068
ここから少し、アイリスから聞かされた、主語も述語も言い回しも何もかもが滅茶苦茶で、順序やら時系列やらのしっちゃかめっちゃかになってしまった話を整理し、統合し、纏め直す作業に入る。当然ながらその全てがアイリス視点の話で、アイリスの思考回路が基準となった話なので、正直なところ、それがどこまで本当なのかという点については、かなり怪しいものだと思っている──色々と抜け落ちているのだろうし、色々とアイリスにとって都合よく改変されていたりもするのだろうと睨んでいる。全てが噓であるという前提を持つ程でもなかったが、しかしその可能性だって捨ててはいない。
だが──その上で、そう言った疑念だとか何だとかを抜きにして、アイリスの話を真として、話を一から組み立て直す。
何があったのかを知るために。
自分がクロユリ達とピクニックに興じていた頃、アイリスは昨日と同様アジサイの部屋で本を読んだり、アジサイと共に色々なことをしてみて、それを経て感じたことを逐一書き記していくと言うようなことを行っていた──アジサイの持つ服を着てみたり、少し早めだがビニールプールを引っ張り出して遊んでみたり、昼にはアイリスが一人で料理をしたりして、楽しく過ごしていたそうだ。様々な経験を積めば、アジサイから出されたお題も、何か取っ掛かりが掴めるだろうということで。
そうして昼を摂り終えたアイリスは、屋敷の中をうろうろとしてみたり、アジサイと共に屋敷の周囲の森の中を軽く散策し、草木を観察したり、虫を捕まえたりというようなことをして、引き続き午後の時間を過ごしていたのだった。
△▼△▼△▼△
「見てくださいアジサイ。小さい生物が歩いています。これは何という名前ですか?」
アイリスは屈み、足元を這う一匹の虫を指差して。
それからアジサイの方に顔を向けて、問いかけた。
「え。私虫にはあまり詳しくないんですが……。……あぁ、確かこれは──」
「あ、見てくださいアジサイ! 赤い花が咲いてます。これは何ですか?」
「えぇ……? ……えっと、それはジャジーです。こんなところにも咲いてるんですね」
アジサイは腰を軽く曲げると、髪を軽く掻き上げ、ジャジーを観察する。
「ジャジーというのですね。記憶しました。ですが……こういった花には、個別の名前は存在しないのですか?」
「個別の……? あぁ、私達みたいな名前を持たないのか、と?」
「はい。どの花を呼ぶ時も、同じような見た目をしていれば、その呼び名は同じになります。それは少し悲しいことだと思います」
言ってから、アイリスは急いでノートとペンを取り出すと、今感じた悲しさについて記述した。
花に名前がないのは悲しい──しかしそう書いて、アイリスは本当にこれで正しいのだろうかと首を傾げる。
「うーん。まぁ、育てている花に名前を付ける人もいることはいるそうですが……」
アジサイは言う──視線を泳がせながら。
「でも確かに、それはその人がそう認識しているというだけで、花自身がその名を名乗るわけではありませんしね……」
そこで一度切って、続けた。
「でも、そもそもの話をするのであれば、名前という概念が必要なのは人間だけなんですよ。他の野生動物などとって大事なのは、目の前にいるそれが何と言う名前なのかではなく、敵か否か、危険か否か、捕食可能か否か、くらいのものですから」
「何故名前を求めるのですか?」
「さて……それは分かりません」
「分からないのですか?」
「分からないと言うより、考えても無駄なんです。恐らく本能でやっていることなので、そこに理性の側から理屈を求めても、結局はそれらしい理由付けにしかなりません」
「本能……本能であらゆる物事を区別しているのですか? それはよく分からない行動です。本能とは生物が生きる為に取る行動ではないのですか?」
「えぇ、そうですよ。そして区別することは、人間が生きる為に必要なことでもあります。元来、動物というのは基本的に、自分と同族、そしてそれ以外という程度の区別しか持ち合わせてはいません。ですが人間は高い知能を有したが故に、これらを区別する能力を得ました。そして更には言葉を持ち、文字を作り出し、それを理解することの出来る同族に物事を伝えられるようにもなりました──すると、食べても問題の無いものや、逆に食べると危険なもの、森の中の安全な道や、危険な道など、そういった情報を共有出来るようになったわけです。そうなると、何が安全で何が危険なのかを、フワフワとしたそれ以外から、明確に区別する必要が出てくる──名前を付け、特徴を調べ、それを共有する……そう言った行為は、まぁ確かに本能かと言われると厳密には違うのかもしれませんが、そう言ってしまって差し支えのない程度には本能的な行動だと思います」
「ふむぅ……。なら、名前を持っていても、結局そこに意味はないということなのですか? ただ区別するためのものでしかないのですか?」
「その辺は、人に依るんだと思います。名前なんて所詮、己とそれ以外を区別するための記号でしかない──と、ただそう考えて止まってしまうのか、そう理解した上でそこに意味を見出すのか──そこは自由ですから」
「自由……」
「私のこのアジサイという名前は主様……リュカ様がくれたものです。アジサイというのはとある花の名前なんだそうで、私はその花を見たこともありませんが、雨の降る季節を彩る──綺麗な花なんだそうです」
サクラ様や他の面々もそれぞれ花の名前から付けられてるんですよ──と、アジサイは付け加えた。
「花の名前だったのですか」
そう返して、ふと、アイリスの頭に痛みが走る。一瞬の痛みで、それが何を意味していたのかは分からない。
だがその一瞬、脳裏に青い映像が流れた。
何の青なのか──空色にしては青が濃い。
「だから私は、この名前に意味がないなんて思いません。そして誰にもそんなことは思わせません。意味を見出すのも、意味を持たせるのも、全ては私次第ですから」
「…………」
「──アイリスの名前も花の名前なんですよ? 言った様な気もしますが」
「アイリスもそうなのですか?」
「はい。これもやっぱり主様から聞いたことがあると言うだけで、実物を目にしたことはないんですけど……」
「この辺にはないのですか? アイリスはアイリスが見たいです」
「いや、この辺には……と言うか、クロユリ曰く、どこにもそれらしいものは無いそうなんですよね。いろんな場所に向かってはあれこれ探しているみたいなんですけど」
「残念です。でもアイリスは我儘は言いません。なので見つかったら教えてください」
「あはは……はい。見つかることを祈りましょうか」
アイリスは立ち上がると、そこからまた少し周囲を散策する。
アジサイはどこまでなら行ってもいいのかを言いつけながら、アイリスがあちこち歩きまわるのを眺めていた。
「よいしょ……んしょ……」
アイリスは近くに比較的背の低い木を見つけると、その木の洞に手を掛け、枝に足を掛け、幹をよじ登っていく。
「あんまり高いところまで登らないで下さいよ」
下からアジサイからの注意が聞こえてきた。アイリスはそれに返事をすることはなく、そのまま木をよじ登っていく。枝の根元に足を掛けては、上へ上へ。そして葉の中からひょっこりと顔を出すと、周囲を見回し、一面緑色の光景を目にした。
「こういう景色も使いたいです。でもどういう流れで出せば不自然にならないのでしょうか……分かりません」
うんうんと唸りながら、アイリスは考える。しかし考えても分からないと、それをアジサイに尋ねてみる事にした。
「アジサイ! 聞きたいことがあるのでアジサイも登って来てください!」
と、アイリスはよく見えてこそいなかったものの、木の下にいるであろうアジサイに向かって呼びかけた。
だが──返事がない。
聞こえなかったのだろうかと、アイリスは首を傾げた。そして再び声を張り、さっきよりも少しだけ大きめの声で、「アジサイも来てください!」と呼びかけた。
それでも──アジサイの声は帰ってこない。
「……? 聞こえていないのですか?」
アイリスは首を引っ込めると、登った木を少しだけ降りていき、木の根元の辺りを上から覗き込んだ。アイリスが付けた足跡は残っている。なので登り始めたのは──つまりはアジサイがいたであろう場所は、そこで間違いない──だというのに、そこにはアジサイの姿が見えなかった。
「あ、アジサイ……?」アイリスはするすると、木から降りて行って辺りを見回した。「……どうしていなくなってしまったのですか?」
この時点では、アイリスはアジサイの姿が消えたことを、不思議に思っていつつも、しかしそれほど重大なことだとは認識していなかった──昨日も気が付いたらアジサイが部屋から消えていて、台所で小腹を満たしていたというようなことがあった為、アイリスはまた同じようなことが起こっているだけなのだろうと、頭の中でそう考えていたのだ。
しかし、しばらく周囲を歩き回ってみても、アジサイの姿は見当たらない。もしかしたら先に屋敷に帰ってしまったのではないか、そんな考えさえ浮かんできた。
なのでここは一度屋敷に戻って──と、その時。
視界の端に何かを捉えた。
何か。
何だったのか。あまりにも一瞬で、それをはっきりと視認することは、その時のアイリスには出来なかった。
しかしどこか、走り去る人影のように、見えないこともなかった。
アイリスは気になり、それの過ぎ去った方へ向かってみる事にした。もしかしたらアジサイが何かをしているのかもしれないと、順当にそう考えて。
だがアイリスは、結局それを追わなかった──追えなかった。
「──アジサイっ!」
と言う、サクラの叫び声が、反対側から聞こえて来た為である。去っていったそれが何であったのかは気になったが、それ以上に、この場にいるはずのないサクラの声が、突如姿を消したアジサイの名を呼んでいるという状況の方が、アイリスとしては気になった。そしてアイリスは木々の間を抜け、声のした方へと歩いていく。その間も、小さくではあったが、サクラの声が聞こえていた。
何事だろうか──それは分からなかったが、しかし確かに、嫌な予感というものは感じていた。
そして。
ヒシヒシと、ビシビシと、アイリスが感じていた嫌な予感──それは的中した。
最悪な形で、的中してしまったのだった。
「アジ……サイ……?」
ぐったりとした状態のままサクラに抱えられるアジサイを、アイリスは目撃し、声にならない声でその名を口にした。
アジサイの状態は、睡眠をとっているのとは明確に違う。それはその時点のアイリスにも理解出来ることであった──しかし理解出来ないことでもあった。
何故こんな事になっているのか、あの一瞬で、アジサイの身に何が起こったのか。
そして、何故サクラは憎悪に満ちた目を、殺意に満ち満ちた視線を、アイリスの方へと向けているのか。
「サクラ?」
アイリスは一歩踏み出そうとして──アジサイの様子を見に近付こうとして──しかしその足を引っ込めた。
「近付くな──!」
圧倒的な──怒り。
サクラから発せられていた圧に、思わず足を引っ込めさせられた。
無論、言うまでもなく、本来のアイリスであれば──それを無視して進むことは、近付くことは出来たはずだった。
だがしかし、それを躊躇わされた──あるいは、その程度は簡単に無視することが出来る自分という存在を、アイリスは忘れていたのかもしれない。
アイリスはそこで立ち尽くし、代わりに問いかけた。
「何があったのですか? どうしてアジサイは倒れているのですか? どうして──」
「──っ、どの口がっ!」
「──!?」
怒鳴りつけられ、剝き出しの敵意をぶつけられ、アイリスは訳が分からず狼狽えた。
「あなたがやったんでしょ!」
「? 何をですか? アジサイのことを言っているのですか? だとすれば違います、アイリスは否定します」
「…………」
サクラは目を見開き、何かを言おうとして口を開いたが、結局何も言わずに口を閉ざし、言いたかったであろうことを堪えるようにして、握りしめた拳を震わせた。
そしてしばらく荒い呼吸をして、再度口を開いた。
「見え透いた噓を……。あなたが──」
アジサイの首を絞めていたのを──
私は見た──
「それを──!」
「ち、違います! アイリスには、サクラが何を言っているのか理解出来ません。アイリスはそんなことしていません、本当です」
「この……──」
息を吸い込んだが、しかし結局サクラはそれ以上何を言うこともなく、アジサイを抱きかかえると、アイリスに背を向けることはせずに後退し始める。
そしてついて来ようとしたアイリスに向かって、「来ないで」と、そう言った。
アイリスはまたしても、足を止めさせられてしまった。
そんなアイリスにサクラは追い打ちをかけるようにして、「近付かないで」と、またしても拒絶を示した。
サクラがここで攻撃という手段に出なかったのは、感情に任せてそれをした場合にどうなるかが未知数だったから、と言うだけの理由でしかない。もし攻撃に出ても何も起こらないのだということが分かっていたのなら、反撃されたところでどうにか出来るという確証があったのならば、まず間違いなくアイリスという存在を破壊しにかかっていた。
それだけの怒りの中に、彼女はあった。
「…………」
動けずにいるアイリスから、サクラはどんどん遠ざかっていく。
何が何だか分からないまま、アイリスは地面を見つめた──そうしたところでどうにもならないということは、理解出来ていたと言うのに。
だというのに、何をすることも出来ない──これが無力感というのだろう。
アイリスは思い出したようにノートを取り出すと、それを書き込んでいく。
決められた動きを、ただこなすように。
△▼△▼△▼△
この話を聞いて、自分はまずサクラの下へと急いだ。アイリスは連れて行くべきではなかったのだろうが、だからといって玄関前に放置するわけにもいかないわけだし、それに確かめたいこともあるからと、後ろに連れた状態で向かった。
話が本当なのだとしたら、恐らくサクラはアジサイの部屋あたりにいるはずだ──という推測は外れることもなく、サクラはベッドに寝かされた状態のアジサイを見守っていた。尋ねてみるに、どうやらアジサイは意識を失っているだけの様らしく、首元に絞められたような痕こそ残ってはいたものの、しかし命に別状はなく、今は様子を見ているところだ──という話だった。
「どうして、どうしてそれを連れてきたの……」
サクラは尋ねてきた。
ドアの前にある本棚の陰から、アジサイの様子を窺おうと覗き込むアイリスを指差すこともなく。
「話は聞いた。だからこそ連れてきた」
「だからこそ……?」
「サクラ──サクラは、アイリスから話を聞いたの?」
「……聞いてないわ。聞く必要もないもの」
沈んだ声で、サクラは言い切った。
「サクラらしくもないけど──それだけ決定的なものを見たと」
この辺については少しばかり掘り下げる必要があるだろうと、質問をしていくことにした。
「アイリスの話が正しければ、サクラは、アイリスがアジサイの首を絞めるのを見た、ということになるわけだけど──これは本当?」
「……そうよ。私が、少し早めではあったけど、そろそろ夕飯の支度をしたいから二人にも手伝ってもらおうと思って、森の方まで二人を呼びに行ったの。そうしたら……」
「アイリスが……と」
「えぇ。でも、私に気が付いたら即座に逃げ出したわ」
と、サクラは言った。それ以外には特に説明することもなかったのか、そう言ったきり、彼女は視線をアジサイに向けた。アイリスを出来る限り視界に収めないようにしているようだった。
「気が付いたら……逃げ出した」
自分はそう呟いて。
質問を再開する。
「逃げ出した後、アイリスはまた戻ってきた──っていうことになると思うんだけど。これも正しいの?」
「……えぇ。のこのこと戻って来たわ。何も知らないみたいな顔をして」
「それは……おかしいと思わなかったの?」
「…………」
「明らかに目撃された上で逃げたんだよね? だとすれば、その状態で知らないふりをしてくること自体、かなり異様だと思うんだけど」
「森の中は薄暗かったわけだし、見つかってないとでも思ったんじゃないの」
その時間、実際の森の中がどんな様子だったのかを、自分は知ることが出来ない。
まぁしかし、サクラの言うように、実際そこが薄暗かったのだとすれば──それに乗じて逃げ出せばバレないのではないかと考えても、決して不思議と言うほどではないのだろう。それがどれくらい現実的な選択かは置いておくとしても、全くもって滅茶苦茶な行動とは言えない。
ただし、戻って来たと言うのなら話は別だ。一か八か、顔を見られていない事に賭けて逃げ出したのだとしたら、普通はそのまま逃げるのが正解のはずだ。わざわざ顔を見せにいくだけの合理的な理由というのは見当たらない。
「……そうだったとして、なら、他に犯人がいるとでも? アレはどう見ても……アレと同じ顔をしてた。確かに薄暗くはあったけど、でもそこを見間違えたりはしていない」
確かに、犯人がアイリスでなかったとしたら、アジサイをこうした犯人は別にいるということになるわけで、それはそれで問題でもある。だがまぁ、それについては今はどうしようもないこととしても、一つ確かめなければならないことがある。
「アイリス。さっきの話の中で、走り去る何かを見たと、そう言ったよね」
振り返り、尋ねた。
「え……あ、はい。アイリスがアジサイを探している時、アイリスは見ました」
「姿は? 顔は見た?」
問うと、アイリスは首を横に振った。
「…………」
アイリスが見たという、走り去る何者か。
前提として、サクラとアイリスは話をしていない──自身が見た物の共有を碌に行っていない。
だというのに、この点だけは両者共に一致している。
もしそれが犯人だったのだとしたならば。
「ねぇ、リュカ。まさかそれを本気にして──信じてるわけじゃないわよね」
と、そう考え始めた自分に対し、サクラは酷く冷たい声でそう言った。
「そんなの、幾らでも言えるじゃない」
「……かもね。だから別に、アイリスを信じてるわけじゃない。勿論これが嘘の可能性だって捨ててはいない」
「なら──」
「けど。頭から嘘だと否定して、何も信じないというのなら、対話する意味なんてないんだよ。噓かもしれない──それはそうだ。でもそれは、噓であると断じるのとは違う。僕はアイリスの事を信じてるわけじゃないといったけど、むしろ、どちらかと言えば疑ってる。状況として、確かに怪しくはあるからね。でもそれは信じたいからだ。信じたいから疑うんだ。けれど──サクラが今やっているそれは、信じたくないから断じているという、対話も解決も何もかも放棄した行為だ」
「…………」
「まぁ、対話こそが解決への唯一の道筋だなんて思ってるわけじゃないけどね。サクラのその対応だって、それが正しい選択になることもあるとは思うよ。でもこの件に関しては、対話を放棄すべきじゃない」
「何で……」
「再度確認だけど、サクラはアイリスから話を聞いてないんだよね?」
「……そうだけど」
「アイリスもまた、サクラからは大した話を聞いてないはずなんだけど、これも合ってる?」
「まぁ……そうね」
「そう。なら、何でアイリスは僕に「走り去る何者かを見た」なんて嘘を付けたんだと思う?」
「それは、アレが犯人だから──」
「まだそうと決まったわけじゃないよ。確かにアイリスがやったのだとしたら、アイリスは全部知ってるんだから、そういう嘘を吐くことも出来ただろうけど──もしそうでなかったとしたら」
「そうじゃなかったらどうなるのよ。さっきも言ったけど、アレの他に、あの場所には別の誰かがいたということになるわけでしょう? でもそれは……」
「別にあり得ない話じゃないでしょ?」
「可能性は限りなく低いわ。それに、もし別の誰かだったとしても、背丈から髪の色から顔から、アレは全部同じだった。たまたま同じような見た目をした誰かが森に這入りこんで、アジサイを傷付けて逃げたと? 考えられない」
「同じような見た目──これも別に、考えられない話じゃないとは思うけど」
「……何ですって?」
「僕達は知っているはずだよ。姿を変えることの出来る存在を──あるいはその技術を」
そこでサクラは初めて、アイリスに視線を向けた──一瞬で逸らしたが。
「アイリスのアレがどういう仕組みなのかは知らないけど、もし似たような存在があったのだとすれば、不可能とまで言い切ることは出来ない。アイリスの見た目を真似て、アイリスのフリをして──それで結局何を目的としていたのかまでは分からないけど……」
「でも、そんなの……それこそ、アレを擁護するために持ち出した、無理矢理な話でしかないじゃない。確かに私の話とアレの話で食い違う部分と一致する部分とがあるのは認める。けどそれだってアレが犯人でなかったとしたらという前提があって初めて成立するものでしょう? ねぇ、リュカ、お願いだから取り込まれないで」
取り込まれる──か。
「なら、サクラはどうするつもりでいるの?」
「え?」
「アイリスが犯人なんだとして──アジサイをこうしたアイリスを、どうするつもりでいるの?」
「……それは」
「破壊する? どこかに捨てる? 重たい枷でもつけて海溝にでも放り込めば、もしかしたら封印することも出来なくはないかもしれないけど。あるいは、大気圏まで吹き飛ばして、そのまま宇宙空間に放棄すれば、戻ってくることもないとは思うけど」
サクラは黙り込んだ。願望という話をするのなら、それが実行可能か不可能かは別とするのなら、サクラとしても、答えは持ち合わせていたのだろう。
しかしサクラは、答えなかった。
「だから──というわけでもないけど、どちらかと言うとこの場合、僕が味方をしているのはアジサイの方だ。サクラでもアイリスでもなく、意識の無いアジサイの方だ」
「……アジサイ」
アイリスの話を聞いても、サクラの話を聞いても、一つだけ抜け落ちたままの個所がある。
それは──アイリスが木に登った後のアジサイの行動だ。
位置関係からして、アイリスが木に登った後、アジサイはその場から動いているということになるわけだが、何故、何のために、その場を離れたというのか。
そこが分からない限り、話の全貌は見えない。
取るべき選択も、やはり分からないのだ。
「……僕は皆が大事だ。全世界の人間を大事に出来るわけじゃないけれど、少なくともここにいるみんなの事は大事にしている。だからアジサイが、アジサイじゃない誰かが、何者かによって傷つけられたのなら、それ相応の対応を僕はするんだろう──その責務がある。だけど、命もそうだけれど、当人の意志だって同じくらい大事なものだ。極端なことを言うようだけれど、身の安全を守るために意思を無視するのなら、蔑ろにするのなら、それを是としてしまうのなら──その最善手は地下牢にでも監禁して一生そこから出さないことなんだから」
「…………」
「アジサイには明確に意志があった。アイリスを自分達と同じような存在にしようという意志が。だったらそれを蔑ろにしてやるべきじゃない。もし結果的にそうせざるを得ないという判断を下すのだとしても、それはアジサイを抜きにして話し合うことじゃない」
「そうかも……しれないけど。なら、アジサイがそれを許したら、私には引き下がれと?」
「その上で引き下がるかどうかの判断をするのはサクラだけれど──許す許さないの前に、アジサイからも事情を訊かなきゃいけないわけだから」
事情聴取──でもないのかもしれないが、訊けば新たに判明することもあるのかもしれないのだし、総合的な判断はその後でも構わないだろう。
と言うか、そうするほかないだろう。
「目を覚ますまでは僕もここにいるようにするから。だから、アイリス──」
と、自分は振り返り。
そこにさっきまでいたはずのアイリスの姿が無いことに気が付く。
「……アイリス?」
本棚の裏に隠れていたりするのかと思い呼びかけたが、アイリスからの返事はない。
「……いないの?」
「いない……みたい」
どこへ行った──違う、何故いない?
いくらアイリスとは言え、この状況下、この場から離れるようなことをするのか? この空気の中で、例えばお腹が空いたからと台所に行って菓子を食べていると言うようなことをすれば、サクラがどのような反応を見せるかが分からないとは思えない──いや、そうしてしまいそうな部分があるのがあのアイリスという存在でもあるのだろうが、もしそうでないとしたならば。
「まさか……」
部屋から飛び出し、廊下を小走りに駆ける。アイリスの姿はない。
しかしその代わりに──でもないのだろうが、緑色の液体が並々淹れられた瓶を片手に歩いてくるヒスイの姿が見えた。
「……盟主」
「ヒスイ……えっと、それは?」
「苦いだけの薬……飲ませれば……アジサイも起きる」
「あー……心配してくれてることは分かったけど、アジサイの味覚にどんな影響が出ても不思議じゃないからやめてあげて──じゃなくて、アイリスを見なかった?」
「ん……あぁ、さっき見た。走ってた。絶対に見つけて見せますとか、そんなことを口走ってた。何か探し物……?」
「……なるほど、事情は何となく分かった──」
ヒスイの横を通り抜け、玄関を目指して走り出し──その前に一度振り返った。
「サクラにはアイリスを探しに行ったって伝えておいて! それから、アジサイは自分で起きるまで寝かせておいてあげて!」
ヒスイはコクコクと二度頷いて、それからアジサイの部屋へと向かって行った。
アイリスは──恐らく犯人探しにでも向かったのだろう。この文脈で見つけるなど、それ以外にあるまい。
しかし、勝手な行動に出られても困るというのも勿論そうだが──もしそれでアイリスが未だ正体不明の犯人と会敵し万が一の展開になったりでもすれば、傷付くのはやはりアジサイなのだと言うことを、理解していないのだろうか。




