↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/60

第25話「次の市場へ」

【グランゼ辺境 峠の水場、朝】

手持ち …… 銀貨三百三十二枚、銅貨十六

共有財布 …… 銀貨八十七枚

申告件数 …… 百五十三件(うち労賃六十四件)

人口 …… およそ二百二十人

売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)

未払い …… 一件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二)

公示 …… グランゼ辺境伯の位/申告値 銀貨千枚・月の流通税 銀貨十枚

峠の通行 …… 停止


特記───「水が、止まった」


三日で、峠に水が戻った。


その三日で、俺は銀貨を十枚使い、荷車を七台失い、そして――ガロンという男の値段を、初めて正確に知った。


順に話す。まず、水が止まった朝からだ。


コルムの報せを受け、夜明け前にヴォルクと二人で峠を登った。松明の灯りが、霜の降りた石段を照らしていた。息が白く伸びる。塩問屋が自ら手綱を握って峠を下りてくるほどの報せだ。噂話で済むはずがなかった。


峠道の水場は、街道が最初に息を継ぐ場所にある。岩の窪みに溜まった湧き水を、二日がかりの峠越えで人馬が交互に汲む。回廊を実踏破したあの日から、幾度となく世話になった水だった。あの頃は、石段を上る足音すら心細かった。今は、ヴォルクの足取りに迷いがない。


着いたとき、窪みは乾いていた。


底に張った白い石が、朝の光を鈍く弾いている。縁に貼りついた苔が、踏むだけで粉になって崩れた。馬が鼻先を突っ込み、湿った気配を探して舌で石を舐める。乾いた音だけが、繰り返し響いた。喉が張りつくような、乾いた匂いだけが辺りに満ちていた。


「涸れちゃいねえ」ヴォルクが窪みの縁にしゃがみ、指の腹で石をこすった。「涸れるってのは、こういう乾き方じゃねえ。これは――止められた乾き方だ」


「なぜ、分かる」


「水が抜けた跡は、底の泥が縮れて割れる」ヴォルクは石の隙間を指で示した。「見ろ。ここは、割れる前に乾いてる。水が、来ちゃいねえんだ」


言われて見上げると、上流に真新しい石組みがあった。丁寧に組まれた堰が、沢の水を丸ごと横へ逸らしている。苔の生えていない石の白さが、造られてから日が浅いことを示していた。石と石の継ぎ目に、隙間がほとんどない。


「素人の仕事じゃねえな」ヴォルクは堰を睨んだまま言った。「ガンツが見りゃ、もっと分かるだろうがよ。俺の目にも、丁寧すぎる仕事に見える」


堰の下流側に、まだ真新しい足跡が幾つも残っていた。石を運んだ跡、荷を下ろした跡。数日がかりの仕事だったと分かる量だった。しかも、慌てて仕上げた跡は一つもない。


境界杭を探すと、水場から半町ほど手前に一本、苔むした石柱が立っていた。刻まれた紋は、テラのものではない。隣領の境界標だった。堰は、その向こう側にある。


「向こうか」ヴォルクが吐き捨てた。「台帳の、外か」


「随意買取をお使いになるなら、どうぞ」俺は呟いた。いつかガロンが口にした台詞が、そのまま蘇っていた。刃は、載ったものにしか届かない。あの男は、あのとき正確に急所を教えていた。ただ、聞いた側が本気にしていなかっただけだ。


「先に、宣言されてたわけか」ヴォルクは苦い顔をした。「気に入らねえ手だ」


台帳に、載っていない土地だった。制度がどれだけ整っていても、線の外へ出られてしまえば、指一本届かない。


「これで七台目だ」荷馬車の御者が、水の残った革袋を抱えて引き返してくる。手綱を握る指が、寒さと苛立ちで白くなっていた。「馬が保たねえ。北回りへ戻る」


「悪いな」俺は言った。それ以外に、言葉が見つからなかった。


「詫びるこたぁねえ」御者は荷車の向きを変えながら答えた。「水が出りゃ、また来る。それだけだ」


車輪が軋みながら、来た道を戻っていく。


「これで、幾日保つ」ヴォルクが水場の底を睨んだまま聞いた。


「保たない」俺は答えた。「今日で、最後の水だ」


止める言葉が、見つからなかった。水のない峠を、誰も越えられない。制度がどれだけ整っていても、喉の渇きだけは台帳を読まない。


【グランゼ辺境 宿場テラ 板間、同日】


特記───「四つの声、一つも使えず」


水場から戻ると、板間にはすでに主立った顔が集まっていた。誰かが招集したわけではない。水の話は、松明の煙より速く広場を駆け抜けていた。魔灯石の光が、卓を囲む顔をひとつずつ照らしている。誰も、灯りを増やそうとしなかった。アーヴィンの手にした湯呑みが、一度も口に運ばれないまま冷めていく。


「井戸を掘る」ガンツが最初に言った。「水脈は、ある。俺が見た」


「何日で」フィーネが即座に聞いた。


「三月」


「三日しかないの!」


「なら」ガンツはわずかに考えた。「二月半だ」


誰も笑わなかったが、板間の張り詰めた空気が、わずかに緩んだ。ガンツ自身は冗談のつもりもなく、ただ最短を答えただけの顔をしていた。アーヴィンだけが、乾いた笑いを一度こぼし、すぐに口を噤んだ。


「上流の土地を、買い戻す」フィーネが指を鳴らした。「地主に言えば、まだ間に合うでしょ」


「地主は、もう金を受け取っている」ソルが遮った。「隣領の名義だ。売った土地に、未練は残らない」


「足元を見られるだけよ」フィーネは卓の縁を指で叩いた。「うちが焦ってるって、向こうはとっくに知ってる」


フィーネの口が、閉じた。誰も、それに続く言葉を持たなかった。共有財布は銀貨八十七枚。買い戻すにも、買い占めるにも足りない額だと、この場の全員が分かっていた。


「壊すか」ヴォルクが低く言った。誰にともなく、堰の話をしているのだと分かった。


一拍、板間が静まった。ヴォルクは俺の目を見て、それから自分から視線を外した。


「……いや。やめとく」ヴォルクは腕を組み直した。「台帳に載る仕事じゃねえ」


かつて、この男は倉の麦を配れば早いと言った。その手を略奪だと退けられた日から、長い距離が空いている。今は誰に止められるでもなく、自分でその手を下ろしていた。護衛長の肩書がついた指先が、卓の木目をなぞって止まった。


「なら」ヴォルクは低く続けた。「他の手を、探すしかねえな」


その一言に、腹の据わった重みがあった。力で勝てないと分かった上で、それでも逃げる気配は微塵もなかった。


「王国に、訴え出れば」アーヴィンが震える声で言った。「辺境伯として、正式に」


「訴える先の記録に」ソルが台帳の写しを卓に広げながら答えた。「あの男の紋章がある」


アーヴィンの喉が、一度大きく動いた。「……使者団の、あの荷札か」


「王命の一行の後ろに」ソルは頷いた。「ずっと混ざっていた」


先だっての査察団が残していった渦紋。訴えても、記録そのものが敵の手の中にあるかもしれない。


ソルはもう一枚、王都から届いた写しを重ねた。王国の土地台帳の控えだった。指先が、一行ずつ丁寧に紙をなぞっていく。峠上流の一筆――登録名義に、聞き覚えのある名が並んでいた。


「中央商業ギルド連合の、指定商会」ソルが名を読み上げた。「堰を組んだのは、専門の人手だ。急ごしらえではない」


「いつから、買ってあったの」フィーネが低く聞いた。


「登記の日付は」ソルが写しの端をなぞった。「回廊が開通した、あの頃だ」


板間の温度が、また一段下がった。峠を越え、村に人が集まり始めたあの喜びの裏で、上流の一筆はとうに敵の手に渡っていた。堰の作りの良さに、腑が落ちた。この一戦のために、あの石を積んだわけではない。もっと前から、備えられていた土地だった。


「用意周到、ってやつか」ヴォルクが低く唸った。「気に食わねえ」


「気に食わねえだけじゃ、水は出ねえよ」フィーネが卓に額を押しつけそうになりながら言った。


四つの声が、四つとも使えなかった。板間の誰もが、それを分かっていた。


俺は、袖口の内側に押した印に触れた。二十日前、自分で受け取ったばかりのグランゼ辺境伯の印。首輪だと、あのとき誰もが思った。使えない鎖だと、笑った者もいた。だが鎖の長さは、いつも巻いてみるまで分からない。


「明日、隣領へ行く」俺は言った。


理由は言わなかった。誰も、それ以上は聞かなかった。ただソルだけが、卓の上の写しを静かに巻き直していた。


【グランゼ辺境 隣領境界、翌日】

手持ち …… 銀貨三百三十二枚、銅貨十六

共有財布 …… 銀貨八十七枚

売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)

未払い …… 一件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二)

公示 …… グランゼ辺境伯の位・峠一帯(申告値:位 銀貨千枚/峠上流 銀貨三千枚)


特記───「買えない値が、届いた」


境界杭の苔を、朝日が薄く照らしていた。そこに、痩せた小男の姿があった。鼻眼鏡、几帳面な折り目の外套。荷は帳面と巻尺だけ。呼んだ覚えはなかったが、この男が呼ばれて来た試しもなかった。


「ハウゼンです」男は抑揚のない声で言った。「境界一帯の記録照合のため、規定により参りました」


「頼んだ覚えは」


「頼まれて動くものではございません」ハウゼンは巻尺を杭に当てた。「先の陞爵にあたり、境界の記録は隣領とも突合の義務がございます。規定により、辺境伯領の境界は、任命の辞令に記された範囲で確定いたします。峠一帯は、その範囲の内側です。それ以上でも、それ以下でもございません」


数字の羅列のような口調だった。だが、それこそがこの男の値打ちだった。誰の顔色も窺わず、ただ規定の文言だけを読む。


巻尺が、境界杭から水場の窪みまでを正確に測っていく。ハウゼンの目に、迷いは一切なかった。


「随分と、早いお越しですね」俺は言った。


「早いも遅いもございません」ハウゼンは巻尺を巻き取りながら答えた。「陞爵より二十日以内に、境界の記録を確定する定めがございます。今日は、その期限の内でございます」


味方をしているつもりも、こちらを助けているつもりも、この男にはないはずだった。ただ、規定を読んでいるだけだ。それでも、規定が今日だけは、こちらの側に立っていた。


朱肉の匂いが、朝の冷気に混じった。ハウゼンが控えの書面に印を押し、俺の前に差し出す。境界の再確定書だった。


「これより、峠一帯を」俺は書面を受け取りながら言った。「テラの公示台帳の対象地域に編入する」


隣で、フィーネが眉を寄せた。「それって――あの爵位がなきゃ、できない話でしょ」


「そうだ」俺は答えた。「首輪だと思ってたものが、たまたま長かった」


「笑えないんだけど、それ」フィーネは水場のほうへ視線を投げた。「向こうも、そこまでは読んでなかったってこと?」


「読んでいた」俺は言った。「だから、あの位を寄越した。使いこなせないだろうと踏んで」


「見誤ったってこと」フィーネは口の端を持ち上げかけて、すぐに引き締めた。「向こうにしては、珍しい」


「見誤ったんじゃない」俺は言った。「賭けに、負けただけだ」


賭けに勝ち続ける者などいない。ベルトランも、王都の誰かも、この位が牙になる目は薄いと踏んで寄越した。薄い目でも、当たれば当たる。それだけの話だった。


編入された峠一帯には、申告義務が生じる。安く申告すれば買われる。高く申告すれば税で干上がる。堰の主は、その二択から逃げられない。


ハウゼンは書類を鞄に仕舞いながら、境界杭の紋を一度だけ見やった。「編入の記録は、王都へも回します。異議があれば、そちらから申し立てられるでしょう」感情の一切乗らない声で、そう言い残した。味方でも、敵でもない。ただ、記録を運ぶだけの男だった。


昼を待たず、供も旗もない一頭立ての馬車が現れた。ガロンの名代を名乗る男は、身なりだけは丁寧に整えていたが、目はこちらを一度も見なかった。深く一礼して書状を卓に置くと、答えを待たずに馬車へ戻っていった。返答を求める気配すら、最初からなかった。


『申告値、銀貨三千枚。随意買取をお使いになるなら、どうぞ』


フィーネが息を呑む音がした。「馬鹿げてる。土地一筆に、三千枚?」


「馬鹿げてるほうが、都合がいい」俺は言った。「買えない値なら、それで防御になる」


共有財布は銀貨八十七枚だった。逆立ちしても、届かない額だった。


【グランゼ辺境 宿場テラ 広場、翌日】


特記───「値ではなく、看板を詰める」


広場に、書状が回された。フィーネが数字を読み上げ、口をつぐんだ。老爺は煙管を吹かしながら、遠巻きに卓を眺めている。


「買わない」俺は言った。


「買わないの?」フィーネが顔を上げた。「三千枚、積めないから?」


「積めても、買わない」


ソルが木の棒を走らせた。「申告値の百分の一。月、銀貨三十枚」


「税を、取るってこと」フィーネは指を折って計算し、それから眉を寄せた。「あの男なら払うでしょ、それくらい」


「払える」俺は言った。「あの男は」


板間の空気が、一段沈んだ。金では負けない相手に、金の手を出しても仕方がない。フィーネが卓に肘をつき、それ以上は続けなかった。ソルが台帳を閉じ、ゆっくりと口を開いた。


「連合の帳簿には、払った先の名を書く」ソルは、元ギルド書記の目で卓を見ていた。「『グランゼ辺境 公示台帳 流通税』。その一行が連合の帳面に載った瞬間、連合は自由市を制度として認めたことになる。西部の他の支配人が、それを見る」


「見たら、どうなるの」フィーネが聞いた。


「同じ手が、他の土地でも使えると気づく」ソルは静かに答えた。「連合が自分の帳面で、自由市を認めた証拠になる。あの男の後ろにいる連中が、黙っていない」


「じゃあ、払わなかったら」フィーネが続けて聞いた。


「堰は、台帳の上に居座ったままだ」ソルは木の棒で卓を軽く叩いた。「月々の税が、溜まり続ける。あの男の懐から、静かに削れていく」


払えば、看板が割れる。払わなければ、金が削れる。どちらに転んでも、連合の側が損をする形だった。


「あの男は」俺は言った。「金では負けない。だが、看板では負ける」


誰も、次の言葉を継がなかった。老爺だけが煙管を吹かし、満足そうに目を細めていた。


三日目の朝、峠の見張り番が息を切らして駆け下りてきた。「堰が、外れた」その一言に、板間の誰もが立ち上がった。


峠に登ると、水が石を叩く音が戻っていた。乾いていた苔の跡に、水面がゆっくりと広がっていく。馬が真っ先に鼻先を突っ込み、喉を鳴らして水を吸った。ヴォルクが水を一口すくい、掌の中身を確かめてから頷いた。


「本物だ」


申告は取り下げられ、上流の一筆は隣領の地主の手に静かに戻されていた。堰を組んだ石だけが、崩されもせず、そのまま残されていた。誰の仕事だったかを示す看板のように、そこだけが妙に整っている。


後から登った村人たちが、次々と水場に集まってきた。桶を担いだ女たちが列を作り、子供が水面に石を投げて叱られている。誰も、堰の由来までは知らない。ただ、水が戻ったことだけを喜んでいた。


ダンが真っ先に水を汲み、峠を駆け下りていった。北回りへ戻った荷車を、一台でも呼び戻すつもりなのだと、後で知った。


宿場の戸口に、短い書状が挟まっていた。差出人の名はない。字は、丁寧すぎるほど整っていた。


『見事です。ですが辺境伯様、あなたの刃は、台帳に載るものにしか届かない。……次は、載らないところから買い占めます』


穏やかな筆致だった。それが、いちばん堪えた。脅しでも捨て台詞でもない。ただ、次の手をすでに決めている者の字だった。


「載らないところから、って」フィーネが書状を覗き込み、声を落とした。「まだ、あるってこと」


「ある」俺は答えた。「台帳は、万能じゃない」


ソルが何も言わずに、書状を丁寧に畳んだ。台帳に載らない場所は、まだこの一帯にいくらでも残っている。今回は、たまたま辺境伯の権限が届く場所だっただけだ。


北回りへ戻った荷車は、七台。引き返した商人が、この三日でどれだけ北回りの高い関銭を払ったかは、数えるまでもなかった。峠を渡る足はまだ戻り切っておらず、コルムへの月次の引き取りも一日分遅れていた。位の流通税は、この月も俺の取り分から出た。銀貨十枚。堰が外れるまでの三日を買うために、期日より早く納めさせた分だった。無傷では、何ひとつ済んでいなかった。それでも、水は戻った。


【グランゼ辺境 峠の見張り台、夜】

手持ち …… 銀貨三百二十二枚、銅貨十六

共有財布 …… 銀貨百六枚

申告件数 …… 百七十件(うち労賃六十六件)

人口 …… およそ二百三十人

売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)

未払い …… 一件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二)

公示 …… グランゼ辺境伯の位/申告値 銀貨千枚・月の流通税 銀貨十枚


特記───「値札は、貼り替えられる」


水が戻って二日で、三世帯が村へ居着いた。峠が動いている場所には、人が勝手に集まってくる。俺が呼んだ者は、一人もいない。


見張り台から見下ろす峠の水場に、馬の列が並んでいた。水を飲む頭が一つずつ下がり、また上がる。連なる影が、篝火に揺れて長く伸びている。灯りが線に繋がったあの夜とは、違う絵だった。夜風が、乾いていた頃の記憶をどこかへ押し流していく。


「よくやったな、商人」ヴォルクが横に立ち、それだけ言うと、また峠の下へ視線を戻した。


「税収、悪くない」ソルが台帳を小脇に挟んだまま言った。指先で表紙をひとなでする。読み終えた帳面を閉じるときの、いつもの仕草だった。


「もっと、建てる」ガンツが石粉のついた手を見せた。何を建てるのかは、言わなかった。


「また、宿場?」フィーネが半眼で聞いた。


「井戸」ガンツは短く答えた。「今度こそ、三月で掘る」


「馬鹿ね、まったく」フィーネがそれだけ呟いて、口の端をわずかに緩めた。冷えた風に、髪が一筋流れた。


老爺は煙管を吹かし、何も言わずに水場の灯りを眺めていた。煙が、風に流れて消える。その隣で、ヨエルが短く言った。


「……水の音、いいな」


一人一言、それで十分だった。誰も、続きを求めなかった。


灯りの下で、ソルから台帳を受け取った。ページをめくる指先に、磨り減った紙の感触がある。未払いの欄に、アルドの名がまだ残っていた。利は取っていない。消えてもいない。その隣の行では、父の掛けが今月も期日どおり払われている。同じ家の、二つの行だった。俺は何も言わなかった。


視界の端が、ふっと滲んだ。


『レイ・ヴァルデ/真価:算定不能/世評:グランゼ辺境伯』


かつて、この欄には「無能」と書いてあった。自分の値だけは、相変わらず視えない。だが世評は、書き替わっていた——俺が貼ったのではない、他人が貼り替えた札だ。


峠の水音が、篝火の向こうから届いていた。冷えた石の匂いに、湿った土の匂いが混じり始めている。


「――このやせ地から」俺は言った。「大陸の値段を、書き換える」


誰も、それ以上は聞かなかった。水が石を叩く音だけが、夜の峠に続いていた。


*第一巻・了。次巻――独占は、買い取れる。*

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。