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第19話「手のひらを返す者たち」

【グランゼ辺境 宿場テラ 荷下ろし場、朝】

手持ち …… 銀貨三百四十二枚、銅貨十六

共有財布 …… 銀貨七十一枚

申告件数 …… 百二十四件(うち労賃五十二件)

人口 …… およそ百九十四人


特記───「捨てた側が、初めて自分から来た」


馬糞と削りたての材木、竈で炊く麦の匂い。宿場の朝はいつもその三つで出来ている。峠が開いてからというもの、見慣れない顔が日に日に増え、朝の匂いにも少しずつ厚みが増していた。そこに、場違いな香油の匂いが一筋、風に乗って混じった。


顔を上げると、荷下ろし場の隅に、磨き上げられた黒塗りの馬車が停まっている。車輪だけが、周りの泥をきれいに弾いていた。他のどの荷車とも違う轍を引いて、この宿場に入ってきたことが一目で分かる轍だった。木材と麦の匂いの中で、その一台だけが場違いに整っている。


捨てた側が、自分から来た。皮肉なことに、あの実家が追い立てるように寄越した辺境の景色に、今、実家のほうから足を運んできている。


「――ここの差配は、どなたか」


乾いた声が、荷下ろし場に響いた。馬車の脇に降り立った男は、丈の長い上着に、家紋を刺した肩章をつけている。旅装というより、屋敷の廊下をそのまま歩いてきたような身なりだった。革靴の先が、水たまりを器用に避けている。


男は、俺には目もくれなかった。まず宿場の骨組みを見た。井戸の縁、荷下ろし場の柱の継ぎ目、まだ屋根の乗っていない厩の梁。歩を進めるごとに、視線が建物の高さと材の太さを追っていく。次に、台帳の杭へ視線を移す。羊皮紙にびっしり並んだ申告の数を、遠目に数えているような目の動きだった。値踏みする目つきというより、査定する目つきだ。屋敷の帳場で見た覚えのある動きだと、俺はすぐに気づいた。数字の並びだけで、この土地に何が起きたかを読もうとしている。


馬車の後ろから、随員が二人降りてきた。一人は御者、もう一人は荷を運ぶための下男らしい。どちらも旅装は整っているが、口を開かない。命じられて動くだけの顔をしていた。荷台の陰に、もう一人、粗末な外套の老人が控えているのが見えた。その顔には、まだ見覚えがなかった。


「――家令のハーグと申します」


そこでようやく俺に目を留め、深く一礼した。腰の角度は完璧で、それ以上でも以下でもない。


「レイ様。お久しゅうございます」


記憶にある顔だった。屋敷の帳場で、父の脇に控えていた男だ。感情を表に出さないことを、長年かけて仕込まれた顔をしている。


「久しぶりだな」俺は答えた。「わざわざグランゼまで、何の用だ」


「用向きは、書状にて」ハーグは表情を変えなかった。「本日は、まずご挨拶に」


村の広場で立ち止まっていた人々が、遠巻きにこちらを窺っていた。老爺が煙管を吹かす手を止め、その煙が消えるまで動かなかった。アーヴィンが眉を寄せる。ゲオルクは店先で、視線を落としたまま動かなかった。杭を打つ音だけが、しばらく規則正しく響いていた。


ハーグは、その村人たちに向かって声を張った。


「皆々様に、ご紹介申し上げます」乾いた声が広場に通る。「こちらは、ヴァルデ男爵家より、この地へ名代として遣わされた三男君にございます」


名代。


その一語が、俺の中で妙な音を立てた。追放同然に送り出された俺が、今度は「遣わされた」男に化けている。誰も訂正しなかった。老爺は煙管を握ったまま黙り、アーヴィンは眉根を寄せたまま口を開かなかった。この村の誰もが、俺がどうやってここへ来たかを知っている。あの年、種銭一つ持たされずに追い立てられた男が、村長宅の敷居をまたいだ日のことも、丘の上で立ち尽くしていた日のことも、皆が見ていた。だからこその沈黙だった。


俺自身、口を挟まなかった。今それを正しても、意味のある得は一つもない。言葉の書き換えに、言葉で応じれば、同じ土俵に立つことになる。値で応じるほうが、よほど性に合っていた。


「本日はまず、ご挨拶のみ」ハーグは繰り返した。「用向きは追って、書状にて」


峠を開いた高揚が、足元からすっと引いていくのを感じた。代わりに来たのは、この宿場ごと名義を書き換えられかねない不安だった。数字なら、いくらでも読める。だが、書き換えられるのが言葉となると、話は別だ。積み上げた台帳の数字より先に、名乗りひとつで場の空気を変えられる。それが、家という看板の重さだった。


「分かった」俺は答えた。「では、村長宅で聞こう」


ハーグは短く一礼し、馬車へ合図を送った。荷下ろし場の泥を、また車輪が器用に避けていく。フィーネが小走りに追いついてきて、俺の袖を軽く引いた。


「何しに来たのよ、あの人ら」フィーネの声は低かった。「今さら、何か寄越すつもりなら――」


「まだ分からない」俺は答えた。「聞いてからだ」


フィーネは納得しない顔のまま、それでも口を噤んだ。


村長宅の板間に、いつもの顔ぶれが座った。炉の火が、隅々までは届かない橙色の輪を作っている。ハーグは席にはつかず、封蝋つきの書状を両手で捧げ持ったまま立っていた。座を勧められても、断った。立ったまま用件を伝えるのが、この男の流儀らしい。


「読み上げます」


封蝋を割る音が、思いのほか大きく響いた。


「一つ。回廊はヴァルデ男爵領の旧街道であり、通行に生じる利益は本家に帰属するものとする」


聞いた瞬間、頭の奥で何かが繋がった。同じ論理だ。峠に立って写しを掲げていたあの男も、そっくりの台詞を口にした。所有の話だ、数字の話をしているんじゃない、と。あの時は北回りの手先の言い分だと思っていたが、根を辿れば、この書状と同じ土から生えている。旧領だから、家名の下にあるものだから――理屈の形は、いつも変わらなかった。


「二つ。自由市より生じる収益の、四割を本家へ納めること」


「三つ。この地の統治は、男爵家の差配として王都へ報告すること」


アーヴィンの喉が、小さく動いた。誰が耕し、誰が台帳を書き、誰が石を積んだか。この一年、村の誰もが泥にまみれて積み上げてきたものが、羊皮紙一枚で書き手を差し替えられようとしている。


読み終えたハーグは、書状を丁寧に畳み直した。手つきに乱れはない。だが、乱れのないことそのものが、かえって不穏だった。


「――あんたら」ヴォルクが腰を浮かせかけた。「こいつを、捨てたんだろうが」


「ヴォルク」


「捨てた、とは」ハーグが初めて眉を動かした。「本家は、正式に領地を授与したのみにございます。捨てたなどとは、心外な物言いを」


「言い方の問題じゃねえだろうが」ヴォルクが唸った。「税収ゼロの土地を、路銀二週間分で放り出した話は、こっちにも聞こえてんだよ」


ハーグの表情は変わらなかった。反論もしなかった。ただ、書状を持つ手の位置を、わずかに正した。


俺が手で制すと、ヴォルクは唸ったまま、腰を椅子に戻した。だが、腕は組んだままだった。太い指が、上腕に食い込んでいる。


フィーネの顔から、血の気が引くのが見えた。棘のある物言いをする前に、彼女はまず黙った。それが逆に、怒りの深さを物語っていた。膝の上で、拳が白くなっている。


「規約を理由に、他人の稼ぎを紙一枚で取り上げる」フィーネの声は低かった。「どこかで、見た顔でしょ」


自分の実家の顛末と、目の前の書状が重なっているのが分かった。締め出された取引先の名も、規約という言葉の裏に隠れた欲も、彼女は誰よりも近くで見てきた人間だった。指先が、机の縁を強く押さえている。数字を扱う手が、今だけは何も計算していなかった。呼吸だけが、いつもより浅く速い。


「男爵家と事を構えれば」アーヴィンが低く割って入った。「村ごと潰されかねん。儂は、角の立たぬ形はないものかと、それだけを案じておる」


いちばん穏当に聞こえる案だった。だが、いちばん屈従に近い案でもある。誰も、それを口には出さなかった。アーヴィンだけが、その沈黙の重さを引き受けるように、視線を炉の火に落としていた。代官の顔色を窺い続けてきた男の癖が、こういう場面で真っ先に顔を出す。責めるつもりはなかった。それだけの年月を、この村で耐えてきた男だ。


「四割」ソルが書状の写しを覗き込み、静かに言った。「額ではなく、割合で書いてある」


「それが、どうした」ハーグが初めて口を挟んだ。


「割合は、母数が動けば、いくらでも動く」ソルは書状の一文をなぞった。「今日の四割と、来年の四割は、同じ数字にならない。取り分を、後から動かせるように書いてある」


ハーグは何も答えなかった。答えないことが、そのまま答えだった。指先が、書状の端をわずかに握り直す。それだけの仕草が、ソルの指摘の急所を突いたことを物語っていた。


俺は、視線を書状に向けた。羊皮紙の上質さと、その本文の筆跡のわずかな震え。上等な紙に、慣れない手で急いで書いたような歪みが混じっている。視界の端が、ふっと滲んだ。


『ヴァルデ男爵家の書状/真価:払う当てのない借財の、丁寧な言い換え/世評:由緒ある男爵家の、正式な下命』


嗤う気にはなれなかった。額は視えない。だが、視えなくても十分だった。数字が合わなくなった組織は、まず言葉のほうを書き換え始める。功績も、経緯も、誰が何をしたかも。前世でも、傾いた会社が潰れる直前になるほど、社史や社訓を刷り直すのを何度も見た。中身が空になった箱ほど、外側の装丁だけは立派になっていく。社名を変え、沿革を語り直し、誰もが下を向いたまま拍手だけを続ける。今、目の前にある書状は、その最後の一枚だった。


実家が、ここまで追い詰められていたことに、俺は一拍だけ黙った。捨てられた恨みより、その事実のほうが先に胸へ来た。歳入は往時の四割、と言われたのは、もう何年も前のことだった気がする。だが今日目にした書状の震えた筆跡は、あの数字がまだ底を打っていないことを、静かに告げていた。


板間が、静まり返っていた。フィーネもヴォルクも、俺の沈黙を急かさなかった。炉の火が爆ぜる音だけが、間を埋めている。


「――レイ様?」


ハーグの声で、我に返る。


「明日、広場で答える」俺は言った。「今日のところは、それだけだ」


ハーグは一礼し、それ以上は何も言わなかった。炉の火が、薪を一つ爆ぜさせた。


その夜、宿場の宿に、使者団の宿代が請求された。


「――宿賃を、取ると申すか」ハーグの声が跳ね上がった。「男爵家の名代から」


「銅貨十二じゃ、旦那」老爺が煙管をふかしたまま、平然と答えた。「一人、一泊で」


「値引きの、余地は」


「ないのう」老爺は煙を細く吐いた。「王様が泊まっても、銅貨十二じゃ」


「私も」ゲオルクが震える声で、それでも値を崩さなかった。「その値は、どなた様にも同じでございますので」


「主人は、貴殿らの村を潤しに参ったのだぞ」


「潤していただいた分は」ゲオルクは震えながらも目を伏せなかった。「明日、台帳に記させていただきます。ですが今夜の宿代は、それとは、別のお勘定で」


「勘定を、分けると申すか」


「はい」ゲオルクは声を震わせながらも、その一言だけは崩さなかった。「そこを分けぬと、私どもの商いは、成り立ちませんので」


震える声とは裏腹に、勘定の線引きだけは崩さなかった。この村に来てから、ゲオルクが誰かにこれほどはっきり物を言うのを、俺は初めて見た気がした。


ハーグは何か言いかけて、結局、懐から銅貨を数えて出した。指先が、一枚ずつ数える手つきに慣れていない。数え終えるまで、いつもより長い間がかかった。ヴォルクが横で、こらえきれずに肩を揺らしていた。


「身分があると、値切れると思ってやがる」ヴォルクは低く笑った。「いい面の皮だ」


ヴォルク自身、値をつけられる側だった時期がある。今の笑いには、その頃を思い出すような、少しだけ苦い響きが混じっていた。


「銅貨十二って聞いて、あの顔じゃったからのう」老爺が煙管の灰を落としながら、しみじみと呟いた。「屋敷じゃ、金勘定なんぞしたことなかろうよ」


「私も、初めは震えました」ゲオルクが小さく笑った。「ですが、あの家令様の驚いたお顔を見たら、少しだけ肩の力が抜けまして」


周りの護衛たちから、控えめな笑いが漏れた。制度は、身分の前で例外を作らない。それを笑いの形で見せられたことに、少しだけ胸の底が緩んだ。


使者団の末席に、一人の老人がいた。粗末な外套を羽織り、他の随員より一歩下がって立っている。


「――マルテ」


思わず、名を呼んでいた。屋敷で唯一、俺に茶を運んでくれた男だった。あの朝、御者に餞別を託していたのも、この男だと後から知った。


「レイ様」マルテは深く頭を下げた。「随員に、志願いたしました」


その物言いには、ハーグの乾いた正しさとは違う温度があった。長く仕えた者だけが持つ、静かな敬語だった。峠を二日、老いた体で越えてきたはずなのに、外套の埃を払う仕草にも、疲れをおくびにも出さない。


マルテは油紙の包みを差し出した。


「屋敷に、置いていかれたものです」


開けると、読み古した帳面と、縁の欠けた茶器が一つ入っていた。屋敷を出る前、机の抽斗に放り込んだままにしていたものだ。値打ちのある品ではない。だが、餞別の続きだと分かった。帳面をめくると、鑑定の儀の前に走り書きした、意味のない数字の羅列が残っていた。あの日、待つことしかできなかった自分の手癖だった。


「捨ててしまえばよかったものを」


「捨てられませんでした」マルテは静かに答えた。「レイ様のお手が触れたものです」


老いた指が、油紙の端をそっと畳み直した。長年、屋敷の物を整えてきた手つきだった。


その一言に、他意はなかった。だからこそ、胸の奥に長く残る言葉だった。俺は帳面の表紙を指でなぞった。染みだらけの紙の匂いが、微かに立ち上る。屋敷の誰も見向きもしなかったものを、この老人だけが、ずっと部屋の隅に置き続けていたことになる。


「本邸は、いかがだ」


「……あまり、良いお話は、ございません」マルテは目を伏せた。


「旦那様は近頃、夜更けに帳簿を開いておられます。灯りが、朝まで消えぬこともございます」


窓の外で、火は消えているのに帳面だけが開いたままの部屋を、俺は想像した。眠れない夜、人はみな、似た顔をする。


「昔は、無茶をなさる方だった、と聞いたが」


御者の言葉を思い出して、俺は水を向けた。マルテは一瞬、口を開きかけた。


「それは……」だが、途中で止めた。「……いえ。私の口から申し上げることでは」


沈黙が、少し長く続いた。マルテの視線が、一度だけ窓の外へ逃げ、また戻ってきた。それ以上、聞かなかった。聞けば、この老人に無理を強いることになる。話す日が来るなら、この老人が自分で選ぶ日でいい。


「茶を、覚えている」俺は言った。「あの日、俺に運んでくれたのは、あんただけだった」


マルテは何も言わず、深く頭を下げただけだった。冷えた茶器の縁を、指の腹でなぞる。手の甲に、年輪のような染みが浮いていた。長く同じ屋敷で、変わらぬ廊下を歩いてきた手だった。


宿の灯りが一つ、また一つと落ちていく。窓の外では、峠を守る見張り台の灯だけが、変わらず一つ灯っていた。答えは、もう決まっていた。あとは、それを言葉にして渡すだけだ。


【グランゼ辺境 宿場テラ 広場、朝】

手持ち …… 銀貨三百四十二枚、銅貨十六

共有財布 …… 銀貨七十四枚

申告件数 …… 百三十一件(うち労賃五十五件)

人口 …… およそ二百人


特記───「何も渡さなかった。何も、拒まなかった」


翌朝、広場の台帳の前に、村の顔と使者団が並んだ。羊皮紙が、朝の風にかすかに鳴っている。


「答えを言う」俺は口を開いた。「三つとも、断らない」


ハーグの眉が、わずかに動いた。


「回廊は、台帳に載っている。申告値、銀貨一枚。父上が欲しいなら、その値で買えばいい」俺は続けた。「ただし、買った日から、見張り台も護衛も補修も、ヴァルデ家の勘定だ」


これは、あの峠で関銭の男に告げたのと同じ手だった。今度は、それを身内に同じ顔で向けるだけだ。


「収益の四割」俺は続けた。「持ち分は、売り物だ。うちの護衛長は、百分の三を、命を張って稼いだ。父上が四割欲しいなら、同じ台帳の、同じ値で買えばいい」


村の稼ぎの持ち分も、労賃と同様に、台帳の上でだけ値がつく。口約束では動かせない数字だ。


ソルが帳面に木の棒を走らせ、静かに数字を読み上げた。


その額を、ソルが読み上げた。ハーグの喉が、動いた。


「功績が欲しいなら」俺は最後に言った。「台帳の写しを、持ち帰ればいい。誰が何を申告し、誰が何を建てたか、全部書いてある。好きに読んで、好きに報告すればいい」


隠すことは、何もない。それがそのまま、返す言葉になった。


「――さらに、一つ」


俺は続けた。ハーグの視線が、こちらへ戻る。


「実家の資産も、この台帳に載せていい。旧領の街道でも、関所の権利でも」俺は言った。「載せれば、流通税は取られる。だが、抱えたまま朽ちさせるよりは、回る」


ハーグの慇懃な顔が、初めて一拍、崩れかけた。


「……それは」言葉を探すように、間が空いた。「当家を、その……市の一部として、扱うということで、ございますか」


「そうだ」俺は頷いた。「この市に、外はない」


ハーグは何も言い返さなかった。書状を丁寧に懐へ戻し、深く一礼する。その仕草はいつも通り完璧だったが、腰の角度が、ほんのわずかに浅かった。


馬車に乗り込む直前、ハーグが振り返った。


「――申し上げておきます」乾いた声だった。「アルド様が、直々にお越しになります。セリーヌ様も、ご同行と伺っております」


答えは、返さなかった。


車輪が、来た道を戻っていく音だけが、広場に長く残った。

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