最終話「至高天」
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西暦七〇二三年。エイレーネ・コロニー。
みくは百十八歳になっていた。
人類の平均寿命は宇宙歴以降も着実に伸び続けており、七千年代の地球圏では百二十歳を超えることは珍しくない。ただし「珍しくない」と「当たり前」は違う。百十八年という時間は、人間の肉体と精神にそれなりの重みを残す。みくの髪は完全に白くなり、顔には深い皺が刻まれ、歩くときには杖が要った。
透は三十年前に死んでいた。
原因は心臓他諸々。透は遺伝的にも爆弾持ちで、年を経れば経るほど全身がボロボロになっていった。当時の医療技術をもってすれば延命も可能ではあったが、透はそれを拒否した。
「体の九割をサイバネにしてまで生きたくないよ」という理由だった。
みくは泣いたが、引き止めなかった。人間には止まる権利があるし、みくも透の気持ちが分からないでもなかった。
以来、みくは一人でエイレーネに住んでいた。
研究者としては既に一線を退いている。ティルヴァスの結晶樹に関するみくの論文は百本を超え、収斂進化の問題に対する論文は標準理論の一角を占めるまでになった。
だがそれも遠い昔の話だ。
今のみくは時々若い研究者の相談に乗り、時々コロニー内の公園を散歩し、時々透の写真に話しかける普通の老人でしかない。
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その日、みくは窓の外を見ていた。
エイレーネの初雪が降っていた。毎年この時期に降る。原因不明の、管理局も匙を投げた初雪だ。
技術者が何をどう修理しようが九十年間欠かさず降り、やがて管理局も匙をなげて、このコロニーの味として受け入れてしまった現象である。
白い粒が人工芝の上に積もっていくのを眺めながら、みくはふと思った。
石を返しに行こう、と。
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石というのは比喩である。
十八歳のとき、渡月橋の上でみくは小さな石ころを一つ、ポケットにしまった。これも比喩だ。物理的な石ではない。だが確かにそこにあった。銀色の髪が自分の名前を呼んだ瞬間に、何かがみくの内側に落ちたのだ。だから拾い上げてポケットにしまった。
それから百年、みくはその石を持ち歩いていた。
みく自身はその石を恋に類するなにかだと思っていたが、恋ではなかった──三十歳のとき、みくはそう結論を出した。
正しい結論だったと今でも思う。
ニヴィスとみくの間にあったものは、恋と呼ぶには形が違いすぎた。水族館の硝子越しに見る深海魚との関係を恋とは呼ばない。
だが何かではあったのだ。
何であったかは百年経っても分からない。
分からないままみくは石を持ち続けた。
みくはそれを返しに行くべきだ、と思った。
なぜ今なのかは、みく自身にも説明できなかった。ただ、時間が来たのだと感じた。
そうしてみくは旅支度を始めた。
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エイレーネから地球まで高速航路で十二日。
まあちょっとした旅行のようなものである。
船内でみくは窓の外を見て過ごした。
量子圧縮航法の航行中、窓の外には何も見えない。圧縮された空間は光を伝えないため、窓はただの黒い板になる。それでもみくは窓の前に座った。見えないものを見ようとする習慣は、研究者の職業病のようなものだった。
十二日目の朝、船は地球軌道に入った。
窓の外には青い惑星──母なる地球。
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京都。十月末。
地球に降りたみくは、そのまま京都に向かった。新幹線という乗り物はもう存在しない。代わりにリニア真空チューブが日本列島を縦断しており、東京から京都まで三十秒で着く。ちなみに本来ならばさらに速度を上げることが可能だが、それをすると乗客がひき肉になってしまうのでこの速度で留まっている。
京都駅に降り立ち、深呼吸をすると──。
まず、空気が違った。エイレーネの人工空気とは違う、本物の惑星の空気だ。匂いがあり、湿度がある。そして温度にむらがある。人間の肺はこの空気を吸うための適切な進化をしたのだ、などとみくは思う。
渡月橋まではバスで三十分だった。
人間というものは遥か未来に於いてもクラシックなものを好むヘキがある。
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嵐山。渡月橋。
百年前と同じ場所に、同じ橋が架かっていた。
桂川は静かに流れ、山は紅葉に染まり、橋の上には観光客がまばらに歩いていた。みくは杖をつきながら橋の中央まで歩いた。欄干に手をついて、川面を見下ろした。水は恐ろしいほど澄んでいる。
──きっと彼は来る。
水面を眺めながら、みくはそんな確信を覚えていた。
彼とは誰か、言うまでもないだろう。
銀色の髪。灰色の瞳──至高天の第一王子ニヴィスである。ニヴィスが至高天であると知ったのはもう随分前ではあるが、それでもみくにはニヴィスに対して畏れのようなものは覚えなかった。確かに自分とは違う、違いすぎる存在なのかもしれない。しかし、それでもニヴィスは「にびすくん」なのだ。
「みく」
背後から、声。
みくは振り向いた。
そこにはニヴィスが立っていた──百年前と同じ姿で。一ミリも変わらない少年の姿で。至高天の民にとって百年は文字通りの刹那だから当然のことだ。
「にびすくん」
ニヴィスの灰色の瞳が、みくを見る。
「……」
相変わらずの沈黙。百年経っても変わらない。
みくは笑った。
「変わらないね、にびすくん」
「……」
「私はこんなになっちゃった」
みくは自分の顔を指差した。皺だらけの、白髪の、百十八歳の顔を。
ややあって、ニヴィスはほんの少しだけ首を傾げた。
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しばらく二人は並んで橋の上に立っていた。
みくが何か言ってもニヴィスは黙っていた。百年前と同じだ。何も変わっていない。変わった──と思い込んでいるのはみくだけであった。
「ねえ、にびすくん」
みくは欄干に腕を載せた。
「ありがとうって言おうと思ってたんだけど」
「……」
「何にありがとうなのか、自分でも分からなくて」
川面に紅葉が一枚落ちた。赤い葉が水に浮かび、流れていく。
「ああ、そうだ、雪」
みくは言った。
「エイレーネに毎年降る雪。あれ、にびすくんでしょ」
「……」
「違う?」
ニヴィスは答えない。しかし、みくもこの百年で沈黙にも色々な種類の沈黙があることを学んでいる。
やっぱりね、とみくは笑った。
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みくが歩き出すとニヴィスもそれについていく。傍から見れば祖母と孫といった風情だろう。やがて橋の半ばでみくは足を止め──
「帰るね」
と一言。
「もっと話したい事があったの、本当は。私もこの年だし──最近はそろそろかなって思って。健康診断ではどこか悪くなっているわけじゃないんだけどね。でもそういうのって何となくわかるでしょう?」
でもね、とみくは杖を握り直す。
「にびすくんに逢ったら、言わなくても伝わるんだなぁって思っちゃった。ほら、そういうのって何となくわかるでしょう?」
そう、ニヴィスには地球人という木っ端、いや、微生物にも等しい存在のあらゆることが分かる。分かるだけではない、どんな干渉だって出来る。何だったらみくを若返らせて、もう百年ほど寿命を延ばしてやる事も造作もない。みくが望むならば千年二千年を生かしてやる事だって出来るのだ。
しかし、やらない。
分かるからこそ、やらないのだ。
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みくは翌年の春に死んだ。
百十九歳。老衰だった。眠るように逝ったと記録にある。苦しまなかったことだけは確かだった。
葬儀はエイレーネ・コロニーの中央墓地で行われた。参列者は二百名を超えた。かつての教え子たち、研究仲間たち、コロニーの隣人たち。みくは静かに生き、静かに死んだ。
ニヴィスは生まれて初めて、何かを失った。
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何処でもない場所で、プルーウィアが「あら」と言った。
「あの子が泣いていますわね」
泣く、という言葉は比喩である。至高天の民に涙腺はない。だがプルーウィアの認識において、弟の状態を表現する最も適切な言葉が「泣いている」だった。
「可哀想に」
プルーウィアは微笑んだ。
「でも、そうやって大人になっていくものですから」
大人になれずに、この宇宙の機構の一部となり果てる至高天は枚挙に暇がない。
プルーウィアらの両親も、彼女らの民も皆そうだ。
ある者は宇宙を形作る法則の一つとなり、ある者は銀河を産み出す卵となった。ある者は、ある者は、そしてある者は──。
結局残ったのは彼女らを含む、極々少数の至高天だけだ。
いずれは自分達も、何百億か何千億かの時の流れの果てに消えゆくのだろう──理屈では分かるが、プルーウィアはそれがどうにも寂しかった。
ちなみに自身の変容という名の滅びに対して、至高天が思う所は様々である。
プルーウィアは前述したとおり寂しさを。
セレスティアは退屈さを。
ニヴィスは諦めを。
それを避けるためには波紋が必要であった。
しかし、波紋はきっかけがなければ発生しない。
そして、ニヴィスの心にはすでに泡が生まれている。
その泡は弾けてしまったが、弾けた泡の痕跡が水面に波紋を残している。
波紋はいずれ消えるだろう。
だが消える前に別の波紋とぶつかるかもしれない。
ぶつかれば新しい模様ができる──プルーウィアはそれを成長と呼んでいる。
(完)
これで完結です。ありがとうございました。




