穏やかな朝③
自由に動いていいが、家から一歩も出ないようにと念を押されたので、朝食後すぐに書斎室に足を向けた。
クルトがここで勉強していると聞いる。今日は挨拶がてら紋について聞いておこうか。
ドアを開けたら、パタパタと足音がして数冊の本を抱えたクルトが飛び出してきた。そしてぱぁっと笑顔を浮かべて、テーブルに本を置いてから丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。体の調子はいかがですか?」
急いで来たのか呼吸が少し荒い。悪いことをしたな。
「おはようございます。大分調子がいい。」
あたしも習って丁寧に挨拶をする。
「それはよかった! ですが病み上がりなのでなるべく安静にしてくださいね」
と、クルトが念を押す。
ここでも釘を刺されたんだが。
「父上から話は聞いています。僭越ながら僕が紋の指導をするように承りました」
前もって予定組まれてたかな?
「先ほどそう聞かされた。今日はどのような段取りで教えて頂けるのか確認だけしようかと」
突然、クルトが丁寧にお辞儀をした。洗礼された動きである。
「僕は若年者ですが、紋の使い方、指導の仕方は優れていると自負しております。どうか不満を覚えず僕のやり方に習って頂けるようお願いします」
わぁ……リヒトとクルト。二人の態度が違い過ぎて目眩がする。
本当に血を分けた兄弟なのだろうか。いやむしろ、どっちが年上なのだろうか。
これだから弟を後継者に推すわけだ。ううむ。
いや呆気に取られている場合ではない。こちらも挨拶しなければ。
立礼しながらクルトの目を見据える。
「こちらこそ、無知なゆえ手を煩わせると思うが、根気よく教えて頂きたい。よろしくお願いします」
クルトはビクっと肩を揺らして、顔が引きつった。
あれ、挨拶しただけだが怖がらせた?
「いえ。あの、申し訳ありません。目が怖かったです。あとその……」
クルトは少し迷う素振りを見せたが、觀念したような、何とも言えない顔になる。
「今しがた、母上から伝言が届きました。紋を覚える期間に並行して、夜に精神攻撃の対処を伝授するそうです。今夜から段階を経て行う旨を朝食時に言い忘れたので、伝えて欲しいと頼まれました」
「はぁ……分かった」
驚くほど連絡がスムーズだな。
驚いていると、クルトは本を抱えながらついて来るように促す。
黒いテーブルが置かれていた場所から、一つ奥の本棚に進むと、簡易な木のテーブルと椅子が横並びに置かれている。図書館にある読書スペースのようだ。右側の机に本が十冊以上積み重なっている。
「僕と兄上の勉強机です」
クルトは右側の机に持ってきた本を置いた。
「この本はミロノさんに読んでいただく本になります」
そんな気していたが、やっぱり、あの机で勉強しろということか。
「持ち出し禁止の本が多いので、僕たちは大抵ここで勉強しているんです。ミロノさんは兄上の椅子を使ってください」
「いいのか? あいつもここで勉強するんじゃないか?」
「いいえ、兄上はここで勉強はしません。無許可で本を持ち出して、ルゥファスさんが滞在している別宅で勉強しています」
クルトは平然と言いながら、左側の机の引き出しをあけて羽ペンとインクを取り出す。
「無許可で持ち出し……いいのか」
「いけません。ですが兄上の実力を考慮した結果、家の敷地内ならばと許可が出ています。僕はこの家から持ち出しは絶対に駄目ですけど」
当たり前のように言いながら淡々と準備する。その姿に不満の色は一切見られなかった。
「そもそもあいつはなんで別宅に居座ってんだ?」
クルトは不思議そうに首を傾げる。
「父上たちはお話しませんでしたか?」
「長殿の顔が見たくないと別宅にいるって聞いた」
クルトは少し目を伏せて考える。すると右側の椅子を引いて「まずは座りましょうか」と促した。
「あ、すまない」
「いえ、僕がやりたいだけです。どうぞ」
しっかりしているな。なんだがエスコートみたいでムズ痒いが、「どうも」と簡単に礼を言って椅子に座る。
クルトは左側の机から椅子を引っ張りだすと、あたしを正面にして座る。なのでこちらもクルトの正面に座り直した。
椅子一つ分の空間をあけて顔を突き合わせる。
「始める前に、兄上の事をお話しましょう。兄上は今、ここに住んでいません。一キロ先にある別荘に住んでいます。ここには現在、ルゥファスさん夫婦も住んでいます」
「あたしはなんでここにいるんだ?」
「母上とネフェーリンさんの意向です。ここなら母上の目が届きます」
「つまり、ネフェ殿の監視下置かれたということか……」
クルトが「はい」と苦笑した。
「別宅は昔にルゥファスさんが建て、こちらに遊びに来た際に寝泊まりしていると聞きました。普段は兄上が父上と喧嘩した時に自主的に籠る場所となっています」
なんというか。親父殿達はここに遊びに来てたんだ。交流があるなら教えてくれればいいのに。
まぁきっと、意地悪とかではなく、単に教えるのが面倒だったんだろうけど。親父殿と母殿はこーいうザツだから。
「今回はよほど父上にご立腹なのか。顔も見たくないと吐き捨てながら出ていきました。まだ怒りは未消化のようで、毎日話しかけても、父上の話題になると途端に伝達が切れます」
あたしは額を押さえた。
超こじれてるじゃないか。大丈夫かこれ。
だがクルトは全く心配していないようだ。困ったとか呆れた様子もないようだ。
リヒトも結構、親子喧嘩やってんのかな。
「はい。父上と兄上の喧嘩は頻度が多いです」
あたしが「ああ、そう……」と煮え切らないような返事を返すと、クルトがハッとした顔になり「読んでませんから!」と否定する。
「ミロノさん表情によく現れるので話の前後で推測できます」
ああそう、単純ってことか。
「その顔です。単純ってことかとか分かりやすくて悪かったなって顔してます」
「もういい。責めないしツッコむ気力もない。話を続けてくれ」
クルトがホッとした表情になった。
殴られるとでも思ったのかもしれない……前例あるので否定できないけど。
「大抵は兄上が腹を立てて喧嘩が始まり、そのうち兄上が折れて終了します。でも今回は少し長いです。怒りも全然収まってないようで、このまま拗れなきゃいいと思いますが……」
クルトは少しだけ眉を潜めたが、すぐに「でも」と笑顔を浮かべた。
「ミロノさんが心配するようなことはありませんよ。今に始まったことではありませんし、兄上は父上と違って大人ですから」
「……表現逆なのでは?」
「いえいえとんでもない。父上の嫌がらせは子供みたいですから広い心で受け止めてあげないと、子供としてやってられません」
あいつの悟ったような口調を聞いた瞬間、過去の親父殿のやらかしやそれに対する不満が、あたしの中で駆け巡った。そしてつい、全力で笑ってしまった。
「………く、あはははははは!」
クルトはきょとんとした目を向けている。
突然笑いだしたらビックリするよな。
「すまない。親父殿の悪ふざけの相手をしたときのことを思い出してしまったんだ。今のクルトと同じ気持ちだった」
「そうだったんですね」
クルトがふんわりと笑った。
しかしすぐに斜め上を見上げて静止する。
そのまま微動だにしない。どうしたんだ? 急に動かなくなったけど。




