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第49話「持ち場」

【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の二十五日の朝】

手持ち …… 銀貨千二百四十七枚、銅貨十六(うち銀貨千枚は位の売却分。共有財布には入れていない)

共有財布 …… 銀にして百四十二枚分(銭の数 百七十一枚)

申告件数 …… 二百九十七件(うち労賃百十八件)

人口 …… およそ二百五十一人

売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)

未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)

公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 セリーヌ・ヴァルデ)/申告値 銀にして千枚分・月の流通税 銀にして十枚分(当村へ納付)

公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)

公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)

公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)

公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)

公示 …… 公示台帳の写し 五通(裏書=写した者の名・日・場所)

公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)

公示 …… 買値 一件(銀にして千枚分/買主 レイ・ヴァルデ/月の八日 テラ申告台)

公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/月の十日 テラ申告台/裏書つき)

公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(来月朔日施行/三条)

公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)

公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)

保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)

預り …… 六十四件(銀にして百九枚分)


特記───「軽い銭ばかりが、流れてくる」


十日で、申告は五十件近く増えた。増えた分は、ほとんどが西から来た者だった。


朝の板の前の列に、聞いたことのない訛りが混じっている。革袋の口紐を解く手つきも、村の者とは違った。指が固く、紐を解くのに時間がかかる。慣れていない。慣れる前に、来なければならなかった者たちの手つきだった。


朔日が近づくほど、西でヴァルデ鋳を受ける者は減っていった。市の板に、はじめは値が二つ立ち、次には片方の値が消えた。ヴァルデ鋳を突き返された者は、それでも懐にその銭を残したまま、隣の領へ、また隣の領へと歩いた。テラまで来る道のりは、決して短くない。それでも来た。ここでだけ、その銭にまだ値がついているという噂が、口から口へと渡っていったからだ。


列の先頭に立った男が、革袋を逆さにして皿へ銭を移した。手が震え、何枚かが板の上を転がって落ちた。拾い上げる手つきに、詫びる様子はない。長い旅で、そうした失敗にはもう慣れているのだろう。


「規定の重さで、受けるのか」男は低い声で聞いた。訛りが語尾に強く残っていた。


「受ける」フィーネが帳面を開いたまま答えた。「ヴァルデ鋳なら、八割で」


男は皿の上に並んだ銭を、もう一度指で押さえた。皿が揺れ、分銅とゆっくり釣り合って止まる。その静止を見た瞬間、男の肩の力が抜けた。信じていなかった顔だ。信じられる数を、今、目の前で見たという顔だった。


「西じゃ」男はぽつりと言った。「この銭を出すと、店の主が黙って首を振るだけだ。理由も言わねえ」


理由を言わないのは、店の主が悪いわけではない。布告が来る前から、詰所の空気を読んだだけだ。先に受け取らなくなれば、朔日になって困る客を店で見なくて済む。誰も損をしたくない、というだけの理屈が、町ひとつ分の顔を変えていく。


「ここでは」フィーネが筆を走らせた。「言う。八割で、預りに一行」


男は頷き、それ以上は何も聞かずに列を離れていった。荷を担ぎ直す背中に、来たときより張りがあるように見えた。


その後ろに並んでいたのは、老いた行商人だった。荷車を曳いてきたらしく、車輪の跡が列の外まで続いている。革袋ではなく、木箱の底に銭を仕舞っていた。蓋を開けると、ヴァルデ鋳ばかりが十数枚、木箱の隅に固まって並んでいた。


「店で断られる度に」行商人は箱の縁を指でなぞりながら言った。「隅へ寄せていった。捨てるには、惜しくてな」


「惜しいのは」フィーネが手を差し出しながら言った。「今日まで、この銭に値がなかったからよ」


行商人は銭を一枚、皿へ載せかけて、指を止めた。しばらく皿と自分の手の中の残りを見比べていたが、結局それ以上は載せず、木箱の蓋を閉じた。蓋の合わせ目に指を当て、もう一度だけ確かめるように押す。「……すまんな。まだ、他所で使えるかもしれん」荷車を引いて去っていく背に、村を信じきれない者の足取りが残っていた。


列はまだ続いていた。子を二人連れた女が、順番を待ちながら子らの手を離さずにいる。上の子が退屈しのびに靴先で土を掘っていた。女の腕に抱えられた革袋は、痩せた見た目のわりに重そうだった。西のどこかの店で、蓄えの全部を突き返されたのだろう。順番が来ると、女は袋の口を開けるより先に、子らを一歩下がらせた。数えられる間、自分の目だけでこの銭を見届けたいというふうだった。


「規定の重さで」フィーネが皿へ銭を移しながら言った。「釣り合っています」


女は頷いただけで、何も言わなかった。皿の上の静止を見届けると、抱えていた子の一人の頭に手を置いた。それだけで、列の外へ下がっていく。


フィーネが帳面から顔を上げた。


「銭の数は増えてるのに」筆の尻で頁を叩く。「銀にした数は、そこまで増えないのよ。軽い銭ばっかり来る」


「それでいい」ソルは控えを繰る手を止めなかった。「軽い銭を、軽いまま数えられるのは、うちだけだ」


ミラが荷台の縁から踵を一つ鳴らした。


「西で突き返された銭を、こっちへ運ぶ仕事が増えたよ」荷紐を締め直しながら言う。「荷より軽いから、楽な仕事さ」


「銭を運ぶ荷ってのは」ヴォルクが槍の石突きで乾いた土を叩いた。「初めてだな」


「今度のは、買う客だよ」ミラが顎で戸口のほうを示した。「数える客の次は、手袋の客か」


鍛冶の夫が、妻を連れて板の前を通り過ぎた。鉄は結局買えている。西の鉄屋が、このごろはテラの預りで受け取るようになったからだ。銭を渡さず行だけが書き換わる。夫婦の足取りに、十日前のような迷いはもうなかった。妻が夫の袖を軽く引き、二人分の足音が板の脇を離れていく。


「届くのは」ソルが控えの余白に木の棒を置いた。「うちの台帳を見に来る相手までだ。詰所の窓口じゃ、うちの預りは一銭にもならん」


歯止めの一言だった。誰も反論しなかった。板の前に積もる列が、その歯止めの正しさを裏付けているようにも見えた。


共有財布の口が開いたまま、皿に載った銭が数えられていく。だがそれらは共有財布へは入らない。「預りは、共有財布とは別勘定だ」ソルが木の棒で控えの境目をなぞった。「人の銭を、うちの銭と混ぜはしない」。銀にして百四十二枚分、という共有財布の数字が今日一日動かないまま板の脇に残っているのは、そのためだった。


人口も、十日で八人増えた。西から流れてきた者の何人かが、そのままテラに居ついた。行商人ではない。銭が受け取られる場所に、店を構え直す者もいた。宿の主が、空いていた裏の一室を貸し出したという話を、フィーネが聞きつけて控えに書き添えていた。増えた人口の行に、名も由来も、まだ書ききれていない者が混じっている。


「西の分だけ」ソルが控えの数を指でなぞりながら言った。「分けて数えるべきかもしれん」


「分けてどうするの」フィーネが聞いた。


「今はまだ、何もしない」ソルは木の棒を控えに戻した。「ただ、分かっているのと、分かっていないのとでは、次に読む数字の意味が違う」


フィーネは何も言わず、控えの余白にもう一行、細い字で書き足した。誰かに見せるための行ではない。自分の目のためだけの、備忘の一行だった。


ゲオルクが箒を担いだまま、遠巻きに列を眺めていた。何も言わない。だが箒を握る手が、以前より緩んでいるのが分かった。


宿の戸口が開いた。ガロンが外套の裾を払いながら出てくる。手袋はまだ嵌めたままだった。


【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、同日の昼】


特記───「拾っておいでですね」


昼、ガロンが板の前まで来て、手袋を外した。長く使い込んで、指の形に馴染んだ革だった。外すと、爪の間に墨の色が薄く残っているのが見えた。


「拾っておいでですね」ガロンは手袋を畳みながら言った。「連合が捨てた銭を」


「捨てていない」板の端に手を置いた。木肌が昼の熱をまだ拾いきっていない。「値をつけただけだ」


「同じことでございます」ガロンの声に、皮肉の色はなかった。「誰も値をつけない場所で値をつけるのを、拾うと申します」


定義を確かめているだけの口調だった。フィーネの筆が帳面の上で止まり、ソルの木の棒も動きを止めている。詰所という言葉の重さを、この場の誰もが十日前に知ったばかりだ。


「西部詰所の窓口は」ガロンは控え帳を懐から出さないまま、数だけを口にした。「この十日で、件数が四割減っております」


板の前が静まった。金額ではなく、件数で語る男だった。現場の長の物差しだ。


「布告は、間違っておりません」ガロンは続けた。「規定の重さの銀しか受け取らぬというのは、正しい。……正しいのですが、正しいだけでは、窓口に人が来ないのでございます」


フィーネが眉を寄せた。


「じゃあ何しに来たのよ」


「数えに来た者が、先月おりましたでしょう」ガロンは板の上の鉄の分銅へ視線を落とした。「あれは本部の者です。私は、自分の持ち場を見に来ました」


「見に来て」フィーネは筆を握り直した。「何をするの」


「何も」ガロンは静かに答えた。「私に、布告を止める判はございません」


「判がないのに」フィーネはなお食い下がった。「わざわざ、馬車で来たの」


「持ち場の数字は」ガロンは板の上の申告の列へ目をやった。「自分の目で見ないと、報告書には書けませんので」


その言葉の意味を、誰も詰めては聞かなかった。ヴァルデ鋳が西で最も多く出回る鋳貨であること。それを止めれば、西の小商いは全部、詰所の規定銀を通さなければならなくなること。本部は西の銭を一本に絞りたかったのだろう。──その銭が、絞られる先を持たず、そのままテラへ流れてきた。


皮肉だ、とは口にしなかった。地の文にすら、それ以上は書かなかった。ただ、皿の上で釣り合う分銅の静止と、詰所の窓口が枯れていく数字とが、同じ十日の間に起きていたという事実だけが、板の端に置いた手の下に残った。


アーヴィンが膝の上で指を組み替え、声を落とした。


「……お客様の中には」目を伏せたまま言う。「戻る先を、探しておいでの方も」


ガロンはその一行に頷きも、否定もしなかった。遠くでゲオルクが箒を担いだまま、こちらの様子を窺っている。近づいてはこなかった。


「四割減った窓口の穴は」聞いた。「どこが埋める」


「埋まりません」ガロンは手袋を懐にしまった。「埋まらぬまま、報告書には数字だけが残ります」


「その報告書は」ソルが控えから顔を上げた。「本部に届くのか」


「届きます」ガロンは頷いた。「私の名で」


「名で届くってことは」フィーネが聞いた。「あんたが、責めを負うってこと」


「そうなります」ガロンは表情を変えずに答えた。「持ち場を預かる、というのは、そういうことでございます」


その言い方に、卑屈さも、開き直りもなかった。数字を届ける役目と、責めを負う役目とが、この男の中では同じ一つのことらしい。フィーネはそれ以上、突っ込んだ聞き方をしなかった。


短いやり取りだった。だがその一言に、この男が背負っているものの重さが見えた気がした。数字だけを届ける役目を、彼は淡々と引き受けている。誰かを責める調子も、助けを求める調子もなかった。


板の脇で、鉄の分銅が朝の光をまだ鈍く跳ね返している。ガロンの視線が、もう一度その黒い塊へ戻った。彼の懐にある王国刻印の分銅とは、色も艶も違う。それでも、皿の上に置けば同じ重さで釣り合う。彼が確かめに来たのは、村の帳面ではなく、その事実そのものだったのかもしれない。


「本部は」聞いた。「その数字を見て、何と言う」


「何も」ガロンは手袋の指先を揃えた。「今のところは。件数が減った程度では、本部は動きません。動くのは、もっと大きな数字が並んだときです」


「もっと大きな数字とは」ソルが聞いた。


「窓口が、閉じるときでございます」ガロンは淡々と答えた。誰かを脅す響きはなかった。ただ、起こりうる事実を淡々と述べただけの声だった。


「閉じたら」ソルが控えを持ったまま聞いた。「あんたの持ち場は、どうなる」


「持ち場が無くなれば」ガロンは板の脇の分銅から目を離さなかった。「私も、別の持ち場へ回されます。それだけのことでございます」


自分の身の上を語るにしては、あまりに平らな声だった。恐れも、諦めも、そこには聞こえなかった。ただ、数字が導く先を、あらかじめ受け入れている者の声だった。


「西部の受領は」聞いた。「あんたの判か」


一拍、間があった。ガロンは爪の間の墨をもう一度見た。


「……受領は、私の判でございます」


短い返事だった。それ以上、続かなかった。ガロンは手袋を握り直し、板の脇に立てられた鉄の分銅を、もう一度だけ見た。何かを量るような目だった。


【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、同日の午後】


特記───「拒まれた記録が残る」


午後、ソルが証文の写しを開いた。木の棒の先が、条項の行をなぞって止まる。


「甲は、担保の値が申告値を保てなければ、貸主が即時弁済を求められる」ソルは頁をめくった。「乙は、期限前の弁済は、貸主の承諾を要する」


台帳建てへ書き改めたことで、担保の値は分銅で数えられる形に戻った。甲の引き金は、今は静かなままだ。だが乙は、まだ生きている。返す側が返そうとしても、受け取る側が首を振れば、それで終わる条項だった。


「規定の重さの銀で」板の端に手を置いたまま続けた。「千枚分を、詰所の窓口へ差し出す」


「乙があるから」フィーネが帳面から顔を上げた。「受け取るかどうかは、あっちが決めるのよね」


「決める」頷いた。「拒める」


「拒まれたら」フィーネが筆の尻で頁を叩いた。「負けでしょ」


「拒んだ記録が残る」返した。「弁済の差し出し、受領なし。公示して、写しを配る」


「写しは」フィーネが聞いた。「どこへ配るの」


「西の板」答えた。「テラを通った隊商の手を借りて、詰所の近くの市にも一枚」


「そんな紙で」ヴォルクが腕を組んだ。「あの連合が動くか」


「動かん」ソルが木の棒を控えに戻した。「だが、西部詰所は動く。あそこは客が要る」


「返しに来た者を」続けた。「追い返す貸主から、誰が借りる」


板の前が静まった。反論の形を、誰も持てなかった。フィーネが筆を下ろし、指先で帳面の縁をなぞった。


「あんたの言うことは」ヴォルクがなお槍を握ったまま言った。「筋は通ってる。だが、筋が通ってりゃ勝てるとは限らんぞ」


「勝つ話じゃない」返した。「返す話だ」


その一言に、ヴォルクは何も言い返さなかった。槍の石突きが、乾いた土をもう一度叩いた。納得したというより、これ以上詰める言葉を持たない、という叩き方だった。


「その千枚は」ヴォルクが割って入った。「詰所まで、誰が届ける」


「俺が」答えた。「行く」


板の前が、一瞬だけ静まった。誰も、それ以上は続けなかった。


「規定の重さの銀」ソルが聞いた。「村には無い」


「ある」答えた。「俺の手持ちの千枚」


フィーネが顔を上げた。


「あれ、動かさないんじゃなかったの」


「買値の裏付けとして置いていた」板の上の一行に目を落とす。「買値が使われるなら、動かすときだ」


千枚は、位を買った代金だ。連合が支払い、この村が受け取った。規定の重さで数えられる銀だった。動かさずに置いていたのは、いつか買値が誰かに疑われたとき、実物で示すための裏付けだったからだ。買値の公示が今、疑われずに立っている限り、千枚は動かす理由がなかった。その前提が、今日、初めて崩れる。


そこまで言ったところで、ソルの木の棒が止まった。


「付け替えても」ソルは静かに言った。「鎖は鎖だ」


その一言に、返す言葉がなかった。千枚を俺が払えば、セリーヌの借りは連合への借りから、俺への借りに変わるだけだ。鎖の色が変わるだけで、鎖であることは変わらない。板の端に置いた指先が、答えのない場所で止まったままだった。


「だったら」フィーネが小さく息をついた。「誰の千枚なら、鎖にならないの」


答えられなかった。その問いは、今この場で解ける形をしていない。板の前に沈黙が積もっていく。ヴォルクが槍の柄を握り直し、それ以上は何も言わなかった。アーヴィンが帳面の上で手を止め、それきり動かさなかった。


ミラが荷台の縁から、珍しく静かな声で言った。


「返す銭が、誰のものかって話なら」踵で荷台を軽く叩く。「運ぶ側には関係ないけどさ。誰が運ぶかは、決めときな」


軽口のようで、軽口ではなかった。運ぶ役を誰にするかさえ、まだ決めていない。千枚という数字ばかりが先に立って、その先の段取りは何も詰まっていなかった。


アーヴィンが、帳面の隅に小さく数字を書き付けていた。千枚を運ぶための護衛、荷の重さ、詰所までの日数。誰に頼まれたわけでもなく、この娘は先の段取りを黙って書き始めている。声には出さない。声に出す前に、まず数えるのがこの娘のやり方だった。


宿のほうから、足音が近づいてきた。外套の裾が土を掃く、聞き慣れた音だった。


【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、同日の夕】


特記───「――売ります」


宿の戸口から、セリーヌが出てくるのが見えた。歩く速さはいつもと変わらない。だが板の前まで来ると、足を止める位置が、これまでとわずかに違っていた。いつもなら板の端に立つ彼女が、今日は買値の一行がちょうど正面に来る場所に立った。


夕日が、その一行を横から照らしていた。グランゼ辺境伯の位、買値、銀にして千枚分。何度も見た行だ。


外套の合わせに指を這わせ、紙の端を一度揃える。以前、この同じ板の前でイルマに「売りますか」と聞かれ、彼女は「いいえ」と答えたことがあった。その行に、今、自分から歩み寄ってきていた。


事情を、彼女がどこまで聞いていたかは分からない。それでも、板の前に立った理由は分かっていた。誰も、説明を求めなかった。フィーネが筆を置き、ソルが控えを閉じる。板の周りに残っていた声が、一つずつ静まっていった。


風が板の端を揺らし、遠くで水桶の音が一つ響いて消えた。夕日の帯が、彼女の外套の裾から板の木目へと伸びている。


セリーヌは、ずっと数えていたのだと思う。あの日から、この位が誰のもので、いつまで自分の名を縛るのかを。返す当てもないまま、紙の端を揃える癖だけが日々の中に残っていた。板の前に集まっていた顔のいくつかが、彼女の背に気づいて、声を落とした。誰も、近づいてはこなかった。


「あなたの買値は、いつまで」セリーヌが言った。「と、伺いました」


「いつまでも」答えた。「と、答えました」


セリーヌは一拍、動かなかった。紙の端を揃える指だけが、もう一度同じ動きを繰り返す。遠くで、蹄の音が一つ、街道の彼方へ遠ざかっていった。


「――売ります」


【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の二十五日の夕】

手持ち …… 銀貨千二百四十七枚、銅貨十六(うち銀貨千枚は位の売却分。共有財布には入れていない)

共有財布 …… 銀にして百四十二枚分(銭の数 百七十一枚)

申告件数 …… 二百九十九件(うち労賃百十八件)

人口 …… およそ二百五十一人

売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)

未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)

公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 セリーヌ・ヴァルデ)/申告値 銀にして千枚分・月の流通税 銀にして十枚分(当村へ納付)

公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)

公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)

公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)

公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)

公示 …… 公示台帳の写し 五通(裏書=写した者の名・日・場所)

公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)

公示 …… 買値 一件(銀にして千枚分/買主 レイ・ヴァルデ/月の八日 テラ申告台)

公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/月の十日 テラ申告台/裏書つき)

公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(来月朔日施行/三条)

公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)

公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)

保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)

預り …… 六十六件(銀にして百十一枚分)


特記───「――売ります」

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