第十三話 限界を越えて。やっと見つけた希望
フレアの体温は、太陽のように熱かった。
普段なら、それは少女にとって最高の暖房器具だっただろう。だが今夜に限っては、その熱量が地獄だった。
(……あつい。苦しい。そして……もれる)
深夜の屋敷。
少女はフレアのベッドの上で、この生で最大の危機に直面していた。
原因はわかりきっている。
体力を回復させようと、フレアに勧められるまま、半ば無理やり特製スープ(栄養満点らしい)を飲まされすぎたのだ。
その結果、少女の膀胱は限界を超えようとしていた。
(トイレ……トイレ行きたい……!)
だが、動けない。
少女の体は、フレアご自慢の「守護の繭(ドラゴニック・ニット)」によって、足の先から首元まで完璧に梱包されていた。
その拘束力はミノムシも裸足で逃げ出すレベルだ。指一本動かせない。
さらに悪いことに、その上からフレアが抱き枕のようにガッシリと抱きついている。
鍛え上げられたしなやかな腕が、少女の体を「絶対安全圏」という名の檻に閉じ込めていた。
(ふ、フレアさん……起きて……! お願いだから……!)
必死に身をよじった。
冷や汗が額を伝う。
下腹部に一点集中する圧迫感。波が寄せては返すように襲ってくる尿意の荒波。
このままでは、尊厳にかかわる大事故が起きてしまう。
「……ん……むにゃ……」
フレアが寝言を漏らした。
今だ。
少女はありったけの力を振り絞り、布の中で芋虫のように「もぞもぞ」と激しく振動した。
その異様な動きに、ようやくフレアの意識が浮上したらしい。
「……む。どうした、小さいの。まだ夜明け前だぞ」
フレアが薄く目を開ける。
助かった。少女が安堵の息を漏らそうとしたが、反応は期待したものではなかった。
「……ッ! その震え……さては、呪いの発作か!?」
ガバッ、とフレアが跳ね起きた。
寝ぼけまなこが一瞬で消え去り、そこには歴戦の騎士の鋭い眼光が宿っていた。
「くっ、やはり魔の刻(深夜二時)か……! 貴様の体を内側から突き動かそうとする邪悪な衝動……許せぬ!」
(ち、違うの! そういう精神世界なやつじゃないの!)
少女は必死に首を振ろうとしたが、固定されていて、ちょっとしか動かない。
フレアは少女の両肩をつかむと、真剣な顔でうなずいた。
「案ずるな! 我が一族に伝わるこの聖なる布は、いかなる邪な動きも外へは逃がさぬ! ほら、もっときつく巻いてやろう! 魔に負けるな、私と共に戦うのだ!」
ギリッギリッ!
フレアは親切心百パーセントの善意で、固定用の革ベルトをさらに一段階きつく締め上げた。
下腹部にかかる圧力が倍増する。
「――――ッ!?」
少女の口から、音にならない悲鳴が漏れた。
限界を突破する寸前だった。
視界がチカチカと明滅する。
これ以上圧迫されたら、物理的に中身が出てしまう。
(もう、なりふり構っていられない……!)
涙目になり、必死の形相で暴れた。
首を激しく左右に振り、口をぱくぱくと開閉。それから部屋のドアの方を、あごで、視線で、ありったけの魂を込めて指し示す。
顔は真っ赤に茹で上がり、瞳からはポロポロと生理的な涙があふれ出していた。
(わたし、正気! おしっこ、いかせて!)
さすがのフレアも、その異様な気迫に違和感を覚えたらしい。
ベルトを締める手を止め、数秒間、彫像のように固まった。
「……む。ドア……外へ行きたいのか? ……まさか」
フレアの視線が、少女の下腹部付近に向けられる。
そして、ハッとしたように顔を上げた。
「肉体の、物理的な放出を望んでいるというのか?」
親の仇を討つような勢いで、拘束が許す限りぎこちなく、しかし激しく、何度も何度も首を縦に振った。
「……! す、済まぬ! 貴様の精神があまりに高潔なゆえ、肉体の限界という概念を失念していた! 今すぐ解放する、耐えろ! 耐えるのだ、騎士の家族として尊厳を守り抜け!」
フレアが超人的な手つきで革帯を解き、布をひっぺがす。
自由を得た瞬間、少女は矢のような速さでベッドから飛び降り、廊下へと駆けていった。
その小さな背中を見送りながら、フレアはガックリとうなだれた。
「……いかんな。愛が過ぎて、生理現象まで封印するところであったわ……」
* * *
翌朝。
危機を脱した少女は、スッキリとした顔でベッドの上で目を覚ました。
梱包はすでに解けている。
昨夜の地獄が嘘のようだ。
体は宙に浮くほど軽く、数日前までの身体のだるさはどこへやら。ミノムシの中であれだけ暴れたのに、筋肉痛ひとつない。
(……元気になった。昨日までの苦しみが、全部夢だったみたい)
少女はふと、疑問に思った。
でも、こんなに元気になるなんて。まさか、魔物としての本能が、フレアから致命的な何かを奪ってしまってはいないか。
隣には、すでに身支度を整え、窓辺に立っているフレアの背中があった。
朝日を浴びるその姿は、神々しいまでに絵になっている。
少女は恐る恐るベッドを降り、フレアの服の裾をつかんで、心配そうにその顔を覗き込んだ。
「おはよう、小さいの。……おや、どうした? そんなに不安そうな顔をして」
振り返ったフレアの顔を見て、目を丸くした。
肌は驚くほどツヤツヤとしていた。
瞳には力が宿り、全身からあふれる覇気は、出会ったころよりもむしろ増しているように見える。
疲れているどころか、エネルギーが有り余って発光してしまいそうだ。
「……ああ、さては私の体調を案じているのだな? 優しい子だ」
フレアは綺麗な顔を崩して笑い、力強く少女の頭をなでた。
「案ずるな! 見ての通り、絶好調だ。……いや、絶好調すぎるかもしれん」
フレアは自身の掌をグーパーさせながら、不思議そうに首を傾げた。
「一晩中、貴様を抱いて寝たおかげか、長年の悩みであった肩の凝りが消え、古傷の痛みすら消え失せた。まるで、余分な不純物が抜け落ち、純粋な闘気だけが残ったような……」
少女は思う。もしかして、わたしがもらったのは「あまった元気」だったのだろうか。
「今の私ならば、飛竜の群れ相手でも素手で倒せそうだ! よし、まずは朝の光を浴びようか!」
フレアが快活に言い放ち、鎧戸を勢いよく開け放とうとした、次の瞬間。
ベキィッ! ガガガッ!
景気の良い破壊音が響き渡り、鎧戸どころか窓枠ごと豪快に外れた。
朝日が差し込む……というより、壁に大穴が開いた。
庭に転がる窓枠と鎧戸。
「……ん?」
ポカンと口を開けた。
フレアは手の中の残骸を見つめ、気まずそうに目を泳がせた。
「おっと、いかんな。指先に少し力が入りすぎたようだ。……体の芯が軽すぎて、力加減が追いつかん!」
フレアはガハハとその顔に似合わぬ笑い声を出しながら、「まあ良い、換気が捗る!」と誤魔化し、今度は朝食の用意を始めた。
テーブルの上には、昨夜の残りの硬いバゲットが置かれている。
彼女はナイフを構え、軽やかに手を下ろした。
ガキンッ!
またしても鋭い音が響く。
バゲットが抵抗する間もなく切断された。
ついでに、その下の木の皿も、さらにその下の頑丈な大理石のテーブルまでもが、真っ二つに両断されていた。
テーブルの断面は、鏡のように滑らかだった。
「…………」
少女はおののいた。
パンを切っただけだ。魔法も剣技も使っていない、ただの「日常動作」でこれだ。
「……む。テーブルまで切ってしまったか。名工が鍛えた業物でも、これほどの切れ味は出せまい。体中の気がよどみなく循環し、剣気が指先までみなぎっている証拠だな! 素晴らしい!」
フレアは胸を張り、『これが絶好調だ』とでも言いたげに笑った。
(よかった……。フレアさんは強いから、わたしが甘えても大丈夫なんだ!)
昨夜、自分が「化け物」だと自覚して、震えていたことが馬鹿らしく思えてきた。
わたしは心配していた。いつか飢えに負けて、この人を傷つけてしまうのではないかと。
けれど、目の前の惨状(真っ二つのテーブル)を見れば分かる。
(わたしなんかじゃ、この人には傷一つ付けられない。……食べようとしたって、逆にこっちの歯が折れちゃうよ)
机が真っ二つになったことへの驚きよりも、フレアが元気であることへの喜びが勝った。
安堵し、フレアの笑顔に釣られてニッコリと笑った。
理由はわからないけれど、この「過保護な騎士」の側にいれば、自分はもう寂しさで震えることはない。
そしてフレアも、わたしと一緒にいると元気になってくれる。
(これなら、わたし……ずっとここにいられるかも)
少女は、フレアのたくましい腕に自分からそっと頭を寄せた。
フレアは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに慈愛に満ちた表情で、小さな体を抱き寄せた。
「よし、よし。案ずるな。これからも、この私が貴様をあらゆる害悪から、そして貴様自身の『呪い』から守り抜いてみせよう」
その言葉は力強く、そして温かかった。
少女は目を閉じ、その体温に身を委ねた。
トイレ騒動を経て、二人の凸凹な共生関係は、奇跡的なバランスで成立した。
しかし、その幸せな確信は、意外なところから崩れ去る。
次回、二人の世界に忍び寄る「過去」の影。無自覚に振りまかれた魅力が、最悪の形で再来する。




