その2
アルシュは背中に寒気を感じて、持っていた酒の入ったグラスを取り落しそうになった。
「何だ、今のは……」
「どうなさいました? アルシュさま?」
控えていた少女の姿をした侍女が驚いて声を掛けた。
「震えておられます。お寒いのですか?」
「ああ、いや。大丈夫だ」
グラスをそっとテーブルに戻すと、アルシュは密かに溜息をついた。
何だか嫌な予感がする……。
ふと、窓の外に目をやると相変わらず、どんよりとした空と海が遥か彼方へと冷たく広がっている。何も異常はないように見えるが。
「来られるのが遅いですね」
不意に侍女が呟いた。アルシュは彼女に怪訝そうに視線を移す。
「何のことだ?」
「え? あ、失礼しました。てっきり、お待ちなのかと」
「だから、何を、だ?」
「……あ!」
「おい?」
窓の外を見たまま、動かなくなった侍女に苛立ちを隠さず、アルシュは言葉を重ねた。
「何が言いたい。はっきり言え……!」
「アルシュさま! 来られましたよ!」
弾む声で侍女が言い、海の向こうを指さす。それにつられて目を向けたアルシュの、その視界に映ったのは、海上に浮かぶ眩しいひとつの光。
「光の勇者さまですね! 小舟でこちらに向かっているようですわ!」
侍女は部屋を出るべく扉に向かいながら言葉を続けた。
「急いで島中に伝達いたします! あの光に当てられただけで死んでしまう者もおりますから」
ばたりと扉が閉じられ、部屋に一人きりになったアルシュは、椅子から立ち上がると窓際にそっと歩み寄った。
窓ガラスに手を当てて、眼下に広がる海を睨むように見る。
きらきらと光る宝石のような輝きが、確かに荒れる波間に見え隠れしていた。
生きていたか。
ほっと安堵の息をついたが、しかしその反面、心が妙に騒ぐ。
やはり、嫌な予感しかしない……。
扉が開いたかと思うと、眩しい輝きと共に飛び込んできたのは光の勇者だった。
「ただいま!」
言うや、立ち尽くしているアルシュに抱きついた。なじみになった花の香りが一緒に弾けた。
「会いたかったよ!」
「こらこらこら、離れろ!」
ほのかに顔を赤らめ、アルシュは自分の胸に抱きつく少年の身体を引き剥がすべく、その細い腰に両手を掛けた。
「何だってお前はいつもこうなんだ! だいたい、ただいまって何だ! ここはお前の家じゃないぞ」
「えー、冷たいこと言わないでよ。僕と君の仲じゃない」
「そんな仲はない!」
「もう、つれないなあ。僕は君のところにこうして戻って来たのにさ」
あどけない緑の瞳で上目遣いにみつめられると、アルシュは思わず引き剥がそうとする手の動きを止めた。
「そ、そんな目で見るな」
「嫌。見る」
「あ、あのなあ」
「ふうん。本当に仲がいいんだなあ」
不意に横合いから知らない声が聞こえて、アルシュはぎょっとして目を向けた。
そこにいたのは、茶系のチェック柄のスーツを着こんだ若い男だった。
赤銅色の髪に青い瞳が印象的な彼は、優しい笑みを浮かべながら、黒革の手帳に金色の万年筆で何か熱心に書き込んでいる。
「お前は誰だ!」
アルシュは眉間に皺を寄せて怒鳴った。
「また変な人間が来やがったな。おい、何を書いている!」
「ありのままを、さ」
「何?」
「あ、あのさ、彼は僕の連れなんだ」
「あ?」
唖然としてアルシュは視線を光の勇者に戻した。
「お前の連れとはどういうことだ? この男とどういう繋がりがある?」
「繋がりっていうほどのものじゃないよ。ただここに来る途中、船の中で知り合ったんだ。雑誌の記者なんだって」
「記者?」
「アリーだ。少し話を聞かせて貰えるとありがたい。よろしく」




