続3・後編
時間は巻き戻った。二回目の巻き戻しだった。
気づくと誠也は会社にいて、残業の最中だった。
スマホで日付と時間を確認し、おそるおそる環の番号に電話する。
『もしもし? どうしたの? 誠也。会いたくなった?』
ねっとりと誘うような環の声。
「いや。かけ間違えた、悪かった」
『待ってよ、ねぇ今度…………』
問答無用で電話を切り、誠也は「はああ」と気が抜けた。
(これで二度目の巻き戻し…………三回の内、二回を使ったか…………)
残るはあと一回。
どうせなら、もっと長期間、巻き戻せば良かったかもしれない。『犯罪者』『前科者』のレッテルを貼られる恐怖に囚われ、熟考ができなかった。
(まあ…………また捕まるよりはマシか…………)
誠也はしばらく放心してから残業に戻る。一方で、頭では別の問題について考えていた。
四日後の土曜日。誠也は街に出ていた。スマホが何度も環からのメールと電話の着信を伝えるが、すべて無視する。誠也は引っ越ししていた。
二回目の人生で、誠也は昨日の金曜の夜に環を五階から突き落していた。
そこで砂時計を使って火曜日の夜に巻き戻ると、水曜日に有給をとり、業者を呼んで荷作りし、荷物をすべてレンタルロッカーに運ぶと、夜にはウィークリーマンションに移動して、木曜の朝からはそこから通勤するようになっていた。
環は火曜日の夜に誠也から電話をもらい、「脈あり」と喜び勇んで金曜日の夜に彼のマンションに来たようだ。しかし誠也はおらず、それどころか引っ越してさえおり、「どこにいるのよ!?」と彼のスマホに電話とメールをくりかえしている、というわけだった。
「あれか」
誠也は通りの向こうに目当ての不動産屋の看板を見つける。物件探しだ。次の部屋をさがす前に以前のマンションを出たため、週末を利用して新しい住処をさがしている最中だった。昨日、ネットで見つけた良さそうな物件の内見のため、アポをとった不動産屋にむかう。
(内見が済んだら飯を食うか。…………ちょっと、いい店に入りたい気分だな)
何故か、なんとなく浮き足立つ気持ちで不動産屋へむかっていると、交差点の向こうに見覚えある顔を見つけた。
「希美…………!?」
目を凝らす。たしかに一年前に別れた希美だった。
希美は手元のスマホと紙片に視線を落として、誠也には気づいていない。
(まさか、こんな所で…………一人か?)
驚きつつも、誠也は考える。
思えば、誠也は出世のために希美を捨て、環を捨て、瑠美子を選んだ。
しかし当の瑠美子は誠也を捨てて、別の男と結婚式から逃げ、環にいっては説明するまでもない。
(今となっては…………あの時、欲をかかずに希美と結婚しておくのが、一番平和だったかもな)
服装から判断するに、希美は「休日を楽しむために街に出た」という雰囲気である。
もし一人なら、食事にでも誘ってみようか。
そう、誠也が思った時だった。
信号が変わり、「希美、青だよ」という風に希美の隣に立っていた男が希美に声をかけ、希美も笑顔で男を見あげる。
(なんだ。新しい男か)
誠也は肩透かしをくらい、声をかけずに立ち去ることにする。
希美はスマホをしまおうとして一緒に持っていた紙片を落とし、紙は風で横断歩道の中央まで飛んだ。それを拾おうと希美の隣の男が駆け出し、紙へと身をかがめる。その時。
一台の車が突っ込んで来て、希美といた男を跳ね飛ばした。
平均的な体格の成人男性がいともあっさり宙を飛んで、アスファルトの地面に叩きつけられる。見ていた通行人の誰もが呆気にとられる。車はさらに前進して、向かいから来たトラックに衝突して停まった。
数拍おいて悲鳴があがる。「なんだ!?」「なにが起きた!?」と騒ぎになった。
(マジか! 目の前で交通事故なんて――――)
仰天する誠也の目に、アスファルトの上に転がる血みどろの男にふらふらと近づく、希美の姿が映った。希美は顔色を失い「信じられない」という表情をしている。
「駿…………駿…………?」
誠也は駆け出していた。周囲では「救急車!」という叫び声にまじって、パシャパシャと写真を撮る不謹慎な音が響いている。
「駿…………駿…………大丈夫? 駿…………」
「大丈夫なわけないだろ、触るな、希美!」
なにが起きたかわからない様子で倒れた男に触れようとする希美の手を、誠也はつかんで引き離す。希美はふりかえり、誠也の声と顔に気づいた。
「…………誠也? どうして…………」
「どうして、とかじゃない! 頭から血を流してるんだ、触るな! 動かすな!!」
『駿』と呼ばれた男は大量の血を流し、体もあちこちが不自然な方向に曲がって、明らかに素人が安易に触れてはならない状況だ。
「救急車を呼べ! 早くしないと…………!!」
「救急車、呼びました。今こっちに向かっているそうです」
怒鳴るように希美に指示した誠也に、通行人の一人が言う。
その言葉どおり、やがてサイレン音と白い大きな車が近づいて来た。
救急車から降りてきた隊員達は駿――――正確には小久保駿――――を一目見て厳しい顔つきになり、ある者は救命処置をはじめ、ある者は受け容れ先の病院をさがしはじめる。希美は今にも倒れそうな顔色で、誠也も立ち去るタイミングを失った。
搬送先が決まり、駿はストレッチャーに慎重に寝かされて救急車に乗せられ、希美も付き添いという形で同行する。
救急車はサイレンを鳴らして離れて行った。この頃には警察もやってきて、野次馬達を「さがって!」と怒鳴りつけている。誠也は警察に事情を聞かれ、解放された時にはアポの時間はとっくに過ぎていた(不動産屋にはキャンセルの電話を入れていた)。
時間を確認すると、ランチも終わりの時間帯だ。
(食欲、失せたな。内見って気分でもないし…………このまま帰るか?)
そうしてもいいはずだった。
しかし誠也は少し迷った末、タクシーを拾って行先を告げる。
希美と彼氏が向かった病院の名は覚えていた。
「希美!」
病院の受付で「先ほど運び込まれた小久保駿の身内です」と偽って入り込むと、希美はある手術室の前のソファでうなだれていた。誠也の声にのろのろと顔をあげたが、死人のようだ。
「状況は、どうなんだ? 医者はなんて?」
「ひどい、って…………最善は尽くすけど…………覚悟もしてほしい、って…………」
希美は顔をおおった。どうしてここに誠也がいるのか、疑問に思う余裕もないようだ。
誠也もかける言葉が見つからず、ただ希美から少し離れてソファに座った。
やがて希美から連絡をうけた、小久保駿の母親と妹も駆けつける。希美はろくに説明できる状態でなく、誠也が代わって知る限りの説明をすると、どちらも「そんな」と泣き出した。
手術は八時間に及んだ。廊下は重苦しく、希美や小久保駿の身内はとても動ける状況ではなかったため(遅れて父親も到着した)、誠也は自販機で人数分の飲み物を買ってきて渡す。
やがて手術室の扉が開き、医者が出てきた。希美と小久保一家は立ちあがって医者を囲む。
「先生! 駿は…………!」
「…………残念ですが…………」
まるで、ありきたりなドラマのワンシーンのようだ、と、この中ではもっとも他人事の誠也が思った。妹と母親は抱き合い、父親は信じられない様子で医者にすがる。
希美がふらりと倒れかけ、とっさに誠也が支えた。
「おい、しっかりしろ、希美」
「嘘…………嘘よね、駿…………」
呆然と呟く希美の肩を支えながら、誠也は考えていた。
ポケットの財布にペンダントを入れている。
(十時間も巻き戻せば、余裕で…………)
「よろしいのですか?」
すぐそばから声が聞こえた。
誠也がぎょっ、と顔をあげると、廊下の少し離れた位置に、先ほどまでは絶対にいなかったはずの男が一人、立っている。ラフな格好をした、これといった特徴のない男だった。
「よろしいのですか? その砂時計を使えるのは、あと一回ですよ?」
離れているのに、目の前でしゃべられているように明瞭に声が聞こえる。
「砂時計の効力は最大三回です。その砂時計はあと一回、時間を巻き戻せば終わりです。ここで使って後悔しませんか――――?」
この男は何故、砂時計のことを知っているのか。それに、間違いなく話しかけてきているのに、誠也以外の人間には――――誠也が支えている希美でさえ、彼の存在を気にかけていない。まるで、見えても聞こえてもいないかのように。
「もっと大事な時のために保留するのも、手ですよ。このまま怪我人が亡くなれば、彼女をとり戻す未来もあるかもしれませんよ?」
誠也は手の中を見た。今にも倒れそうな希美がいる。
彼女の性格は知っている。ここで希美が恋人を失い、誠也がそれを優しく慰めれば――――希美が支えを求めて戻ってくる可能性は、十二分にあった。
(だが…………)と迷う誠也が顔をあげると、男の姿は消えている。
疑問に思う間もなく手術室の扉が開き、小久保駿の遺体がストレッチャーに乗せられて出てきた。
「駿! 駿!!」
「お兄ちゃん!!」
母親が、妹が、父親がストレッチャーを囲む。
「駿…………!」
希美も恋人にとりすがろうとした。
その腕をつかんで、誠也は希美をストレッチャーの反対側へと引っぱる。
「ちょっと来い」
「放して、誠也! 駿が…………!」
「いいから、来い! 早く!」
誠也は力ずくで、廊下の人気のない端まで希美を連れてきた。
「これを使え」
戻ろうとする希美を引き止め、財布から金色のペンダントをとり出して希美の手に乗せる。
「手術が…………いや、不動産のアポが十時半だったから、九時間弱か。いいか? 強く念じろ。『九時間前に戻りたい』と」
希美は怪訝そうに眉をひそめる。
「これは――――そう、魔法の道具だ。時間を巻き戻せる。これを使って、彼氏が事故に遭う前に戻れ。強く念じるんだ。お前が心底願えば、たぶん戻れる」
「どういうこと…………? 魔法って…………」
「なんでもいい。とにかく念じろ。彼氏を死なせたくないだろ?」
誠也の言葉に、希美も手の中の砂時計を見つめる。
「とにかく念じろ。あいつが事故に遭う前に戻るよう――――」
「事故に遭う前…………」
希美の声がふるえた。
「一分でも三分でもいい――――駿が事故に遭う前に――――!!」
希美は砂時計を両手で祈りの形ににぎりしめた。
気づくと周囲に、午前の日差しと雑踏が戻っている。
誠也はスマホで時間と日付を確認した。三回目ともなれば、さすがに慣れてくる。
誠也がいるのは、アポをとった不動産屋の向かいの歩道だった。
(戻ってる…………成功したんだな。希美達は…………)
誠也は交差点へむかって走り出す。位置的に、事故に遭う直前だ。
(なんで、もっと余裕をもって巻き戻さないんだ――――)
誠也は希美の『一分でも三分でも』という言葉を思い出す。
交差点にたどりつくと、横断歩道の向かいで、希美が例の彼氏と並んで立っているのが見えた。
希美はスマホを見ず、しきりに周囲を見渡している。その驚きの表情。彼氏は「どうした?」という風に希美に笑いかける。
(助かったか――――)
と、誠也が安堵しかけた、その時。
信号が青に変わり、動揺したままの希美はスマホと紙を落とす。
紙は風に飛んで、横断歩道の中央に落ちた。
それを小久保駿がとりに行こうと、希美をおいて走り出す。
前回の人生と同じように。
(あの希美! なにやってんだ!!)
誠也も目を疑った。
おそらく希美は本当に時間が巻き戻った様を目の当たりにして、頭が真っ白になったのだろう。しかも希美が巻き戻した時間は、事故が起こる、本当に直前。
呆然としている間に前回と同じ状況になってしまったのだ。
(もう時間は巻き戻せないんだぞ!?)
「駿!! 待って、駄目――――!!」
希美が叫ぶ。
見覚えある車が突っ込んできた。
「駿――――――――!!」
悲鳴が聞こえた。
前回同様、車はスピードを落とさずに直進して、向かいからやってきたトラックと正面衝突し、回転して停まる。
「駿…………駿!」
凍りついていた希美が駆け出す。
「いってぇ………………」
どちらのものかわからぬ、うめき声。
「駿!! 誠也!!」
スマホによる、よそ見運転の車が走り去ったあと。そのタイヤ跡から二十センチも離れていない位置で。
誠也と駿、二人の男が重なるように倒れていた。
とっさに誠也が駿に体当たりし、二人そろって車を避けたのだ。
「大丈夫!? 駿!? 誠也!?」
希美が泣きそうな顔で駿にすがりつき、駿も「いたた」と呻きながら駿が体を起す。誠也も服をはたいて立ちあがった。
「大丈夫か? 生きてるな?」
「はい…………」
誠也の言葉に小久保駿は呆然と答える。その首に「駿!!」と希美がすがりついた。
「駿! 駿!! 良かった…………! 生きてる…………! 本当に生きて…………!!」
「希美…………」
希美がひしと恋人を抱きしめ、泣き出す。
「ごめん。びっくりさせたね」
小久保駿は優しい声で彼女の背をさすりはじめた。
誠也はそれを見届け、その場から離れる。
アポをとった不動産屋のガラス戸の手前までくると、スマホが鳴った。画面を見ると、環の名が表示されている。
誠也はスマホを切ろうとし――――思い直して電話に出た。
『やっと出た! 今どこにいるの!? 昨日、アンタん家に行ったのよ!? そしたら管理人が「伝言を頼まれた」って、アンタが引っ越したって言うじゃない!! なんで、あたしに黙って…………!』
「環」
誠也は一方的にまくしたてる環の怒声をさえぎり、用件だけ告げた。
「お前な。盗みをやめろ。本気で結婚したいなら、まずそこからだ」
環の声がとまる。
「お前が何度いい男を見つけても、誰と付き合っても、絶対うまくいかないのは、そういうところだ。人の財布から当たり前に金を抜いて、デートでは平然と高い店、高いホテル、高いプレゼントを要求して、自分は一円も払わない。奢られて当たり前。女友達からはプライベートを根掘り葉掘り聞き出しては、あちこちで悪口と一緒に噂のネタにする。そんな強欲で口の軽い女、まともな男が結婚したがるわけないだろ? 同性だって離れる。俺はクズと呼ばれても仕方ない男だが、そのクズから見ても、お前は妻にしたい女じゃない。大事にする気は起きない。股がゆるいから遊びはするが、それだけだ」
『…………』
「お前がクズ男に引っかかってばかりで結婚できないのは、男運が悪いとか、出会いがないとか、そういう運のせいじゃない。お前自身がそういう『大事にされない女』『絶対、結婚したくない女』に成り下がっているだけだ。まともな男ほど…………いや、まともな男も女も、まともでない男も、お前みたいな女とは真剣に長く付き合おうと思わない。まして、結婚なんて考えるわけがない。お前、恐喝もやってるだろ?」
沈黙が返ってくる。
「お前はうまくやってるつもりみたいだけどな。基本的にお前は頭も悪いし。わかるんだよ、そういうの。指摘しないだけで、他の男もたぶん気づいて…………」
ブツっ、と電話が切れた。
誠也は『通話終了』の表示を見おろし、ふいに笑みを浮かべる。
楽しかった。あの環を『かわいい』と思ったのは、これが初めてかもしれない。
誠也は笑んだまま、不動産屋の自動ドアをくぐった。
「…………どうして、助けてくれたの?」
かたい面持ちで希美が訊いてきた。
翌週の土曜日。誠也は引っ越しを終え、希美に「先週のお礼がしたい」と、あるカフェに呼び出されていた。
「魔法の道具、ってのも、びっくりだけど…………大切なものだったんじゃないの? そのあとも、また助けてもらって…………」
がしゃがしゃと、希美はりんごジュースのストローをいじって氷をかき混ぜる。
嬉しいし、助かったし、でも相手は自分を捨てた元カレだし…………で、「どういう顔をすればいいかわからない」という様子の希美に、誠也は環から電話をもらった時のように、彼女を『かわいい』と思った。いっそ『愛おしい』でもいいかもしれない。
「まあなあ」と誠也はカフォオレを飲んだ。「たとえばさ」と切り出す。
「一回、自分が不注意で誰かを殺して、それで捕まって。『ああ、これで人生終わった』って絶望した時に、実はそれは夢で、自分は誰も殺していなかった、捕まっていなかったって、わかったら幸せな気分にならないか?」
「は?」
「とことんリアルな逮捕される夢とか、人殺しになる夢を見て。とことん絶望したあと。それが夢だってわかったらさ。『ああ、なんてすばらしい人生なんだ。金とか出世とか、どうでもいい。平凡な人生で充分じゃないか。犯罪者にならない、逮捕されない、それだけで幸せだ』って思ったりしないか? そういう小説」
「…………小説の話なの?」
「やたらとよくできた、そういう話を読んでさ。なんか、しみじみ思ったんだよ。それだけ」
「…………駿を助けてくれた理由になってない気がするけど…………」
「とにかく、気分良かったってことだ。柄にもなく、人助けをしたくなるほどに。…………希美には悪いこともしてるしな」
「…………」
希美はりんごジュースを飲んだ。誠也の言葉に、彼女も思うところがあったらしい。
「まあ、そういう理由で、あの砂時計のことは気にしなくていい。慰謝料代わりと思ってくれ」
せいせいした様子の誠也に、希美は訊ねた。
「…………私と付き合っている間、環とも付き合ってたの?」
「――――環から聞いたのか?」
「先週ね。週末にいきなり電話が来て。なんだか知らないけど、誠也のことすごく怒っていて…………『アンタが誠也と付き合っていた時、誠也はあたしと何度もホテルに行ったのよ』『結婚の話も出てたんだから』って。私だけでなく、妃美達にも言いふらしてるみたい」
誠也は肩をすくめた。環のやりそうなことだった。
「本当なんだ?」
「何度かホテルに行ったのは事実だ。でも正真正銘、セフレどまりだ。結婚なんて、微塵もその気はなかった。真面目に結婚を考えたのは、瑠美子と希美くらいだ」
「…………」
「別れて正解だったろ? 今の彼氏を大切にな」
「俺が口にできる言葉じゃない」と思いつつ、他に言いようがなかった。
希美は自分と別れて、あの彼氏を見つけて、大正解だったのだ。
希美は一瞬、誠也を叩こうとしたかもしれない。少なくとも誠也はその気配を感じた。が、はあっ、と息を吐いて肩をおとす。そしてバッグからペンダントをとり出した。
「これ、返しておくわ。貸してくれて、ありがとう」
誠也は少し迷ってから、小さな砂時計を受け取る。
そして、そのもとの持ち主を思った。
「環には近づくなよ? あいつに弱みを見せると、限界まで金を搾りとられるぞ」
「言われなくても近づかないわ。口が軽すぎるんだもの」
ジュースを飲み終えた希美のスマホが鳴り、「ちょっと、ごめん」と希美がスマホと話し出す。
「うん…………うん…………今、カフェ。ほら、先週話した友達の…………」
誠也はカフェオレを飲み終え、ジャケットと伝票を手にとり、立ちあがった。
「じゃあな。彼氏とうまくやれよ」
「待って。駿が近くに来ているの。こっちに来るって言うから、少し待ってくれない? 助けてもらったお礼をしたいって…………」
「いい。あ、式には呼ぶなよ? さすがにな」
誠也は希美を残し、二人分の会計を済ませてカフェを出た。
土曜日の正午前。日差しは空からふりそそいで通り全体が明るいが、世界がまぶしく見えるのはそれだけが理由ではあるまい。
こんなに満ち足りて、心の底からすっきりした気分は何十年ぶりだろう。
足どり軽く歩いていた誠也に話しかける男がいた。
「ご満足のようですね」
病院で会った男だった。
「ああ」と誠也はその奇妙な男に返事する。
「『生まれ変わったような』って、こういう気分かね? まさに世界が違って見える。今はなにを見ても輝いているし、誰と会ってもかわいいし、『クビ』と言われても『どうにかなるさ』で終われそうだ。それくらい、気分がいい。ありきたりな台詞だが、世界が、自分の人生が輝いて見える」
そう。誠也は清々しかった。何を見ても、誰と会っても、希美も、瑠美子も、あの環でさえ今、会ったら『かわいい』と、『愛しい』と思える。
恋愛的な感情ではない。映画や小説で言うところの『世界は美しい』『人生は尊い』という気分なのだ。
二度、不注意から環を殺し、捕まりかけ。
けれども二度、それを『なかったこと』にできて。
気づけば、誠也の中の金や出世を追う気持ちは薄れていた。
出世は、ほどほどでいい。金も、生活に困らない程度にあればいい。そんなことより、人を殺していない、犯罪者として逮捕されていない、自由な人生を謳歌できる、その事実のほうがはるかに重要で大切だ。
「ご満足いただけたなら、なによりです」
「アンタは何者だ? 何故、ペンダントのことを知っていた?」
「私は、そのペンダントを扱っている店の店長です。ご存じでしょうが、今お持ちのそれは、外岡環様がお買いあげになられた品物です。そのため外岡様にお返しすべきか、私は出ていくべきか迷っていたのですが――――三回とも使用されてしまいました」
「店長か。そりゃ悪かったな。代金を払ったほうがいいか?」
「いえ。代金はすでに外岡様からいただいておりますので」
「そうか」
誠也はポケットから金色のペンダントを引っぱり出し、店長を名乗る男に放った。
「返すよ」
「よろしいですか? 力は失いましたが、ただのペンダントとしてご使用いただくことは可能です」
「俺は、こういう物はつけない。――――あんた、とんでもない物を扱っているな」
「さしつかえなければ、店の名刺をお渡しします。これからもごひいきください」
「――――やめとくよ」
誠也はほんのわずか考え、言った。
「あんな物を扱っているんだ。あんたもただ者じゃないだろう。なにより、またあの砂時計が手に入るとわかったら――――俺みたいな男は、また馬鹿なことを考えて身を滅ぼしそうだ。あれは奇跡の三回限り、と思って忘れるよ。そのペンダントを返すのは、そのためだ」
「かしこまりました」
礼儀正しくお辞儀した店長に、誠也は手を振って去っていく。
明るくあたたかい正午だった。