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第0話 十一年目の休暇申請

 神代標が敵の背後に現れたとき、すでに引き金は引かれていた。


 銃声はない。


 右手の人差し指、その先に形成された無属性魔力の弾丸が、外相種の後頭部へ吸い込まれる。拳大の頭部が内側から膨らみ、硬質な外殻ごと弾け飛んだ。


 外相種が倒れるより早く、標の姿が消える。


 次の瞬間には、三十メートル離れた柱の陰にいた。


 黒い棘が、ほんの一瞬前まで彼が立っていた空間を貫通する。空気が破裂し、衝撃波が壁面を削った。


「右、二体。上に一体」


 標が告げると、隊員たちは迷わず銃口を向けた。


 天穴内部では、目より先に仲間の声を信じなければ死ぬ。


 標は左手を開く。


 五つの小さな転移孔が、宙に浮かんだ。


 右手の指先へ集めた無属性魔力を、今度は一発の弾丸ではなく、数百個の微細な破片へ分割する。


「散弾、通すぞ」


 圧縮された魔力片が転移孔へ流れ込む。


 別方向に開いた出口から、白い光の雨が噴き出した。


 二体の外相種が正面から撃ち抜かれ、天井を這っていた一体が横腹から蜂の巣になる。外殻の隙間を正確に射抜かれた三体は、ほとんど同時に崩れ落ちた。


『前方通路、確保』


 通信網へ報告する。


 直後、耳元でひどく陽気な声がした。


『第三班よりアマテラス三番。相変わらず地味だな』


「見栄えで殺せるなら、そちらに任せる」


『広報受けを考えろ。戦争にはスポンサーが必要なんだぞ』


「なら、俺の休暇にもスポンサーをつけてくれ」


『また休暇の話か』


「三か月前から申請している」


『作戦が終わったらな』


「前回も聞いた」


 言いながら、標は通路の奥へ視線を向けた。


 多国籍第3天穴攻略部隊、通称アマテラス。


 人類圏に存在する十三の特別攻略部隊の一つであり、天穴外部で迎撃する防衛部隊とは違い、門の内側へ侵入して中枢を破壊することを任務としている。


 所属するのは、各国から選抜された能力者と魔法戦闘員。


 全員が最低でもA級。


 隊長と副隊長はS級。


 神代標は、その二人に次ぐ部隊内序列三位だった。


 だが、待遇が三番目に良いわけではない。


 むしろ転移能力者という理由で、通常任務から救援、撤退支援、物資輸送、座標探索まで何でも押しつけられる。


 別部隊であれば任務を終えている時間にも、標だけは追加で呼ばれる。


 便利だから。


 その一言で、十一年間使われ続けた。


「今回が終わったら、一か月休む」


『一週間にしておけ』


「聞こえなかったことにする」


『隊長権限だ』


「なら、隊長を天穴の外へ置いて帰る」


『できるものならやってみろ』


 アマテラス隊長、エリアス・ヴァイスは笑った。


 五十一歳。


 灰色の髪と無精ひげを持つ、ドイツ出身の大男だ。能力は空間固定。あらゆる物質、術式、果ては天穴の空間そのものを一時的に縫い止める。


 標の転移能力に対抗できる、数少ない人間でもあった。


『二人とも、私語は終わりです』


 今度は冷たい女の声が割り込んできた。


 副隊長の周紅霞。


 三十九歳。中国出身。


 彼女はS級火力魔法士であり、アマテラス最大の攻撃力を持つ。


『中枢推定地点まで残り二・七キロ。第四班との通信が途絶しました』


「第四班が?」


『生命反応もありません』


 通信網から、冗談の気配が消えた。


 第四班は九名。


 全員がA級以上だった。


 それが、救難信号一つ出せずに消えた。


「天穴内部の構造変化は」


『予測値の三倍です。奥へ進むほど位相が乱れています』


 紅霞が答える。


『標、何か感じるか』


 エリアスに尋ねられ、標は壁へ手を触れた。


 肉のように脈打つ黒い壁。


 しかし生物ではない。


 この空間そのものが、外相種の器官なのだ。


 目を閉じ、魔力を薄く広げる。


 距離を測るのではない。


 空間と空間の重なりを探る。


 標の意識に、無数の座標が光点として浮かんだ。


「おかしい」


『何がです』


「奥へ向かうほど、空間が広がっている」


 天穴の外部直径は、およそ二百メートル。


 通常、内部空間は最大でも都市一つ分ほどだ。


 だが今回の天穴は、進むほど座標間距離が伸びている。


 標の感覚では、すでに内部だけで一万キロを超えていた。


 それでも外側から見れば、空に浮かぶ二百メートルの穴にすぎない。


『成長しているということか』


「違う。どこかから空間を継ぎ足している」


『別の天穴と接続している可能性は』


「分からない」


 標は眉を寄せた。


 転移能力に覚醒して十一年。


 似た現象を見たことはある。


 しかし、これほど巨大な歪みは初めてだった。


 さらに奇妙なのは、その歪みの奥に、かすかな懐かしさを感じることだ。


 見たこともない場所なのに、帰るべき場所であるかのような。


「気味が悪いな」


 標は呟いた。


『あなたがそう言うと、本当に気味が悪いですね』


「紅霞。攻撃準備をしておけ」


『すでに』


 前方で、光が瞬いた。


 一拍遅れて、通路そのものが爆発する。


 灼熱が黒い壁を舐め、迫っていた外相種の群れをまとめて焼き払った。


 周紅霞の姿は見えない。


 だが数百メートル先から放たれた魔法が、標の真横を通過している。


 標が転移孔を形成し、射線を曲げたのだ。


 彼自身の魔力出力は、A級としては高くない。


 魔力量も少ない。


 元々、正面から大火力を叩きつける戦い方には向いていなかった。


 その代わり、他人の攻撃を最適な場所へ通す。


 敵の防御が薄い角度へ射出口を移す。


 避けられた攻撃を、再び敵の背後へ接続する。


 魔力を一から作るより、すでにある力を使った方が早く、安く、効率がいい。


『標、九時方向へ』


「見えている」


 黒い壁から、巨大な口が生えた。


 歯の一本一本が人間ほどの大きさを持ち、その奥に青白い光が集まっている。


 標は右手を上げた。


 口の正面に転移孔を開く。


 もう一つの出口は、外相種自身の後方。


 放たれた光線が穴へ入り、そのまま外相種の背中へ突き刺さった。


 肉が焼け、巨大な口が絶叫する。


「自分で撃ったんだ。責任は自分で取れ」


 外相種が標へ向き直る。


 標は動かなかった。


 口が開き、二射目が放たれる。


 その直前、標は敵の頭上へ転移した。


 右腕へ魔力を集める。


 刃にはしない。


 空間上に一本の境界線を定義する。


 線の右側と左側を、異なる座標として切り離す。


「次元断」


 指先を振り下ろした。


 音はなかった。


 外相種の巨体が、あまりにも滑らかに二つへ分かれた。


 切断面から体液が噴き出すより先に、標は元の場所へ戻る。


 次元断は強力だ。


 物理的な硬度も魔法防壁も意味を持たない。


 だが、使用するたびに妙な空虚さが残る。


 頭痛でも吐き気でもない。


 何かが、少しずつ自分から遠ざかっていくような感覚。


 標は口元へ手を当てた。


『どうしました』


「いや」


 紅霞への返事を切り、舌の上を確かめる。


 血の味がしない。


 唇が切れているのは分かる。


 指で触れれば、赤い血も付着する。


 だが、それを舐めても、味というものがひどく曖昧だった。


 いつからだろう。


 食事を楽しめなくなったのは。


 携行食も、高級料理も、必要な栄養を摂取する行為でしかない。


 最後に空腹を感じた時期を思い出そうとして、標は諦めた。


 昨日は何を食べただろう。


 そもそも食べただろうか。


『アマテラス全隊へ。中枢前区画へ到達します』


 エリアスの声が響く。


『ここから先は、帰還座標が安定しない。標が死亡すれば、我々の撤退手段は消える』


「縁起でもないことを言うな」


『事実だ。お前は後方に――』


「断る」


『命令だ』


「俺がいなければ、紅霞の火力を中枢へ通せない」


『標』


「それに、俺だけ帰ってどうする。報告書を書く人間が必要だろ」


『お前は報告書を書かないだろうが』


「だから、生き残った隊長が書け」


 エリアスが何かを言おうとした。


 しかし、その声は凄まじい振動に呑まれた。


 前方の空間が砕ける。


 壁や床が壊れたのではない。


 景色そのものが、鏡のような破片になって落下した。


 その奥に、広大な空間が現れる。


 夜空に似ていた。


 無数の星が浮かび、中央には巨大な黒い球体が存在している。


 球体の表面には、数え切れないほどの瞳があった。


 青い瞳。


 赤い瞳。


 人間の瞳。


 獣の瞳。


 どれも別々の方向を見ながら、同時にアマテラスを認識した。


『主核級外相種を確認』


 紅霞の声が震える。


『暫定識別名――天蝕』


 黒い球体が収縮した。


 空間全体が引き寄せられる。


 前衛にいた隊員三人の身体が浮いた。


「伏せろ!」


 標が転移門を開く。


 三人の足元を別座標へ接続し、無理やり床へ引き戻す。


 しかし一人だけ間に合わなかった。


 男の身体が黒い球体へ吸い寄せられ、触れる直前に潰れた。


 血も骨も装備も、一つの赤い点へ圧縮され、消える。


『第一班、後退!』


 エリアスが叫ぶ。


 直後、球体表面の瞳が開いた。


 何千という光線が放たれる。


「紅霞!」


『焼き払います!』


 紅霞の背後に、赤い魔法陣が幾重にも展開した。


 恒星の表面を切り取ったような炎が噴き上がる。


 標は両手を広げ、紅霞の前方へ巨大な転移孔を形成した。


 炎が吸い込まれる。


 数百の出口が、天蝕を囲むように出現する。


 全方位から炎が降り注ぎ、光線と衝突した。


 白い閃光。


 遅れて、世界が揺れた。


 隊員たちが床へ叩きつけられる。


 防壁が割れ、魔導装甲が剥がれ落ちる。


 標の左腕から血が噴いた。


 転移孔の維持が間に合わず、敵の光線が一部通過したのだ。


 痛みはあった。


 しかし、不思議と恐怖はなかった。


 死にかけたからではない。


 最近はいつもそうだった。


 命が惜しいと思えない。


 自分だけではなく、仲間が死んでも、以前ほど心が動かない。


 死者の名前は覚えている。


 葬儀にも出る。


 必要なら遺族へ説明もする。


 だが悲しいかと問われれば、自信がなかった。


 それを戦場に慣れたからだと思っていた。


 十一年も戦えば、感情を麻痺させなければ生きていけない。


 そう考えていた。


 けれど、本当にそれだけか。


「標!」


 名前を呼ばれ、顔を上げる。


 エリアスが巨大な空間固定陣を展開していた。


 天蝕の周囲へ、銀色の杭が次々と突き刺さる。


『奴の空間圧縮を止める! 三十秒だ!』


「短い」


『四十秒なら、私が先に死ぬ』


「それは困る。報告書を書く奴がいなくなる」


『最後までそれか!』


 銀の杭が軋む。


 エリアスの鼻と耳から血が流れた。


 S級である彼が、天穴全体と接続された主核級外相種を固定している。


 保って数十秒。


 それ以上は、エリアス自身の身体が空間ごと裂ける。


『紅霞!』


『準備しています!』


 副隊長の周囲へ、赤ではなく白い光が集まり始めた。


 彼女の最大術式。


 大気、魔力、外相種の残骸、味方が放った術式の余熱まで吸収し、一点へ圧縮する殲滅魔法。


 使用後、紅霞は確実に戦闘不能になる。


 標の仕事は、それを天蝕の中枢へ届けることだ。


「中枢座標が見えない」


『探してください』


「簡単に言うな」


 標は目を閉じた。


 天蝕の内部には、無数の空間が折り畳まれている。


 一つ一つの瞳が別空間への入口。


 その先には、過去に取り込まれた都市や海、知らない星空が浮かんでいた。


 距離という概念が役に立たない。


 標は魔力を細く伸ばし、空間の継ぎ目をなぞった。


 一つ。


 二つ。


 百。


 千。


 違う。


 中枢はそこにはない。


 もっと深い。


 天蝕自身が隠しているのではない。


 この天穴を通して、さらに別の場所へつながっている。


 その向こうに、何かがある。


 巨大な力。


 星の底から響くような、低い脈動。


「地面……?」


 ここは天穴内部だ。


 地面など存在しない。


 それなのに標は、遥か下方から自分を呼ぶ何かを感じた。


 敵意はない。


 むしろ、帰ってこいと告げられているような。


「見つけた」


 その声が自分のものか、分からなかった。


『座標を!』


「今送る」


 標は紅霞の術式と、天蝕の奥にある座標を接続する。


 だが、転移孔が開かない。


 何かが反対側から押し返している。


 外相種の力ではない。


 もっと大きく、古く、重い。


『標、残り十五秒!』


 エリアスの空間固定陣に亀裂が走った。


 銀の杭が一本、砕ける。


 天蝕が再び動き始める。


 瞳が一斉に標を見た。


 標は歯を食いしばった。


 左手で転移座標を固定し、右手に次元断を形成する。


 門が開かないなら、切り開く。


「空間境界を切断する。紅霞、俺の合図で撃て」


『そんなことをすれば、出口が安定しません』


「安定させる」


『何秒です』


「一秒」


『十分です』


 紅霞は迷わなかった。


 標は右腕を振り下ろす。


「次元断・多重」


 一つの境界ではない。


 折り重なった数千の空間を、まとめて切断する。


 視界が白く染まった。


 何かが標の内側から抜け落ちた。


 食欲。


 睡眠欲。


 性欲。


 そのどれとも違う、しかし人間として当然持っていた何か。


 それが失われたことだけが分かる。


 標は一瞬、自分が何のために休暇を求めていたのか分からなくなった。


 休んで、何をする。


 眠りたいのか。


 腹いっぱい食べたいのか。


 誰かと過ごしたいのか。


 何も浮かばない。


 ただ、休暇という言葉だけが、遠い記憶の標識のように残っていた。


『標!』


 紅霞の声で意識が戻る。


 空間が裂けていた。


 天蝕の奥に、白い球体が見える。


 中枢。


「今だ!」


 紅霞が術式を解放する。


 白い光が転移孔へ飛び込んだ。


 天蝕の内部で、太陽が生まれる。


 無数の瞳が焼け、黒い球体が膨張した。


 だが爆発しない。


 膨大なエネルギーを受けながら、天蝕は自らの身体をさらに別の空間へ逃がそうとしている。


『固定する!』


 エリアスが吠えた。


 残っていた銀の杭が、天蝕の内部へ食い込む。


 エリアスの右腕が肩から裂けた。


 それでも固定を解かない。


「隊長!」


『これで終わらせろ!』


 標は転移孔を維持する。


 紅霞の光が中枢を焼き続ける。


 天蝕の空間移動と、エリアスの固定。


 標の転移門と、次元断。


 異なる空間法則が、一点で衝突した。


 世界が悲鳴を上げた。


 天蝕の周囲に、巨大な亀裂が走る。


 亀裂の向こうに、無数の景色が見えた。


 燃える大陸。


 海だけの地球。


 黒い森林に覆われた都市。


 巨大な骨が突き刺さった月。


 人類のいない東京。


 同じようで違う世界。


 平行世界。


「これは……」


『標、門を閉じろ!』


 エリアスが叫んだ。


 標は転移孔を閉じようとした。


 閉じない。


 反対側から何かが接続している。


 天蝕でも、標でもない。


 もっと深い場所にある何かが、開いた道を離そうとしない。


『退避してください!』


 紅霞が標へ手を伸ばす。


 その胸を、黒い棘が貫いた。


 天蝕の最後の攻撃だった。


 紅霞の身体が宙へ浮く。


 標は彼女の足元へ転移孔を開こうとした。


 間に合わない。


「紅霞!」


『……休暇』


 血を吐きながら、紅霞が笑った。


『取れると、いいですね』


 白い術式が爆発した。


 天蝕の中枢が砕ける。


 同時に、空間固定陣が崩壊した。


 エリアスの身体が銀色の光へ分解される。


 隊長と副隊長。


 二人のS級が、同時に生命反応を失った。


 標は何も感じなかった。


 悲しいと思うべきだと分かっている。


 怒るべきだとも分かっている。


 けれど、胸の内側には空洞しかなかった。


「……そうか」


 標は自分の手を見た。


 もう恐怖もない。


 死にたくないという気持ちさえ、ひどく薄い。


 侵食。


 そう考えるのが自然だった。


 転移能力に対応する外相種は、いまだ確認されていない。


 おそらく天穴のさらに向こう側に存在し、見えない部分から自分たちを変えているのだろう。


 医療班も、そう説明していた。


 外見が変わらないだけで、身体の内側が別のものになっている。


 だから欲求が消える。


 だから恐怖が消える。


 だから仲間の死にも、心が動かない。


「休暇を取っても、意味がないな」


 呟いた瞬間、なぜかひどく腹が立った。


 怒りだけは残っていた。


 十一年間も働いた。


 休暇を何度も取り消された。


 食事も睡眠も、いつの間にかどうでもよくなった。


 それでも働かされた。


 その結果、ようやく休める頃には、休みを楽しむ自分がなくなっている。


「ふざけるな」


 標は、崩壊する天蝕を睨んだ。


「俺は休むぞ」


 誰に言ったのか、自分でも分からない。


「この戦いが終わったら、何が楽しいか分からなくても休む。食欲がなくても高い物を食う。眠くなくても昼まで寝る。使い道がなくても金を貯める」


 天蝕の亀裂が広がる。


 平行世界の景色が、標を囲んだ。


「誰にも命令されない場所へ行く」


 空間がねじれる。


 標の身体が光へ変わっていく。


 帰還座標を指定する。


 反応なし。


 第二拠点。


 反応なし。


 本部。


 反応なし。


 すべての座標が切断されていた。


 ただ一つだけ、標の転移能力へ応える場所があった。


 平行世界の中。


 東京。


 国立関東第三魔法学校。


 学生寮。


 小さな一室。


 そこに、自分とまったく同じ存在がいる。


 神代標。


 二十三歳。


 属性適性なし。


 固有能力なし。


 天蓋士暫定等級E。


 卒業予定。


 企業採用通知、〇件。


「……なんだ、それは」


 世界が変わっても、自分は働き口に困っているらしい。


 標は笑った。


 十一年間、初めて本心から笑った気がした。


「いいだろう」


 光に包まれながら、標は手を伸ばした。


「次は、絶対に働かない」


 時空の亀裂が閉じた。


 多国籍第3天穴攻略部隊アマテラス所属、神代標。


 部隊内序列第三位。


 A級転移能力者。


 その日、彼は元の世界から消失した。


 ◇


 目を開けると、天井が近かった。


 白く、安っぽい建材。


 蛍光灯。


 空調設備の低い音。


 戦場の臭いはない。


 焦げた肉も、血も、外相種の体液もない。


 代わりに、洗っていない衣類と安い即席食品の臭いがした。


 標は細いベッドの上で起き上がった。


 身体が軽い。


 いや、弱い。


 筋肉量も魔力量も、元の身体の半分以下。


 右手を握る。


 指が震えている。


 それでも不快ではなかった。


 腹が鳴った。


 標は動きを止める。


 胃の奥から、明確な空腹が湧き上がっていた。


「腹が……減っている?」


 十一年ぶりに感じる、純粋な食欲。


 さらに、まぶたが重い。


 眠い。


 身体が休息を求めている。


 机の上には、開いたままの端末があった。


 画面に表示されているのは、企業採用結果。


 《採用通知はありません》


 その下には、親切な案内文。


 《一般魔導職への進路変更を推奨します》


 標はしばらく画面を見つめた。


 やがて、口元を歪める。


「最高じゃないか」


 雇ってくれる企業がない。


 つまり、どこかの部下になる必要もない。


 腹は減る。


 眠気もある。


 金も欲しい。


 失ったと思っていた欲望が、一つ残らず戻っている。


 標は端末を閉じ、再びベッドへ倒れ込んだ。


「まずは寝る」


 登校時刻まで、残り二十分。


 新しい世界で最初に下した決断は、二度寝だった。


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