上
プロローグ
寒気を含んだ風が学校の屋上を通り過ぎていく。屋上には夕陽によって長くなった影が二本伸びている。麓の町並みがぽつぽつと色付き始める。山間に隠れようとしている夕陽が屋上の様子を覗き見している。
「先輩……」
伸びている影の少し短いほう、小柄な女の子は気恥ずかしさが見え隠れする声を細々と上げる。その呼びかけに長いほうの影、スポーツ刈りに揃えられた短い髪が立っている少年が真っ直ぐ女の子を見つめて応える。
「私、その……」
「うん」
詰まりながらも言葉を紡ごうとする少女を少年は優しい瞳で静かに見つめる。少女の顔がほのかに赤くなっているのは夕陽のせいか、はたまた別の理由か。
「先輩……私、その……先輩のこと……」
少女は勇気を振り絞ってその先を告げようとするが、やはりどうも止まってしまい、顔を伏せてしまう。少女の中で、言いたい気持ちと言ってしまった先の予想がせめぎあいを続けている。
少年は手持ち無沙汰になり、一番星が自己主張を始める、夜と夕方がせめぎ合っている空を見上げる。
「宮前先輩、私……先輩のことが好きです」
俯いていた頭を急にあげて、少女はついに決着をつける。自分の気持ちと現実に。
「そう」
少年は見上げていた顔を少女に戻し、少女の必死の想いを短い言葉で受け取る。少女の顔は夕陽に負けないくらい赤くなっていた。その瞳にはほんの少し涙らしき滴が浮かんでいる。
「好きです、先輩!」
一度言うと大胆になれるのか、次は大声で叫んでいた。少年は静かにうなずく。
「……ありがと。嬉しいよ」
「じゃあ……」
すでに泣きそうになっていた少女はかわいらしい笑顔を浮かべる。その笑顔に少年は少し罪悪感を覚える。
「でも、ごめん」
「えっ」
笑顔のまま固まってしまう少女。少年は悲しそうな、困っているようなあいまいな表情を浮かべる。
「その……僕を好きになってくれた気持ちは素直に嬉しい。でも、悪いけど、僕は付き合えない」
少年は言いたくないけど、言わないといけない言葉を胸の痛みを感じながら紡ぐ。少女の足元に一滴の雫が落ちてシミをつくる。
「それは私が……」
少女は震えた声でしゃべろうとするが、それも途中でできなくなってしまう。
「違うよ。君のことはかわいいと思う」
「じゃ、じゃあ、他に……好きな人でも……いるんですか?」
瞳からあふれ出る涙を拭わずに少女は詰まりながらも、涙声で最後の希望に身をゆだねる。少年はゆっくりと、相手に聞かせるためより自分自身に沁み込ませるためにゆっくりと口を開く。
「僕には……ないんだ」
「ない?」
覚悟していたが、やはり少女の表情に心が痛む。けど、少年は少女の眼を見つめて一呼吸の後、さらに言葉を紡いでいく。
「僕にはないんだよ。恋人を作る資格が、付き合える資格が」
少年は寂しそうな微笑を浮かべる。すべてを諦めているような、悟ったような、哀愁漂う笑みである。
「だから、ごめん」
少年は最後にそれだけ告げると、少女の脇を通り抜けて屋上から姿を消す。影ができない闇に少女は一人取り残され、半分ほどしかない月に見守られる。
第一章
多くの生徒が葉を落とした桜並木の坂道を登っていく。ある者はだるそうに自転車を押しながら、またある者たちは楽しくしゃべりながら、またまたある者は寒そうにポケットに手を突っ込みながら歩いている。体育祭も文化祭も終わり、今学期学校行事も残っているのは期末試験くらいだからか、それとも寒さのせいか、どことなく侘しさが感じられる。
「先輩、おはようございます」
「ああ、おはよう」
後ろからかけられた元気な声に振り向きながら、宮前 仁人は自転車を押している手を片方離して応える。そのついでに落ちかけていた左肩のスポーツバッグをかけ直す。
身長、百七十後半。スポーツ刈りの短髪がツンツンと天に向かって立ち上がっている。制服の上に何も羽織ってこなかったことを若干後悔している。
坂の先を眺めるとため息がもれ出てしまう。枯れ葉をさらうことに専念する風が仁人の体温も奪っていく。身震いした後、仁人は生徒の流れに乗ってゆっくりと坂を登っていく。
坂を登りきった先、みつが丘にある三つの丘の一つ、小高い丘の頂上にあるのが仁人たちが通う星鈴高校である。広大な敷地面積を有し、文武両道を掲げているため部活動も盛んで、たまに全国大会出場の垂れ幕が下がっている。
一年以上登り続けている坂を登りきった仁人は自転車を校門脇の駐輪場の空いているスペースに置き、赤レンガの校舎のほうへと歩いていく。
L字型をした校舎と文化部部室棟に囲まれた中庭で何人か友人に会い、朝の挨拶を交わしていく。
「よう」
「ん?おはよ」
右肩を叩かれた仁人が振り向くと、一年の頃からつるんでいる友人、黒松が手袋で覆われた手を挙げて挨拶してくる。黒松は少し歩幅を広げて仁人の隣に並ぶ。
「今日は一段と寒いな」
「もう冬なのかな」
仁人は空を見上げる。どんよりとした雲が太陽を隠そうと躍起になっている。
「そういや、今日は全校集会があるんじゃなかったか?」
「そうだった」
「絶対寒いだろうなぁ、体育館。我々は床暖房を要求する」
「床暖房の体育館なんて聞いたことない」
仁人は呆れながらも楽しそうに黒松と会話して玄関で上履きに履き替え、教室までの短い時間を過ごす。
教室の手前で黒松と別れた仁人は自身の教室に入っていく。クラスメイトたちと挨拶を交わしながら席に着く。
教室内は朝の短い時間をも無駄にできないと、女の子たちがグループになって無駄話に花を咲かせている。
「ええ~、椎菜、昨日のドラマ見てないの?」
「うん。いろいろ準備が忙しかったから見れなかった」
「じゃあさ、私が貸してあげるよ。ブルーレイに録ってあるからさ」
「ありがと、助かる~」
少女たちの甲高い声を特に気にも留めず、仁人はスポーツバッグを机の横にかけると、ぼんやり窓の外を眺める。
冬らしい厚い雲が太陽を隠そうとしている。ついこの前までは夏みたいに暑かったというのに、いつの間にか冬の装いになっている。今年は秋という季節をどこかに置き忘れてきたのだろうか。
「さっさと春が来ればいいのに」
「春が来たら、俺たちも高校三年生。受験生だぜ?」
「それは困る」
仁人のぼんやりとした独り言にツッコミが入る。仁人は特段、その人物のほうを向こうともせずに窓の向こうを眺め続ける。
ツッコミを入れた生徒、紀三井寺 貴士も気にせず同じように視線を窓の先へと向ける。
「まぁ、早い奴はそろそろ始め出すけどな、受験勉強」
「僕たちはそんな勤勉少年じゃないだろ?」
「ごもっとも」
この時点になって、ようやく仁人は勤勉少年じゃないくせに学年上位である貴士のほうに視線をやる。貴士はうんうんと何度も納得顔で頷いている。中学時代からの付き合いで、部活ではコンビとして活躍する親友である。
貴士は眠そうな顔であくびをかみ殺す。おそらく徹夜でゲームでもしていたのだろう。鞄を床に置き、仁人の前の席に座る。もちろん、貴士の席ではない。
「で、昨日、コクられたんだって?」
「あいかわらず情報が早い」
「情報は世を渡る上での武器だからな」
仁人の呆れ顔に貴士はニカリと笑いかける。仁人は深いため息をつく。
「で、どうせまたフったんだろ?」
「ああ」
「やれやれだぜ、まったく」
貴士は呆れるようにため息をつき、わざとらしく肩をすくめる。
「だって、女子新体操の一年で一番かわいいって評判の植田 那波を振るなんてもったいない。正気の沙汰とは思えないな」
「正気じゃないくらいの自覚はあるつもりだ」
「言いたいことは分かるが、深く考えすぎだぜ?」
「お前みたいに楽天家になれたらよかったんだがな」
「褒めても何も出ないぜ?」
貴士はなぜか逆に手を差し出して、何かを要求してくる。仁人が再びため息をついたところでチャイムが鳴り、担任教師が教室に入ってくる。貴士をはじめ、クラスメイトがあわただしく自分の席へと戻っていく。
担任教師が簡単な連絡事項と出欠確認を行うと、月に一回ある全校集会のために体育館へと移動する。教室から渡り廊下を通ってクラスごとに列を成して体育館へと向かう。
「さすがにもう裏庭で弁当食うのは無理だな」
貴士が渡り廊下の左手に見える裏庭をぼんやりと眺めながら漏らす。落葉絶頂期にある木々に囲まれた噴水がもの悲しげに佇んでいる。
体育館に入ると、既に他クラスが指定された場所で待機していた。床には汚れ防止用のシートが引かれているだけで、当然ながら床暖房なんてあるわけがなく、床からはひんやりした冷気が感じられる。
仁人たちも指定された場所で体育館の寒さに文句を言いながら待機する。
「これより全校集会を始めます」
生徒たちが寒さに震えている中、生徒会副会長である後藤 美夏の整然とした司会で全校集会が開始される。ざわついていた体育館が静まり返る。
「最初に校長先生のお話です。校長先生、お願いします」
精悍な顔をした年齢の割に若々しい初老の男性が恰幅のいい身体をゆったりと壇上へと向ける。生徒だけでなく教師たちにも緊張が走る。
「ええ、別に話ってのはないんじゃが……」
ひょろひょろした声がスピーカーから流れる。壇上にはもちろん校長以外に誰もいない。司会の後藤もマイクのスイッチを切っている。
「最近、急に寒くなってきたので、みなさん、風邪などを引かないように気をつけてください」
外見からは想像できない校長の声が体育館全体に響き渡る。話はないとか言いながらも校長の話はその後十五分ほど続いた。
校長の話が終わった後、クラブ活動などの賞状が壇上で校長から再度授与され、教頭先生からの連絡事項などが行われた。集中力が切れた生徒たちから怠惰な雰囲気が流れ出し、伝染していく。
「続きまして、図書館長からの連絡です」
司会の言葉を受けて、隣で待機していた一人の女子生徒が歩き出す。
少女が一歩、一歩足を踏み出すごとにミニスカートが翻り、綺麗な太ももがチラリチラリと見え隠れする。白のハイソックスがすらりと伸びる脚を膝上まで隠す。少女が壇上に近付くにつれて、体育館の空気が少しずつ変化していく。
「みなさん、おはようございます」
少女の耳に心地よいソプラノボイスの凛とした声がスピーカーを通して体育館全体に響き渡る。それは少女の雰囲気をそのまま表したような声で、だらけていた生徒たちの目を覚まさせるような一声だった。
「ん?」
「どうした、仁人」
先ほどまで完全に退屈そうにバスケットゴールを眺めていた仁人が意識を惹かれるように壇上に注目したのを貴士は目聡く気付く。貴士も壇上に立つクラスメイトに視線を向ける。
「図書館長の綾瀬 椎菜です」
ショートヘアーにカットされた黒髪をサイドでポニーテールにくくり、美人って表現よりかわいいという言葉のほうが似合っている。その大きな瞳は物怖じもせず体育館全体を見渡している。学校指定のセーラー服だというのに、他とは違い、どこか気品が感じられる。
「なぁ」
「ん?」
仁人の異変に気づきながらも、貴士はそっけない態度で返事する。仁人は壇上から視線を外さない。外せない。仁人の頬が少し赤身を刺しているのは寒さの影響だろうか。
「誰だ?」
「誰って、クラスメイトすら覚えてないのかよ」
珍しく貴士がため息をつく。そんな様子すら仁人には目に入っていない。
「綾瀬 椎菜。図書館長を務める。性格は明るく活発的で、多くの生徒からの人気は高いし、人望もある。きっちりと仕事をこなし、成績も優秀だから教師からの信頼も厚い」
「お前とは逆だな」
「うるさい」
貴士が小さく怒鳴ると、担任からキツイ視線をもらう。
「ま、いわゆる学園のアイドルって奴さ。なんせかわいいからな」
貴士は頬をだらしなく弛ませて、椎菜に視線を送る。多くの男子生徒が貴士みたいなのは言うまでもない。
「ふ~ん」
仁人は興味ない素振りを見せようとしているが、視線は壇上に立つ椎菜の姿に五寸釘で固定されている。
視線を外すことができない。動悸が激しくなっていく。どことなく体が熱い。仁人はこの不可解な現象に身に覚えがあった。
でも、僕は……
仁人のそんな状態に気づくわけも気にするわけもなく、椎菜は悠然と演説を続ける。
「――以上、図書館会からでした。みんな、もっと図書館に来てね」
椎菜はフレンドリーに締めくくると、そのままトテトテ壇上から降りていく。何に対してか分からない拍手が体育館全体から沸きあがり、椎菜はそれに対して笑顔で手を振って応える。校長も緩んだ頬をそのままに懸命に手を叩いている。
「これで全校集会を終わりたいと思います。各クラス、順番に退出して行ってください」
拍手が小さくなるのを待って司会が締めくくると、順番など守られるわけもなく、生徒たちは思い思いにダラダラと教室へ戻っていく。仁人は一人で早々に体育館から抜け出した。
外に出ると寒風が仁人の体温を奪っていくが、それに心地よさを感じる。頭を冷やすにはちょうどいい。仁人は教室に戻る生徒の流れに乗って校舎に入っていくが、教室には戻らず階段をさらに上がって屋上に出た。
「そうだった……」
仁人は屋上の扉を開けてようやく昨日の放課後にここであったことを思い出し、場所の選択を微妙に誤ったことに気付く。しかし、別の場所に移動するのも億劫なので、そのままフェンスにもたれかかり、空を見上げる。
仁人はまだ心拍数を通常数値に戻す事ができていない。病気でもないのに胸が苦しみを訴えてくる。壇上で堂々と演説していた少女の姿が脳裏に焼きついて消えない。
「綾瀬……椎菜か……」
身体を捻って、視線を校内だけでなく、みつが丘の町からでも目立つ図書館に向ける。円柱の上に潰れた円錐が乗ったような形で、地上四階地下一階の構造をしている。先端についた時計は校内のどこからでも見えると言われている。
壇上で全校生徒相手に臆す事もなく話す堂々とした態度。最後をフレンドリーに締めくくった人懐っこさ。サイドポニーに結われたショートヘアー。あの笑顔が優しく微笑み続ける。
「僕には……そんな資格はないんだ」
抱いてしまった想いを振り切るかのように呟き、身を翻して図書館に背を見せる。冷たい空気を肺一杯に吸い込み、すべてを吐き出すように深呼吸する。視線を落として腕時計を見るとすでに次の授業開始三分前を指していた。
「やばっ!?」
仁人は急いで教室に戻っていく。
なんとか間に合った授業をぼんやりと仁人は聞き流す。期末テストが迫っているが、仁人にとってはどうでもいいことある。だから、教師が懸命に黒板にチョークを走らせているにも関わらず、仁人はシャーペンすら握っていない。
「ここ、今度の期末に出すからしっかり抑えておけよ」
教師が注目を集めるために指示棒で公式を指し示し強調する。生徒たちもそこに視線を向けて、必死にノートにその内容を書き込む。しかし、仁人の視線はそこには向かっていない。呆けたような瞳で最前列に座る椎菜の後ろ姿を眺めている。
椎菜は仁人の視線に気付かないで、真剣な顔つきで版書に励んでいる。たまにシャーペンの端を口元に持ってきて考え込んではノートに何かを書き込んでいる。その仕草があまりにも絵になっていて、仁人じゃなくてもつい見惚れてしまう。
頬が緩んでしまっていることに仁人がはっと我に返って気付き、慌てて誤魔化すために外に視線を移す。
「あいつがねぇ……珍しいというか、あの時以来初めてじゃないか?」
教室の一番後ろからその様子を観察する貴士は自然を装う不自然な親友を眺めながら、どうするかなぁと考えを巡らせる。
午前中の授業を消化してようやく昼休みとなる。チャイムと同時に教室内は一気に騒がしくなり、女子たちは机をくっつけて寄り集まり、男子たちは購買へと駆けていく。
仁人が登校途中で買ったコンビニ袋を鞄から取り出していると、貴士と黒松がそれぞれ弁当を片手にやってくる。
「今日はどこで食うんだ?」
「さすがに外はもう寒い」
「寒いだろうが、人はいないだろうよ」
「寒いのに外で食う物好き以外はな」
「しゃあない、ここで食うか」
貴士は隣の席の机と椅子を無許可で持ってきてくっつけ、椅子を前の奴からも拝借して人数分揃える。黒松は呆れながらもさっさと椅子に座り弁当箱を広げる。
三人はそれぞれの昼飯をつつきながら雑談に花を咲かせる。そういった意味では教室はオランダのキューケンホフ公園だ。
「今日の練習はどうするんだ?」
「昨日と同じメニューにしようかと思う」
「キャプテンでもないのによくやるよ」
黒松が仁人に呆れながら卵焼きを口に頬張る。
「どうせなら最後の一年くらい勝ちに行きたい」
「弱小から勝ち上がって行くってのはロマンがあるよなぁ」
「可能なのは漫画かドラマの世界くらいだよ」
「松は手厳しいねぇ」
貴士がとぼけたように自分の頭を軽く叩く。仁人は静かに二つ目の菓子パンを開封する。
「で、強豪空手部さんは最近どうなのよ」
「先輩たちがいなくなってからはたいしたことないさ。正確には会長が、だけど」
「空手部元エースで生徒会長の六十谷 光義先輩か」
「そそ。彼の強さは本物だったね。話では空手がやりたくてここに入学したらしい」
「この学校、設備だけは揃っているからな。食堂は『食堂』という名の空間に成り果てているが」
資金難のため運営が難しくなった食堂は現在閉店中で、場所だけの解放となっている。購買でパンを買った生徒がそこ食べたりしている。
「今時、資金運用で株はないわ、株は。せめて韓国株とかにしとけよな」
貴士が鳥の唐揚げを指した箸を振り回しながら、食堂の、ひいては学校全体の資金難の原因に対してぼやく。黒松もうんうんと納得顔で頷く。
「って、聞いているか?」
「ん?ああ……」
貴士に突然話を振られた仁人は驚いて、咄嗟には生返事しか返せない。
「どうした?ぼうっとして。らしくもない」
何も知らない、気付いていない黒松が心配そうに仁人を伺う。事情をそれなりに察している貴士は何も言わない。
「いや、なんでもない」
今までしていたことを誤魔化すように勢いよくパンへとかぶりつく。疑問符を浮かべる黒松はとりあえず仁人が眺めていただろう方向に視線を向ける。その先には教室の前方で固まる女子のグループがあり、その中心には椎菜の笑う姿があった。
「?」
ますます疑問符を浮かべる黒松。
「ま、いいか。それより、今度の土曜はどうすんだ?あの映画、ついに公開されたが」
「ああ、あの前評判が悪かった映画か」
「そう聞くと見たくなくなる」
「そう?私は見たいけどな」
突然の声に三人とも顔をあげ、珍入者を確認して三様の反応を示す。黒松は驚き、貴士は笑みを浮かべ、仁人は呆然としてしまう。見られた方は「どうしたの?」と言いたげに小首をかわいらしく傾げている。
「椎菜、驚かすなよ」
黒松がどうにか抗議する。その不満を漏らす声に少し親しさが見え隠れする。
「驚かしたなら謝るよ。ごめんね」
椎菜はかわいらしい舌をちょっとだけ出して、おどけながらも謝ってくる。
「なんか、さっき、こっち見ていたから、何の話してるのかなぁて思って」
「別に見てねぇよ」
「そう?」
椎菜は答えた黒松ではなく仁人の顔を見る。仁人は照れるように曖昧な笑みを浮かべる。笑みを浮かべているが、内心では冷や汗が溢れている。
「何?」
「や、あんまり宮前くんと話す機会ってなかったなぁって」
「そうかなぁ」
実際に二人が言葉を交わしたのはこれが初めてである。片方は今朝まで知らなかったのだから当然である。
「このクラスになって半年以上になるのに不思議」
「そうだね」
緊張してほとんど生返事状態の仁人。またあの不可解な胸の痛みが襲ってくる。今回はちょっとした息苦しさも覚える。
教室の入口の方から椎菜を呼ぶ声が聞こえてくる。
「あっ、ごめん。これから図書館会の仕事があるんだった。よかったら、今度、図書館に来てね」
椎菜は見る者全てを魅了するほどの笑顔を浮かべながら手を振って、教室のドア近くで待つ女子のところへと走っていく。そのまま連れだってどこかへと歩いていった。仁人はその様子をぼんやりと眺める。
「あいつは何がしたかったんだ?」
「さあな」
同じように椎菜の後ろ姿を眺めていた黒松が漏らし、貴士はニヤニヤと気味悪い笑みを浮かべる。
結局、土曜日の予定は確定せず、とりあえず映画ってことで昼休みが終わり、午後の授業が開始される。やはり仁人は教師の話を左から右へと聞き流し、視線を教室の最前列と窓の外を行き来させる。
退屈な授業も本日の分をようやくすべて終え、担任が連絡事項だけを伝えるホームルームを早々に切り上げて、放課後になる。
「本日も一日、お勤めご苦労様でした」
貴士がわけの分からない挨拶とともに薄っぺらいスクールバッグを持って、仁人の席までやってくる。仁人は机に突っ込んでおいた教科書などを鞄に詰め込んでいる途中である。
「部活に行くか」
膨らんだスポーツバッグを左肩にかけて立ち上がった仁人を貴士は右肩を掴んで引き止める。
「どうした?」
「いや、伝え忘れていたんだが、今日はバスケ部は休みだ」
「はい?」
「顧問の先生が急用で不在となるから休みだとさっき聞いた」
そんな話聞いていないと思っていたところに放送が入り、男子バスケ部の練習がなくなったことが知らされる。
「な?」
仁人は貴士のドヤ顔に呆れながら、放課後をどうやって過ごそうか考える。
「ちなみに、俺はこれから用があるので失礼させてもらう」
仁人が遊びに誘おうとする前に、貴士はじゃ!っと片手を上げて教室からいなくなる――と思ったら、すぐに戻ってきた。
「忘れていた。これ、図書館に返しといてくれ」
貴士はハードカバーの本を二、三冊鞄から取り出すと、仁人に押し付けてくる。
「なんだ、これ」
「頼んだ」
仁人の言葉を無視して、またすぐに教室からいなくなる貴士。残された仁人は反射で受け取ってしまった本のタイトルを見る。
「『これであなたも止められる禁煙セラピー』?何を読んでいるんだ、あいつは」
その他もよく分からないタイトルばかりだったので仁人は深く考えることを止めて、図書館へと向かうべく教室を後にした。
教室のある校舎から渡り廊下を渡るとすぐに図書館がある。渡り廊下からは図書館の隣に立つ生徒会専用の建物、通称『御殿』が見える。そこには生徒会室があり、過去の資料や資材が多く保存されている。
図書館の入口で仁人は見上げる。他を圧倒するように聳え立つ図書館は空に突き刺さらんと天を突く。校内どこからでも見える時計もさすがにそこからは文字板を読むことはできなかった。
「そういや、図書館なんて初めて来るかもしれない」
別に読書が嫌いってわけではないが、進んで読もうともしない仁人はこの二年間、図書館を利用することはなかった。入学当初に案内された時に立ち寄ったくらいである。少し緊張しながら図書館の扉を押し開ける。
入口を入るとすぐ右に受付カウンターがあり、中央にはいくつかの長机が配置されている。そこでは何人かの生徒が本を読んだり、勉強したりしている。放射状に本棚が並び(壁沿いにもびっしりと)様々な分野ごとに仕分けされている。一階から二階の中央部分は吹き抜けになっており、二階は壁沿いにだけ本棚が設置されている。
「どう?すごいでしょ」
図書館内部の壮観に唖然として立ち尽くしていた仁人に椎菜が笑顔で話し掛けてくる。
「ああ」
仁人は誰と話しているか分からずに返事する。中学までの図書室との差に愕然とし、これほどの本を誰が必要とするのだろうかと思ってしまう。
「君が図書館に来るなんて珍しいというか、初めてじゃない?」
「初めて……って、綾瀬さん!?」
そこで初めて話している相手に気付いた仁人は焦って大声を出してしまう。図書館中から厳しい視線を集めてしまう。
「ここは図書館なんだから静かに、ね?」
「ごめん」
椎菜に窘められて、仁人は少し恥ずかしいながらも素直に謝る。
「よろしい」
椎菜は出来のよい生徒を褒める先生のごとく、嬉しそうに笑顔を浮かべる。見ているこっちまで嬉しくなりそうなほどである。
「で、何しに来たの?」
「そうだった」
そこでようやく、仁人は自分がどうして図書館に来たかを思い出して、貴士から受け取った本を取り出す。
「返却を頼まれたんだけど」
「こっちよ」
椎菜は手招きして受付カウンターへと歩いて行く。仁人はその後ろを静かに付いて行き、返却カウンターの前に立つ。
「お願いします」
「はい」
椎菜は仁人から本を受け取ると、手慣れた手つきで返却作業を進めて行く。仁人はその様子を、椎菜を見守る。
椎菜のしなやかな指先が分厚いハードカバーを掴み、裏に付いているバーコードを読み込んでパソコンに情報を取り込む。それをモニターで確認してから、キーボードのエンターキーを叩く。
「これでおしまい」
ものの三分もかからない間に返却手続きは終了する。椎菜の仕事ぶりに魅了されてか、椎菜自身に魅了されてか、仁人は完全に見惚れてしまっていた。
「終わったよ?よかったら、今度は君自身が借りてくれたら嬉しいな」
椎菜は仁人の様子を不思議に思いながらも、仁人に親しみを込めて微笑みかける。仁人は心拍を一回ほど忘れてしまう。
「じゃあ、僕はこれで」
「また明日」
小さく手を振ってくる椎菜に仁人は右手を挙げて応えて、擦れ下がった左肩のスポーツバッグを直しながら図書館から出て行く。
図書館を後にした仁人は一回体育館に向かったが、本来バスケ部が使うはずだった場所はすでに女子新体操部に占領されていたので大人しく帰ることにした。
学校から自宅までは自転車で十五分くらいの距離である。それもあって仁人は星鈴高校を選んだ。
「ただいま」
「おかえり、今日は部活じゃなかったの?」
リビングに入って行くと、母親がワイドショーの片手間に洗濯物を畳んでいた。仁人はバッグを床に置くと、キッチンへと入って行き冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出す。
「顧問が急用で休みになった」
コップの半分くらいまで注ぐと一気に飲み干す。母親は「手も洗わないで」と思いながらも何も言わない。コップを流し台に放置し、仁人はそのままバッグを回収して二階にある自室に上がってしまう。
自室のドアを閉めると同時にバッグを放り投げ、制服のままベッドへ仰向けに倒れ込む。
「綾瀬……椎菜か……」
今日知ったクラスメイトの名前をぼんやりと呟く。特に何の意味もないと仁人は考える。なのに、浮かんでくるはあの可愛らしい笑顔。
「でも、僕は……僕には……」
頭を振り、雑念を追い出して真っ白にしようとする。しかし、視界だけがぶれるだけで、なかなか消え去ってくれない。
「晩飯まで走ってくるか」
ベッドから立ち上がった仁人は手早く制服を脱ぎ捨てると、愛用のジャージに着替えて部屋を飛び出していく。
翌朝、仁人は眠たそうな顔で自転車を片手に桜並木を登っている。今日は制服の上にコートを羽織り、手袋まできっちりはめている。相変わらず、スポーツバッグは左肩からぶら下がっている。
昨晩、ランニングから帰ってくると、妹に捕まった仁人は夜遅くまでゲームに付き合わされた。困った事に、仁人の妹にはゲームを飽きるか寝てしまうかするまで止めないという絶対にネットゲームをやらせてはいけない癖がある。自分が眠くなって寝ると止めるのに、仁人が眠くなって寝ると叩き起こしてくるのだからたちが悪い。
「ふわ~」
「お前があくびってことは妹ちゃんにでも捕まったか」
「ああ、一時間目の現国は睡眠学習決定だ」
坂の途中で合流した黒松が苦笑いを浮かべる。強い風が吹いたので、二人して寒そうに身を縮みこめる。
「さっさと行こうぜ」
「だな」
二人は少し早足になりながら、温かいであろう教室を目指して長い坂道を登っていく。仁人は黒松を校門のところで待たせて、自分は駐輪場に自転車を置いてくる。その後、並んで校舎へと入って行き、黒松の教室の前で別れる。仁人は一人、自分の教室へと向かい、その扉を開ける。
「おう、遅かっ――」
開けた瞬間、閉めた。仁人は見てはいけないものを見てしまったような気がした。あまりの寝不足で幻想が見えたのかと思うくらいだ。真相を確かめるため、今度はそっと扉を開いて、隙間から教室の様子を伺う。
「俺がこんな時間にいたら怪奇現象か?」
隙間から貴士が同じように覗いていた。仁人と目が合う。じっとお互いを見つめあうこと数瞬、仁人が先に視線を逸らして、疲れ眼などの時にするように眼球を瞼の上から揉み解す。
「こんな夢を見てしまうほど寝不足なのか」
「どこまでも認めないつもりか」
「待てよ。まさか」
仁人はさっと腕時計で時間を確認する。ホームルームの予鈴まではまだ余裕がある時間だ。
「もうなんでも構わんから、さっさと入って来い」
「ああ」
貴士が開けた扉をくぐり、教室へと入って自分の席に着く。スポーツバッグを左肩から下ろして、必要な教科書類を机の中に仕舞っていく。
「よう、おはよう」
そこでようやくずっと隣で立っていた貴士に今、気付いたかのように挨拶する。
「そこまでして俺がお前より早く教室にいたことを認めたくないか?」
「認めたくないとかじゃない。ありえない事実だ」
「せっかく俺が頑張ったってのに」
「お前が頑張ったときは必ず良からぬことを考えている時だ」
「ま、否定はしない」
貴士は悪びれるわけでもなく、逆にドヤ顔をしそうな勢いである。
「で、どうした?」
眠気がまた襲ってきた仁人はさっさと貴士との会話を終わらせてしまって、安住の地へと赴きたかった。欠伸をかみ殺しつつ、投げやり気味に先を促す。
「ああ、土曜日のことだが」
「映画じゃなかったのか?」
「映画ってことで、綾瀬たちと一緒になった」
「なんだ、そんなことか……ん?」
貴士がどこまでも何気なく言うものだから、たいしたことじゃないと聞き流しかける。どこか違和感というか疑問を感じるが、眠気を伴った頭ではそれがどこなのか上手く判断できない。
「じゃあ、そういうことで」
「おう」
貴士は話は終わったとさっさと背を向けて歩いてく。仁人は何か引っかかりを覚えるがそれが何なのか気付けないもどかしさを感じながらも、貴士を送り出して、机にうつ伏して眠ろうとする。しかし、タイミングよくチャイムが鳴り、担任教師が教室に入ってきた。
睡眠学習で過ごした午前の授業が終了して、いつもの昼時間。黒松と貴士は弁当を持って仁人の机に集まっていた。二人が来るのに合わせて、仁人もバッグからコンビニで買ったパンを取り出す。
「今日もここで食うか?」
「それでいいだろ」
昨日同様、貴士は周りの人の許可を取らずに机や椅子を集めてくる。仁人の周りの席に気難しい人はいないので、特に無許可だからと言って何か言ってくる奴はいない。
隣の机と仁人の机をくっつけて人数分のスペースを確保して、仁人の対面に黒松、黒松と仁人の間に貴士が座る。それぞれ持っていた昼飯を机の上に広げる。
「そういや、結局、土曜はどうするんだ?映画で確定か?」
「映画で確定だ。それ以外に行くとこもないしな」
「そうだな」
仁人はまだ少し眠気が残るぼんやりとした頭でメロンパンにかぶりつく。
「映画館に行くのも久しぶりだな」
「ここのところ、お互い、部活の練習とか試合で忙しかったからなぁ」
貴士と黒松が他愛無い会話を続ける。仁人は眠そうに半眼で相槌も打たずに二人の話を聞き流し、とりあえずパンを齧る。今すぐにでも夢の中に帰りたい。
仁人は半分ほど残っているメロンパンを片手に持ったまま器用に眠りこけてしまう。あまりの姿に貴士と黒松は面白がってそのまま放置し、教師も呆れて起こす気をなくしてしまい、結局、放課後までその体勢のまま眠り続けた。
土曜日、仁人は休みの日課にしているランニングから帰ってくると、熱めのシャワーで汗を流してから出かける支度を始める。服装にそこまでこだわりを持たない仁人はジーパンにボーダー柄のインナーシャツ、上着としてダウンジャケットを着るだけである。
快晴とまではいかない天気ではあるが、雲の向こうにある太陽は眩しく、寒さは少し和らいでいる。それでも、時折吹く風は冷たく、もう冬だということを知らせてくる。
集合時間十分前には着くように家を出た仁人は予定通りに十分前に待ち合わせ場所、駅前の商店街入口の時計台に到着した。休日だから多くの人がそこを待ち合わせ場所にしている。
少し見回すと、すでに着いていた貴士と黒松がすぐに見つかる。なぜか黒松は少し不機嫌そうにそっぽ向いている。
「悪い。待たせたか」
自分が遅かったせいだと思った仁人はとりあえず黒松に謝る。
「いや、そんなに待ってない」
やはり、黒松はご機嫌斜めなのかいつもとは違い、どこか無愛想である。疑問符を浮かべながら、仁人は貴士のほうを見る。貴士はあいまいな笑みを浮かべる。
「どうやら情報の行き違いがあったようだ」
「何の話だ?」
心当たりがない仁人は次に黒松のほうを見る。黒松は不機嫌そうな顔をそのままに深くため息をつく。
「これで全員集合?」
全く状況を掴めていない仁人の後ろからどこか聞き覚えのある女の子の声が上がる。もちろん、貴士の裏声なわけがない。仁人は驚きながら振り返ると、そこには三人の少女が立っていた。その面々を見て、正確にはそのうちの一人に気づいて、仁人はフリーズしてしまう。
「あれ?仁人には言っていたはずだぞ」
心当たりがなさすぎる仁人は一応、記憶をたどってみるが、やはりそんなやりとりがあったことは思い出せない。黒松のキツイ視線に顔を横に振ることで応える。
「ちゃんと、お前が眠そうな朝に言ったじゃないか。『綾瀬たちと一緒になった』って」
改めて三人の少女、正確にはそのうちの一人、黒髪のショートヘアーをモコモコした白のベレー帽に収め、フードが付いた黒と白チェック柄のダッフルコート、三段ティアードフリルのペチパンツから生える足は黒のハイニーソックスに包まれて、茶色のアンクルブーツで足元を飾っている椎菜の姿を見る。
椎菜に見惚れそうになりつつ、仁人はあの妹に付き合わされ寝不足全開だった、貴士が珍しく先に教室にいた日のことをなんとなく思い出す。そういえば、そんなことも言っていたような気がする。
「おやおや、いきなり仲違い?せっかくこれから遊びに行こうって時に?」
茶髪とまではいかない明るめの髪をセミロングでカットし、それを左右でツインテールにしている、見たからに活発的な女の子が横から割って入ってくる。
「いや、ちょっとしたいつものことだ」
「そ。そっちが誘ってくれたんだから、しっかり楽しませてよね」
貴士がなんてことないと答えると、納得したように少女は笑顔を浮かべる。そして、今の受け答えだけで仁人と黒松は今までの経験から状況を察する。すべては貴士が仕組んだことであると。二人して「余計なことを」と貴士を睨みつけるが、張本人はどこ吹く風のようである。
「ということで、しっかり楽しませてくれ」
高笑いをする貴士を尻目に、仁人はもうため息をつくしかない。
「じゃあ、なんか話がまとまったようなんで、自己紹介始めちゃうよ?」
何がそんなに楽しいのか、ハイテンションにツインテールをふわりふわりと揺らして、人懐っこい笑顔を浮かべる。その勢いに仁人たちは若干押され気味である。今まで接したことないタイプに戸惑いを隠せない。
「私は亜樹、松木 亜樹だよ。椎菜とは中学の頃からずっと親友なの~」
「ちょ、ちょっと……亜樹~」
松木は隣に立っている椎菜に飛びつき抱きつくと、頬をすりすりし始める。椎菜は迷惑そうに抵抗しながらも、顔はずっと笑顔のままである。見慣れない光景に男性陣はさらに唖然としてしまう。
「はじめまして、能登 春香と申します」
隣で繰り広げられる攻防に我関せずとマイペースに、ゆったりとした口調で、能登がその長い黒髪が地面につかんほど頭を下げている。艶めくストレートの黒髪は腰に届こうするほどの長さで、髪留めなどで束縛されていないにもかかわらずまとまっている。大和撫子を地で行くような出で立ちで、和モダンをモチーフにした鞄を提げている。頭を上げると、能登は少しずれてしまった眼鏡の位置を直す。
能登の雰囲気に飲まれて、ついつい仁人たちまでもが深々とお辞儀してしまう。戸惑い、唖然とし、ついには畏まってしまう。なんとか落ち着いていつものペースを取り戻そうとする。
「えっと、私は……って、あれ?なんかお疲れ?」
いつの間にか松木から開放された椎菜は少し呼吸を乱しながらも自己紹介をしようとするが、どこか疲れきった表情をしている三人を見て、不思議そうに小首を傾げる。どこかおかしなところがあっただろうかと思い返してみるも、何一つ思い当たらなかった。
「椎菜、お前のことはみんな、知っているから大丈夫だ」
「そ、そう?」
いつもの調子を取り戻した黒松が椎菜に慣れた感じで話しかける。もう何年も連れ添っているような気概が感じ取れる。
「あれあれ?なんか椎菜と親しくない?」
疑問に思った松木が黒松に下から詰め寄る。黒松は少したじろぐ。
「べ、別にそん――」
「ああ、黒松と私は幼馴染なんだ」
誰も知らなかった驚愕の事実がことも何気に告げられる。恥ずかしそうに顔を背ける黒松に対して、椎菜は特段別に意識していないように平然としている。
仁人は椎菜と黒松の意外な関係に驚きを隠しきれない。そういえば、初めて椎菜が話しかけてきた時も親しげだったことを思い出す。
「つうわけで、黒松 渉だ」
未だに照れが消えて切れていない黒松がそっけなくつぶやく。微妙に頬が赤い。
「俺は紀三井寺 貴士。今回の主催者でクールで、ポップなナイスガイです」
場の空気が一瞬で凍てつく。どこをどう見てもお前はクールでもなければ、ポップなどとかけ離れているし、何をもってもナイスガイではない、と全員がツッコミたい衝動を抑える。これはきっと突っ込んだら負けだから。
仁人らが動けないでいる中、能登だけが「よろしくお願いします」と静かにお辞儀する。
凍り付いていた空気がなんとか常温になってきたとこで、貴士が無言で仁人に自己紹介するよう促す。こういうのがあまり得意じゃない仁人はため息を付きながらも静かに呟く。
「宮前 仁人。よろしく」
仁人が静かに言うと、能登だけでなく松木や椎菜までもが「よろしく」と挨拶してくる。その対応の差に貴士と黒松は人気の差を感じないわけにはいかない。実際はそんなこと関係ないとしても。
「じゃあ、そろそろ行きますか」
ひと段落したところで、貴士が促しぞろぞろと雑談を交わしながら駅の改札へと向かう。映画館はこのみつが丘にはなく、電車で二駅離れた高城市のほうにあるので、そこまでは電車移動になる。
電車に揺られる事、十数分で高城市に到着する。高城市は自然が多いみつが丘と違い、大型ショッピングモールや商店街が立ち並ぶ繁華街で、休日にもなると駅前の大通りは歩行者天国になり、オープンテラスのカフェなどが立ち並ぶ。各線乗り換えのターミナル駅でもあり、駅近くにある小山に高城という城跡や海も近いことから観光客なども多い。
目的の映画館は駅前の大通りを進んだ先にあるショッピングモールに併設されている。仁人たちは駅前の大通りに出る。
「ようやく着いたか」
「あいかわらず人が多いな」
先頭を歩いている貴士と黒松が久々の都会に感嘆を漏らす。
「どうもこの人ごみってのは好きになれない」
集団の最後尾を歩いていた仁人が行き交う人々を眺めながら独り言のように漏らす。その隣を歩いている椎菜も同じ感想を抱いていたので少しばかり驚きを覚える。
「実は、私も人ごみってあんまり好きじゃないんだ」
感覚を共有するような喜びで自然と顔が綻んでくるのを感じながら、椎菜も同じように独り言のように呟く。椎菜はまだそれほど話していないけど、仁人とは仲良くなれそうに気がしていた。
集団の前方、貴士と松木はいつの間にか意気投合しており、なにやら騒がしく軽口を飛ばしあっている。黒松に使えるように能登が二歩後ろを歩いている。その最後尾を椎菜と仁人が特に何も会話することなくゆっくりと歩いていく。
大通りのオープンテラスカフェではカップルやら高校生グループが楽しい休日の午後を過ごしている。子供が親の手を引いて大通りを歩いていく。休日だというのにスーツ姿のサラリーマンが忙しそうに携帯電話で話しながら駅の方へと早足で歩いていく。
「映画の時間までまだ少しあるからどっか寄って行くか?」
腕時計で時間を確認した貴士が振り返り尋ねる。
「賛成、賛成~。私、パフェが食べたい!椎菜は?」
「え?そうだなぁ……」
急に振られた椎菜は戸惑いながらも、口元に人差し指を当てながら考え始める。そのしぐさがあまりにも様になっていて、仁人は見惚れかけて途中で我に返り視線を外す。
「わたくしは餡蜜がいいです。黒松様は?」
「俺?」
「じゃあ、そこらのカフェにでも入るか。それでいいか?」
「いいんじゃないか」
一行はちょうど近くにあったオープンテラスのカフェに入っていく。せっかく晴れているので、大通りに面したテラス席を陣取る。
「いらっしゃいませ~」
席に座るとすぐに店員が間延びした出迎えの挨拶とともにお冷を人数分とメニューを三つ運んでくる。
大き目のテーブルに男性側と女性側に分かれて座る。仁人はお冷をそれぞれに渡すと、メニューを男性側に一つ、女性側に二つ配る。
「ありがとね、宮前くん」
メニューを受け取った椎菜が仁人に笑顔を向ける。仁人は照れ臭くなって「ああ」と短く返事をするだけですぐにメニューに向かう。
「ねぇねぇ、そういえば、チケットってもう取ってあるの?」
「ばっちり最高の席を用意してある」
貴士は自慢げに松木に向かって胸を張る。
「こういうことはこいつに任せておけば問題ない」
「おうよ。どんなチケットだって入手してみせるぜ?」
「え?じゃあ、じゃあ、みらん、生天目みらんのライブチケットとかも取れちゃうわけ?」
目を輝かせて、松木が貴士に詰め寄るようにテーブルに体を乗り出してくる。
「亜樹、お行儀悪いよ~」
椎菜は服を引っ張って、松木を元の位置に戻らせようとする。
実際、貴士に任せておけば映画のチケットから入手困難と言われるバンドのライブチケットまでありとあらゆる情報網を使って、手に入れられないチケットはない。いったいどんな手品を使っているか、仁人も黒松も知ろうとはしないし、知りたいとも思ったことはない。
「注文は決まった?」
場がひと段落したとこで、仁人がみんなに注文の品を尋ねる。
「私は……このチョコレートパフェにする」
「じゃあ、私、このイチゴタルトのセットで。飲み物はミルクティーにしようかな」
「わたくしは、クリーム餡蜜にいたします」
「俺、コーラ」
「俺はいつもので」
「はいよ」
全員の注文を一度確認してから、仁人が店員を呼ぶと、先ほどの少しおっとりとしたウエイトレスがやって来た。仁人が全員分をまとめてオーダーする。
「かしこまりました~少々、お待ちくださいませ」
やはりどこか間延びした口調で女性店員は注文を繰り返したあと、ゆったりとカウンターのほうに歩いていった。あんなゆっくりした動きで忙しい昼飯時を凌げるのかと勝手な不安を抱く。
「そういえば、ミヤミヤとは同じクラスなのにほとんど話したことなかったね」
「ミヤミヤ?」
仁人は怪訝な顔で松木を見るが、松木はいたって笑顔のままである。
「宮前だから、ミヤミヤ。紀三井寺君はきみぃで、黒松君はクロロ」
「く、クロロ……」
松木はそれぞれを指差しながら、自らが即興でつけたあだ名を呼ぶ。なんとも珍妙な名前をつけてくれたものだと三人とも思うが、拒否したところで糠に五寸釘であることが松木の態度からありありと分かるので甘んじて受け取ることにする。
「亜樹はすぐに変なあだ名をつけちゃうんだよ」
「いいじゃん、そのほうが覚えやすいし。かわいいじゃん」
女の子が言う『かわいい』は範囲が広すぎて、もはやつけとけば褒め言葉になるだろうのレベルである。実際、使っている本人も何がかわいいのか理解していないだろう。
しばらくすると、注文の品が運ばれてきて、それぞれの前に置かれる。それから映画の上映時間近くまで雑談(主に貴士と亜樹による)が繰り広げられた。
ほどよい時間となったので、映画館のあるショッピングモールまでやってくる。有名ブランドやファストファッションの店が入っている。他にもゲームセンターや雑貨、家具にスーパーマーケットまであるので、ここでそろわないものはまずないだろう。
集団の先頭は貴士と黒松で、その後ろを能登、松木がついて行っている。仁人と椎菜はあいかわらず最後尾で、今は椎菜のほうが仁人の後ろを歩いている。
映画館のあるフロアは三階なのでエスカレーターを利用する。先頭の二人が先に乗り、続いて能登たちが乗る。次に、仁人が乗るはずなのに仁人はすぐには乗らない。
「どうしたの?」
「別になんでもない」
そう言いながら、椎菜を先にエスカレーターに乗せると、その後ろに続けて乗る。椎菜は仁人の行動を不可解に思いながらも聞こうと思っているうちに、エスカレーターは目的の階に着いてしまう。
「じゃあ、ちょっとチケットもらってくるわ」
仁人たちを映画館入り口で待たせて、貴士は一人チケット売り場方に向かう。残された者たちはそれぞれ飲み物やポップコーン、パンフレットなどを物色する。
椎菜がドリンクを買おうと売店の行列に並んでいると、仁人もやってくる。
「宮前くんも飲み物?」
「うん。それと、ポップコーン。貴士のだけど」
「仲いいよね、二人とも」
「伊達に長いこと付き合っていない。まぁ、最初からこんな感じだったような気もするけど」
仁人は少し照れくさそうに鼻先をかく。
「ふふ、そういうの、なんかいいなぁ」
椎菜は小さく笑うと、うらやましそうに仁人と貴士を見る。以心伝心というのだろうか、何も言わなくてもお互いのことがそれとなく分かる関係って憧れる。
「松木さんとすごく仲よさそうだよ」
「うん、亜樹は私の最高の親友だよ。でも、やっぱり何か違うんだよね」
「分からない」
「そうだね。私も分からないや」
軽く笑いあっていると順番が来たので、椎菜はオレンジジュースを、仁人はコーラとメロンソーダ、ポップコーンの大を注文する。
「いいよ、俺が持つから」
二人の注文の品がひとつのトレイに乗って渡されたので、仁人はすかさず受け取る。手を出しかけていた椎菜は「そう?ありがと」と所在なさげの手を引っ込める。
「発券してきたぜ~」
それぞれ、手に飲み物やパンフレットを持って集まっていると、貴士がチケット売り場から戻ってきて、全員に座席が書かれたチケットを渡す。
「位置は真ん中よりやや前方の二列を三シートずつ。もちろん、スクリーンが真正面に来る位置取りだ」
渡された座席番号を確認する。貴士の粋な(一部には迷惑な)計らいによって、席位置は以下のようになっている。
前列に能登を真ん中にして、左右に黒松と松木。後列は椎菜の右隣に仁人、貴士の順番である。
目当ての映画が上映されるスクリーンに行くとすでに開場されており、上映時間三分前となかなか危ないところだった。急いで座席につくと、仁人は貴士にポップコーンとメロンソーダを渡す。
「さんきゅな」
「あとで金払えよ」
そうして、左隣にいる椎菜にオレンジジュースが入った紙コップを渡す。
「ありがと」
「ん」
笑顔で受け取る椎菜がかわいくて、仁人は短い返事ですぐにスクリーンのほうを向いてしまう。その横顔がどこかおかしくて、椎菜は小さく微笑む。
劇場が暗くなり、スクリーンの幕が開く。映画を盗撮しないでと、存在自体が常に盗撮してそうな奴が忠告してくると、今後公開予定の映画の予告編が流れ始める。
暗い中スクリーンのほのかな明かりに映し出される仁人の横顔を、椎菜は予告編が始まってもしばらく眺めていた。
映画本編が始まって一時間ほど経った。サイエンスフィクションであったはずが、だんだんとホラー的要素が増え始めてきていた。洋画でよくある急に飛び出てきたりするパニック系ホラーである。
椎菜は映画をあまり見るほうではない。特に、こういうパニック系ホラー映画は。
「ひっ!?」
左から小さな悲鳴が聞こえたように思った仁人は横目でそちらを見てみると、椎菜が大きな目を硬くつぶって、顔をそむけている。スクリーンではちょうど新手のエイリアンらしきモノが襲い掛かってきたところである。
こういうのにまったく慣れていない椎菜は常人にしてみれば、怖くもないちょっと驚くようなシーンでも恐怖を感じてしまう。恐怖を耐えるために手を硬く握る。その手が小刻みに震えていることにも気づけないほど、椎菜はもう限界だった。でも、見ないとあとで皆と話せないと思い、がんばってスクリーンに目を向けようとするが、見たときに限ってモンスターが飛び出してくるので、なかなかスクリーンのほうを向けない。
「ひゃっ!?」
スクリーンを見ていないのに悲鳴が出てしまった。握っていた右手の甲に何かが触れたからである。
「大丈夫」
他の人には聞こえないように配慮した、けれどしっかりとした静かな声が右側から聞こえてくる。振り向くと、仁人がにっこりと微笑んでいた。
椎菜の震えていた小さな右手は今、仁人の左手に包まれている。大きくて、ごつごつしている決して綺麗とは言えない手。けど、確かな温かみを持った手に包まれている。
そのことに気づいた椎菜は不思議と怖いという感情が消えていた。確かに、スクリーンに突如現れる怪物にはびっくりするけど、怖いとは思わなくなっていた。
そっと仁人の横顔をのぞき見ると、少しこわばった表情を浮かべながらも真剣な眼差しでスクリーンに集中している。スクリーンの光の加減かもしれないが、仁人の頬が少し赤くなっているように見えなくもない。スクリーンに集中しているはずの眼が時折、こちらを気にしている風であるような気がしなくもない。その様子が少しかわいくて、優しくて、かっこよくて、頼りになって、椎菜は小さく笑ってしまう。
ああ、そういうことか……
椎菜は心の奥で何かを納得する。そうして、そっと指を絡める。視線はスクリーンのほうを向けたまま。
ハッピーエンドというありがちな結末を迎えた映画はスタッフロールがスクリーンに流れている。黒をバックにした白文字が次々と下から上へと昇っていく。
もう椎菜の右手は自由になっている。名残惜しい温もりと汗を少しだけ残して。その残っている感覚を思い出すようにそっと撫でてみる。やはり、自分で触れるのとは違うことを改めて実感する。
スタッフロールも終わり、最後に配給会社のロゴが映し出されて映画は終わる。スクリーンの幕が閉じて、次第に明るくなっていく。明るくなるにつれて、雑音も増えていく。
「さあ、終わった、終わった」
「う~ん、ちょっと退屈だったなぁ」
貴士が立ち上がったのを皮切りに、仁人たちも退場していく客の流れに乗って同じように退場していく。
他の客に流されるように映画館の出入り口にまでやってくる。
「さて、これからどうするかね」
「せっかくだから、今の映画の品評会しようよ」
「それを言うなら、評論会ですね」
能登が松木に冷静なツッコミをいれる。
「いいじゃん、別にどっちでも。私的にはもうちょっとアクションがあってもいいかなぁって思うなぁ。てか、途中のモンスターがアホすぎるでしょ」
松木が笑いながら自分の感想を我先にと話し出す。
椎菜はやばい流れになったなぁと内心で冷や汗を流す。結末こそ見たけど、映画の中盤、モンスターたちが現れだした頃からあまりスクリーンに集中できていない。というか、見ていない。どうやって切り抜けたものかと焦っていると、
「悪い。途中寝ていたからあんまり見てないんだ」
仁人がすまなさそうな顔をしながら謝ってくる。
「ミヤミヤ、もったいないなぁ~」
「また妹にでも捕まったか?」
照れ笑いを浮かべる仁人を皆が和やかな笑いでからかう。椎菜ひとりは驚きを隠せないでいた。椎菜は仁人が片時もスクリーンから視線を外さず、集中していたことを知っている。決して眠っていた様子はない。それは隣にいた貴士も分かっているはずなのに、貴士も一緒になって仁人をからかっているので、椎菜は自分が間違っているのかと思えてくる。
「じゃあ、ミヤミヤは次までにもう一回見ておくこと」
「レンタルが出るまで待ってくれ」
椎菜が混乱していると、仁人は皆に分からないように椎菜にだけ小さく微笑みかける。実際には、椎菜のほうを偶然見ただけかもしれないが、椎菜にはそう映った。
「じゃあ、どうするね?」
「適当にそのへん、廻れば何かあるだろ」
黒松がぶっきらぼうに言うと適当に歩き出したので、皆もそれについてぞろぞろ移動を開始する。一難去ったことに一息つく椎菜は能登の隣を歩きながらも後ろを歩く仁人が気にかかっていた。
なぜかは分からない。でも、なんだか気にかかってしまう。いいように勘違いして、自意識過剰になっているだけかもしれない。純粋な優しさなのかもしれないのに。私は……
「まだ確定事項ってわけじゃないよね……」
椎菜の独り言は隣の能登にも届くことなく、雑多な音の渦に飲み込まれていく。
休日ということもあり、家族連れからカップル、中高生グループに老夫婦まで、実にさまざまな人々が行き交い、それぞれの時間を楽しんでいる。
仁人たちは適当にショップを巡り、インテリアの店ではそれぞれに似合うアイテムを選んだり、アパレルショップでは女性陣によるプチファッションショーが執り行われたり、男だけではすることもないようなことをしていく。
「やっぱり、女の子がいると華やかで楽しいね~」
「そう?そう?私たちもきみぃたちが楽しませてくれるから面白いよ」
やたら楽しそうに明るい笑い声を上げる松木はバシバシと貴士の背中を叩く。いつの間にやら完全に意気投合してしまっている。なにやら危険な二人が近付いたように仁人はどことなく感じる。
「先ほどはぬいぐるみを取っていただき、ありがとうございます」
「ああ、あれくらい構わないよ」
クレーンゲームの小さなぬいぐるみを抱えた能登が深々と頭を下げるので、黒松は素っ気無くそっぽを向く。照れ隠しであるのがありありと分かる。
「あれ?能登さん、鞄は?」
「はい?あら、いつの間にか鞄がなくなってます」
朝の時点で持っていたはずの和モダンな鞄が能登の手元からなくなっている。仁人から指摘を受けて、ようやくその事実に気付いた能登は辺りを見回して、ゆっくりとした口調で驚く。
全員で辺りを捜索してみるが、どこかに置き忘れてきたようで見当たらない。
「ないね。どうしようか」
「ハルル、どこからないか覚えている?」
「すみません、残念ながら覚えていません」
能登はすまなさそうな表情を浮かべて首を横に振る。
「貴士」
「ダメだ。映画館に問い合わせてみたが、そういった忘れ物はないようだ」
仁人の呼びかけに肩すくめて答える。全体に沈んだ空気が流れる。
「安心しろ、俺たちが見つけてやるから」
完全に落ち込んでしまっている能登の頭に手を置いて、黒松がまだ照れが残っていながらも励まそうとする。
その様子を見た仁人と貴士はお互いに頷きあい、なにやら企む。
「じゃあ、みんなで手分けして探すか。お互いの連絡先はもう交換しているよな?」
「さっきの喫茶店で済ましてるよ~」
松木が先生の質問に答える生徒のように手を挙げながら答える。
「うし。では、これより宝探しゲームの開始だ。ターゲットは能登の鞄。見つけた人には豪華特典を進呈。発見したら携帯で連絡すること」
貴士が実に楽しそうにゲームのルールを説明する。突然のことに呆気に取られる椎菜と能登だが、松木はすでにやる気マンマンである。
「レッツ、パーティータイム!」
「お~~!!椎菜、行こう」
「えっ?ええっ?」
松木は状況が今ひとつ飲み込めていない椎菜の手を引いて、一気にどこかへと走り出す。呆れながらも、黒松も同じようにどこかへと歩き出す。
「黒松」
「ん?」
仁人に呼び止められて、数歩進んでいた黒松は立ち止まり振り返る。仁人は未だに呆気に取られている能登の背中をそっと押し出す。能登はたたらを踏みながら黒松に近付く。
「っと、危ない」
能登がつまずいてこけそうになったので黒松は肩を抱いて助ける。
「能登さんは鞄がないんだから、携帯もないだろ?一人じゃ連絡が取れないから一緒に連れて行ってやれ」
そう言って、仁人は黒松たちに背を向けて別の方向に歩き始める。すでに肩から手を離した黒松は「やれやれ」とため息をついてから、隣に立つ能登の顔を見る。能登は不安と申し訳なさが入り混じったような瞳で黒松を見つめている。
「行くか」
「はい」
黒松と能登は隣り合って歩き出す。数十分後、二人はゲームセンターに忘れられていた鞄を発見する。
無事、能登の鞄も見つかってから集合しなおすと、いい時間になっていたのでそのまま帰るため駅へと向かう。陽が沈むのが早くなっているため、外はすでに薄暗くなっていた。
「暗くなると、いっそう寒くなるな」
「なんだかんだで、もう冬か」
澄んだ空気が冷たい風とともに運ばれてくる。気温の下がったこの時間だと、オープンテラス席も撤去されている。行きと同じ道を歩いているのに、どこか違う印象を受ける。すでに歩行者天国は解消されており、人気も減っている。
やはり先頭は貴士で、その隣を仁人が歩いている。最後尾で女の子三人が今日のことを話しあっている。
「今日はすごく楽しかったね」
「そうだね」
「はい。でも、黒松様には迷惑をかけてしまいました」
能登が申し訳なさそうだが、どことなく嬉しそうに表情を弛める。
「あはは、あれはあれで楽しかったからいいじゃん。鞄もちゃんと見つかったんだし」
松木が明るく笑い飛ばす。
「そうだよ。最初は何が起こったのか分からなかったけど、ああいうトラブルも遊びにしちゃうなんてすごいよね」
「ホント、どうかしてるよね」
今日最後のイベントを思い出して、笑い声を上げる。
能登も小さく口を押さえながら控えめに笑う。決して積極的ではなかったけど、必死になって探してくれた黒松の姿を思い出して、嬉しさと温かさを覚えて、さらに優しく微笑む。
駅まで半分ほど来たところで、椎菜の歩く速度が遅くなる。慣れないヒールなど履いて走り回ったから、疲れが溜まってきている。少しずつ集団から遅れていき、だんだん距離が開いてくる。
椎菜もがんばって追いつこうとするが、脚は言う事を聞いてくれそうにない。声をかけようにも何か恥ずかしいような気がして、なかなか言葉が出てこない。
「仕方ないよね」
小さく呟いて諦めかけたとき、仁人がふいに後ろを向き、椎菜が少し遅れていることに気が付く。駆け足で近付いてくる仁人に椎菜はどんな表情をすればいいのか困る。
「どうかした?」
「なんでもないよ」
とりあえずの愛想笑いを浮かべてみるが、上手くできている自信はない。仁人は椎菜の態度に少し違和感を覚える。
「そう」
本人が何も言わないなら無理に聞かない方がいいと、仁人はとりあえず椎菜の隣を歩く。少しでも近くにいたいと思う下心がないと言えば嘘になるが、純粋に椎菜のことが心配になったからだ。
しばらくお互いに黙ったまま歩き続ける。時折、風に乗って漂ってくる椎菜のシトラス系の香りが仁人の鼻腔をくすぐる。そのたびに今日、何度目か分からない不整脈が起こる。
そうしていると、椎菜が少しずつ歩くのが遅れていくのを感じ取り、仁人も歩幅を少しだけ縮めて椎菜の速度にあわせる。貴士たちと離れていくが、今はこうして椎菜と一緒に歩いていたいと思う。それくらいは許されるだろうと誰に対してか分からない言い訳しながら。
椎菜はちょっとした驚きと嬉しさを覚えていた。仁人が少し遅れていたことに気付いてくれただけでなく、何も言わずに心配するように隣を歩いてくれて歩くスピードまで合わせてくれている。ちょっとしたことかもしれないけど、どこか守られているような気がしてくる。
そういえば、と椎菜は思い出す。仁人が今日一日、ずっとこういう小さな気遣い、気付かれないような些細な優しさで溢れていたことを。エスカレーターや階段では必ず下にいたし、隣を歩いている時も速度を今のようにあわせてくれていた。能登の鞄だって、一番に気付いたのは仁人である。
やっぱり、そうなんだ。この人はこういう人なんだ。誰にでも優しい。私に対してだけじゃなく、誰に対しても優しくて、気配りができるんだろう。
風にさらされて冷たくなっているけど、未だに右手の甲に触れると、温かさが残っているみたいに感じられる。寒いはずなのに、体はどことなく温かいようにも思える。隣を歩いているのがだんだん気恥ずかしくなってくる。
「あれ?仁人~なに、ちんたら歩いているんだよ」
「ああ、悪い。先に行ってくれて構わない」
街灯に照らし出されたその横顔を見ると、顔が温かくなるどころか熱くなってくる。赤くなっているのがばれないように少し俯き加減になってしまう。
「スイッチ、入っちゃったかも……」
「ん?何か言った?」
「ううん、なんでもない。さ、行こう」
椎菜は仁人に最高の笑顔を向けると、その腕を取って走り出す。仁人も戸惑いながらも引かれるがままに走り出す。
陽が沈んでいるのに電気もつけていないため暗い部屋。怪しくパソコンのモニターだけがぼんやりと灯りを灯している。
「ほう、綾瀬椎菜か。図書館長をしており、生徒、教師の両方からも人気が高いと」
薄暗い部屋にいる男は画面を見て、ニヤリと気味の悪い笑みを浮かべる。長方形をしたメガネが怪しく光りを反射する。
モニターには椎菜のプロフィールが顔写真とともに映し出されている。そこには、学年やクラス、役職といった簡単なものだけでなく、成績や住所、周りの評判などのディープな個人情報まで記されている。
「この女、なかなか使えそうじゃないか」
男はふたたび不気味に笑う。
第二章
期末試験が目前にまで迫った木曜日。テスト前最後の練習試合が日曜に迫っているので、仁人的には試験などよりもその試合のほうが気にかかる。
本格的に冬となったにもかかわらず、放課後の体育館は熱気に包まれていた。
仁人の指導の元、部員が一丸となって練習に励んでいる。本来仕切るはずのキャプテンすら仁人を頼りにしているのだから、実質仁人がキャプテンみたいなものかもしれない。
「遅い!今のはもっと早く切り込んだほうがいい。パスが通らなくても、その分どこかにスペースが生まれる」
珍しい仁人の厳しい叫び声がコートに木霊する。センターの羽多野 裕人は膝に手をついて肩で息を切らしながら仁人の指摘に耳を傾ける。
「もう一丁、言っとく?」
ボールを持ったポイントガード、貴士が羽多野に尋ねる。
「うっし、もう一本!」
羽多野は気合の入った掛け声を上げて、セットプレイのポジションに戻る。
「じゃあ、ラストだ」
右斜め四十五度のシューターの位置についた仁人が指を一本掲げる。部員全員の声が体育館全体に響き渡る。実戦を想定したセットプレイの練習を再開する。
最後に仁人のスリーポイントシュートが綺麗にゴールネットを揺らして、本日の練習が終了する。これ以降は自主練習に切り替わる。
「お疲れさん」
「ふう、ああ、お疲れ」
体育館の壁にもたれかかって座っていた仁人のところに貴士がスポーツドリンクを二本持ってやってくる。一本を仁人に手渡して、貴士も同じように座る。
「どうだ、勝てそうか?」
「勝てそうじゃない……勝つんだ」
受け取ったペットボトルを無言で半分ほどまで一気に飲み干す。
「一月には新人大会が控えている。休んでいる暇はないよ」
「そうだな。こないだの映画が今年最後だったかもな」
仁人はつい数日前のことを思い出すと、少し恥ずかしくなってしまう。いくら暗がりで受け入れてくれたからとはいえ、あれは大胆すぎたのではないかと今でも考えてしまう。
左の手のひらを眺めて、その時の感触を、強張っていたけど柔らかく温かかった感触を思い出す。動いた後だとしてもやたらと早い心臓の動きを静めようとするが、なかなか上手くいかない。
「ああ、会長がなにやら企んでいるらしいぜ」
「シュート練習してくる」
仁人は貴士の話を聞かずに、傍らに置いてあったボールを持って立ち上がると、早々ゴールのほうへと歩いていく。
動いていれば、バスケをしていれば、集中して他の事を考えずにいられる。この想いもきっと忘れられる。今の僕には資格がないのだから。
期末試験開始一週間前、星鈴高校ではテストが終わるまで一切の部活動が禁止される。仁人にとっては苦痛にも思える期間が明日から始まる。おかげで、練習試合に勝ったにもかかわらず、仁人は朝から憂鬱な気分で坂を登っている。
「よう、元気ないな。そうか、明日から試験発表か」
後ろから追いついた黒松が仁人の肩を叩く。
「おはよ」
左肩から少しずり落ちたスポーツバッグを直しながら、黒松に挨拶する。
「おはようございます」
「え?」
突然、黒松の後ろから丁寧な挨拶されたので驚いて振り向くと、能登が深々と頭を下げていた。どういうことだと疑問に思いながら、黒松の顔を見ると、どこか困惑しているような表情を浮かべている。
「まぁ、ついさっき、そこで会ったんだ。三日連続」
「そりゃあ、まぁ」
仁人はなんと言えばいいのか分からず曖昧に答える。能登はきっちりと黒松の二歩後ろを歩いていく。
そのまま、なんとも奇妙な三人で校門まで一緒に行き、仁人は自転車を置きに行くため、いったん二人と別れる。
教室に入ると、すでに幾人かはテスト勉強を始めており、試験ムードが漂い始めている。仁人はため息を吐いてから席に着く。
「どうしたんだい、ミヤミヤ。そんな辛気臭いため息なんかついちゃってさ」
「おはよ、松木さん」
朝からハイテンションな松木が偶然通りかかり話しかけてくる。
「おはよう!元気がない君にこれをあげよう」
そう言って、松木は仁人の机に紙の束を置いて、ツインテールを揺らしながらどこかへと去っていく。仁人はそれを持ち上げて何かを確認してみる。
「生徒会提出書類?」
それは生徒会に提出しないといけない同好会の活動申請書類だった。しかも、提出期限が今日となっている。
「え?ちょっと、松木さ……ん……」
その事実に気付いた仁人はすぐに松木を呼び止めようとするが、すでに松木の姿は影一つなかった。
「まぁ、別に生徒会に提出するくらいやってあげるか」
仁人は以前に何回か生徒会に部活関係の書類を出したことがあったので、要領なら分かっている。別にたいした手間でもないので代わりに生徒会室、通称「御殿」に行くことにする。
「あれ?仁人くん、どこに行くの?」
御殿に向かう途中の廊下で椎菜とばったり出会う。あまりにも不意打ちだったので、仁人は戸惑ってしまうが、なんとかそれを隠そうと平静を保とうとする。
「お、おはよ。ちょっと御殿まで。松木さんに渡されてね」
手に持っていた紙束を掲げて椎菜に見せる。
「もう、亜樹ったら。ごめんね」
「別に構わないよ、これくらい」
ため息をつく椎菜に仁人は多少こわばっている笑顔を浮かべる。
「私も図書館に用事があるから途中まで一緒に行こっか」
椎菜は人懐っこい無垢な笑顔を輝かせると、そのまま仁人の隣を歩きはじめる。仁人の焦りはさらに加速される。
教室棟から出て、学校のシンボルである図書館の隣にある二階建ての建物、御殿の前までやってくる。
「じゃあ、私は図書館に用事があるから」
「図書館長の仕事か。がんばって」
「うん」
椎菜は見るものすべてを魅了するような笑顔で手を振ってから、駆け足で図書館に入っていく。今にも飛び跳ねそうな勢いであった。
「さっさと済ませないと」
腕時計を確認すると、朝のホームルームまでそれほど時間が残っていない。生徒会室に誰か役員が居ることを祈りながら、仁人は御殿の仰々しい扉を開ける。
御殿の中はさながら中世貴族の屋敷の一角みたいである。扉を開けると目の前に二階へと続く巨大な階段が飛び込んでくる。一階部分は資料などを保管しておく倉庫となっており、生徒会役員はたいてい二階部分に居ることが多い。
仁人はゆっくりと広い踊り場がある階段を昇って、二階奥にある本当の意味での生徒会室のドアをノックする。
「はい、どうぞ」
中から他を圧倒するような力強い声が聞こえてくる。仁人は多少びびりながらそのドアをあける。
「失礼します」
仁人は恭しく扉をくぐり中へと入っていく。
部屋の中央に大きいなテーブルが我が物顔で居座っており、その上座に社長机とも呼ぶべき重厚なデスクが備え付けられている。その端っこにパソコンモニターが置かれている。
「何の用だい?」
社長机の前に座ってモニターに向かって作業していた男、星鈴高校生徒会長、六十谷 光義が視線を訪問者に向ける。
知的な長方形型メガネと整った精悍な顔からは想像も付かない屈強な体つきをしている。座っている状態では分からないが、身長は百八十前半である。引き締まっているためそれ以上の印象を与える。太い枝のような左腕には生徒会を示す腕章が巻かれている。
「ああ、はい。これの提出を頼まれたので」
仁人は生徒会長席まで近づき、書類を手渡しする。光義も立ち上がってそれを受け取る。光義は簡単に書類を確認すると、また再び席に戻り再度不備がないかチェックする。その間、仁人はその場に立ち尽くして待つ。
「うん、問題ないようだね。確かに受け取ったよ」
チェックし終わった書類を机の上に放り投げ、光義はまた先ほどの作業に戻る。仁人は黙ってその場を離れる。
「失礼しました」
完全に棒読みの辞令の句を読み上げて、仁人は生徒会室を後にする。部屋からはキーボードを叩く音だけが聞こえた。
仁人が教室に戻ってきたときにはすでにホームルームが始まる直前だったにも関わらず、貴士が仁人の元にやってくる。片手にはまだ鞄を持っており、登校直後であることが伺える。
「どこ、行ってたんだ?」
「お前の天敵のところ」
「生徒会室?」
貴士は苦虫でも食いちぎったような顔をする。
どことなく破天荒で、無茶をしてよく問題を起こす貴士は生徒会から要注意人物認定を受けている。特に生徒会長の光義とは反りが合わないらしく、一方的に敵視している。
「なんだって、そんなとこへ?」
「用事があったんだから仕方ないだろ」
「あの会長様がなにやら――」
貴士が何か言おうとしている途中でチャイムが鳴り、担任が入ってきたので強制終了させられる。
仁人は担任の話を右から左に通り抜けさせながらぼんやりと窓の外を眺める。どんよりとした重い雲が空一帯を覆い隠している。どうにも雲行きが怪しく、夕方くらいから雨が降りそうな天気である。
テスト前ということもあり、引き締まった空気が流れつづけた授業もようやく五つ目の科目が終了する。放課後になっても開放されたような感じはなく、どこかまだ少し緊張が残っている。
仁人は試験前最後の部活に精を出すために温存していた体力を持て余さんと気合十分、やる気満々で体育館に向かおうとする。
「ああ、悪い。ちょっと、これを図書館に返しといてくれ」
「またか」
スポーツバッグを左肩に担げたところに、貴士が近づいてきて数冊の本を鞄から取り出し手渡してくる。仁人はため息をつきながらもそれを受け取る。
「俺はちょっと別の用事があるんで、頼んだ。部活の時間には間に合うようにする」
「早く来いよ」
走り去っていく貴士の後ろ姿を適当に眺めながら、手元の本のタイトルを見てみる。相も変わらずよく分からない本ばかりであった。
教室棟から渡り廊下に出ると、湿気を含んだ生暖かい風に吹かれる。空は今にも雨粒を落とさんと待ち構えている。その天に喧嘩を売らんとばかりそびえる図書館の大時計はもう部活開始まであまり時間がないことを示している。
「ちょっと急ぐか」
仁人は足早に図書館に向かい、中に入ると前回みたいに立ち尽くすことなく、返却カウンターへと近づく。
「これ、返却お願いします」
「はい、わかりました……って、仁人くんじゃない」
カウンターの中にいた椎菜は優しく仁人に微笑んでくる。
「また貴士に頼まれて」
「そうなんだ。仁人くんも大変ね」
椎菜は仁人から本を受け取ると、慣れた手つきで話しながら返却作業を進めていく。
「はい、終了。仁人くんはこれから部活?」
「ああ」
「そうなんだ、がんばってね」
「ありがと」
椎菜の女神も裸足で逃げ出しかねないスマイルに仁人はまた心拍を一回忘れてしまう。そのことを悟られまいと、頬が赤くなっている顔を背けてしまう。
「私はこれから御殿に行かないといけないんだ」
「御殿に?」
椎菜が少し嫌そうにつぶやくので仁人もなんとなく気になってしまった。
「そ、御殿に。なんか打ち合わせがあるんだって、よく分からないけど」
「綾瀬さんも大変だね」
「これも館長の務めだと思ったら、どうってことないよ」
椎菜はちょっと誇らしげに笑顔を浮かべる。仁人はそう思える椎菜を、図書館長という役職を羨ましく思う。自分も同じように思えるだろうか。
「てなわけで、ちょっと行ってくる」
椎菜はカウンターの内側から出てくると、その足でそのまま図書館の出口のほうへと歩いていく。仁人はその後ろ姿に何か言葉をかけようと思うが、結局何も言えないうちに椎菜は図書館から出て行ってしまった。
「あっ、俺も急がないと」
腕時計で時間を確認すると、部活が始まる時間がかなり迫っていた。仁人は左肩のスポーツバッグをかけなおすと、駆け足で体育館へと急ぐ。
空が黒く厚い雲に覆い隠されている。まだ日が昇っている時間だというのに、辺りは暗くどんよりとしている。椎菜は図書館から出た時から嫌だなぁっと感じていた。それは天気のことなのか、これからのことなのか。
椎菜は御殿の観音開き扉をゆっくりと開く。中から少し埃っぽい空気が流れ出てくる。中央の大階段を昇って、二階奥の部屋に向かう。何度か来ているが、どうにもあまり好きになれないでいた。
「失礼します」
ドアを数回ノックしてから、ゆっくりと開いて顔だけを先に入れる。役員たちが座る大テーブルには誰もいなく、部屋ががらんとしている。巨大な執務机に一人の長身の男がハイバックチェアに身を沈めているだけである。
「何の用だい?」
生徒会長、光義は手を休めて、パソコンモニターに向けていた視線を開いたドアのほうに移動させる。椎菜の姿を認めると、優しく微笑みかける。
「ああ、図書館長さんか。すまない、呼び出したりしてしまって」
「いえ、別に構わないです。これも仕事ですから」
椎菜は少し緊張した面持ちできっちりとした丁寧な言葉遣いを心がける。普段とは違う図書館長としての顔で生徒会長に対する。
「そう畏まらないで。立ち話もなんだ、さあ、ここに座ってくれ」
光義は立ち上がると、近くの椅子を引き椎菜に勧める。光義の整った顔が柔和な笑みを浮かべる。椎菜は勧められるがままにその椅子に座る。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
椎菜が座ってから、光義は座らずに窓近くの戸棚に近づく。パソコンのモニターに何が映っているのか、椎菜の位置からでは窺い知れない。
「用件は何でしょうか?」
「まぁ、まずはお茶でもどうだい?紅茶と緑茶、コーヒーもあるけど、何がいい?」
光義は高そうなアンティークのティーカップとソーサーを用意して、お茶の準備を始める。戸棚の中にはさまざまな種類の紅茶の葉やコーヒー豆、お茶菓子が貯蔵されている。
「ミルクティーをお願いします」
「ちょっと待っててくれ」
光義はルフナの葉を取り出して、まずはストレートティーを淹れる。香り高い湯気を立てながら、カップに注がれる滴ひとつひとつが輝いている。カップを半分ほど満たしたところで、少量のミルクを注ぐ。深い紅色した水面に少しずつ白色が渦を巻いて混ざっていく。スプーンで軽くかき混ぜると、すぐに薄いダークサーモン色へ変化していく。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
光義はそっと陶磁器のカップをテーブルに置く。椎菜は小さく頭を下げてお礼を言ってからカップの端に唇をつける。ルフナ独特の香りと味わいが、ミルクが加わったことによってより繊細でマイルドになっており、溶けるように口の中に入ってくる。上品な甘みと爽やかな香りが口の中に広がっていく。椎菜が今まで飲んできたミルクティーの中で一番おいしい。
「どうだい?」
「大変おいしいです」
光義は少し自慢げに感想を求めると、椎菜は感動したとばかりに瞳を輝かせる。そんな椎菜の横顔を眺めながら、光義は小さく微笑む。
「それはよかった」
光義は自分の分のカップを持って、席に戻り紅茶の香りを愉しむ。十分に香ってから、そっとカップに口をつける。
「ルフナはストレートで飲むと濃厚なコクでとても独特なんだ。それが、ミルクティーにすると相性が最高にいいから極上の一品になってくれる」
「そうなんですか」
椎菜は光義の解説を聞きながら、揺らめく水面に視線を落として思いを馳せる。また飲んでみたいな、とルフナという名を記憶に留めておく。
「気に入ってもらえたようで何よりだ。飲みたくなったら、いつでも来てくれて構わない。君なら大歓迎さ」
「ありがとうございます」
お礼を言ってから、また一口、口に含む。何度味わっても、やはり絶品であった。
「そういえば、他の役員の方々は?」
ミルクティーをカップの三分の二ほど飲んでから、椎菜は入った時から疑問に思っていたことを光義に尋ねる。
「この時期はいろいろと忙しいんでね。ちょっと出払っているんだよ」
「そうなんですか」
光義は苦笑を浮かべて、困ったという表情を見せる。
「実は、図書館と生徒会でちょっとしたイベントをしようかと思っている」
「イベント、ですか」
「イベントといってもたいしたものじゃない。試験が終わってしまうと、冬休みが始まるまで生徒たちはどうも授業に身が入らない。まぁ、仕方ないことだとは思うけどね。そこで、生徒会と図書館が協力してだね、何かやりたいと思うんだ」
光義は顔の前で指を組み、少し考えるような仕草を見せる。
「そこで、図書館長の君に何かいいアイディアがないかと思って、今日は来てもらったんだ」
「そうですね……」
椎菜は口元に人差し指を当てて、天を仰ぐように思案してみる。テストが終わってからでも勉強に励んでもらえるような企画となるとなかなかに難しい。しばらく二人して黙々と名案を探る。
しばらく悩むもなかなかいい案が思い浮かばない。カップに残っているミルクティーもすっかり冷めてしまっている。
「やはり、そう簡単には出てこないね。すまない、せっかく来てもらったのに」
「いえ、こちらこそ力になれず申し訳ないです」
椎菜はすごく残念がった表情で光義に頭を下げる。
「まだ少し時間はあるからゆっくり考えようじゃないか」
「そうですね」
「そこで、だ。大変恐縮ではあるが、明日からたまに生徒会室に来てもらえないだろうか?打ち合わせとかをしたい。試験勉強で忙しいだろうが、お願いできるかな?」
光義が精悍な顔を優しく緩めながらも、真摯な思いが伝わってくる真剣な表情で椎菜を見つめるので、椎菜は少し照れてしまい視線を逸らしかけるが、自分も真剣に応えなければと思いとどまる。
「分かりました。私でよければ協力させてもらいます」
「ありがとう。助かるよ」
協力を取り付けられたからか、はたまた別の思いがあってなのか、椎菜には見えないように光義はニヤリと小さく笑みをこぼす。
日が短い冬場だろうが、日が長い夏場であろうが、バスケ部の部員が帰る頃には空に星が輝いている。違うのは輝いている星くらいだろう。今は雲がその星々を隠している。
仁人は火照った身体を夜風で冷ます。といっても、冷ますには少々冷たすぎるが。
「日に日に寒くなっていく」
「そんなに寒いのが苦手だったか?」
「寒いのは嫌いじゃないが、冬が好きじゃない」
「変な奴だ」
「お前にだけは言われたくなかった」
仁人と貴士は並んで校門近くの駐輪場に歩いていく。仁人が自転車を取りに行っている間、貴士は校門で待っている。
「まだやってるのか」
自転車を取り出し、ふと図書館を見ると、まだ明かりが点いている。終了時間が遅いことで有名なバスケ部より遅いだなんて、いったい何時に終わるのだろうか。なんとなく椎菜のことが心配になった仁人はしばらく図書館を眺めていると、電気がすべて消えたので終わったようである。
「図書館も大変だな」
小さくつぶやいた仁人は急いで待ちくたびれているであろう貴士の元へ向かう。スポーツバッグが左肩から落ちかけたので、慌てて直して自転車に飛び乗る。
校門には誰も居なかった。
「あれ?」
貴士がいつも寄りかかっている場所はみごとに窒素と酸素と二酸化炭素と微量のガス、つまり空気しかない。右を見ても、左を見ても、貴士らしき人影も確認できない。トイレにでも行ったのかとしばらく待ってみるが、現れる気配がまるでしない。
「先に帰ったか?」
思った以上に待たせてしまい、先に帰ってしまったのかと思った仁人は携帯電話を取り出して、貴士からメールが来ていないかチェックしてみる。しかし、着信は一件もなかった。
「どうするかな」
「何が?」
帰ったものか、待っているべきか、途方に暮れている仁人に突然、誰かが話しかけてきたので、仁人は驚いて振り返る。
「綾瀬さん!?」
そこにはサイドポニーを解いている椎菜が疑問符を浮かべたような表情で立っていた。
「仁人くんも今、帰り?」
「ああ、そのはずだったんだけど……」
「はずだった?」
椎菜が人懐っこい笑顔を浮かべながら小首を傾げる。
「貴士と一緒に帰るんだったんだが、消えた」
「携帯に電話した?」
「出ない」
「メールは?」
「送ったが、返信がこな――来た」
仁人は握っていた携帯をすばやく開くと、着信したばかりのメールを確認する。期待通り貴士からだ。
『すまん、急用ができた。先に行く』
絵文字もない用件だけを伝える簡素なメールは貴士の特徴である。仁人も似たような感じである。
「うわ~、絵文字もない」
しかし、装飾することが大好きな今時の女子高生である椎菜にはそれは信じられないようなメールであったようで、脇から覗きこんで驚きを隠せないでいる。仁人はそんな椎菜に驚きそうになる。
「ま、なんにしても先に帰ったようだね」
「そうだな」
「じゃあ、帰りますか」
そう言った椎菜はゆっくりと坂を下り始める。仁人はしばらく状況が飲み込めないで、立ち尽くしてしまう。
「あれ?帰らないの?」
少し進んだところで、仁人がついて来ていないことに気づいた椎菜は振り向いて、仁人を見つめる。
「え、ああ、帰るけど……」
「けど?」
縛られていない椎菜の短い黒髪がそっと風になびく。未だ立ち止まったままの仁人のところまで戻ってくる。
「一緒に帰ろ?」
そっと椎菜の右手が仁人の左手を握り、誘うように引く。あまりにも自然だったので、仁人は声もあげることもできず、椎菜に導かれるまま、引かれるがまま椎菜の隣を歩き出す。
手を繋ぐってほどではない。掴むって感じで、握手みたいなものなのに、向こうはまったく何も意識していないだろうに、仁人の心臓はフルスロットルで血液を送り出す。冷めてきていた身体がまた火照り始める。しっとり左手に汗が浮かび上がってくる。もう仁人はまともに椎菜の顔を見ることが出来ないようになっていた。
椎菜の家は仁人の家からそんなに離れていない地区にあり、もう夜も遅いということもあって、仁人は椎菜を家まで送り届ける。
その道中、何を話したか仁人は緊張の余りまったく覚えていない。とりあえず、変なことだけは言っていないことを祈るばかりである。
部屋に着いた仁人は制服を脱がずに、右肩からスポーツバッグを落とすと、そのままベッドへ俯せに倒れ込む。ベッドのマットが心地よく、包むように押し返してくる。仁人は身を任せるように体を沈める。
「ふう」
寝返りを打って、仰向けになって天井を眺めながら息を大きく吐き出す。まだ少し心臓が通常営業になっていない。左手を持ちあげて、手のひらをぼんやりと眺める。
「ねぇねぇ、兄ぃ~」
仁人の部屋の扉が突然開け放たれて、妹が勢いよく乱入してくる。地元中学の制服を着たままの妹はベッドに寝転んでいる仁人を一瞥する。仁人は焦りながらも、いつものことなのでゆっくりと出入り口のほうに視線を飛ばす。
「兄ぃ、元気ない?」
「なぜ?」
「なんか体調、悪そうだよ」
妹は心配そうな声でぼそぼそとつぶやく。
仁人は特に心当たりがなかったが、それで厄介ごとに巻き込まれないで済むなら、そういうことにしておく。
「そうだな」
「じゃあ、仕方ない。ちょっとは手加減してやるか」
どうやら、妹の思考には仁人を巻き込まないという選択肢はないようである。
仁人はなぜにこうもはた迷惑な奴らばかりが自分の周りにいるのかと、人間関係の配置を考えた奴に交代を要求する。
「どうしてそうなる」
「ええ~、兄ぃのケチ~」
妹はぶーぶー口を尖らせながら仁人の部屋から立ち去る。災厄が少し大きめの足音で遠ざかっていくのをぼんやりと聞きながら、仁人は全身の力を抜いてベッドに身を沈める。
妹の足音が完全に聞こえなくなった頃、仁人は完全に呆けていた。いや、惚けていた。先ほどまでのことの、校門で起こった出来事の余韻に浸っている。時折、見えないはずの椎菜の笑顔が仁人には天井に浮かび上がっていた。
「椎菜……」
寝返りを打ちながら、ぼそりと名前をつぶやく。当然、視界も天井から壁側、机や本棚のほうに移る。
「…………」
仁人の視線が一点に固定される。本棚の一段、本は並んでいない雑貨や置物などが置かれている段に。そこに置かれた楯に。
それは中学の最後の県大会で、三位だったときのものだ。仁人にとって、いろいろと思い出深い初めての楯である。
視線とともに動きも止まる。先ほどまでの興奮が一気に冷めて、冷静にされる。
「ああ……」
横たえていた身体を起こして、ベッドの上に胡坐をかいて座る。心臓はいつの間にか淡々と仕事をこなしている。
「そうだった……僕には……」
先ほどのまでの浮かれっぷりはどこへやら、仁人は突然テンション低くぼんやりと天井を見上げながらつぶやく。当時のことを少し思い出しながら。
家まで送ってくれた仁人を玄関でずっと手を振って、その後ろ姿が見えなくなってから椎菜は家の中へと入っていった。
「ただいま~」
玄関からすぐに自室へと上がらず、まずリビングに顔を出す。リビングでは母がテーブルの上のノートパソコンとにらめっこしていた。
「ああ、おかえりなさい」
「ただいま」
椎菜が帰ってきたことに気づいた母はノートパソコンの画面から顔を上げると、にっこりと優しく微笑みかける。椎菜ももう一度、元気よく帰宅を伝える。
「なにかいいことでもあったの?」
母は少し意地悪な笑みに顔をゆがめる。なんでもお見通しだと言いたげである。
「う~ん、どうだろ」
「ふふ、まぁ、いいわ。さぁ、もうすぐ父さんが帰ってくる頃よ。着替えてらっしゃい」
「は~い」
椎菜は一旦、着替えるために自室へと上がっていく。母は夕食の準備を始めるためにパソコンをスリープ状態にしてキッチンへと向かう。
自室へと上がった椎菜は制服からもこもこのルームウェアに着替えてすぐにリビングに降りず、ベッドに身を投げる。心地よい反発を受けて、ふかふかの布団に包まれる。お日様の匂いが立ち上ってくる。椎菜はしばらく掛け布団に顔を埋める。
今日一日のことを思い出す。朝、仁人に会って少し話したこと。
「もう亜樹ったら、無理言っちゃって……」
放課後も図書館に来た仁人と話したこと。
「仁人くんって、頼まれごとは断れないのかなぁ」
生徒会室で飲んだミルクティーと生徒会長が言っていたこと。
「ルフナかぁ……今度、探してみよ」
椎菜の頬が自然と弛んでいく。ミルクティーの味を思い出して、瞳までとろんとしてくる。
そして、仁人と一緒に帰って家まで送ってもらったこと。
「あれはちょっと大胆だったかな……」
思い出して、今さらながら顔が赤くなってくる。それを隠すようにさらに羽毛布団に顔を押し付ける。
「今日もいろんなことがあったな」
少し荒れた息を整え、仰向けになってぼんやり思い浮かべるように呟く。一度大きく伸びをして、全身の筋肉を伸ばした椎菜は勢いよくベッドから立ち上がると、そのまま自室を出て行く。
壁一面がガラス張りとなっている広い室内からは月が雲に隠されている街並みを見渡す事ができる。高級感漂う執務机がぽつんと置かれている。その上にはパソコンモニターとキーボード、マウスのみが乗っている。革張りの社長椅子に座る長身の男がモニターを見て、思案顔をニヤリとゆがめる。
「綾瀬椎菜……俺が思っていた通り、いい女じゃないか」
壁沿いにびっちり並べられた本棚にはぎっちり書籍が詰まっている。難しそうなタイトルの本から空手の雑誌までさまざまなジャンルである。
男はマウスを操作して、新たなファイルを開く。そこには綾瀬椎菜の細かいプルフィールから人間関係までを網羅した個人情報の塊が記されている。キーボードを手繰り寄せて、そこへ新たに一行追加する。『恋人候補』と。
試験発表初日、昨日までとは違うどこか緊張感が学校全体に漂っている。普段、勉強しないような者でもこの期間ばかりは勤勉になろうと努力する。試験が終わるまでの約一週間は部活動が禁止されるので、勉強ムード一色となるのは当然であろう。
テスト発表中でも生徒会は例外のようで、生徒会室では役員たちが仕事に追われていた。その中に生徒会長の姿はなく、副会長が指揮を執っている。生徒会では今年の仕事をこの期間中に片付けてしまわないと、冬休み返上になってしまう。勉強すべき期間だというのに皮肉なものである。
そんなてんやわんやな生徒会室の隣、応接室として使われる部屋に光義と椎菜はいた。防音設備がきっちりしているため、静かで落ち着いた空気が流れている。
「で、何か思いついたかい?」
光義はニルギリのストレートティーを一口含む。なめらかな口当たりで、爽快な後味を残していく。
「すみません。これといっていい案が思い浮かびませんでした」
持ち上げていたカップを置いて、椎菜が申し訳なさそうな顔で頭を下げる。
「いや、こちらこそすまないと思っているよ。こんな時期にこんなことを言い出してしまって申し訳ない。だが、私としては、ぜひ成功させたいと思っている」
真摯な瞳でじっと椎菜のことを見つめる。椎菜は少し照れ臭くなって、そっと視線を逸らしてしまう。
「そこで、私としてはこういう案を思いついたんだが、どうだろうか」
光義はまるでこれが最善であるかのような口ぶりで、自身の計画を椎菜に聞かせる。話を聞くうちに椎菜もそれが最善だと思えてくる。
「――な感じでどうだろうか。少々準備が大変そうではあるが、やりがいはあると思う」
一通り話し終えた光義は乾いた喉を冷めた紅茶で潤す。椎菜も一息つく。
「すごくやりがいがあると思います」
一拍置いてから、椎菜は光義の案の感想を述べる。その大きな瞳には尊敬の念が浮かんでいる。それを見て、光義は小さく笑う。
「じゃあ、さっそく明日から準備に取り掛かろうじゃないか。テスト期間で勉強したいだろうが、その時間を少し私に分けてくれないか」
「ええ、分かりました。会長こそ受験なのでは?」
「私はすでに推薦で決まっているから気楽なものなのだよ」
光義の軽快な笑い声が部屋中に木霊する。つられるように椎菜も笑い出す。
すでに赤みがかった太陽が厚い雲の合間から顔を覗かせ、部屋に差し込む。もうすでに夜の帳が下りてそうな、黒い雨雲がさらなる闇に誘う夕暮れである。
部活がない時の仁人の帰宅は基本的に早い。図書館に行って勉強するような愁傷な心掛けもなければ、どっかに遊びに出る気概もない。そんなことより早くでも帰って、自主練を行おうとする。
「ただいま」
「およ?もう帰ってきたの?」
仁人が玄関で靴を脱いでいると、リビングから妹が棒付きキャンディーを舐めながら顔を覗かせる。
「ああ、試験発表だからな」
仁人は脱いだ靴を所定の位置に直してから、脇においてあるスポーツバッグを左肩にかけて、リビングには立ち寄らずに直接自室へと上がっていく。
自室の扉を後ろでに閉めて、スポーツバッグを机の脇に置くと、仁人はすぐにジャージに着替え始める。ふと棚の楯に目に止まり、ため息をついてから厳しい表情になる。
「僕は……」
着替え終えると、最後に首にタオルをかけて無言で階下へと降りていく。
「およ?もう出かけるの?」
仁人が靴をはいていると、リビングからちょうど妹がアイスキャンディーをしゃぶりながら出てくる。
「ああ、走ってくる」
「ええ~~、私とゲーム~~~」
「行ってきます」
玄関で身に覚えのない文句をたれている妹を無視して、仁人は早々と走り出していってしまう。本来なら軽いストレッチをしてから行くのだが、今日は妹がいるのでパスした。
今にも雨粒が落ちてきそうな雨雲が夕陽を隠しているため、辺りは夜と変わらない暗さで街灯が明々と地面を照らしている。湿気を含んだ風も雨を予感させる。
ランニングを終えた仁人は一度、家に戻ってボールを持ち出すと、近くのコートに来て一人で自主練習に励んでいた。一人だからできることは限られているが、基礎を鍛えるには十分である。ドリブルにレイアップシュート、ジャンプシュートとこなしていく。
完全に暗くなって、ゴールリングが見えにくくなってきて初めてもう夜だということに気付いた仁人はようやくそこで練習を切り上げる。首にかけていたタオルで軽く汗を拭って、帰り支度を始める。
「僕は……」
仁人は空を見上げて、そっと呟いてから自宅に向かって歩き出す。
まだまだ忙しなく事務処理を行っている生徒会室の隣、応接室で椎菜と光義の二人は細かい事項を話し合っていた。大まかなところは光義の案をそのままでいく。話し合い自体もほとんど光義の意見に椎菜が同意して進んでいる。
「ふう、だいたいこんなところかね」
紅茶を三杯ほど消費したところで、話し合いがひと段落して光義が切り上げる。椎菜は少し疲れたように大きく息を吐き出す。
「もうこんな時間ですね」
部屋の時計はすでに完全下校時間近くを指していた。話し合い開始から三時間くらい経過している。
「すまない、こんな遅くまで。よかったら、送っていくよ」
今までの決定事項をまとめたメモ用紙を揃えて、光義は優しい笑顔を浮かべる。椎菜は窓の外、空が星も月も見えないほど黒い雲に覆われているのを見て、少し考える。
「そうですね……」
「別に無理にとは言わないさ」
光義はさらに優しい笑顔で微笑む。その微笑に椎菜は少し戸惑いを覚えてしまう。
「えっと……」
椎菜は困惑してしまい、なかなか次の言葉が告げないでいる。それを光義は何も言わずにじっくりと微笑んだまま待つ。
「雨も降りそうだし、送っていくよ」
もう一度、光義は静かに告げる。その時点になって、椎菜も申し訳なく思えてきて、首を縦に振る。それを見て、光義はさらに笑みを深める。
空からは涙みたいな雨粒がシトシトと落ち始める。
昨晩から振り出した雨は今朝も続いている。決して強くはないが、傘を差さないでいいほども弱くない。普段、自転車通学の仁人は天候が悪い時は徒歩で通学することにしている。なので、少し寝不足気味の仁人はあくびをかみ殺しながら、坂道を登っていく。
「おはよっ」
「ん?おはよ」
左肩にかけたスポーツバッグが濡れないように若干気を配りながら振り向くと、そこには内側に青空がプリントされた傘を差した椎菜が笑顔で手を振っていた。椎菜は少し周りを気にしながら、仁人の近くまで寄ってくる。
「珍しいね、こんなところで会うなんて」
「そうだな」
笑顔で話しかけてくる椎菜に仁人はあまり顔を向けずに素っ気無く答える。そのまま二人はなんとない会話を椎菜が話して仁人がたまに相槌を打つ、そんな曖昧なやり取りで、校舎まで歩いていく。なんとなく二人の間には前までなかった気まずい雰囲気が流れていた。
「じゃあ、私、図書館の仕事があるから」
「ああ、あとで」
玄関で靴を穿き替えると、椎菜は別れて図書館のほうに歩いていく。それを仁人は小さく手を挙げて見送る。椎菜が少し寂びそうな表情を浮かべていることに仁人は気付かない。仁人は静かにスポーツバッグを左肩にかけなおして、教室へと歩いていく。
放課後になると、椎菜はすぐに光義との打ち合わせのために御殿へと赴き、仁人は早々に自主練のために帰路に着く。授業の合間もほとんど話すことなく過ぎていった。そんな日々は試験最終日の今日まで続いた。
「終わったぞーー!!」
貴士の騒がしい声が教室中に響くが、誰も気にする様子がないくらい今の教室内は騒がしかった。一人だけ、仁人だけがジト目で貴士を睨みつける。
「なんだ、嬉しくないのか」
「そういうわけじゃないが……まぁ、部活も再開できるし」
なんだか煮え切らない態度で仁人は曖昧な笑みを浮かべる。さすがの貴士も仁人の表情を読みきれずに、椎菜の席のほうを見てみる。しかし、すでにそこには人影がなくなっていた。
「さて、部活に行くぞ」
「あぁ」
貴士は生返事を返しながら、仁人の後ろについていく。ここ数日の二人の関係に一抹の疑問を持っていたが、貴士にも何がどうなっているのかまで分からない。椎菜が生徒会長と何か計画して、それの準備に追われていることは知っているが、仁人の態度がどうにも腑に落ちないでいた。
「まさか、また……」
前を歩く仁人の背中を見ながら、貴士は小さくつぶやく。そして、呆れる。なんて不器用な奴なんだと。しかし、貴士は仁人に直接、何も言わない。
テストが終わってすぐに御殿に向かった椎菜はメランコリーな気分で渡り廊下を歩いていた。別にテストの出来が悪かったわけではない。本人も何故そんな気分なのかイマイチ分かっていない。
「疲れてきてるのかなぁ」
まだぐずついた天気が続いている、すっきりしない空を見上げる。気持ちが盛り上がらないまま、椎菜はゆっくりと御殿の扉を開ける。
生徒会室の隣、応接室の扉を軽くノックする。光義からはノックなしで入ってきたらいいとは言われているが、椎菜は必ずノックするようにしている。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
室内ではすでに光義がノートパソコンで作業していた。光義はモニターから顔を少し上げて椎菜に微笑む。
「さあ、今日も始めようか」
「はい」
椎菜は光義の対面の席に座ると、鞄から書類を取り出して机に広げる。その間に光義は紅茶を淹れる。ここ数日繰り返されている光景である。
「今日はルフナのミルクティーだよ」
「ありがとうございます」
カップを受け取り、その水面を覗き込む。ミルクティーの薄いダークサーモン色が揺らめいて、椎菜の顔をうっすらと映し出す。
「なんか元気ないね。大丈夫かい」
「ええ」
椎菜はカップを小さく傾けて、ミルクティーを口に含む。やはり、ルフナのミルクティーは絶品であった。でも、なぜか前ほどおいしいと思わなかった。
「今日は最後の仕上げだ。がんばろう」
「はい」
椎菜は少し気合を入れた声で頷く。でも、やはりどこかあまりテンションが上がらない。それでも元気印、活発的な椎菜は元気よく仕事を始める。
お互いに黙々と作業をこなしていく。最後の詰め作業で、事務処理的なことが多いのでどうしてもこうなってしまう。時折、光義が紅茶を淹れなおす音がするくらいで、あとはキーボードを叩く音と筆跡の音しかしない。
そんな時間が三時間ほど流れた頃、二人の作業がほぼ同時に終わる。二人とも大きく息を吐き出して、体の力を少しずつ抜いていく。
「終わったようだね」
「ええ、そちらも」
椎菜が身体を大きく伸ばして、凝り固まった体の緊張をほぐしていると、光義が新しいミルクティーを淹れてくれる。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
光義は優しく椎菜に微笑みかける。それに椎菜も微笑み返す。
「さあ、これで一通り終わったな」
「そうですね」
小さく頷き、ミルクティーを口に含んでホッと一息つく。甘さが疲れた体に優しく染み渡っていく。椎菜は全体重を椅子に預ける勢いで背もたれに倒れこむ。椅子が少し軋んだ音を上げる。
「今まで協力してくれてありがとう」
「いえ、本番はこれからですよ」
「ああ、それには及ばない。この計画は準備段階が一番の山だからね。あとはこちらで上手くやるさ」
「そうですか。私にできることがあるなら協力しますので」
「ありがとう」
光義は何度目か分からない優しい笑みを椎菜にむける。椎菜は少し解放された気分で、ようやく少し憂鬱な気分が晴れてきていた。
「椎菜くんは彼氏とかいるのかい?」
「へ?」
あまりの突拍子のなさに椎菜は驚き、口に含んでいた紅茶を噴出しそうになるが、なんとか堪える。光義は軽快に笑い声を上げる。
「そんなに驚く事もない。ただの世間話だよ」
「そ、そうですか……」
「で、どうなんだい?」
「残念ながら、いません」
「そうかい。こんな可愛い娘を放っておくとはうちの男子どもは見る目がないようだ」
光義の視線に少し照れしまう。真正面から褒められるのはいつになっても慣れないものだ。
「俺の彼女にならないか?」
だから、次の光義の台詞に椎菜はすぐに反応できなかった。
「え、えっと……」
「俺の彼女にならないか?」
光義は優しい笑顔のままもう一度、告げる。
椎菜は戸惑いと驚愕と嬉しさと罪悪感で混乱していた。光義は整った顔つきでかっこいい。優しいところもあるし、淹れてくれる紅茶はおいしい。ほとんどの女性なら二つ返事で了承するだろう。だけど、椎菜はすぐに答えられずにいた。別に光義のことが嫌いなわけではない。嫌いなわけじゃないけど、どうしても彼の顔が、彼の悲しそうな顔が脳裏を横切ってしまう。
「生徒会長と図書館長のカップル。すごく絵になると思わないかい?君は俺の隣に立つのに相応しい存在だ」
それだけ言うと、光義は静かに待つ。急かすわけでもなく、ただゆったりと構えて、答えは分かっていると言いたげに腕を組んで微笑みかける。
椎菜はなぜ彼が横切るのかいまいち分からない。確かに、彼は優しくて、細かい気配りができるし、無愛想なところはあるけど、それは無言の優しさで温かく包んでくれるみたいで心地よい。あの大きくて、温かい手にもう一度包まれてみたい。ここのところ、光義との用事であんまり話せていなかった。
なんか寂しいな……
そう思った瞬間、椎菜は小さな胸の苦しみを覚える。締め付けられるような、チクリとするようなそんな痛みを。そうして、ようやく椎菜は一つの想いに辿り着く。光義への答えも。
「会長、いえ、六十谷先輩。その、申し訳ないですけど、その申し出を受けることはできません。ごめんなさい」
椎菜は光義の正面に立って、すっぱりと頭を下げる。先ほどまでの余裕ある態度から一変して、光義は驚き、戸惑い、取り乱す。
「な、なぜだ!?」
「私、彼氏はいませんけど、好きな人はいるようなんで」
狼狽する光義に椎菜は少し照れて恥ずかしそうに頬を赤らめながら、あふれる笑顔を浮かべる。光義が今まで見てきたどの笑顔よりも眩しく、かわいらしく、そして、自分に向いていない笑顔であった。
「では、私はこれで失礼します」
椎菜はもう一度、お辞儀するとそのまま荷物をまとめて部屋から出て行く。部屋には未だ動けないでいる光義と香り高い紅茶だけが残される。
御殿から出た椎菜は晴れ晴れとした気持ちで空を見上げる。入る時にあったメランコリーはどこかへと吹き飛んでいた。
数時間前までは実に気持ち悪い天気だったが、今は椎菜の心を移すかのように綺麗な茜雲がところどころに浮かんでいる。明日は久々にいい天気になりそうだ。
「スイッチ、入っちゃったな……」
椎菜は少し嬉しそうにつぶやくと、なんとなしに体育館のほうを向く。何もないのに、なぜだか笑みが零れ落ちる。スキップになるのを我慢しようとしながらも、半分飛び跳ねながら図書館へと入っていく。




