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運命というものは悪戯だという。人は生きている中で同じ日、同じ時間、同じ瞬間を二度も三度も過ごすことはできない。だから次の日が、次の時間が、次の瞬間がどんな最悪の運命だろうと、その一歩手前からはやり直せやしないのだ。
あともう一回息を吸って吐くとき何が起こるだろう。普段何気なくやっていることなのに、真剣に考えると案外恐ろしくはないか。
例えばこの小さな田舎町で救急救命士をしている30歳童貞彼女いない歴イコール実年齢の帳 善は、まさか30回もの誕生日を一度も恋人なしで過ごすことになるとは思っていなかった。彼は筋金入りのワーカーホリック。人命救助に人生をかけるのは良いことだったかもしれないが、一方でその病的なまでの真面目さが裏目に出たのだ。
一昨日は当直で24時間体制で勤務していたし、昨日は一日中自主的に筋力トレーニングに励んでいた。田舎町でジムが無いので体にいくつもの重りを装着し、片手で逆立ちしたり腕の力だけで歩き回ったり。彼の体はこの歳になっても衰えるどころか、全身の筋肉が成長を続けていた。
当直は三日に一回。休みは三日のうち二日ある。これだけ小さな町なら普通はその休みの片方が緊急で呼び出されることも多いはずだが、人口が少なすぎるせいで二日の休日が削れたことがない。よって休日二日目の今日は筋肉痛なのでトレーニングは休み、勉強に時間を費やす。それが善の日課のはずだった。
長閑な田園風景に真っ赤な鮮血が散る。善は近所のぼろぼろのスーパーに買い出しに行く途中、一本道で轢かれてしまった。善がどうして今まで仕事のことばかりで生きてきたのか。それは彼がこの町を心底愛していたからだ。その地元愛の対象は小動物にさえ向けられていた。彼は道に飛び出した野良猫を助けようとして死んでしまったのである。
善を轢いたのは大型トラック。町の人々のために努力を惜しまず自分と戦い続けた心優しい大男と、彼が助けようとした野良猫を真っ赤に染めて逃げるように走り去っていった。
(……どこだ、ここは)
ふと気がつくと善は真っ白な世界に来ていたが、まだ死んだことが分からず辺りを見回し、首をかしげる。さっきまで腹を空かせて古びたスーパーへいつものごとく歩いていたはずだが、田んぼもなければ道もない。まるで雪山で遭難したみたいに、ただ永遠と白くだだっ広い空間に立たされていた。
きょろきょろしているうちに何かが彼の目に留まる。遠くの方に誰かがいた。善はいくつもの修羅場をくぐり抜けてきた男だ。迷うことなくその人影を目指して駆け出した。
その人物の姿形がやっと見えるところまで来て足を止める。彼はここで初めて自分が死んだことを悟った。
「自分が死んだと、今気づいたのか」
「……」
子供みたいな体で白髪で、白い装束をまとう。嗄れ声の老婆が善に背を向けて立っていた。まるで彼が自分のところへ来ることを知っていたように。
善の肩から力が抜けた。けれどすぐに元通りしゃんと胸を張る。
「はい。……、とうとう自分にも来たんですね、この日が」
「ああ」
善は笑みを浮かべていた。自分の身を守ることを怠ってしまったが、人命救助のために努力に努力を重ね生涯をかけて優しさを追求し続けたのだ。生きていた頃は自分に満足したことがなかったが、どんな形であれ人生を終えた今、達成感に似た感情が湧いていた。
老婆は孫と話すような声できく。
「悔いはないかね」
「あります。しかし、私は過去の未練を未来に持ち越さない主義ですので」
「そうか」
老婆は何を思ったのか、安堵してため息をついた。
「お前さんはいい人じゃ。しかし、お前さんはその善行に見合うだけの幸福を受けずにここへ来てしまった」
「……」
「お前さんはまだ、幸福を受けるまでは死んではならんのじゃよ」
「……!」
急に意識が遠のく。善の視界は霧に包まれるようにもやもやと白くなり、何もできないまま気を失ってしまった。
◯◯◯◯
朝。すずめの鳴き声がする。善は目が覚めた。どうしてだろう、死んだはずなのに。
彼はいつものようにベッドで目覚めたのだ。どういうわけか生きている。驚いて布団を蹴り飛ばし、飛び起きて、目を泳がせて自分の両手を穴が開くほど見つめた。
「……い、生きてる」
声を発して違和感が。少し高いのだ。
狂ったように自分の顔を体を忙しく触りまくる。体が細くなっていた。顔も痩せたよう。
それに周りを見れば高校生の頃に住んでいた実家ではないか。木の壁には学ランがかかり、部屋は片付いて殺風景なくらい。そういえば高校生の頃は潔癖すぎるところがあって友達に不快な思いをさせたこともあったなと、顔を蒼くして思い出した。
どうも高校時代にタイムスリップしたらしい。
ベッドから飛び降りてゴミ箱を漁る。捨てられていた新聞をうるさく開けば2012年5月2日(水)とあった。やはり高校時代。それも入学して間もない頃だ。
(確か、あのおばあさん、オレはまだ死んじゃダメみたいなこと言ってたな。まさか、こんなことが……)
思いっきり頭をぶん殴られたようなくらい驚愕でくらくらしていたが、前回の人生で鍛えられた冷静さでだんだんと落ち着きを取り戻してくる。筋肉は高校時代のレベルに戻されているが、頭の中の記憶の棚を片っ端から開けて回るとこの頃には学んでいるはずのない救急医療の知識までしっかり残っていた。
ということはつまり、強くてニューゲームの始まりだ。
善は机で充電していた端末を開ける。機種は旧式モデルなのでかなり小さく感じた。
(7時、5分前。あれ、学校って何時からだっけ? とりあえず平日だし、登校しなきゃだよな。学校まではどれくらいかかるんだっけな。確か、普通に自転車で通ってて……)
遡った時間はおよそ15年。ついさっきまでこの頃の倍近く生きていたのだから、それだけの歳月をかけて記憶の棚の奥に追いやられた情報を引き出すのは簡単ではない。が、どうにか自転車で片道20分の距離だったことを思い出し、あとは無難に8時までに登校しようと踏んだ。よって残された時間は思考を巡らすのに5分かけたのでおよそ40分間である。
だいぶ余裕だな、と善は思った。たった今掘り返した記憶が正しければ、そろそろ時間厳守の几帳面な母親が一階から声をかけてくれるはず。
「ぜ〜ん! 起きてた〜? 7時だよ〜!」
「はーい!」
ほっと胸を撫で下ろした。まずは第一関門突破といったところ。母親が声をかけてくれる時間がいつも通りなら充分学校に間に合う。まさかのタイムスリップに戸惑いながらもまずは目先の問題解決だった。
だがしかし、時間に余裕があると分かればどうして若返ったこの喜びに胸を躍らせないでいられよう。階段が抜けそうな勢いでパジャマのまま駆け下り、居間へ。
古臭い木造住宅が懐かしい。30になる頃にはこんな田舎でも明るい色の壁紙が貼られたきれいな家を持つのだ。善は久々に我が家らしい木の匂いを肺いっぱいに吸った。
「こら! 家壊れちゃうでしょ! どうしたのそんな慌てて」
「別に! ……、うへぇ〜! 朝飯だ! 美味そう〜!」
円卓に朝食がもう用意されている。白味噌の味噌汁がもくもくと湯気を立て、白米は窓からの朝日に輝き……、そばに卵と容器詰めの納豆が地味に添えられていた。勢いで美味そうだと言ったが割とそうでもない。
風のように卵を解いて納豆を混ぜ、飲むように完食。味噌汁など3秒ともたない。朝食の後は歯を磨き、薄い髭を剃り、自室へ駆け上がって制服に着替え、荷物を一つ一つ指差し確認して家を出た。
時刻はまだ7時15分。長閑な田園風景の中、涼しい向かい風を全身に受けながら矢のように自転車を飛ばした。どこまでも続く青空の下に帳 善は蘇ったのである。
文末は現在形や過去形、未来形、完了形、体言止めなどが一度も連続していなかったことにはお気付きでしょうか。
今後もこのようにレベルアップのため高難易度文章技法に挑戦しつつ書いていきたいと考えています。
遅めの更新ペースですがよろしくお願いします。