疾走
木立にはトーマンの姿はなかった。青ざめながら周囲を見回していると「今からそちらに行きます」と上からトーマンの声がした。
トーマンは幹の上に立っていた。いつもの温和な笑顔をこちらに向けている。闇が深くなってきたためか、浅黒い顔の中にある白い歯が際立って見えた。
葉が生い茂った幹から直接地上に降りてきたというのに、葉の擦れあう音もなく、着地の衝撃も感じられない軽やかなものだった。
隣に並んだトーマンに安心して、ルービスは泣きそうになった。
「上出来ですよ、さあ、ここからは楽チンだ。気を引き締めていきましょう」
楽であるのに気を引き締める、トーマンのわけのわからないセリフに、ルービスは気を緩めつつ、緊張するというバランスを、奇跡的に整えることができた。
再び木々の密集する場所まで移動し、トーマンの持参した宮殿警備の制服に着替える。ルービスは部屋を出る前にさらしを巻いて、女性特有の体のラインを消している。毎日練習した警備の歩行パターンを完璧に実践する。警備は基本2人一組で行動しているため都合がいい。帽子を深くかぶり人相がわからないようにする。トーマンと、やや小柄な警備員に変装したルービスは警備門から外警備の交代要員としてあっけなく宮殿外へと出た。宮殿の方は静かであったから、おそらくまだルービスの脱出には気づかれていないと考えて良さそうだった。
広い庭を抜けて門外へ出るまで、危険にさらされなかったとはいえ、小一時間を費やし夜の帳が下りていた。
「さあ、ここからは体力勝負となります」
再び着替え、今度は少年のような姿になったルービスを従え、トーマンは音もなく走り出した。
『新兵の行進』はすでに国境の町まで進んでいる。そこで一泊し、早朝に国境を超えるのだ。ルービスたちは人々が起き出す前に到着し、ディーブとトーマンしか立ち入ることを許されないディーブの馬車の中に潜伏しなければならない。
脱走したルービスの行動をあとから探られないため、ここからできるだけ遠くまで、足がつく馬車などは使えない。とはいえ、こんな夜に全力疾走をしている姿が見られても、目立つことこの上ない。2人は闇夜に紛れながら全力疾走と、人の目がある時には帰り道をいそぐ親子という姿を演じる必要があった。さらしを巻いて、体のラインが出ないややゆったり目の服を着ているとはいえ、ルービスは顔が隠れるフードもかぶっていたため、暑さとの戦いにもなった。
トーマンは的確に塩と水分を補給させ、ルービスを先導した。深夜になると、さすがに人の気配は消えるものの、実際に遭遇するのは街を巡回する警察になる。深夜に街を移動する親子は奇妙だ。よって駆け抜けながらも存在は消さなければならない。足音はごまかせても、次第に乱れてくる呼吸音はごまかせなくなってくる。
「あともう少しで大きな道路にあたります。そこに馬車を用意していますから。あと一息です。行きますよ?」
さすがのトーマンも肩を上下させている。あたりは柔らかいが、やはり休ませる気はみじんにも感じられないトーマンの勢いに、ルービスは弱音を吐くタイミングを失いうなずいた。
「さあ、呼吸を整えて。あなたならできます」
油断をするとトーマンは闇にまぎれてしまう。ルービスは唾をのみ込んで息を短く吐いた。トーマンは気休めを言ったりはしない。馬車まではもう遠くないはずだ、ルービスはボロボロの体を否定した。
(疲れてなんかいない、息も苦しくない、私は風のように走る)
もう一度息を短く吐いてトーマンの影を追った。




