懸念
馬車に乗り込むと、気を失いそうになった。重力が3倍にはなったのではないかと思うくらいに体が沈み込む。しかしトーマンはパンと水を食べなくてはいけないという。
「ここからはほぼまっすぐな道を進みます。交代で眠りましょう。まずはあなたが眠るため、パンと水を摂取してください」
良く見ると、トーマンの顔にもべったりと疲労の色が見えた。考えてみれば、トーマンはどこからかはわからないが、ルービスを迎えるために同じように、少なくとも2倍移動をしていたのだ。2人の汗が混じったじっとりとした空気が馬車の中に充満する。すでに疲労がピークなルービスは、トーマンのそんな姿を目にしながらも気づかう言葉もかけることができずパンを咀嚼しながら泥のように眠りについた。
鳥のさえずりによってルービスは飛び起きた。みるとうっすらと夜が明けてきたようだ。空が紫一色のグラデーションになっている。
「なんてこと・・・私、どれくらい寝ていたの? ごめんなさい」
赤く充血させた目をこちらに向け、トーマンは微笑んだ。
「いいえ、少しも眠っていませんよ。一時間にもならない。大丈夫ですか?」
ルービスはうなずきながら、口の中にも、胸にも食べ残したパンのかけらが散乱していることに気づき、とりあえず口の中の物を再び咀嚼した。一時間もたたないうちに夜が明け始めたということは、夜の間中走り続けていたことになる。事実を知って、遅れてさらに疲労が増した気がした。
「次はトーマンの番よ」
ルービスは手綱を受け取ろうと手を出したが、その手には果物が握らされた。
「これからのことも考えれば、もう少し食べておいた方がいい」
「でも・・・」
「かなり飛ばしましたからね、実を言うとあと半刻もあればつくかもしれません。あなたは、国境を越えればすぐに・・・なるべく早く、お互いのためにも別れた方がいい。そこからは本当の一人になってしまいます。なにが待っているかわかりませんから、今できることをしておいた方がいいでしょう」
馬車の中の空気が重くなる。ルービスは言葉も出ずに、しばらく果物を見つめてから食べ始めた。
「私はあなたに多くの事を教えた。あなたは優秀ですから、なにも問題はありません。ただ、唯一不安があるとすれば」
トーマンはまじまじとルービスを見つめた。ルービスもトーマンを見返す。
「あなたのその美しさだ」
ルービスは突然容姿の事を指摘され、どう反応していいかわからず食べかけの果物を見た。
「これは冗談ではないのですよ。問題なのは、そのことに当の本人が無関心であることです」
どうやら怒られているらしい。ルービスは再びトーマンを見た。
「しっかり自覚する必要があります。考えたことがありますか?」
「自分が美しいって? 気持ち悪い、そんなこと考えない。別にそれで困ったこともないし」
「よろしいですか・・・! ・・・いいでしょう、言い換えます」
トーマンは呆れた顔をしてルービスを見た。
「それはあなたの個性です。非常に強力だ。もちろん顔の造作など人の好みがありますから、誰もがあなたに魅了されるわけではないでしょう。しかし、強い印象を残すことには間違いがない・・・それは旅人にとってはマイナスになることの方が多い。
狭い街ではそれほど脅威ではなかったでしょうが、国外では秩序は乱れている。あなたはただでさえ女性だ。そのうえ、その個性では目立ちすぎる。あなたが自分のことを客観的に判断できるようになるまでは、いつも姿を隠すようにしたほうがいい。今のように顔を隠し、少年のようにふるまうのです」
ここまではっきりと言われてもなお、実のところルービスにはよくわからなかった。美しいことが損になると言われても、よくわからない。
ビビデの街でも小さいころはよく周りからかわいいとチヤホヤされた経験はあったが、少し成長して母親が他界してからは特に言われたこともない。結婚の申し込みが殺到したことは事実だが、それは自分が一人になってしまったための同情とも受け取っていた。トーマンの言うとおり、ルービスは国外へ出るという夢に思いを馳せていたため自分の容姿を気にすることもなくここまできていた。
しかし、現実はあまりにも美しく成長したために周囲の人間が返ってそれをルービス本人の前では口にしなくなっていたこと、実はビビデに留まらず、周辺の街からもルービスの噂を聞きつけ結婚を申し込みにきていたことなど、ルービスがあまりにも鈍感であったために気づいていなかったが、ルービスを有名にしていたのは兵士志望というゆゆしき夢だけにとどまってはいなかったのだ。
「なら、トーマンも私に見惚れているわけ?」
ふいに口をついてから、随分と失礼なことをいってしまったことに気づき、ルービスはハッとした。トーマンはより一層呆れたように顔を曲げた。
「・・・まったくそういう事を・・・。安心してください。私は趣味が変わっているのであなたにとっては無害です」
「ほら、平気じゃない」
ルービスはさっそくトーマンの説が覆ったことに気をよくしてニヤニヤと笑った。
「ですから、それだけではないのです。私はあなたにおかしな感情は持ちませんが、それを利用しようと考えることはできますよ。わかりますか?」
トーマンはイライラを隠さずルービスの頭を何度も小突いた。
残念ながら、ルービスにはやはりトーマンの言うことがよくわからなかった。
「わかってる・・。つまり、顔を見られないように、極力女だということがばれないようにするのね」
ルービスはわかったふりをして言ったが通用するわけもなく、トーマンはやれやれと言うように天を仰いで首を振った。
トーマンには以前から自分の世間知らずな点を指摘されていた。女であるルービスがチュチタ国の中で知ることのできる情報が限られていたことも大きな要因の一つであったが、それに拍車をかけていたのはルービスの楽観的な性格にあった。それほどの楽観主義であったからこそ、このように夢を追いかけてこれたのも事実ではあった。
(吉とでるか、凶とでるか)
トーマンは祈るような思いでルービスを見つめた。自分の価値に気づいていないルービスが、今後どのような危険に見舞われるか、トーマンは兄のような気持ちで心配していた。ルービスの容姿に興味がないことは事実ではあったが、ルービスの人柄そのものに愛情を感じ、これ以上はなく自分の持てる知識を注いだつもりだった。短い期間ですべてを教えきることはできなかったが、ルービスは飲み込みも早く素直だった。なんとか幸せになってほしいと願う。




