表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋する資格  作者: 君野仁義
2/2

第三章



 生徒にとっては地獄のようなテスト期間が終了した翌日、昨日までの天候が嘘のように冬には珍しい日本晴れである。スカッと爽快な空はまるで生徒たちの開放感を表しているかのようである。

 そんな空の下、二人の生徒が屋上にいた。男子生徒と女子生徒が向かい合っている。女子生徒の短いスカートが風ではためき、ひらりひらりと揺れ動く。

「好き、君が好き」

 女子生徒の柔らかいソプラノボイスが風に流れる。少女はかわいらしい笑顔で恥ずかしさを押し隠している。少女のサイドポニーが風に揺れる。

「僕は……」

 男子生徒の戸惑った声が地面に向けられる。少年は嬉しそうな、困ったようなあいまいな表情で悩んでいる。少年の視線が少女へと向けられる。

「私、仁人のことが好き、大好き!」

 少女は少年の目を見つめて、もはや叫び声に近い声音で自身のありったけの想い、ありったけの気持ちを『好き』という言葉に込める。

「でも、僕は…………僕には……ないんだ」

 仁人は椎菜の想いを、椎菜が自分のことを好きだということを嬉しく思いながらも、どこかで受け取れない気持ちに駆られていた。自分にはそんな資格がない。その思いが想いを否定していた。

「僕には資格がないんだよ」

「資格?」

「恋人を作る資格が、君と付き合える資格が僕にはないんだ」

 仁人は今にも泣き出しそうなほど悲しそうな、寂しそうな笑顔をそっと椎菜に向ける。これが悲しいけど、真実なんだよと告げるかのように。

「ごめんね、綾瀬さん」

 椎菜が何も言えないでいると、仁人はより悲しそうな笑顔でその場から立ち去ろうと背を向ける。

「分からない。分からないよ、仁人」

 またもや椎菜の叫び声が屋上に響き渡る。その声に仁人も一度、足を止めるが、振り返ることなく再び歩き出し、屋上から姿を消す。

「分からないよ……」

 椎菜の元気がなくなったソプラノボイスが昼休み終了のチャイムとともに風に流されていく。



 仁人は半日、昼休みが終わってからずっと上の空であった。授業中はもちろんのこと、部活の練習中ですら心ここにあらずの状態で、貴士が代わりに指揮を執ったくらいだ。そのためかどうかは不明だが、いつもより早く練習が切り上げられた。

 普段なら完全下校時間まで自主練習していく仁人だが、今日は早々と帰り支度を始めて体育館から誰も知らぬ間に姿を消していた。

「あいつ、大丈夫か?」

 貴士のつぶやきが仁人がいない体育館で雑音に押し流される。

 帰った仁人は無言のまま、リビングにいた妹にも母にも気づかれる事なく自室へとすぐに上がっていく。自室に入った瞬間、左肩からスポーツバッグを落としてそのままベッドに身を投げる。マットのバネが仁人の体を押し返す。

 椎菜が僕のことが好き?

 椎菜に呼び出された屋上で昼休みに起きた衝撃的な告白を思い出す。椎菜の『好き』という言葉を聞いた時の胸のときめき、嬉しさ、喜び……そして、どうしようもないまでの罪悪感が蘇ってくる。

「僕には……資格がないんだ……」

 仁人は胸を押さえながら、痛みを耐えるように胸を押さえながらそっと達観したような、諦めたような、寂しい声で漏らす。その視線の先には、やはり楯があった。

 椎菜の想いを素直に受け止められたら、どれだけ楽だろうか。ただ首を縦に振るだけでいいのだけど、それができない。貴士はもう過去の事と言うが、どうもそうできない自分がいる。やっぱり、僕には恋人を作る資格はまだない。今の僕には……

 仁人の脳裏には「好き」と言った時の椎菜の顔が離れないでくっきり張り付いている。それに気付くたびに、胸が締め付けられる痛みに襲われる。



 白を基調としながらも、各所に色が溢れている椎菜らしい活発さが垣間見える自室で椎菜はベッドに寝そべって、ダブルサイズの枕をきつく抱きしめている。

「仁人……」

 ぼそりとつぶやき、枕を抱きしめる腕の力を強める。椎菜の小さな胸ははち切れそうなほど仁人への想いが溢れている。仁人の名前をつぶやくだけで、切なくて胸が痛くなる。仁人の笑顔を思い浮かべるだけで、でへりと顔がにやけてくる。仁人の温もりを思い出すだけで、身悶えしてしまう。

「うぅ~~~、恥ずかしい」

 悶えて、ベッドの上をゴロゴロ転がるものだから、さまざまな所がめくり上がり、健康的な白い肌が顔を覗かせている。部屋着の短いスカートから覗く太ももが限界ぎりぎりのラインに挑戦してる。

「でも、資格がないって……」

 動きを止めた椎菜がしゅんとした声で小さく漏らす。その時の仁人の笑顔を今、思い出しても悲しくなってくる。あそこまで寂しそうでありながら、人を寄せ付けない笑顔を椎菜は初めて見た。

 なんて悲しい笑顔をするんだろう。

 椎菜はぎゅっと枕を強く、何かを打ち消さんとするかのごとく強く抱きしめる。何かを堪えるように、何かを祈るようにしばらく抱きしめた。



今年最後の学園行事、期末試験が終わった星鈴高校は開放された生徒たちの倦怠ムードが漂っている。気の早い者はすでに冬休みの計画を練り始める。それでも、授業はあるため生徒たちは消化試合に向かう野球選手のような足取りで坂道を登っていく。仁人は放課後の部活のためだけに登校しているようなものなので、特に変わりはない。

「おはよっ」

 自転車を押して坂を登ってる仁人の左肩が叩かれ、振り向くと、左側でサイドポニーに結んだ椎菜が笑顔でミニスカートを翻していた。

「おはよう」

 仁人は微笑で応えて、スポーツバッグを右肩にかけなおす。

「仁人って、この時間に登校していたんだ」

 仁人の左隣に寄り添い、椎菜は人懐っこい笑顔を浮かべる。その頬が微妙に赤くなっているのは寒さのせいだろうか。

「だいたいはこの時間かな」

「そっか……そうなんだ」

「?」

 椎菜がちょっとうつむいてしまうので、仁人は疑問符を浮かべてしまう。何か変なことを言ってしまっただろうか。

「それにしても、寒いね」

「今年は例年より寒いらしい」

「うぅ、寒いのはあんまり好きじゃない」

 椎菜が嫌そうに首を横に振り、身を縮こませる。その際、少しサイドポニーがぴょこんっと跳ねる。仁人の心臓もドキリと跳ねる。

「えへへ、寒いから急ご?」

「ああ……」

 仁人はついつい椎菜の輝かしい笑顔から顔を背けてしまう。

 この無垢な笑顔はやっぱりかわいい。

 少し先を行く椎菜の後ろ姿、振り返る姿を眺めて、仁人は複雑な思いに駆られながら早足で後を追いかける。



 二人並んで教室に入ることが少し恥ずかしい椎菜は下駄箱のところで仁人と別れて、一人図書館へと向かった。早朝開館をしているため、始業前でも何人か読書している。生徒会との合同企画のおかげか、以前より少し数が多いように思う。当番の生徒に挨拶してから、最上階にある館長室に向かう。

「ふう」

 部屋に入って、椅子に腰を下ろして、大きく息を吐き出す。その顔はどこか嬉しそうに頬が緩んでいる。

「あんまり早くない時間に登校しているんだ……もっと早く来て朝練でもしてるのかと思っていたな」

 窓からは体育館が見える。

「明日もこの時間にしよ」

 椎菜は机の上に置かれていた書類をチェックしながら、人知れず笑みをこぼす。始業のチャイムが鳴るまで椎菜はそのまま館長室で事務処理を行う。



 教室の席でいつもどおり窓の外をぼんやり眺めている仁人はいつもより三倍増しでぼんやりしている。空気が澄んでいるから、冬なのに若干空が高く感じられる。

「よう」

「おう」

 始業ギリギリに現れた貴士は軽そうな鞄を片手に仁人の席にやってくる。仁人は空を眺めたまま生返事を返す。

「なんだ、微妙に元気ないな?」

「気のせいだ」

「そうとは思えないがな……」

 貴士は不思議そうな顔で同じように空を見上げる。そびえ立つ図書館の時計が始業三十秒前を指していた。

「どうでもいいが、素直になれよ」

 貴士が軽薄に手をふりながら去って行くと同時にチャイムが鳴ったので、仁人にはあまり聞こえなかった。

 消化試合みたいな授業が終わり、昼休みになった瞬間、教室に一気に活気があふれて出してくる。学食に走る者から弁当を取り出し机を移動する者まで。

「上、行こうぜ?」

 貴士は始まると同時に仁人の席にやってきて、天井を指差す。

「ああ」

 ここのところずっと仁人の席で食べていた昼を今日は屋上で食べることにする。晴れてはいるが、寒いことには変わりない。だが、それでも仁人たちは屋上へと上がることにためらわなかった。

「やっぱ、寒いな」

 屋上についた瞬間、貴士が文句をもらす。

「そうだな」

 仁人は吹きさらしの風を片手を掲げることで少しでも避けようとする。とりあえず、フェンス近くまで行き、そこに腰を下ろす。貴士も同じように仁人の隣に座る。しばらくお互いに無言のまま空を眺める。綿雲が風に流されていく。

「されたんだろ?」

「……」

 沈黙を破った貴士に対して、仁人は沈黙を貫く。具体的に何も言わずとも伝わるのがこの二人である。

「僕にはないから……」

 数分にも思えた十数秒後、仁人は重たい口を開く。

「まだ……」

「やっぱり、ないと思う。もうすぐ大会だし……」

「そっか」

「ああ」

 二人はまたぼんやりと黙って空を眺め始める。大きな雲が西の空から流れてくる。



 前の授業の後片付けを終えた椎菜はすぐに鞄から手提げ巾着を取り出して、席を立ち振り返る。しかし、目的の人物はすでにそこにはいなかった。

「どうしたの?椎菜」

 同じように巾着を持った松木が不思議そうな顔で椎菜を覗き込む。その後ろで能登も疑問符を浮かべている。

「え?ああ、ううん。なんでもない。さ、食べようっか」

 椎菜は落胆と不可解な行動を隠すかのようにあいまいな笑みを浮かべる。隣の机を持ってきて、三人分のスペースを確保する。

「一緒に食べたかったな……」

 椎菜の小さな願望は松木の騒がしい声にかき消され、誰にも聞こえなかった。空には大きな雲が浮かんでいる。



 夕方というには早く、昼というには少し遅い放課後、寒風が吹きすさぶ屋上に二人の人影があった。短い髪を片側で結んだ女子生徒と軽薄そうな笑顔を浮かべる男子生徒が向き合っている。

「綾瀬……好きだ!」

「何の用なの?」

 貴士の言葉をドスルーして、椎菜は膝を追って落ち込んでいる貴士に尋ねる。このあと、図書館の会議があるので手短に済ませたい。

「聞く必要があるか?」

「やっぱり、紀三井寺くんには話してるか」

「いや、何も聞いていない。だが、分かる」

「さすがだね。羨ましいな」

 二人の関係を椎菜は素直に羨む。自分もそうなりたいって思いが溢れてくる。

「振られちゃった……僕には資格がないって」

「やっぱりな」

「ねぇ、資格って何?何のことなの?」

 そこで初めて貴士は困ったような表情を浮かべる。話していいものかどうか迷っているように少し考えるしぐさを見せる。

「さあな。ちなみに、あいつの誕生日は十二月二十六日だ」

 貴士は軽薄そうな笑顔を浮かべて、乾いた笑い声を上げる。椎菜は直感的に貴士が何か知っていることが分かったが、あえて追求しなかった。

「で、諦めるのか?」

「うぅ~、女の子に直接そんなこと聞いちゃダメだよ」

 椎菜は恥ずかしさから顔を真っ赤にして、両手で隠しながら顔を伏せる。その様子を見ただけで悟った貴士はもうそれ以上は何も言わず、代わりに大きな笑い声を上げる。

「わ、笑わないでよ」

「いや、ごめん。まぁ、なんだ、がんばれよ」

「うん」

 大きくうなずく椎菜の笑顔がまぶしすぎて、貴士はまた笑い声を上げるのであった。とんだカップルだと。



 人気者は忙しいのが世の常である。あっちで呼ばれれば、こっちで召集がかかる。屋上から図書館に直行した椎菜は最上階の事務室兼会議室の前で息を整える。大きく深呼吸してから、ゆっくりその扉を開ける。

「ごめん、遅くなって。さっそく始めるよ」

 すでに室内には館員たちがそろっており、椎菜が最後であった。椎菜は急いでいつもの席に座って、会議を開始する。誰一人、椎菜が遅れたことを咎めず、スムーズに会議は進行していく。

 会議は遅くまで続き、終わった頃には外は暗くなっていた。雲の合間からオリオン座が瞬いている。

「ふう、これで今日の業務も終了かな」

 誰も残っていない会議室で最後の資料整理を行っていた椎菜が伸びをしながら一息つく。ふと、ここで仁人が紅茶でも出してくれたらなぁ……と妄想してしまい、顔を赤らめる。

「執事服の仁人、かっこよすぎだよ……」

 椎菜の恥ずかしい独り言が室内に響き渡る。椎菜の顔はさらに赤みを増していく。

「もう部活、終わったのかなぁ」

 窓の外、体育館のほうに視線をやる。まだ明かりが点いている体育館を見つけて、自然と笑みがこぼれる。

「そうだ」

 椎菜は意味深な笑顔を浮かべると、資料をかき集めて帰宅の支度を急ぐ。



 貴士が遅れて現れた部活はすでに終わり、今は各人自由参加の自己練習時間となっている。体育館には仁人、貴士をはじめ数人の部員が残って練習している。

「そろそろ帰るか」

 右斜め四十五度の位置からシュート練習していた仁人に貴士が近づく。

「ああ、そうだな」

 綺麗なジャンプシュートを放ってから仁人は答える。ボールは綺麗な放物線を描いて、ゴールネットを揺らして落ちる。数回跳ねたボールを拾い上げ、羽多野がダンクシュートをしようと飛び上がるが、あと数センチのところで届かない。

「ちっ、もうちょいか。つうわけで、後片付けは俺たちがやっとく」

「頼んだ~」

 貴士と仁人は羽多野に手を振って、部室へと向かう。羽多野は悔しそうに笑いながらボールを片付け始める。

 二人が体育館から出てくると、当然のように辺りは暗かった。雲の合間から覗くオリオン座と朧月が出迎えてくれる。二人して駐輪所のほうへと歩いている途中で、貴士が突然携帯電話を取り出し、何かを確認するそぶりを見せる。

「うむ、急用だ。俺は先に行くぜ」

 そう言って、貴士はグランドのほうへと走り去ってしまう。仁人はその後ろ姿を見送りながら、いつものことなので深く考えずに一人帰るため歩き出す。

「お疲れ」

「えっ……綾瀬さん!?」

 薄暗い駐輪所にたどり着いた瞬間、声をかけられて驚いた仁人はそれが誰なのか分かってさらに驚く。

「綾瀬さん?椎菜って呼んで欲しいな」

「あ、えっと……」

「ダメ?」

 椎菜は上目遣いで潤んだ瞳で戸惑う仁人に詰め寄る。卑怯だと思いながらも、そのかわいさに目が奪われる仁人を誰が攻められるだろうか。

「し、椎菜……」

「うぅう、やっぱり恥ずかしい」

 呼んだ方も呼ばれた方も顔を真っ赤に染めて、視線を泳がせる。

 このまま二人してずっと照れ合っていても仕方ないので、とりあえず帰宅の路につくことにする。仁人はスポーツバッグを右肩にかけなおし、自転車を右側に押して椎菜の右隣を無言で歩く。

「いつも遅くまで部活してるよね?」

「もうすぐ大会だから」

 坂を半分ほど下りたところで、沈黙に耐えかねた椎菜が口を開く。仁人が素っ気無く前を見据えながら答える。

「綾瀬さんも遅いよね」

「椎菜」

「椎菜……」

「うん」

 まだ微妙に照れが残る仁人を少しかわいいと思う椎菜はこいぬ座のプロキオンみたいな笑顔を輝かせる。

「まぁ、いろいろ図書館長も忙しいのだよ」

「大変だね」

「そうでもないかな?楽しいし、本が好きだから。仁人もバスケが好きで遅くまでやっているんでしょ?」

「そうだけど」

「じゃあ、それと一緒だよ」

 横目で見た椎菜の笑顔が可愛くて、嬉しそうで、まぶしくて、仁人は一瞬、息することも忘れてしまうほど見惚れてしまう。

「仁人のこと、大好きだよ」

 あまりにも不意打ちの椎菜の言葉に仁人は立ち止まってしまう。心臓は過労で止まってしまうんじゃないかと思えるくらいフルスロットルで跳ねている。不意打ち過ぎて、ストレートに心に突き刺さる。

 僕も……

 先に続く言葉をなんとか心の奥底に押し込める。瞬間に蘇った記憶が仁人にそうさせる。

「ありがと。でも、僕には資格がないんだ」

 また何かを諦めたような、悟っているような、そんな寂しい笑顔を浮かべる。そんな表情の仁人を見て、椎菜は一瞬また何も言えなくなる。

「ねえ、資格って何?」

 しかし、椎菜は勇気を振り絞って、少しかすれた声を上げる。仁人がさらに悲しそうに笑うと、椎菜は胸を締め付けられる。

「今は大会が近いから部活が忙しいから」

「それって……」

 椎菜はそれ以上続けることができずに詰まってしまう。

「着いたよ」

 気づくと、すでに椎菜の家の前まで来ていた。なんでもっと遠くに家がないのかと理不尽なことを思ったが、素直に椎菜は仁人と別れる。

「ありがと。また明日」

「また明日」

 手を振る椎菜に背を向けて、仁人は自転車に跨り走り出す。

「おやすみ、仁人」

 椎菜のソプラノボイスが闇夜に消える。月が雲から抜け出して、顔を覗かせていた。



 月明かりに照らされた室内ではパソコンのモニターがぼんやりと光っているだけで、電灯は付いていない。メッシュ地のハイバックチェアに長身の男が深く腰掛けている。その隣にもう一人、人影が立っている。

「どうしてなんだ……」

 光義は隣に立つ生徒会副会長、後藤 美夏に問う。しかし、後藤は何も答えない。何も答えられない。

「もういいではないでしょうか」

 後藤は優しく労るように話しかける。光義は不機嫌に顔をゆがめて、後藤をきつく睨みつける。後藤はおびえたように身を竦ませる。

「俺が欲しいのは己の名誉だ。それを手に入れるためなら誰だって利用する。人望も厚く、人気がある図書館長と付き合ったとなれば、俺の株も上がるというのに」

「わ、私では駄目なのでしょうか……」

 後藤が恐る恐る、期待を込めて尋ねてみるが、光義に一睨みで一蹴される。

「お前ではもう俺の株が上がることはないのだよ」

 後藤は悔しそうに顔を伏せる。その瞳には大粒の涙が浮かぶが、決してそれを光義に見せないよう必死に堪える。

 光義は何かを考え込むように腕を組んで、静かに一点を見つめ続ける。なぜここまで椎菜にこだわるのか自分でも分からずに、ずっと椎菜のことを考え続ける。



 お風呂上りで火照った体をパジャマに包んだ椎菜が自室に戻ってくる。湿った髪の毛が艶やかに垂れ下がっている。椎菜はそのまま髪を乾かさずにベッドへとダイブする。そこで、ベッドに放置していた携帯電話が光っていることに気づく。

「誰だろ?」

 仁人かもという淡い期待を抱きながら、携帯の画面を確認する。数分前に亜樹から着信があったようである。

「亜樹からか……」

 椎菜は少し落胆しながら、亜樹へと電話をかける。数回のコールのあと、すぐにつながる。

「亜樹?ごめん、お風呂入ってた」

『そうなんだ』

「で、どうしたの?」

『うん、なんか今日の椎菜、ちょっと変だったから気になって』

 松木には珍しく声のトーンが少し低い。

「え?そうかなぁ」

 椎菜は少し誤魔化すように曖昧に流す。

『そうだよ。ご飯のときもなんかそわそわしていたし』

「うっ」

『ほら。何があったのか白状せい』

「何もないよ~」

『嘘だぁ~何か隠しているよ~』

「実は……」

 椎菜は観念して仁人のことを話そうかと思ったけど、やはり恥ずかしくなって言葉が詰まってしまう。

『実は、何よ?』

「やっぱり、ひ・み・つ」

『なに、それ~』

 椎菜はいたずらっぽく言う。松木もそれ以上は深く聞いてこず、そのまま普段の雑談へと移行していく。そうして、今宵も夜が更けていく。



 冷たい空気が澄んでおり、爽快な朝を演出している。だが、それを歓迎している者は数少なく、ほとんどの者は寒さに身を縮める。コートを着込んだ仁人もその一人である。

 坂の麓で自転車を降りて、長い坂道をひた登る。少し登ったところで、前に椎菜の後ろ姿を発見する。一瞬、声をかけようかどうか迷う。

「あっ、仁人」

 気づいた椎菜に先に声をかけられる。

「おはよ、綾瀬さん」

「綾瀬さん?」

「し、椎菜」

「うん、おはよう」

 嬉しそうにうなずく椎菜。その笑顔に仁人の視線は奪われてしまう。途中で、恥ずかしくなって顔を背けてしまう。椎菜のほうもだんだんと恥ずかしくなってきて、顔を赤らめてしまう。

「い、行こうっか」

「そうだね」

 いつの間にか立ち止まっていた二人を他の生徒たちが邪魔そうに避けて行くことに気づいて並んで歩き出す。

 しばらく二人とも黙々と坂を登っていく。だが、どちらとなしに話し出し、坂を半分ほど登った頃には楽しげに会話を交わしていた。



 やはり玄関で別れた椎菜と仁人はそれぞれ、図書館と教室へと向かう。椎菜が図書館に行くと、入り口近くのテーブルに松木が座っていた。

「あれ、亜樹?珍しい」

「やっぱり、気になってね」

 読んでいた本を置いて近づいてくる松木は愛くるしい笑顔を浮かべている。けど、そこには逃がさないって意思も感じ取れる。

「ここじゃなんだから、上、行こっか?」

「そうだね」

 朝で人が少ないとはいえ、やはり図書館でしゃべるのはよくないので館長室に場所を移すことにする。

 館長室に着いてすぐに椎菜は窓を開ける。室内の淀んでいた空気が一掃され、澄んだ空気が室内に飛び込んでくる。ついでに、寒さも運んでくる。

「窓開けたら、寒いよ」

「でも、空気を入れ替えないと」

 椎菜は全開にしていた窓を少しだけ残して閉める。松木はとりあえず近くのパイプ椅子に座り、椎菜も館長席という名のオフィスチェアに座る。

「で、何があったの?」

「うぅう、どうしても話さないとダメ?」

「だ・め」

 椎菜の顔が少し赤くなるのを松木は見逃さない。

「なんか、ここのところの椎菜、なんかちょっと楽しそうっていうか、嬉しそうっていうか……元気だよね?」

「元気?」

「うん、元気。漫画とかに出てくる恋する乙女みたい」

 松木は何気なく言ったのだが、椎菜はドキリとしてしまう。まさに恋する乙女そのものであるから。

「恋する乙女か……」

 うっとりと憧れを抱いた瞳でぼんやりと天井を仰ぐ椎菜を松木は見逃さない。これは恋していると確信する。

「相手は誰?」

「そ、それは言えないよ~」

 椎菜は顔を真っ赤にして、手をぶんぶん振って拒否する。

「ってことはいるんだ」

「あっ!?」

 松木の策略に見事にはまった事に気づいた椎菜はさらに顔を赤くする。松木はニヤリといやらしい笑みを浮かべる。

「ほら、白状しちゃえ~」

「ダメダメ、これだけは無理~」

 抱きついてくる松木から室内を逃げ惑う。図書館にあるまじき騒がしさが館長自ら生み出している。追いかけっこは始業の予鈴が鳴るまで続けられた。



 その日も椎菜の密かな猛烈アタックは繰り広げられた。昼休みはさりげなく一緒に食べるように誘ってみたり、授業の合間には積極的に自然と話しかけたり、偶然を装って一緒に帰ったり。一つ一つに仁人は反応は示してくれるが、やはり最後は「資格がないから」と拒まれてしまっていた。

 その様子をたまに見かけていた光義は心を痛め、憤りと同時に悲しみを感じていた。

「どういうことなんだ……」

 相変わらず夜が更けても照明が点けられない室内で光義はソファに身を沈めて、天井を眺めながら一人ゴチる。そばにメイドの清水(しみず) 葉月(はづき)がいようとも気にしないし、清水も何も言わずに主人の側に仕える。

「あの男、あの男のどこが……」

 光義は体を起こして、窓の外を睨みつける。小さいながらも街である高城市の夜景は十万ドルほどの輝きである。

「光義様、差し出がましいようですが」

「なんだ」

 ずっと黙っていた清水が挙動もなしに急に口を開く。

「本当にその、椎菜って少女のことが好きなんですね」

「俺が、椎菜のことを好き?」

 光義は疑問に思うが、清水はかまわずに先を続ける。

「そこまで想っているのは好きだからではないでしょうか?」

「……」

 考えもしなかったことに光義は驚きながらも、真剣にそこについて考え込む。

 今まで誰かを好きになったことはない。付き合った女は己の名誉のため、踏み台として付き合ったにすぎない。けど、椎菜はどこか違う。違っていた。その違いが分からずにモヤモヤしていたものが晴れていく。ようやく燻っていた想いが何なのか気づく。

 清水はそれ以上何も言わず、何事もなかったかのように先ほどと同じように光義の側に立ち続ける。



 今朝も仁人と椎菜は一緒に登校しながらも、靴箱で分かれて別々に教室へと入っていく。まだお互いに恥ずかしさがあるのと、椎菜に図書館の仕事があるからである。

 図書館に向かう渡り廊下に誰か立っているのが遠目に見えた椎菜はそれが誰なのか考えながら近付く。

「やあ、おはよう、椎菜くん」

「おはようございます」

 もたれていた柱から長身の体を起こして、光義が挨拶してくる。珍しく左腕に生徒会の腕章をしていない。

「すまない、こんな待ち伏せのようなことをしてしまって」

「いえ、別に気にしません」

 光義は軽く頭を下げて、少しずれた眼鏡の位置を直す。椎菜は少し固い笑顔で応える。

「で、どうしたんですか、こんな朝早くに」

「ちょっと個人的な話があって……」

 光義は歯切れが悪く、言葉を詰まらせる。

「ここで立ち話もなんだ、生徒会室にでも行かないか?」

「ええ、構いませんけど」

 二人は渡り廊下から外れて、図書館の隣にある御殿に向かう。何度も通った道筋で生徒会室へと入っていく。生徒会室には誰もいなかったが、暖房が効いているので温かい。

「まぁ、話というか宣言みたいなものかな」

「宣言、ですか?」

 少し強張っている光義と違って、話が見えない椎菜は緊張感がない。光義は少し深呼吸してから意を決して、椎菜を見据える。その視線に椎菜を射すくめられる。

「先日、椎菜くんは好きな人はいると言った。そう言って、俺の彼女にならないと断った。だが、俺は諦めない。俺は君が振り向いてくれるまで、君を諦めない。俺は君が好きだ」

 一気に捲くし立てた光義は真剣な眼差しで椎菜の瞳を覗き込む。最初から最後まで一切視線を外さずにいた。

「私は……」

「返事はいらない。これは宣言なんだから」

 椎菜は口を開こうとすると、光義はそれを止めて首を横に振る。

「さあ、話は以上だ」

 光義はいつものように生徒会長席に座ると、机の上に置いてあった腕章を左腕にはめる。それで光義個人から生徒会長へとなったかのように。

「し、失礼します」

 どうすればいいか分からなくなった椎菜は早々に生徒会室から出て行く。椎菜が後ろ手に閉めた扉の音が静かな御殿に響き渡る。



 椎菜は生徒会室から直行で館長室へと入る。途中で当番の生徒が話しかけてきたが「あとで」と言って取り合わずに上がってきた。

「ふう」

 オフィスチェアに身を沈めて、大きく息を吐き出す。先ほどの光義の言葉を思い出して、また息を吐き出す。前とは違う真剣さが感じ取れたような気がしたが、思い過ごしのような気がしなくもない。

「仁人……」

 急に切なくて、寂しくなった椎菜は椅子の上で体育座りになって、膝を抱き寄せて身を丸める。何かを祈るように、何か助けを求めるように。

 そこに携帯が鳴り、椎菜は慌てて鞄から取り出してマナーモードにする。こんな時にメールしてくる空気読めないのは誰かと少し怒りながら、新着メールを確認する。

「仁人?」

 それは初めての仁人からのメールであった。

『いつも図書館のお仕事、お疲れ様』

 たったそれだけの絵文字も顔文字もない素っ気無い文面。けれど、椎菜にとってはどんな言葉よりも嬉しくて、感動的で、愛おしいメールであった。

 椎菜は何も言えず、ただただ携帯電話を大事に抱きして、溢れそうになる涙を留めるのに必死になる。



 終業のチャイムと同時に仁人は体育館へと貴士と共に急いで向かった。今日から練習メニューを大会に向けた実戦的なものに切り替えるので、二人とも気合十分で駆けて行った。そこに運悪く仁人に用事があった黒松が教室にやってくる。

「って、もういないのかよ」

 能登から仁人不在の報を聞いた黒松は落胆して、道場へと向かおうとするところを椎菜に見つかる。

「ちょうどよかった。ちょっと話があるの」

「なんだよ、椎菜」

 椎菜は黒松の袖を掴むと、そのまま引きずるように教室から飛び出していく。こけないように気を配りながら、黒松は椎菜に引っ張られるがままついていく。

 二人がやってきたのは寒くなってからは誰も寄り付かなくなった屋上。そのわりに、椎菜は最近よくここに来ているような気がする。

「どうしたんだよ」

 ようやく解放された黒松が悪態づく。

「教えて欲しいの」

「何をだ?」

 椎菜の上目遣いに少し気持ちが持っていかれそうになった黒松は誤魔化すようにそっぽを向く。体育館ではすでにバスケ部が活動を開始しているのか、気合の入った叫び声が風に乗って聞こえてくる。

「え、えっと……」

 椎菜は一度言葉を詰まらせて俯いてしまう。恥ずかしさがこみ上げてくるが、それを必死に押さえて意を決する。一度深呼吸してから勢いよく、短いサイドポニーが揺れるほど勢いよく顔を上げて黒松を見つめる。

「教えて、なんで仁人が『恋人を作る資格がない』って言うか」

「お前、それって……」

 黒松が驚いて目を見開く。椎菜の顔が赤くなっていく。けど、覚悟の表れであるかのように決して顔を背けない。

「そうか、そうなのか……」

 黒松は少し落胆したように呟くと、晴れてはいるが低い空を仰ぎ見る。そして、フェンスにもたれるように座って息を吐き出す。

「俺も詳しく本人から聞いたわけじゃないからよく知らないが、寺が言うには、中学の頃にいろいろあったらしいぜ」

「いろいろって何?」

 椎菜は覚悟を決めて、黒松に尋ねる。黒松は一拍置いてからゆっくりと話し始める。

「当時両想いだった彼女がいたそうだ。その彼女の急な呼び出しに大事なバスケの試合で応じられなかったことがあって、それが原因で別れたとか、なんとか」

「それって……」

「その時、言われたらしい。『常に相手できないなら資格はない』って」

「そんなのって……」

「それでも、あいつは自分には資格がないって思っているらしい」

 椎菜は胸が苦しくなるのを我慢して、言葉を紡ぎ出す。すべてがショックだった。両想いの彼女がいたこともそうだけど、仁人が資格がないと言う理由に衝撃を受ける。

 それは違う。違うよ、仁人。そんなのって、そんなのってないよ。

「行かなくちゃ」

「行くって、どこにだよ」

 俯いていた椎菜は急に頭を上げると、屋上から駆け出していく。その背中に投げつけられた黒松の言葉は耳に入っていない。

「あーあ、行っちまった。昔からたまにスイッチ入っちまうと、暴走癖が出るんだから」

 寒空の下、一人残された黒松がため息と共に漏らす。眺める空が少し歪んでいた。



 すでにアップ、フットワークを終えたバスケ部はオフェンス二人、ディフェンス三人の実戦形式の練習に入っていた。

「ほいよ」

「シュッ」

 貴士のパスがディフェンダーの股下をバンドして通り抜け、フリーになった仁人の手に吸い込まれる。仁人はそのままノーモーションでジャンプシュートを放つ。必死に飛び出して阻止しようとするが、ボールは綺麗にゴールへの放物線を描き、ネットを揺らす。

「貴士へのダブルチームが甘い。羽多野もディフェンスが遅れすぎだ」

「ああ」

 顔の汗をリストバンドで拭いながら、羽多野は頷く。コートには次のチームが入り、オフェンス側が攻めあぐねている。

「ボール持っている者だけじゃなく、持っていない者ほど動かないと」

「はい!」

 威勢のいい声が体育館中に響き渡る。隣で練習しているバレー部も気迫で負けまいと大声を出している。

「仁人!」

 そんな怒号のような叫び声が飛び交う体育館によく通る凛としたソプラノボイスが彗星のごとく現れる。あまりのことに体育館は一時静まり返り、誰もがその声の主のほうへと視線を移す。もちろん名前を呼ばれた張本人も。一人だけが笑みを浮かべる。

「椎菜?」

「ちょっと借りるね。いいでしょ?紀三井寺くん」

「どうぞどうぞ」

 状況を把握しているかのごとく貴士は仁人を椎菜へと差し出す。

「ちょ、ちょっと、貴士」

「いいから行って来い」

 仁人が貴士に押し出されるように椎菜の前にやってくる。その様子を体育館にいる全員が注目する。

「ありがと」

 そう言い残して、椎菜は仁人の手を握って体育館から颯爽と立ち去る。二人が姿を消してようやく体育館にざわめきが戻ってくる。



 体育館から少し離れた裏庭に二人はやってくる。ここには今は止まっている噴水や池、ベンチなどがあり、芝生が敷き詰められており、春になれば生徒が集まる場所となっている。今は閑散としており、花壇には何も咲いておらず、落ち葉が散乱している。

 とりあえず、二人は池近くのベンチに並んで座る。座る寸前、仁人がベンチの落ち葉を払いのける。

「ありがと」

「うん」

 それから少しの間、お互いに黙ってしまい無言の時が進む。一筋の飛行機雲が空を縦断している。風が吹くたびに枯葉が舞い散る。

「あのね、聞いたの……」

 握ったままだった手を少し力を入れて確かめ、椎菜がぼそりと口を開く。手からは仁人の少し高い体温が感じ取れる。

「仁人が『資格がない』っていう理由」

「そう」

 仁人は少し悲しそうな口調で短く漏らす。

「それって間違っているよ。そんなのおかしい。仁人は別に悪くない。仕方ないじゃない。彼女だからって常に相手する必要なんてないよ!」

 椎菜は立ち上がって、仁人を見つめる。その際、手が離れてしまう。

「……」

 仁人は静かに今にも泣きだしそうなほど瞳を潤ませている椎菜を見つめる。胸が締め付けられるように痛くなり、苦しい。

「そうかもしれない……でも……」

 仁人はやはり悲しげな、悟りきったような、諦めたあの寂しい笑顔を浮かべる。もう何度目か分からないあの切ない笑顔。

「今はバスケが忙しいから……」

「そんなの、逃げてるだけじゃない。私だって図書館長の仕事で忙しいよ。でも、それは関係ないじゃない。恋するのに、付き合うのに資格なんていらないんだよ!」

 椎菜の必死の叫びが裏庭に木霊する。

「ねえ、聞いて。私の話……」

 仁人の隣に座りなおした椎菜が遠い空を眺めながら語り始める。離れてしまった手をもう一度、重ね合わせて。仁人も同じように空を眺める。

「昔、私にも好きな人がいたんだ。片思いだったんだけどね。ずっと好きだったけど、恥ずかしくて遠くから見ているだけで精一杯だった。話すだけでもう卒倒してしまいそうだったから、ほとんど話すこともできなかったんだ」

 当時を懐かしむように椎菜が頬を赤らめる。それを横目で見た仁人はまたチクリと胸に痛みを覚える。

「そんなことしていたら、その人が急に遠くへ引越しすることになったの。凄く悲しくて何日か泣き明かしちゃった。目、真っ赤になるくらい。でも、結局、最後の日も想いを告げることができず、離れ離れになっちゃった」

 初めて聞いた椎菜の過去に仁人は胸がはち切れそうだった。寂しそうに空を眺める椎菜を見ることができない。

「だから、私は告げるようにしたの。好きな人には好きって想いを」

 仁人は合わされた手をそっと握り締める。そこから椎菜の体温が、温かさが伝わってくる。

「仁人、私は貴方が好き」

 真っ直ぐ仁人を見つめて、手を握り返して、椎菜は想いをそっと告げる。仁人の体温を感じながら。

「僕は……」

 続く言葉が紡げない。まだ胸のうちでわだかまりが渦巻いている。

 資格がない……ないんだ。じゃあ、資格って何だ?忙しいってのは逃げ?分からない。分からないよ……

「ごめん。ちょっと一人にして」

「分かった……」

 椎菜は名残惜しい想いを残しながら、手を離して席を立つ。先ほどまで温かかった手が急に冷たくなったような感覚に襲われる。そして、ゆっくりと仁人に背を向けて、歩き始める。側にいられない悔しさや悲しさ、諸々の想いを胸に秘めて。



 一人残った裏庭で仁人は動けずにベンチで佇む。冷たい風が仁人の体温を奪っていくが、それが逆に心地よい。熱に浮かされる頭を冷やしていってくれるようである。

「僕は……」

 水の止まった噴水を眺めて、ぼんやりとつぶやく。自分が今、何をしているのかイマイチ分からない。練習に戻らないといけないはずなのに、体が言うことを聞いてくれそうにない。

「お前がこんなとこでサボりとは、明日はロンギヌスでも降るんじゃないか?」

「黒松?」

 仁人が物思いに耽っていると、突然声をかけられた。顔を上げると、そこには片手をあげている黒松が道着姿で立っていた。

「お前にちょっと用事があったんだが、それどころじゃなさそうだな」

「ああ、すまない。今は――」

 仁人が一人にしてもらいたいと言おうとするのを無視して、黒松は仁人の隣に腰掛ける。黒松は後ろに手をついて、天を仰ぎ見る。

「俺はお前のことも、あいつのことも知っている」

 黒松は仁人のほうを向かず、空を眺めたまましゃべり始める。仁人は戸惑いながらも、静かに黒松の言葉を聞く。

「特に、あいつのことは昔から知っている、少なくともお前よりも。ずっと一緒だったんだからな。あいつは何かスイッチが入ると、暴走しちまう癖がある。そりゃもう大変だったさ。でも、本人はそんな気もなけりゃ、悪気なんてあるわけもない。それがなぜか輝いて見えるんだから不思議なもんさ。そんなあいつも恋愛には臆病だったんだ。常に怯えていた。嫌われるんじゃないかって。今も、大胆な行動に出ているが、内心は怯えているんじゃないか?それを取り除いてやれるのは、あいつを笑顔にしてやれるのはこの世でたった一人しかいない。残念だが、それは長年一緒にいた俺じゃない」

 黒松はそこまでを一気に、誰に語るでもなく独り言のようにつぶやく。独り言なのだから返事はいらない。仁人は相槌も打たず、ただただ黙って聞き続ける。

「俺じゃないんだよ……」

 黒松は静かに最後の言葉を繰り返す。

「黒松、もしかして……」

「もうそろそろ休憩時間が終わるな。俺、行くわ」

 仁人の言葉が聞こえない振りして、黒松は立ち上がるとそのまま振り返りもせずに道場のほうへと歩いていく。

「お前ならお似合いだと思うぞ」

 校舎と体育館の渡り廊下あたりで黒松は一度立ち止まると、それだけ言って片手をあげながらまた歩きだす。その後ろ姿を仁人はじっと見つめ続ける。



 しばらくしてから体育館に戻った仁人だったが、心にここに非ずな状態であるため、貴士の強引な勧めによって帰宅を命じられた。部活の途中で帰るという行為を仁人は初めて体験することになる。

 着替えのために入った部室で仁人はすぐに着替えずパイプ椅子に腰を下ろして天を仰ぐ。さまざまな想いが、それぞれの思いが頭を駆け巡ってはぐるぐると同じところばかりを巡り続ける。

 僕には資格がない……常に相手する必要はないって椎菜は言っていたけど……忙しさに逃げているって……資格って何だ?僕は……

 体を起こすと、壁に貼られた一枚の賞状が見える。貴士が何もなくてさみしいからと持ってきた。中学最後の大会で取った、あの楯と一緒に貰った三位の賞状である。

 あいつは僕に『常に一緒にいるのが当たり前』って言った。当時の僕にはそれだけが正解だった。けど、今は……

 もう一度背もたれに体重をかけて、天井を望む。

 椎菜の想いは正直、嬉しい。嬉しいけど、僕に応えることができるのだろうか。黒松は僕にならできるようなことを言っていたけど。でも、あいつは……

 黒松の言葉を思い出し、仁人は少し申し訳ない気持ちが湧き上がってきて、気分がさらに沈み込む。

 僕に何ができるんだろうか。僕には資格がない。椎菜の気持ちに応えられない。黒松の期待にも応えられない。僕はどうすれば……

 ふと椎菜の笑顔が浮かび、それがさびしげなものに変わっていき消えていく。幻想でしかないはずなのに、仁人は胸の苦しみに襲われる。

「僕は……どうしたいんだろう」

 胸の痛みに耐えながら、仁人は苦しみを紛らわすかのように小さくつぶやく。それはどこか助けを求めているように見えた。

 しかし、ドア向こうで聞いていた貴士はそのまま部室に入ることなく、背を向けて無言のまま沈痛な面持ちで立ち去っていく。



 裏庭に仁人を一人残して、椎菜は寂しさを堪えながら図書館のほうへと歩いていく。視界が少し歪んでいて見えにくい。縦断していた飛行機雲が半分くらい消えかけている。

「やっぱり、ダメ……なのかな?」

 椎菜のつぶやきは誰にも聞かれずに寒風が攫っていく。椎菜の沈み込んだ気持ちを表すかのように歩速はだんだん遅くなっていく。

「そんな顔して、どうかしたのかい?」

 ちょうど御殿の前を通りかかったとき、ふいに優しげな声が椎菜に降りかかる。椎菜は仁人かと思い、一度振り返るが、そこには誰もいない。淡い期待だったと落ち込みながら、前を向こうとした時、先ほどの声の主が目の前に現れる。

「えっ!?」

「やあ」

 光義は軽く手を挙げて、笑顔を浮かべて挨拶する。椎菜はやや驚きながらも、なんとか笑顔を取り繕うとする。

「どうかしたのか?」

「いえ……」

 光義はもう一度、優しく微笑みかけて問いかける。椎菜はあいまいな笑みを浮かべるのが精一杯である。

「悲しそうな顔をしている。そんな顔は君には似合わないよ」

 歯の浮きそうなセリフも光義が言えば、様になるので世の中不公平である。そして、人は弱っている時、人の優しさにとことん弱い。椎菜は光義に裏があるのかもと思いながらも、その胸に抱きついてしまう。

「うっ、うぅう……」

 言葉にならない嗚咽が押し付けられた光義の胸板から漏れ出る。光義は何も言わずに、そっとその髪を撫で梳く。撫でられるたびに、サイドポニーが小さく揺れ動く。落ち着くまで光義は胸を椎菜に貸す。

 しばらくすると、目元を少し赤くした椎菜がゆっくり光義から離れる。それに合わせて、光義も頭を撫でるのを止める。

「すみませんでした」

「これぐらい構わないさ」

 腫れた瞼をこすりながら、椎菜は光義に頭を下げる。

「少しは落ち着いたかい?」

「おかげさまで……」

 光義が優しい笑顔を向けると、椎菜は少し照れたように顔を反らす。

「構わないよ、これくらい。よろこんで受けさせてもらうさ」

 光義の言葉を聞いて、椎菜は恥ずかしさがさらにこみ上げてくる。顔を真っ赤にしてもう光義の顔を直視することができない。

「何があったか知らないが、どうだい、これから気分転換でもしないか?」

「え?」

「塞ぎこんでいる気持ちの時は何をやってもダメなものさ。そういう時は何か楽しいことでもして気分転換するのが一番なのさ」

 光義の白い歯が輝いているように見える。椎菜はその精悍な顔をしばらくぼうっと眺めてしまう。

 あれ、先輩ってこんなに……

 椎菜の心の片隅で何かが小さな、とても小さな音を立てる。

「みつが丘の駅前においしい紅茶を出す店を知っている。そこはケーキも絶品だ。甘いものには人を幸せにする魔法がかかっているんだよ。どうだい?」

 優しい笑顔を浮かべたまま、光義は椎菜に手を差し伸べる。椎菜はその手のひらをしばらく見つめてから、そっと手を重ねる。



 仁人が学校から出てきた頃には夕陽が町を赤く染めていた。図書館の長い影が坂まで伸びている。自転車を押しながら歩く人影が沿うように一本長く伸びる。制服にコート姿の仁人は相変わらず左肩にスポーツバッグをかけている。

 ずっと部室にいるわけにもいかないので、出てきたはいいが、そのまま帰る気分にもなれずに駅前の商店街でもぶらつこうかと考える。自転車を押したまま坂を下り、歩いて商店街まで赴く。

「この辺に来るのも久々かもしれない」

 高城市の商店街ほど立派ではないが、基本的な物はなんでも揃えられる。夕暮れ時ということもあり、夕食の買出しをする主婦から学校帰りの高校生までさまざまな人が行き交う。仁人も自転車を押したまま、その渦へと飲まれるようにクリスマスカラーに彩られた商店街に入っていく。

 商店に入る事もせず、人の流れに身を任せて仁人は商店街を歩く。止まっているとさまざまなことを考えてしまうが、こうやって動いていると少しでも考えないで済む。そう思って、仁人は人にぶつからないように気をつけながら、クリスマスムードに包まれた商店街をぼんやりと徘徊する。

 気付くと、商店街を通り抜けて駅前に出てきていた。イルミネーションを施された時計台では数人が寒い中、待ち人を今か今かと待ち焦がれている。仁人はあの日、椎菜や貴士のみんなで映画に行った時のことをふいに思い出す。

 胸に締め付けられるような苦しみを覚え、仁人はコートの胸元を握り締める。胸の痛みは治まるどころか増すばかりである。

「僕は……」

 仁人は自転車を止めて、時計台の下にあるベンチに腰かける。しばらく駅前を行き交う人々をぼんやりと眺める。帰宅を急ぐサラリーマンや数人で塾へと向かう小学生、星鈴高校の制服を着ているカップルなど、行く人や戻ってくる人が入り混じる。

「えっ!?」

 仁人は驚く。行き交う人々の中に見知った顔、見ていたいけど今は見たくない顔と見覚えがあるだけの顔を見つけてしまう。一瞬、幻覚かと疑い、目を擦ってみるが、それは悲しくも現実であった。

 椎菜と光義が楽しそうに笑って話しながら、駅前にある小洒落た喫茶店から出てくる。

 仁人は自分の眼を疑うことなく、淡々と事実を見届ける。正確には、頭の中が真っ白になって、何も考えられないだけである。憤りも悲しみも生まれない。ただ歩いてくる二人から目が離せない。自分が息をしているのか、心臓が動いているかも分からない。

「とってもおいしかったです。同じ茶葉でも淹れ方とかで違いが出るんですね」

「紅茶はとっても奥が深いからね」

 椎菜と光義の会話がかすかに風に乗って聞こえてくる。仁人には声としてではなく、音として耳に届く。

「椎菜……」

 二人の姿がはっきり見えるようになって、ようやく仁人は言葉を漏らす。そこで初めて、椎菜は仁人の存在に気付く。

「仁人……?」

 しばらく二人は見つめ合って、動かなくなる。お互いに自分がどんな顔をしているのか分からない。相手の表情だけで頭の中が埋め尽くされる。

「っ!?」

 突然、仁人は立ち上がると、脇に置いてあった自転車に跨り、商店街のほうに走り去る。人にぶつかりそうになりながら全速力で。

「きみひ――」

 走り出す仁人を呼び止めようとして、椎菜は名前を呼ぼうとするが、途中で声にならないで途切れる。

「彼はいったい?」

 光義は小さくなる自転車を眺め、尋ねながら椎菜のほうを向く。椎菜の表情を見て、光義は悟る。それがどれだけ愚問であったか。

「先輩、すみません」

 椎菜はそれだけ言い残して、商店街とは反対側に歩いていく。光義は何も言えずにその後ろ姿を見送る。

「ああ、また振られてしまった……」

 沈む夕陽が町を暗闇へと誘い、街灯がそれに抵抗する。笑っているかのような細い三日月が澄んだ空に輝く。遠くでかすかにクリスマスソングが寂しげに流れている。



 仁人は気付くと、自室のベッドで天井を眺めていた。どういう道筋で帰って来たかも、いつ帰って来たかも覚えていない。ただ椎菜が楽しげに光義と歩いていた姿だけがリフレインされる。そのたびに胸が強烈に締め付けられる。

 ああ、椎菜を笑顔にできるのは僕じゃなかったんだ。あの人、確か生徒会長の光義先輩だよなぁ。彼が椎菜を笑顔にしてくれるんだ……なのに、なんでこんなにやるせない気持ちなんだろう。椎菜は笑っているのが一番かわいい。その笑顔にしてくれる人がいるってのに、どうしてこんなにも悲しくて、苦しくて、悔しくて、寂しい。僕は……僕は…………

 仁人は訳が分からなくなって、胸に痞えているものを吐き出したい、喚き散らしたい衝動に駆られる。でも、なんて叫べばいいかも分からず、衝動を胸に押さえ込む。余計に胸にモヤモヤが溜まって、苦しみが増す。痛みに耐えるように身体を丸める。

「椎菜……」

 少しでも胸に痞えているものを吐き出そうと、小さくまるで助けを請うようなつぶやきを漏らす。

 マナーモードの携帯電話が振動でベッドから落ちて、仁人は電話がかかってきていることに気付く。あまり出る気はしないが、緊急の連絡だと困るので拾い上げて通話ボタンを押す。

「はい、宮前です」

『俺、俺。オレオレ詐欺です』

 仁人は一瞬で終話ボタンを押す。次の瞬間、また電話がかかってきたので、通話ボタンを押す。

『いきなり切ることないだろ』

 貴士の抗議の声が受話器から上がる。

「悪いが、今はそんな気分じゃない」

『んなことは分かっている。だからこそ、じゃないか』

 口調こそ変わらないが、貴士の声が一気に真剣味を帯びたものへと変わる。

『いろいろと言うべきことや言いたいことはある。だが、俺はあえて言わない。言う必要がないからな。そうだろ?』

 仁人はしばらく考えてから気付く。先ほどまでのどうしようもない気持ちが薄れて、少し冷静になれているのに。

「ああ」

『だから、一言だけ。お前はお前のやりたいことをやりたいようにやれ。ごちゃごちゃ考える必要なんてない』

「それ、今の状況に合っているか?」

『俺が言える唯一の言葉だからな』

「ありがと」

『俺には似合わない言葉だな』

 貴士が照れ臭そうに吐き捨てる。そうして、静かに通話は終わり、仁人は携帯電話を机の上に置く。

 別に気分は爽快にはなっていない。考えもまとまったわけではない。さっきと何一つ状況は変わっていない。なのに、仁人の胸にあったモヤモヤは晴れていた。体がバラバラになりそうな胸の痛みも治まっている。椎菜を思うとまだ苦しくなるが、それは先ほどのとは違うことに仁人は気付いている。

「僕は……椎菜のことが好きなんだ」

 初めて実際に言葉にしてみた自身の想い。それは思った以上に確固たる意志が感じられる口調で紡がれた。

 付き合う資格があるか、資格ってのは何なのか、まだ分からないけど、この想いだけは、好きって気持ちだけは本当だと思う。今はそれでいいじゃないか。

 仁人は立ち上がり、本棚の楯を眺める。初めての楯、いい意味でも悪い意味でも思い出深い品。まだ過去を振り切れたわけではないけど、少なくとも前には進めるようになったような気がした。



 駅前から少し遠回りして帰って来た椎菜は家族団欒の夕食を無言で終え、両親に心配されながらも「大丈夫だから」と言い張り、風呂場へと消えていった。

 たっぷりのお湯が張られたバスタブに体のほとんどを沈めた椎菜はあの時の仁人の表情を思い出して、さらに顔を半分ほど水面に沈める。頬には汗か涙か分からない滴が流れる。

 仁人のあんな顔、初めて見た。思い出すだけで胸が苦しい、切ない、悲しい、痛い。もう私のバカ。バカバカ、バカ~。なんで先輩とお茶なんて行っちゃうかな……そりゃ、確かにあの時は先輩のことがかっこよく思えたけど……けど、私はあんな仁人なんて見たくないよ。もう諦めちゃおうかと思っていたけど、あんな表情見ちゃったら諦められないよ。

「あんな表情の仁人なんて……もう二度と見たくない」

 沈めていた顔を上げて、小さくつぶやく。頬を伝う滴を軽く払いのける。椎菜の表情が少し引き締まったものへと変わる。

「だって、私、やっぱり仁人のことが好きなんだもん」

 盛大にお湯を撒き散らしながら立ち上がった椎菜は誰に対して分からない宣言を、膨らみが少し足りない胸を張りながら握りこぶしを作って宣言する。

「でも、やっぱり、仁人はまだ資格がないって言うのかなぁ……」

 また肩まで体をバスタブに沈めて、椎菜は悲しげに呟く。先ほどまでの勢いはどこに消えてしまったのだろうか。

 やっぱり今回もダメなのかな……あれだけ強く言っちゃったら、誰でも嫌いになるよね。一方的に想いを告げるだけ告げて、向こうの話を聞かないなんて。でも、私は仁人が好きなんだよ。

「大好きなんだよ……」

 はち切れんばかりの切なさが胸に広がり、椎菜は締めつけられるような痛みを覚えて、もう少し大きくなれと思う乳房を両手で優しく包む。



 月明かりもほとんど射さない室内に清水は静かに微動だにせず立ち続けている。ソファに長身の体を寝そべらせて、光義は腕で目を覆っている。そうしていないと、堪えられそうにないからである。

「俺はまた振られたのか……」

 うわごとのような呟きに清水は反応しない。メイドは求められたこと、求められることしかしない。

「分かっていた。分かっていたさ。彼女が夢中だってことは。でも、あの男は彼女を拒否していたんだ。俺にもチャンスはあったはずだった。今日だって、途中までは上手く行った。彼さえあの場にいなかったら……」

 光義の独り言が木霊する。それは悲しげなワルツのような響きである。

「で、光義様はどうなさるおつもりで?」

「言われなくても分かっている、清水。俺は好きになった女の幸せを願うまでだ。それが俺にできること、していいことだから」

 清水は頷きもせず、ずっと光義の側に立ち続ける。光義が眠りにつくまでずっと。



第四章



 明けない夜はないとは誰が言った言葉だろうか。どんな事が起きようとも、太陽が昇ってくれば朝になる。そして、朝になると、学生たちは登校しなくてはならない。

 仁人は眠たげに瞼が半分落ちている。欠伸をかみ殺しつつ、スポーツバッグを左肩に自転車を押して坂を登る。今学期も残すところあと一週間を切っている。

「あ、ミヤミヤ~」

 中庭を歩いていると、後ろから元気いっぱいの声をかけられる。こんな呼び方するのは一人しか知らないので、仁人は少し憂鬱になりながら振り返る。松木が手を振りながら駆け寄ってくる。その後ろには能登と黒松の姿もある。

「おっはよっ!」

「おはようございます」

「よう」

 松木、能登、黒松の順番で挨拶してくる。黒松は居心地悪そうに視線を外す。

「ああ、おはよ」

 仁人もなんとなくぎこちなく挨拶してしまう。

「あれ?どうしたの、ミヤミヤ。そんなテンションじゃクリスマスはやってこないよ~」

 一人朝からハイテンションな松木がはしゃいでいる。

「そういえば、もうそろそろクリスマスだな」

「黒松様は、その……何かご予定は?」

 能登がさりげなく大胆なことを聞いている。その顔はよく熟れたイチゴのように赤くなっている。黒松まで照れて、赤くなった顔を逸らす。

「そうか、もうそんな時期か……」

 仁人はそこで初めて思い出す。思い出したところで、仁人にとってはクリスマスも練習に明け暮れる日々の一日に過ぎない。

「今年は皆でクリスマスパーティーでもしようかと思っていたけど、どうやら皆さん、忙しそうですなぁ」

 ニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべた松木が能登と黒松を見て楽しそうに呟く。

「ミヤミヤも」

 突然、仁人のほうを振り返り、さらに笑みを強める。いきなり振られた仁人は戸惑い、何のことか分からず小首を傾げる。

「あぁあ、冬だってのに、私の周りは春ばっかり。私の春はいずこ~」

 そう言いながら、松木は早々と教室へと駆け込む。黒松も別れを告げて、自分の教室へと入っていく。その後ろ姿を能登が名残惜しそうに見つめる。



 改めて教室内を見てみると、クリスマスや冬休みのことで溢れていた。クリスマスに彼氏とどこのレストランでディナーするだの、モテない者同士寂しいクリスマスパーティーをするだの、冬休みは部活漬けであるだの。誰一人、本分である学業のことなど考えていなかった。

「で、二十四と二十五、どっちにすればいい?」

「何の話だ?」

 一限の数学が終わってすぐに貴士は仁人の席にやってきた。

「部活の休み。そうだな、二十五日のほうがいいか」

「両方とも練習って選択肢はないのか?」

「そんなことしたら、暴動が起きるぜ?主に顧問から」

 今の男子バスケ部の顧問教師は最近、彼女ができたばかりでクリスマスに向けてかなり気合を入れているとの噂である。

「むしろ、両日休みって選択肢ならあるな」

 貴士が冗談まがいに本当に起きかねない未来を予想する。

「それは断固阻止しないと」

 年明けには新人大会が待ち構えているこの時期に二日も練習をしないのは致命的である。仁人は諦めて、二十五日を休みにすることに渋々承諾する。

 昼休みに貴士が顧問のところに行くと、強く両日休みを押されたが、貴士の巧みな交渉によって、クリスマスイブは練習が決まった。しかし、早めに切り上げるという条件付きだった。



 昼休み、椎菜は館長室に篭っていた。昼ご飯も食べずに事務処理に追われている。

「うぅう~、終わらない~」

 生徒会と合同で行ったテスト明けの企画の結果報告書を確認しながら、椎菜は泣きそうな声を漏らす。お昼くらいは仁人とゆっくり食べたいと妄想して、朝早くから学校に来て作業しているが、なかなか終わりそうにない。

「誰か、変わってよ~」

 嘆いたところで誰も変われないのが館長の仕事である。椎菜が次の書類へと取り掛かったところで、メールを着信する。

「誰だろ?」

 書類に伸ばしかけた手を携帯に伸ばす。メールは珍しく貴士からであった。

『クリスマスが間近に迫ったこの時期、いかかがお過ごしかな?館長の仕事で手一杯?そんな貴女にホットでクールな情報をお届けだ。星鈴高校男子バスケ部は二十五日、部活が休みだ。以上、クールガイ貴士のナイス情報でした。あとはがんばれよ』

「そっか、クリスマスは休みなんだ。そういえば、二十六日って……」

 椎菜は嬉しそうに弾んだ声をあげて、壁のカレンダーを眺める。そして、そっと二十五の数字を赤ペンで囲む。



 放課後になるとすぐに、昨日の遅れを取り戻す勢いの気迫で仁人は体育館へと駆けた。部員がまだ集まらない頃から練習を始めて、部活が開始されてからも気合の入ったプレイを披露して、他の部員がヘトヘトになっても一人だけは元気だった。

「よし、もう一本!」

「タンマ、タンマ。もう無理だっての」

 仁人の叫び声に肩で息した貴士が待ったをかける。体育館の外は暗くになっており、お隣の女子新体操部の姿もなくなっている。

「もう勘弁してくれ~」

 床に座り込んだ羽多野が弱音を上げる。それに他の部員も同調し始める。

「つうわけだ。もう遅いし、終わりにしよう」

「ふう、そうだな」

 周りの様子に気付いた仁人はようやく部活を終了する。部員たちはぞろぞろと疲れの見える足取りで部室のほうへと歩いていく。普段、居残り練習するメンバーも今日ばかりは中止のようだ。

「さあ、帰ろうぜ」

「いや、俺はもう少し練習してから帰るよ」

「お好きにどうぞ」

 貴士もさすがに付き合い切れないと片手をヒラヒラされて、部室のほうへと歩いていく。

 一人コートに残った仁人は皆が帰ってからも一時間ほどシュートフォームの確認やレイアップのパターンの練習を行った。

 練習を終えて体育館から出た時には、もう学内にはほとんど人がいなかった。鍵を返しに行くと、宿直の教師から嫌な顔されるほどだった。

 暗い駐輪所から一つ残った自転車を取り出して、疲労感が漂う足取りで校門のほうへと歩いていく。

「お疲れ様」

「えっ!?」

 校門の脇に一本だけ立っている街灯の下から声をかけられる。驚き、目を凝らすと、椎菜が笑顔で手を振っている。

「椎菜?」

「うん。遅くまでお疲れ様」

 澄んだ空に瞬く星に負けないくらい輝かしい椎菜の笑顔を見て、仁人は少し疲れが吹っ飛んだ気がした。

 椎菜が仁人の隣に近付いてくるので、仁人は右肩にスポーツバッグをかけ直す。手が触れるか触れないかの距離で二人は並んで歩き始めるが、お互いに無言である。勢いでこうなってしまったが、さすがに昨日あんなことがあったばかりで何を話せばいいかお互いに困る。

「え、えっと……星、綺麗だね」

「空気が澄んでいるからよく見えるんだよ」

「へぇ~」

 世間話から切り込んでみるも、すぐに会話は終了してしまう。

「ねえ、仁人」

「ん?」

 坂を半分以上下りたところで、このままではダメだと椎菜が覚悟を決める。大きく深呼吸を一回挟んで続ける。

「クリスマスって空いてる?」

 暗闇で分からないが、椎菜は耳まで真っ赤になっている。仁人も椎菜が何を言い出そうとしているのか悟って、赤く染めた頬をかく。

「二十五日は部活が休みになった」

 仁人は照れを隠すようにそっぽ向いて答える。

「じゃ、じゃあさ、私とデートしよう!」

 仁人の前に出て、椎菜が叫ぶ。最高潮に真っ赤になっている。『好き』って言う以上の恥ずかしさがこみ上げてくる。今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られる。

 足を止めた仁人は予想していた展開とはいえ、戸惑ってしまう。断る理由はない。椎菜のことも好きだ。でも、まだ自分には資格があるのかどうか答えが出ていない。それに昨日のこともある。

「僕は……」

「デートするのに資格なんて関係ないでしょ?」

「そうだけど……」

「じゃあ、いいでしょ。それとも、私とデートするの嫌なの?」

「それはない!」

 悲しい笑みを浮かべる椎菜に仁人は全力で否定する。あまりの声の大きさに椎菜は少しびっくりしてしまう。

「ごめん……」

 何に対してか分からない謝辞を述べて、仁人は頭を下げる。

「ねぇ、もしかして、昨日の事を怒っているの?」

「怒る資格なんて、それこそ僕にはないよ」

 仁人が歩き始めるので、椎菜もその隣を歩いていく。しかし、距離は先ほどより少しだけ離れている。

「あれは、その……」

 椎菜はなんて説明したらいいか分からず、口ごもってしまう。仁人に振られた悲しみで光義の優しさが少し沁みた、なんて本当のことを言えるはずもない。

「なんて言えば分からないけど、これだけは本当。私は仁人のことが好き。私が好きなのは仁人だけだから」

 椎菜は昨日のことで再認識したあふれんばかりの想いをぶつける。必死の想いは必ず届くと信じて。

「ありがとう」

 仁人はたったそれだけを呟く。少し嬉しそうで、照れ臭そうなあいまいな笑みを浮かべながら。

「うん、大好き、仁人」

 涙が溢れそうになるのを我慢して、椎菜は最高の笑顔をする。涙目でぐちゃぐちゃになりかけているが、仁人には女神をも凌駕する笑顔だった。

 それからずっと椎菜は強引にデートに誘ったが、仁人は曖昧に返事するだけだった。別れる時、椎菜が若干むくれながら悔しそうな表情を浮かべていたのが微笑ましかった。それに負けて、最後に仁人はクリスマスの日にデートすることを約束した。椎菜は極上の笑顔で何度も頷き、嬉しそうにずっと手を振って別れた。仁人はクリスマスに椎菜と、好きな人と過ごせることを素直に嬉しく思う。



 星鈴高校はなんの変哲もなく終業式を向かえ、冬休みへと突入した。仁人をはじめとする男子バスケ部はさらに練習に熱が入る。図書館も年末進行で館長の椎菜は体がもう三つくらい欲しいと思うほど忙しい。休日返上で業務をこなしても追いつかない。

 忙殺されそうな日々でもこの日ばかりは皆、そわそわしてしまう。十二月二十四日、クリスマスイブ。この日もバスケ部は体育館でコートを駆け巡っている。

「今の動きはよかった」

「よっしゃ」

 ポストプレイからゴールをもぎ取った羽多野がガッツポーズをして喜ぶ。

「じゃあ、ちょっと休憩にするか?」

 人差し指の上でボールを回している貴士が合図すると、部員たちは水分補給を行ったり、その場にへたり込んだりして、体力回復に努める。

「はい」

「おっ、サンキュ」

 仁人が投げたスポーツドリンクのペットボトルを受け取り、貴士は一気に飲み干す。

「クリスマスイブだってのに、全員参加とはねぇ。皆、寂しい独り身なのか、明日を休みにした効果なのか」

「後者であって欲しい。せっかく休みにしたんだから」

「だな」

 貴士は横目で体育館の端を盗み見る。顧問が携帯電話と情報誌を駆使して、今日のデートプランに躍起になっていた。

「宮前 仁人はいますか?」

 体育館に淡々とした声が響き渡る。思い思いに休んでいたバスケ部員がその声の主の方、体育館の入口へと視線を馳せる。

「僕ですが」

 仁人はおずおずと手を挙げて、その人物に近付く。左腕に生徒会の腕章をしているので、生徒会役員である事が伺える。

「私は生徒会副会長の後藤 美夏です。少し来ていただけますか」

 後藤は有無を言わせぬ口調で仁人に迫る。睨むようなキツイ視線が印象的である。

「分かりました。貴士、あとは頼んだ」

「ああ、お気をつけて~」

 何の用だろうと疑問に思いながら、仁人は後藤の後について体育館から出て行く。扉が閉まってから、コートにざわめきが戻る。貴士は困惑顔でその扉を見つめる。



 後藤に連れてこられたのは御殿ではなく、教室棟校舎の屋上だった。どんよりと低い空が微量の眩しさで迎えてくれる。

「では、私はこれで」

 扉を開けた後藤はそのまま下がり、私の役目はここまでだと仁人に道を譲る。仁人は不可解に思いながらも扉を抜けて、寒空の下に出る。

「やあ、待っていたよ」

 フェンスにもたれていた長身の男が待ちくたびれたとばかりに屈強な体を起こす。左腕には生徒会の腕章をしている。精悍な顔つきに知的な長方形のメガネ。仁人はその男を当然知っている。

「生徒会長……」

「以外だったか?」

 光義はおどけたような表情を浮かべる。仁人は少し強い視線で光義を見つめる。

「いえ、何の用ですか?」

「そんな警戒しなくてもいい。ちょっとした個人的な用件さ」

 そう言って、光義は腕章を外してポケットに仕舞う。

「君は明日、椎菜くんとクリスマスデートをするようだね」

「っ!?」

 驚く仁人のことなど気にもせず、光義は続ける。

「だが、君はまだ迷っている。違うか?」

 光義の鋭い視線に射抜かれる。仁人は何も言えずに怯む。

「彼女の告白を何度も拒んでいる。君が何を考えて拒んでいるのか分からないが、君も彼女の事が好きなんだろ?」

 光義の指摘に仁人はたじろぐ。その様子を見て、光義は確信を強める。

「じゃあ、素直になったらどうだ」

「僕は……」

「俺は椎菜のことが好きだ」

 困惑していた仁人の顔が一瞬に驚愕の表情に切り替わる。光義は真剣な眼差しで仁人を見据える。

「まぁ、振られてしまったがね。彼女は俺じゃなく君を選んだ」

 そして、柔和な笑みを浮かべる。その笑顔がなんだか寂しそうだと仁人は感じる。

「これは同じ女を好きになった者からのお願いだ。彼女を幸せにしてやってくれ。頼む」

 光義が直角に近い角度まで頭を下げる。横柄な態度で物事にあたる光義が初めて素直に頭を下げる。その光景に仁人は衝撃を覚えると同時に、そこまで光義が椎菜のことを好きであることを思い知らされる。

「先輩……」

「さあ、ここまでしてやったんだ。後は知らん。まだ君が拒むというのなら、俺は今度こそ本気で彼女を物にする。本気で愛する!」

 頭を上げた光義はメガネを直して、仁人を睨むように見つめる。その視線は挑戦的でありながらも、どこか優しさを感じる。

「ふ、話は以上だ」

 光義は腕章を取り出して腕にはめると、仁人に背を向けてフェンスの向こうにある図書館を眺める。仁人はその背中に静かに「失礼します」と声かけて、そっと屋上をあとにした。

 仁人がいなくなってからしばらくして、屋上に一人残った光義に人影が近付く。

「会長……」

「これでいいんだ。俺の役割はこれで……」

 そっと寄り添ってきた後藤のことを気にもせず、光義は揺らいで見える図書館をただ眺め続けた。



 クリスマスイブということで早い目に切り上げられた部活から帰った仁人は妹がゲームで対戦しようとすがってくるのを払いのけて、すぐに自室へと引き下がった。左肩からスポーツバッグを下ろして、部屋着に着替えてからベッドに倒れこむ。

「はあ」

 浮かない表情で大きなため息を吐き出して、天井を見つめる。昼間、光義に呼び出されて言われた言葉を思い出す。

 先輩も椎菜のことが好きだった……あんなに真剣にお願いされたのは初めてだ。僕に椎菜を幸せにすることができるのだろうか。僕に椎菜を笑顔にすることができるのだろうか。僕には資格がない……じゃあ、資格ってなんだ?常に相手できることが資格では……ないと今は思える。バスケが忙しいってのは単なる言い訳でしか、逃げでしかない。今ならそう思える。

「資格……恋する資格って……」

 その時、ふと光義の言葉が蘇ってくる。

『本気で愛する!』

 仁人の頭の中で、今までさまざまな人に言われた言葉が渦巻く。貴士にされた指摘、黒松からの激励、光義に掛けられた発破、椎菜の想い。

「僕は……」

 仁人は頭を抱えて悩み、考え、そして、ある一つの結論に至る。

「僕は資格がないかもしれない……でも、椎菜のことが好き!」

 仁人の顔が清々しく、決意を秘めた、迷いのないものになっていた。

 資格があるか自信はないけど、大丈夫。これなら、この資格なら僕にでもできる。そうなんだ、これでいいんだよ。ようやく僕は本当に前に進めたんだ。

 仁人は本棚の楯をじっと見つめる。そして、小さく呟く。

「ありがとう」

 優しい笑顔を浮かべながら。



 仁人が晴れ晴れした気持ちで明後日以降の練習メニューを考えていると、携帯電話がメールの着信を知らせてくる。

「誰からだ?」

 本を一旦閉じて、振動が止まった携帯電話を持ち上げて確認する。貴士からであった。

『お前のことだから、明日の予定なんて考えてないだろうから代わりに考えといたぜ。この通り行動しろとは言わんからちょっとは参考にしろよ』

 時間と行き場所が書かれたクリスマスデートのタイムスケジュールがみっちりと書かれたファイルが添付されていた。

「貴士……ありがと」

 一通り目を通した仁人は小さく感謝を述べる。女の子受けしそうな、それでいて、高校生らしくお金のあまりかからないデートプランであった。

 もう一度、プランを確認していると、貴士から新たなメールが来る。

『ついでだ、晩飯のレストランだけは手配しといてやる。これは俺サンタからのクリスマスプレゼントだ。気にするな』

 下にはレストランの詳細が添えられている。

「あいつには頭が上がらないな」

 仁人は簡素に一言だけ返信する。表しきれない気持ちを込めて『ありがとう』と。



 十二月二十五日、クリスマス。イエス・キリストの誕生日とされているが、一説では違うと言われている。日本においては、そんなことよりも恋人の日という認識が強い。恋人がいない者にとっては平日となんら変わらない日である。

 仁人はどんよりと曇った空、冷たい風が吹く高城駅のホームに降り立つ。待ち合わせ時間までまだ三十分以上余裕がある。にもかかわらず、仁人はそわそわして落ち着かず、予定より早く来てしまった。

「あれ?仁人?」

「え?椎菜?」

 改札を出ようとしたとこで、ホームの反対側から来る椎菜とばったり出くわす。普段サイドポニーにしている髪を前と同じ白のモコモコベレー帽に収め、後ろに大き目のリボンとティアードレースをあしらったブラウンのプリンセスコート、赤チェックのミニスカートから覗く脚はモノクロボーダーハイソックスに包まれ、黒のハーフブーツで足元をきめている椎菜が緩く巻いたマフラーを揺らして、笑顔で飛び跳ねながら駆け寄ってくる。あまりの可愛さに仁人はしばし見惚れてしまう。

「もしかして、仁人も落ち着かなくて早く来ちゃった?」

「……あ、ああ。えっと、そんなところ」

「そっか……実は、私もなんだ。気が合っちゃったね」

 照れ臭そうにする仁人と嬉しそうに微笑む椎菜は並んで自動改札を通り抜ける。駅構内から出ると、大きなクリスマスツリーが出迎えてくれる。周りの店もクリスマス仕様に変わっており、クリスマスケーキを売り込む声がクリスマスソングに乗って聞こえてくる。

「さすがクリスマス。人が多いね」

「うん」

「しかも、カップルばっかり」

「そうだね……」

「私たちも、その……恋人同士に見られちゃってるのかな?」

 少し頬を赤く染めながら、椎菜がそっと寄り添ってきて腕を絡めて手を繋いでくる。仁人は何も答えられず腕に緊張が走る。

「い、行こうか」

「うん」

 ようやく出た仁人の声は上ずっていたが、椎菜は気にせず嬉しそうに頷き、さらに身を寄せる。仁人はできるだけ腕に意識がいかないように心がけて、ゆっくりと椎菜の歩幅に合わせるように歩き出す。



 駅前のロータリーからバスに乗り、海沿いにある小さな水族館へ向かう。混雑する車中、仁人と椎菜はほとんど抱き合うような体勢で立っていた。お互いに何も喋れず、無言のまま顔を赤くしていた。目的のバス停に着く十数分がとても長く感じられた。

 バスから降りて、ようやく解放された二人はまともにお互いの顔を見られないようになっていた。火照った身体に海風が若干心地よく感じられる。それでも、お互いの手はがっちり握られている。

「やっぱり、人ごみは好きになれない」

「そうだね……」

 何かを紛らわすように仁人が呟き、椎菜がそれに同意する。二人はまた腕を組んで建物へと入っていく。

 中に入ると、大規模な水槽や展示こそないが、数多くのアクアリウムが色とりどりにライトアップされており、幻想的な雰囲気を醸し出している。あまり知られていないので、人もまばらにしかいない。

「きれい……」

 椎菜は入るとすぐに尾柄部が赤くキラキラしたスポットがあるホタル・テトラのアクアリウムに近寄り、キラキラした眼で水槽の中を覗き込む。仁人も隣で同じように精密機械のような泳ぎ方をするホタル・テトラを目で追いかける。

「こんなの初めてだよ」

 ミナミヌマエビやスカーレット・ジェム、グッピーのアクアリウムを鑑賞して、椎菜は少し興奮気味に声を漏らす。仁人も幻惑なアクアリウムと楽しそうな椎菜に魅せられている。心の中で改めて貴士にお礼を言う。

「ねぇねぇ、仁人。これ、かわいい」

「ホントだ」

 側面に不連続な黒いラインがあるコリドラス・コチュイを指差して、椎菜が嬉しそうに仁人の腕を引っ張る。

「なんか、仁人に似ているね」

「そうかなぁ」

 仁人は照れながら、もう一度水槽の中を覗き込む。コチュイが小さな体で水槽の中を優雅に泳いでいる。仁人にはどの辺りが似ているのかさっぱり分からなかった。けど、椎菜の楽しげに水槽を突いている姿を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくる。



 アクアリウムを堪能した二人はまたバスに揺られて、駅前まで戻ってくる。今回は空いていたので座る事ができた。雲の合間、沈み行く夕陽がバスの窓から見えた。

「イルミネーションが綺麗……」

「ホント綺麗だ」

 駅前の大きなツリーを中心に駅前全体がイルミネートされている。

「こんなの初めてかも……まるで空から光が降り注いでいるみたい……」

 駅舎の壁や街路樹、ツリーに取り付けられたLED電球が赤、白、青、黄色と次々に色を変えてキラキラと街を彩る。時には不規則に、時には規則的に輝く光が道行く人々の視線を引き寄せる。

 うっとりした表情でイルミネーションを眺める椎菜の隣で、仁人も同じように光の幻想の虜になる。毎年見ているはずなのに、今年のはより一層綺麗に輝いているように感じる。それは電飾が豪華になったからか、隣にいる人のおかげなのか。

 歩行者天国となっている大通りもイルミネーションが眩き、見る人を魅了している。そのため、ちょっとした人の渋滞ができている。しかし、人ごみが好きじゃない二人は魅入られたようにその渦の流れに飲み込まれていく。

「さっきのアクアリウムも幻想的で素敵だったけど、このイルミネーションも好きだな。これも隣に仁人がいるからかな」

 輝く光の桃源郷で椎菜は小さく呟き、寄り添う仁人の腕をさらに引き寄せて、繋いだ手の力を少し強める。それに合わせるように仁人も握り返す。お互いの体温が冷たい手を温める。



 大通りのイルミネーションを通り抜け、前に来た映画館の入ったショッピングモールの近くまでやってくる。仁人が腕時計を確認すると、まだ予約時間まで余裕があったので、ショッピングモール内で時間を潰す事にする。

 ショッピングモール入ってすぐのホールでは巨大なクリスマスツリーが煌びやかに出迎えてくれる。各テナントがそれぞれクリスマスカラーに彩られ、イージーリスニングのクリスマスソングが気分を盛り上げてくる。

「すっごい大きい。ねぇねぇ、写真取らない?」

 はしゃいだ椎菜が仁人の腕を引っ張りながら、携帯電話を取り出してくる。クリスマスツリーをバッグに仁人と椎菜は並ぶ。

「ダメ、もっと近付かないと入らないよ」

 椎菜は携帯電話を掲げて、顔をぐっと仁人に近づける。もうほとんど頬と頬が触れ合うような、少し横を向くだけで唇がそのほっぺたに触れてしまいそうな距離。仁人の心臓は最高潮に活発化する。椎菜に音が聞こえてしまうかもしれないと心配になる。しかし、椎菜も大胆に行動してはいるが、似たような状況であった。

「はーい、撮るよ~。チ~ズ」

 小さなシャッター音が雑音の中に混ざる。

「もう一枚」

 ふたたびシャッター音がかすかに聞こえ、頬にかすかな温かさを仁人は感じる。気のせいかと横を見るが、椎菜は頬を赤く染めて撮った写真を確認している。

「うん、キレイに撮れてる」

 二枚目の写真を見て、椎菜は頬の色を強める。そして、大切に保存して、携帯電話を鞄にしまう。ふと不思議そうな顔をしている仁人を横目で見て、耳まで真っ赤にする。



 ショッピングモール内を適当にぶらつく。シルバーアクセサリーの店に立ち寄る。リングを中心にさまざまなアクセサリーがケースに入って展示されている。

「素敵~」

 一つのリングに椎菜の視線が釘付けになる。淡いラベンダーに似ているピンクをした小さな石がついたステラ・リングである。

「いらっしゃいませ。どうですか、お客様」

「うん、すっごく素敵」

 近寄ってきた女性店員の営業スマイルに椎菜は純真な笑顔を返す。

「その石はクンツァイトと言いまして、宝石言葉は愛の予感、無限の愛です。お客様には大変お似合いだと思いますよ」

 店員は椎菜と仁人の顔を見て、小さく微笑む。なんだか二人とも急に恥ずかしくなって、お互いにそっぽを向いてしまう。その様子がさらに店員の笑みを誘う。

 店員と雑談を交わしている椎菜を見て、仁人は一つ重大なことを思い出す。クリスマスプレゼントを用意していないことを。

「うぅう~、でも、高いなぁ」

「そうですか、じゃあ、こんな素敵な夜です。特別に一割引にいたしますよ」

「椎菜、買ってあげようか?」

「え?」

 悩み顔だった椎菜が驚いて、仁人のほうを振り向く。

「でも……」

「実を言うと、クリスマスプレゼントを用意できていないんだ。だから、クリスマスプレゼントってことで。ダメかな?」

 イタズラがばれた子供のようにバツの悪そうな笑みを浮かべる。

「ホントいいの?」

「うん」

「じゃあ、お願いしちゃおうかな……」

 遠慮が見え隠れするが、心底嬉しそうに椎菜は笑顔を覗かせる。

「いい彼氏ですね。羨ましいです」

「そ、そんな……」

「うう……」

 店員の言葉に二人とも耳まで真っ赤にして俯いてしまう。そんなウブな二人を微笑ましく思いながら、店員はステラ・リングを取り出し箱に積めて包装してくれる。

「はい、どうぞ」

 仁人はキレイに包装された小箱を店員から受け取り、代金を支払う。そうして、その小箱を椎菜に渡そうとしたら、断れた。

「ま~だ。プレゼント交換はもうちょっと先で。ね?」

「分かった」

 仁人はそっとその小箱を大切に右ポケットに入れる。



 レストランの予約時間が近付いてきたので、ショッピングモールをあとにしてレストランが入っている建物を探す。貴士からのメールを頼りに歩いていくと、すぐにそれは見つかった。

 高級そうな外観の玄関を構えた何階まであるか分からないほどの高層建築。貴士が予約したレストランはそこの最上階とまではいかないが、かなり上のほうにあった。

「すっごく高級そうだけど、大丈夫?」

「大丈夫……きっと」

 若干不安になりながらも、仁人たちはエレベーターに乗り込み目的の階を目指す。エレベーターから降りると、見るからに高級そうなイタリアンレストランがフロアの一角に門を構えていた。仁人は内心焦りまくり、財布の中身を必死に思い出そうとする。

「本当にここで合ってる、よね?」

「間違ってない……はず」

 椎菜もさすがに不安が嬉しさよりも大きくなる。

「ご予約の宮前様でしょうか?」

「え?はい」

 入口付近で戸惑っていると、突然ボーイらしき人に声をかけられる。

「伺っております。どうぞこちらへ」

 案内されるがまま店内へと入って行き、窓際の席に辿り着く。テーブルには特別予約席のプレートがあった。

「こちらになります」

「はい」

 上着をボーイに預けてから椎菜の対面席に着いて、改めて凄いとこに来てしまったと仁人は思う。ガラス張りにされた窓からは高城市が一望できる。駅前から大通りにかけてのイルミネーション、それに負けないほどの輝かしい夜景。どんよりとした雲が空を覆っているので、月や星は見えないのが残念である。

「すごい……」

 椎菜が思わず声を漏らしてしまう。今日一日でいくつもの感動的なものを見てきたが、これはそれらに勝るともけっして劣らない。

「ほんとだ」

 仁人も一時的にその感動的な風景に心を奪われる。

「失礼します」

 ウエイトレスがお冷を運んでくる。しかし、メニューらしきものは何も渡してこない。疑問に思った仁人はそっと小声でウエイトレスに尋ねる。

「あの、メニューは?」

「はい、お客様は特別コースでご予約されておりますので、こちらでコース料理を順番に出させていただきます」

「え?じゃあ、料金は……」

「お会計は二人合わせて五千円となります」

 思った以上にリーズナブルな値段に仁人は一安心する。きっとどうにか貴士が裏で話をつけてくれているのだろう。

「それでは、失礼します」

 ウエイトレスはきっちりと頭を下げると、きびきびした動きで立ち去っていく。

「こんなクリスマス、初めて。ううん、こんな素敵な日が初めてだよ。ありがとう、仁人」

「お礼を言うのは僕の方だよ。椎菜が誘ってくれなかったら、家で家族と小さなクリスマスケーキを食べて、妹に強制的にゲームさせられていたよ。ありがとう、椎菜」

 お互いにお礼を言い合い、微笑み合う。そして、お互いの笑顔に見惚れてしまう。

 食前酒アペリティーヴォは未成年なので、ノンアルコールのスパークリングワインが出てきて、前菜アンティパストから始まり、プリモ・ピアット、セコンド・ピアットと順番に出される。どれも絶品の味わいで、椎菜も仁人も大満足だった。デザートの小さなクリスマスケーキで締めくくり、食後酒として紅茶とコーヒーが運ばれてきた。

「こちらはルフナのミルクティーとなります」

「え!?ルフナのミルクティー?」

 ルフナ独特の爽やかな香りがほのかに漂ってくる。椎菜はあの上品な甘みを思い出し、恍惚とした表情を浮かべる。

「こちらはエルサルバドル・サンタリタ・ナチュラルのエスプレッソになります」

 聞いたこともないコーヒー豆のエスプレッソがそっと仁人の前に置かれる。ウエイトレスは一礼すると、すぐに下がっていく。

「どうかした?」

「ううん。ホント、今日は嘘みたいに素敵な日だなって」

 カップを小さく傾け、椎菜は極上の笑顔を浮かべる。カップに触れる椎菜の唇に視線を奪われながら、仁人も同じように小さなカップを持ち上げ、深いコクと甘み、ちょっとした苦味に軽い感動を覚える。

「ありがとう、仁人」

 眼下の夜景に負けないくらい輝かしい笑顔を浮かべる椎菜に仁人は優しく微笑み返す。この時間がずっと続けばいいと思いながら。



 ビルから出てきた二人は外気の寒さに震える。自然と距離を縮めて、ほとんどくっついているような格好で歩く。

「ねぇ、最後に行きたいとこがあるんだけど……」

「どこ?」

「それは着いてからの秘密」

 そう言って、椎菜は絡めた仁人の腕を引くように駅のほうへと歩いていく。仁人は静かにそれについて行く。

 電車に乗って高城市からみつが丘に戻ってくる。商店街のイルミネーションを通り抜け、星鈴高校と反対側、みつが丘にある三つの丘のうち、一番高い丘に向かう。夜になりさらに寒くなった中、二人は小一時間ほど歩いて頂上にやってくる。

 丘の頂上は見晴台のある小さな公園になっている。夜もだいぶ遅くなっているからか、公園には仁人たち以外誰もいない。

「ようやく着いた」

「ここ?」

「うん、ここからの眺めがすっごく好きなの。さっきの夜景ほどじゃないかもしれないけどね」

 少し悔しそうにはにかむ椎菜の言うとおり、ここからはみつが丘全体を一望できた。高城市ほど煌いていないが、それでも自分の町だという補正だろうかキレイに思えてくる。

「僕もなんか好きだな」

「嬉しい」

 椎菜は組んでいた腕を放すと、仁人に飛び込むように抱きつく。吐息がかかるくらいの距離まで近付く。仁人は目の前の唇に視線を奪われつつ、抱きしめるように腕を回すべきかどうか悩む。

「あっ、ご、ごめん……」

 すっと仁人から離れた椎菜は大きくなる一方の心音が聞こえないように胸を抱える。つい勢いで抱きついてしまったことを反省する。仁人のがっちりとした胸板の温かさに思い出し、顔を余計に赤くさせる。

「あ、う、うん」

 消えた温かみに寂しさを感じながら、仁人は曖昧に返事する。フルスロットルの心臓がうるさいくらい脈動する。恥ずかしさを押し隠しつつ、仁人はそっと椎菜の側に寄り添い、肩に手を回して引き寄せる。

「え!?」

「寒いから。ほら、雪も降ってきた」

 目を丸くする椎菜へのよく分からない仁人の言い訳に笑みをこぼしつつ、椎菜は仁人に身を預けるように肩に寄りかかる。

「ホワイトクリスマス……」

 粉雪がふわりふわりと舞い降りてくる。二人はしばらく雪振る寒空に生まれた暖かな時間に溺れる。

「そうだ、終わってしまう前に」

 二人でぼんやりと夜景を眺めていると、仁人が思い出したように腕時計を確認する。クリスマス終了三十分前だったので、慌てて右ポケットを探る。キレイにラッピングされた小箱を取り出し、椎菜を見つめる。

「メリークリスマス、椎菜」

 先ほど買ったステラ・リングの入った小箱を椎菜に差し出す。しかし、椎菜はなかなか受け取ろうとせず、少し何か考える。

「ねぇ、一つわがまま言っていい?」

「どうぞ。僕にできることなら」

 椎菜は少しためらうような仕草を見せてから、何かを決意するように頷く。

「そ、その……着けて、くれるかな……」

 恥らうようにそっぽを向きながら、椎菜はそっと左手を差し出してくる。

「メリークリスマス、お嬢様」

 丁寧に包装を外すと、小箱からステラ・リングを取り出して、椎菜のすらっとした指にそっとはめる。夜景のかすかな光を淡いライラックピンクのクンツァイトが反射して輝く。

「うん、メリークリスマス、仁人」

 涙で潤んだ瞳で椎菜が全てを魅了する笑顔を浮かべる。今日のアクアリムより幻想的で、イルミネーションより魅惑的で、高城市の夜景より綺麗で、みつが丘の風景より温かく、仁人を虜にする。

「これは私からのクリスマスプレゼント」

 椎菜は鞄から小さな紙袋を取り出し、仁人に手渡す。

「開けてもいい?」

「どうぞ」

 しばらく紙袋を観察した仁人はゆっくりとその封を丁寧に開けていく。中には手袋とマフラー、そしてリストバンドが綺麗に並べられて入っていた。

「ごめんね。時間がなくて手作りじゃないけど」

「ううん、すごく嬉しい。ありがとう」

 仁人は袋からマフラーを取り出して、首にそっと巻きつける。普通のマフラーをする以上に温かいように感じる。

「ねぇ、聞いて、仁人」

 寄り添った状態で椎菜は仁人の耳元で囁く。仁人はくすぐったい感じを覚えながらも、黙って耳を傾ける。

「私、今日はとっても楽しかった。素敵なものをたくさん見れたし、おいしいものもたくさん食べた。でも、一番は仁人とずっと一緒にいれたから。もうそれだけで胸がはち切れそうになるくらい嬉しくて、心が温かくなるの」

 椎菜はゆっくりと横を向いて、仁人を見つめる。仁人も同じように椎菜を見つめる。

「仁人、私やっぱり、仁人のことがす――」

 言葉の途中で椎菜の口は動きを止める。仁人の人差し指がそっと当てられたから。

「僕も今日はとっても楽しかった。いろんなものが見れたし、夕食もおいしかった。でも、それは隣に椎菜がいてくれたからだと思う。聞いて欲しい、僕の想い」

 そこでそっと指を離して、繋いだ手をぎゅっと握り、空を見上げる。この手を通して、想いが伝わるように。

「僕には資格、恋人を作る資格がないって言ってた。そうやって、逃げていたんだ。女の子と付き合って、またあんな思いをしたくないから。でも、椎菜を初めて見たとき、すごくかわいいと思ったんだ。恥ずかしいけど、それが先月の話。全校生徒の前で堂々と話す椎菜の姿に僕は釘付けになった。それから椎菜と知り合って、話すようになって、惹かれる一方だった。でも、資格がないからって気持ちを押し殺してきた。椎菜が『好き』って言ってくれたのが嬉しかったのに拒んだ。先輩とのデートを見て、すごく悲しかった。悩んで、苦しんで、考えた。そうして、僕にもようやく分かったような気がするんだ」

 そこで一旦区切った仁人はじっと椎菜の瞳を覗き込むように見つめる。椎菜は驚いたように目を丸くしながらも、真剣な表情で聞き入っている。仁人は小さく微笑んで続ける。

「ずっと相手できることが資格じゃない。本当の資格はその人を本気で愛すること。僕にあるか分からないけど、でも、自信はある」

 そっと両手で椎菜の肩を抱き、真正面でお互い向かい合い、見つめ合う。

「好きだ、椎菜」

 じっと椎菜の瞳を見つめ、はっきりとした口調で、自身の想いをぶつける。辿り着くまでに迷走を重ね、否定し、それでも沸きあがってきた想いを初めて相手に伝える。

「うん……うん」

 止め処なく零れる涙を拭いながら、椎菜はただただ頷く。仁人の気持ちが嬉しくて、どうしようもないくらい嬉しくて、椎菜は涙でぐちゃぐちゃになった顔で微笑む。

「私も、私も大好きだよ、仁人」

 涙声で詰まりながら、椎菜は今まで何度も伝えた、伝えたけど届かなかった、でも今は届く想いを吐き出す。そして、懸命に笑顔にしようとしている泣き顔で仁人に抱きつく。仁人も今回は優しく腕を回して抱きしめる。

 二人の体温が一つになり、ふたつの唇も今一つへと重なっていく。



エピローグ



 最後に粉雪がチラついてホワイトクリスマスとなった今年のクリスマスも終わりを迎えようとしている。陽が昇ると人々はクリスマスムードから一転して、年末となり正月雰囲気が漂い始める。

「温かいね」

「うん」

 二本のマフラーを二人で一緒に巻いて小雪が舞う夜景を眺める。お互いに片手ずつ手袋を着けて、もう片方の手は固く繋がれている。

「五……四……」

 椎菜が携帯電話でカウントダウンを始める。

「三……二……」

 終わらない時間はない。いくらそれを拒んだところで、人は未だに無力なのだから。仁人は少し寂しい思いを抱きながら、椎菜のカウントダウンを静かに聞く。

「一……ゼロ!」

 クリスマスという楽しい時間が終わってしまったのに、椎菜は嬉しそうに最後の数字を口にする。そして、仁人のほうに向き直る。

「ハッピーバースディ、私の恋人」

 椎菜は叫ぶと同時に、仁人に飛び込むように抱きつく。突然のことに、仁人は驚きながらもなんとか受け止めて抱きしめる。そして、二人は再びキスを交わす。

 小雪が舞い降りる十二月二十六日。宮前 仁人、十七歳の誕生日である。



fin

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ