表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/21

第10話「最初の取引」

【グランゼ辺境 テラ村 集会所前・自由市発表、直後】

手持ち …… 銀貨百十二、銅貨十六

来訪者 …… ロラン(村の地所持ち、従者二名)

制度施行 …… 公示査定、初の適用例が発生


特記───「新しい秤は、まず疑う者の手で量られる」


多少、という言葉の軽さが、まだ耳の奥に残っていた。


ロランは笑みを崩さないまま、村人たちの間をゆっくりと歩いてきた。継ぎの当たった着物、日に焼けた首筋、裸足に近い草履――一人ひとりの身なりを数え上げるような視線が、人垣の上を滑っていく。その手には、村では見たことのない細工の指輪。上着の襟には、糸目の細かい刺繍が施されていた。貧しい村の中で、そこだけが異様に浮いている。


村人たちが、無言で道を空けていく。誰も声を上げなかったが、開いていく人垣の隙間そのものが、この男に対する村の距離感を物語っていた。


ヴォルクが剣の柄から手を離さないまま、半歩前に出た。


「何の用だ」


「これは手厳しい」ロランは両手を軽く上げてみせた。「脅しに来たわけではありませんよ、大きな護衛殿。噂を聞いてね。この村に、面白い制度ができたとか」


「噂、ね」ヴォルクが低く鼻を鳴らした。「耳が早いことで」


「なにしろ、この村の隅々まで目を配るのが、地所持ちの務めでしてな」ロランは従者を一瞥した。従者たちは、抱えていた荷を、そっと足元に下ろした。「それに――代官様の覚えめでたい身として、若様の道楽とやらを、この目で確かめておかねば示しがつきませんのでね」


「――ロラン様」アーヴィンが、村人たちの間から進み出た。声は低いが、揺るぎはなかった。「村の集まりに、何用でございましょう」


「これはアーヴィン殿。相変わらず、律儀なことだ」ロランは笑みを崩さずに応じた。「地所を預かる身としては、村の動きには敏感でありたいものでね」


アーヴィンの目が、わずかに細まった。歓迎とは程遠い色が、そこに滲んでいる。だが、それ以上は何も言わず、半歩だけ引いて成り行きを見守る構えを取った。


指輪の光る指先が、意味もなく動いていた。笑みは崩れていないのに、指だけが忙しない。代官の威光を笠に着て、この村で「旦那衆」として振る舞ってきたのだろう。だが、その笠の下で、この男がどれほどの器か。前世で嫌というほど見た型だ。虎の威を借る者は、虎がいなくなった途端、自分の背丈を思い知る。


「面白い、で片づけていいものかどうか、あんたの目でご覧に入れよう」


「ええ、ぜひ」ロランは指輪の光る手を、胸の前で組んだ。「――噂に聞く『公示査定』とやら、この身で試させていただけませんかな。百聞は一見に如かず、と申しますし」


人垣がざわついた。老爺が煙管を口から離し、探るような目でこちらを見る。


断る理由はなかった。むしろ、望むところだった。制度は、口で説いてもなお疑われる。動いてこそ、証明になる。


「好きにするといい。持ち物を申告すれば、公示査定は誰にでも開かれている」


ロランの口元が、笑みのまま、強張った。ほんの一瞬のことだった。見間違いかもしれない。だが、その揺らぎを、見逃す気はなかった。


「では、さっそく」ロランは従者の一人に目配せすると、懐から丸めた紙を取り出させた。「実は、こちらに目録も用意してまいりましてね。用意のいいことは、悪いことではありますまい」


用意周到さが、かえって引っかかった。噂を聞きつけて、その日のうちに目録まで整えてきた。この男は、何かを見越して動いている。


受け取った紙を広げると、達筆な字で品目が並んでいた。だが、内容は妙に薄い。土地の広さも、境界も、大まかにしか記されていない。紙の端に押された印章だけが、やけに立派だった。


「随分と、あっさりした目録だな」


「なにぶん、急なことでしたので」ロランは笑みを崩さずに答えた。指輪の嵌まった指が、紙の端を撫でる。「詳しくは、口頭で申し上げましょう」


紙を畳んで懐にしまいながら、視線だけを人垣に走らせた。値の話をする前から、既に聴衆の反応を測っている。この男は、値付けよりも先に、人の顔色を読む方を得意としているらしい。


「では、伺おうか」促すと、ロランは一度、大きく息を吸った。芝居がかった仕草だった。


人垣の後方で、フィーネが小声でソルに何か耳打ちしているのが見えた。ソルは無言のまま帳面を構え直し、木の棒を握り直す。準備は、既に整っていた。


「――ソル」


呼ぶと、木陰から戻ってきたソルが、無言で帳面を開いた。地面に片膝をつき、木の棒を手に取る。


「申告する品と、値を言え」ソルが顔も上げずに言った。


「村外れの、あの空き地ですよ」ロランは丸めた紙を畳みながら、軽く手を振った。「もう何年も、誰も手を入れていない痩せた土地です。……そうですな、銀貨にして三枚といったところでしょうか」


さらりと口にされた数字に、一拍の間があった。ざわめきが、また一段大きくなった。


「三枚?」畑を耕す男の一人が声を上げた。「ロラン様の地所は、村の入り口に近い、あの広い……」


「口を慎め」従者の一人が、鋭く男を睨んだ。


「黙らなくていい」フィーネが割って入り、男の前に立った。腕を組み、ロランを見据える。「安く言うのは、あの人の勝手。だけど――安く言えば、それだけ損をする仕組みだって、さっき説明したばかりでしょ」


ロランの視線が、一瞬だけフィーネへ動いた。何かを見極めるような、逆に見透かされているような、そんな間があった。


「これは異なことを」ロランは軽く肩をすくめた。「取るに足らぬ空き地一つのことで、そう気色ばまれずとも」


「取るに足らない、かどうかは、これから分かることでしょ」


「損、とは?」ロランは涼しい顔で問い返した。「税が軽くなるのなら、得ではありませんかな、お嬢さん」


「税だけの話じゃないの。あんたが安く申告したその値段で――」


フィーネが言いかけたところで、ソルが棒の先を地面に置いた。


「三枚、記録した」抑揚のない声だった。「これで、正式な申告として扱う」


木の棒が土を削る、乾いた音が響いた。羊皮紙の端が擦れ合う音に混じって、帳面のページがまた一枚めくられる。指先についたインクの染みが、羊皮紙の余白にわずかに移った。ソルは気にする様子もなく、次の行に線を引いた。


ロランは、まだ何かを言いかけていたが、記録された、という一言で、それ以上の言葉を呑み込んだようだった。


「土地の広さは、どう測るんだ」誰かが疑問を口にした。


「歩幅で測る。ソルが、後で確かめる」フィーネが即答した。「誤魔化しても、無駄よ。この人、そういうの見逃さないから」


ソルは無言のまま、小さく頷いた。指先のインクの染みが、灰色の外套の袖口にまで及んでいる。長年、帳面と向き合ってきた証だった。


「安く言えば、税は軽くなる」フィーネが村人たちに向き直り、続けた。「でも、その代わり――申告した値段そのままで、誰かがその土地を買っていい。それが随意買取。忘れたの、さっき説明したばかりでしょ」


「まさか」老爺が煙管を仕舞いかけた手を止めた。「ロラン様の地所を、村の誰かが買うっていうのかい」


「村の誰か、とは限らない」フィーネの視線が、俺の方へ動いた。「――買う金を持ってる奴なら、誰でも」


「そんな金、この村の誰が持ってるってんだ」畑を耕す男が、周りを見回しながら言った。誰も、答える者はいなかった。持っているはずがない、という顔だった。


人垣の視線が、一斉にこちらへ集まった。


ロランも、つられるようにこちらを見た。その顔に、まだ余裕の笑みが残っている。この場の誰も、自分の申告値を本気で覆せるとは思っていない――そういう油断が、笑みの形に表れていた。


ロランは、まだ笑っていた。だが、その笑みの端に、初めて小さな翳りが差したのを、見逃さなかった。


「その土地を、俺が買う」


静かに言った言葉が、集会所前の空気を止めた。


ロランの笑みが、初めて完全に崩れた。


「――は? 今、何と」


「銀貨三枚。あんたが申告した値段で、あの空き地を買い取る」懐の革袋に手をかけながら、続けた。「随意買取だ。文句はないな」


「お、お待ちください」ロランの声が、急に上ずった。「あれは……あの土地は、先祖代々受け継いできた、大切な……」


「先祖代々、何年放っておいた」ヴォルクが横から低く言った。「誰も手を入れてねえ痩せた土地だと、てめえの口で言ったろうが」


「そ、それとこれとは話が別で……」ロランは後ずさりながら、なおも言葉を継ごうとした。「そもそも、随意買取などという条項、本当に効力があるのかどうか……」


「効力なら、俺が今、証明している」


言い切ると、周囲の空気が、一段と張り詰めるのが分かった。


ロランの目が泳いだ。従者二人が、主の顔色を窺うように、目を伏せた。慇懃さの下から、焦りの色がにじみ出ていた。バルドの時に見た怯えとはまた違う、もっと小さく、もっと見苦しい狼狽だった。


人垣は、水を打ったように静まり返っていた。誰もが、この先の成り行きを見届けようと、息を潜めている。


視界の端に、もう一度文字が滲んだ。


『ロランの空き地/真価:村の道と道が交わる場所に眠る、隊商を留め置くための広さ/世評:痩せた空き地、二束三文』


真価は、銀貨にして四十八枚相当。申告された三枚とは、十六倍の開きがあった。ロランがこの土地の本当の価値に気づいていなかったとは思えない。気づいた上で、安く申告すれば税だけで済むと高を括っていたのだろう。この辺境で、銀貨を積める者などいない――そう見くびっていたに違いない。


革袋から銀貨を三枚、数えて取り出した。日差しを受けて、鈍い光が手のひらに落ちる。硬貨同士がぶつかる音が、静まり返った人垣の中で、やけに大きく響いた。


「受け取れ。これで、あの土地は俺のものだ」


手のひらに乗せられた銀貨から、ロランはしばらく目を離せずにいた。それから、ようやく俺の顔を見た。何かを言おうとして、口を開いたまま、言葉が出てこなかった。


「――ま、まさか、本当に……」


「本当に、だ」ソルが横から、帳面に何かを書き込みながら言った。「申告は成立している。今更の撤回は認められない」


言い切って、羊皮紙に木の印を押しつける。乾いた音が、やけにはっきりと響いた。


人垣から、どよめきが上がった。


「本当に、買われた……」誰かが呆然と漏らした声が、静けさの中に落ちた。老爺が、煙管を握ったまま、口を半分開けて固まっている。


畑を耕す男が、隣の女房と顔を見合わせた。「見たか、今の……」「見た。見たけど、信じられないねえ」二人のやり取りが、囁き声のまま人垣の中を伝わっていく。


ヴォルクが、口笛を短く吹いた。「言ったろ、坊主がそう決めたら、そうなるってな」


ロランは、握らされた銀貨を、まじまじと見下ろしていた。慇懃な笑みは、もうどこにもない。


「――は、はあ……」


意味のない声を漏らしただけで、それ以上、言葉は続かなかった。従者二人が、主の顔色を窺いながら、後ずさっていく。


「地所の権利は、これで村の台帳に移った」ソルが、羊皮紙をロランに向けて示した。「異議があるなら、今のうちに言え」


従者の一人が、ロランの袖を控えめに引いた。何かを耳打ちしようとしたが、ロランはそれを振り払うように腕を動かしただけだった。


ロランは、何も言わなかった。言えなかった、というのが正しい。


その日の午後、俺たちはあの空き地に立っていた。


村の道と道が交わる、村外れの一角。雑草に覆われた地面は、確かに何年も鍬の入っていない痩せた土に見えた。だが、天秤の眼が見せた真価を思い出せば、この場所の意味は違って見える。踏みしめた土は硬く、乾いた匂いが鼻先をかすめた。遠くから、隣接する畑の作業唄が、途切れ途切れに風に乗って聞こえてくる。


「――ここを、どうする気だ」ヴォルクが腕を組み、雑草を踏みしめながら尋ねた。


「荷を留め置く場所にする。岩塩や、マレアから運んだ品を、いったんここに積む」


「隊商の……溜まり場ってやつか」


「そうだ。回廊とテラ村を繋ぐ、荷の中継地にする」


説明している間にも、噂を聞きつけた村人たちが、ぽつぽつと集まり始めていた。子供を抱いた女房が、遠巻きにこちらを窺っている。畑を耕す男が、鎌を片手に雑草の丈を確かめている。


「ここを、耕していいのか」


「耕していい。荷置き場の分を除けば、好きに使え。育てた分は、お前の物だ」


男は、しばらく無言で地面を見つめていたが、やがて鎌を振るい始めた。雑草が刈られていく乾いた音が、静かな空き地に響く。刈った草の青臭い匂いが、風に乗って漂ってきた。


つられるように、もう二人、三人と鎌を手にする者が増えていった。誰かが荷車を引いてきて、刈った草を積み始める。轍の跡が、乾いた地面に新しく刻まれていく。半刻前まではただの雑草地だった場所が、少しずつ、人の手の入った土地に姿を変えていた。


「あの狸め」老爺が煙管をくわえたまま、愉快そうに目を細めた。「三枚で放り出すとは、間抜けなことをしでかしたもんだ」


「間抜けなんじゃない」フィーネが土を踏みしめながら言った。「甘く見てただけ。この村に、銀貨を積める奴がいるなんて、思ってもみなかっただけよ」


人垣の後ろの方から、店主が控えめに顔を覗かせていた。数日前の集会では、最後まで俯いたまま顔を上げなかった男だ。


「――本当に、買い取っちまったんですねえ」店主は、耕された土地と俺の顔を見比べながら、掠れた声で言った。「代官様に睨まれやしませんか、これで」


「睨まれても、やることは変わらない」


店主は何か言いかけて、口をつぐんだ。それでも、その場を離れようとはしなかった。怯えの色は、まだ消えていない。だが、以前ほど深くはなかった。


「その銀貨、稼いだのは坊主だけどな」ヴォルクが片頬で笑った。


「坊主じゃなくて、レイ」フィーネが即座に訂正した。「いい加減、名前で呼びなさいよ」


「呼び慣れねえんだよ、こっちは」


軽口の応酬に、周りの村人たちからも、小さな笑いが漏れた。張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。


少し離れた場所で、ソルが帳面を広げ、木の杭に何かを書きつけていた。


「――何してるんだ、それ」畑を耕していた男が、興味半分で覗き込んだ。


「境界を記録している」ソルは顔も上げずに答えた。「誰の土地で、何に使われているか。曖昧にしておくと、後で揉める」


「随分、几帳面なんだな」


「几帳面なのではない。曖昧さは、不正の温床になる。私は、それを知っている」


素っ気ない答えに、男は少したじろいだ様子で離れていった。ソルは気にする素振りも見せず、杭に数字を刻み続けた。その横顔に、フィーネが小さく笑いかける。


「今日から、あんたも村の台帳係ね」


「元から、そのつもりだ」


村長アーヴィンが、耕された土地を端から端まで見渡してから、静かに歩み寄ってきた。


「――坊ちゃんの言っていた仕組みが、ようやく目に見える形になったな」


「まだ、一件だけです」


「一件でも、ゼロとは違う」アーヴィンは、色褪せた地面を踏みしめた。「儂は、長いこと、この村が変わるところを見たことがなかった。今日、初めて見た」


短い言葉に、万感が滲んでいた。


日が傾き始める頃には、空き地の半分近くに、雑草に代わって耕された跡が広がっていた。刈られた草の山、荷を運ぶための轍、誰かが打ち込んだ杭の列。数刻前まで死んでいた土地が、確かに動き始めていた。


村人たちの顔に浮かぶ表情も、朝とは違って見えた。半信半疑の色は、まだ完全には消えていない。だが、疑いの奥に、何か別の光が差し込んでいる。


これが、最初の一件だ。まだ、一区画に過ぎない。それでも――


遠く、村の入り口の方角から、馬の蹄の音が近づいてきた。


蹄の音は、一頭だけではなかった。二頭、いや三頭。荷馬ではない、速歩の音だ。


ヴォルクの手が、すでに剣の柄にかかっていた。


道の向こうから、土埃を上げて駆けてくる馬影が見えた。先頭の一頭に跨っているのは、見覚えのある顔だった。以前、村長宅を訪ねてきた、代官の取り巻きの男だ。


男は空き地の手前で馬を止めると、荒い息のまま、周囲を見回した。耕された土地、集まった村人たち、そして俺の姿を順に見て、露骨に顔をしかめる。


「――何の騒ぎだ、これは」


誰も答えなかった。男は舌打ちすると、馬首を返し、来た道を戻っていった。速歩だった蹄の音が、今度は駆け足になって遠ざかっていく。


「代官様に、報告しに行ったな、ありゃ」老爺が煙管の煙を吐きながら言った。それから、声を落として付け加えた。「――そういや、小耳に挟んだんだが。代官様、先週あたりから、隣領の徴税官を村へ呼び寄せる算段をしてるらしいぞ」


否定はしなかった。


――バルド。


制度は、動き出した。向かってくるものも、これから大きくなる。


だが、退く気はなかった。


村人たちのざわめきが、歓喜と不安の入り混じった色を帯びていた。それでいい。何も感じないより、よほどいい。


耕された土地に目を戻す。数刻前まで死んでいた土地が、今は確かに息をしている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ