛錬の日々を、何年もの修行の成果を、瑞葉はその三分の一もかからず超えて行くのだろう。
そしてもう一人、ハクハクハクもそうだ。生まれ持った魔力量の差はある意味では絶対的な差だ。魔力量を鍛えることは出来るが地道に長い年月をかけて少しずつ増やすことが出来るだけ。初めから多い者が同じように努力をするならばその差が埋まることはまず無い。
ロロが共に行く二人はどちらも才能に溢れている。
「あ、そうだ。今度魔法教えてくれたら嬉しいな。ソラさんきっとたくさん努力して来たんだろ? だったら何か俺も上手くできるようになるやり方とかあるかもしれないし」
ソラはじっ、とロロを見た。彼女から見ればまだ子供の彼はきっと世の様々な事を知らないだろう。しかしそれ故かその瞳は希望に満ちているようだった。持って生まれた才能などというもので腐っていない、そう感じさせるだけの瞳の輝きを彼は持っている。
それは彼女には少し眩しい。
「……さっきかっこいい冒険者になりたいって言ってたけど、あなたにとってそれってどういうものなの?」
「そりゃあもちろん、みんなが普通に暮らして行くのを守れる冒険者! だぜ!」
「……そう」
やっぱり、眩しい、ソラはそう思って目を閉じた。
彼女はそれ以上何も語らなかった。それ以上はどうすることもできず一行は彼女も引き連れてその場を後にすることになる。
翼獣の町への滞在はまだ続く。瑞葉はソラの本音に少し近付けた事を喜ぶと同時にその核心には迫れなかったと嘆く。
彼女は財布の中身を見た、そしてそれが空なのを改めて確認した。そして改めて決意する、急ぎ彼女の真意を確かめ安川からの報酬を得なければ、と。




