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滅界の花嫁  作者: アブ信者
第甦話
65/70

065

「何をしてるの?」


 厨房に向かったサクラは、台所に立つアイリスと、それを後ろから見守るアジサイという珍妙な構図に思わず首を傾げ、入り口の辺りから二人に声を掛けた。聞こえてくる音からして、どうやらアイリスが包丁を使って野菜か何かを切っているようだったが、どういう経緯でこうなったというのだろうか。


「アイリスが一人でやってみたいと言い出したので、やらせてみてるんです」


「お昼ご飯を? 大丈夫なの?」


 昨日リュカに教わりながら食材の下処理をしていたアイリスではあるが、幾らなんでも昨日の今日で料理が出来るようになるはずがないだろうと、サクラは訝しむ。やらせるのならそれはそれでアジサイの判断として尊重してもよかったが、せめて教えながらやるべきではないのだろうか。


「教えようとは思ったんですよ? ただ、昨日見てたから出来るって聞かなくて」


 仕方がないと、アジサイは苦笑い交じりに応えた。


「そう……」


 何というか、子供のような意地の張り方である。いや実際、彼女をどういう存在と定義するのかにもよるのだろうが、子供に近い状態であることには違いない──記憶を失い、そこから言語や知識を身に着け急速に成長を遂げている、奇妙な子供。賢さだけなら大人以上だが、精神性が追いついていない、と言ったところか。


「問題はなさそうなの?」


「そうですね……昨日から比べると凄まじい成長速度です。私が寝ている間も部屋にある本を読み漁っていたみたいですし、もしかしたら夜中の内に料理に関する本でも読んでいたのかもしれません」


「あぁ……訊きたかったのは料理の話じゃなかったんだけど……でもどちらにせよ、問題はなさそうね。……睡眠は必要としないのかしら?」


 質問の意図を取り違えたことにアジサイは軽く謝り、そして続けた。


「よく分かりません。ただ、一緒に寝ようと思ってベッドに寝かせてはみたんですが、何故横になっているのかをあまり理解していない様子でした」


「……まぁ、どう考えても寝る必要性を感じられないものね……」


 人は睡眠によって、失った体力や気力、そして魔力を回復させるものだ。しかし彼女は──アイリスは、その魔力が体内で無限に生み出され続けている。その上、試していないのでこれは断言も出来ないが、その高い身体能力を支える体力も尽きることはなく、気力という物はそもそも存在すらしていない。どういう仕組みかは不明だが、無限の魔力をそれらに変換しているのだろう。


 もしその機構だけ取り出すことが出来たのなら──というのは、現状では実現不可能な話だが。


「それでずっと横から話しかけられて寝られなかったので、静かに本を読んでいるように言っておいたんですけど」


「なるほど」


 目をかっ開いたままアジサイに話しかけ続けるアイリスと、それによって眠りを妨げられるアジサイというのは、想像のし易い図だった。


 ただサクラとしては、一度言い聞かせたら大人しくしていたということが、少しばかり意外でもあった。眠るということの概念や意味を理解せず、ひたすらアジサイに相手をしろと騒ぎ続けるか、あるいは眠りについて動かなくなったアジサイを死んだと誤解して騒ぎ始めるか──そのどちらかの方が、アイリスの行動としては納得が出来たからだ。しかしそうはせず、素直に言われた通りにし、大人しく読書をしていたというのは、どうにも不思議なものであった。


「さっきもプールを引っ張り出して遊んでたわよね。あれは何をしてたの?」


「あぁ……見てたんですか」アジサイは少し気恥しそうに頭を掻いた。「……あれは、その……アイリスが部屋を漁って、仕舞っていた水着を引っ張り出してきたんですよ。それまでは私がこの頃着てなかった服を色々着せてみる……みたいなことをしてたんですけど」


「服を? 小説を書かせていたんじゃなかったの?」


「それなんですが、一回制限を設けて、その範囲内で書くように言ったんです。そしたらどうすればいいのかが分からなくなってしまったみたいで……。今は色んなことをやってみて、それで何に対してどう思ったのかを逐一書き起こさせてるんですよ」


「ふぅん……あぁ、だから……」


「色々させてあげているのはそういうことです」


 サクラが一人納得したのを肯定するように、アジサイは首を縦に振った。


「服を着させていたのもそういうこと?」


「はい。まぁ、昨日からずっと同じ地味な恰好をしてたので、少しくらい可愛い格好させてあげたいなと思ったというのも理由ですが……服を着させていたのはそういうことです。あ、でも服の畳み方とかも一緒に教えてはいたので、ただ遊んでただけじゃないんですよ?」


「うん、まぁ、別にいいのだけれど……」


 なんともまぁアジサイらしい動機だこと──と、サクラは思う。


「それで……なんやかんやあって、水着を引っ張り出してきたので、下着との違いとか、用途とか、そういうことを教えてたら、プールに興味を示しまして」


 次から次に新たなものに興味を示していく──と、やはり子供のようだ。


 いや、しかしその点で言えば、ヒスイもそう変わらないと言える。アレもアレで根っこの部分が子供──というより、少年なのだろう。行動原理はアイリスと大きく異なる上、変に頑固な部分もあるが。


「分かった。それにしても、アレ、去年の水着じゃないの?」


 サクラの記憶が正しければ、先程庭でアジサイが着ていたのは、昨年の夏に着ていたものとその柄が一致していた──昨年はクロユリから受け取ったそれをリュカに見せるため、屋敷の中を一日中水着姿で闊歩して風邪をひいていたのだったか。拗らせることはなく、二日ほどで動けるようにはなっていたが、流石にそんなことで風邪を引かれては困ると、その時は恢復したアジサイを本気で叱りつけたのを、サクラは思い出す。


 そんなサクラを前に、アジサイはムスッとした顔で、心底不満げに黙り込んだ。


「……アジサイ?」


「……いえ。サクラ様。いくらサクラ様でも言っていいことと悪いことがあると思います。去年の服や水着が余裕で着れるっていうのは、私にとっては大変な問題なんですよ」


「そ、そう? 体型を維持出来ているってことでしょ?」


「んまぁ、そうと言えばそうなんですけど、そうじゃないと言いますか……。この場合、少しでも成長を実感したいんですよ」アジサイは己の身体を見るようにして下を向き、胸に両手を当て──パッと顔を上げて声を張った。「勿論、お腹以外で!」


「はぁ。あー……そうね。悪かったわ。けどまだこれからなんだし……と言うのも、止めておくわ。嫌味にしかならなさそうだし」


「本当ですよ。ただ、だからか分かりませんが──」


 と、アジサイは野菜の皮を剥くアイリスに目を向ける。


 アイリスは桂剥きをしようとして、上手くいかないのか、ちまちまと削るようにしてではあったものの、一生懸命やっているようだった──彼女に対してはやや否定的なサクラだが、そういう姿勢まで否定するものではなく、素直に感心した。


 少しだけ、ほんの少しだけだが。


 そして、アジサイは続ける。


「……アイリスを見てるとホッとするんですよね」


「張り合うならせめて人間相手にしなさいよ」


 溜息を吐き、サクラは呆れたとばかりに言う。アイリスがどうこうではなく、まずそもそも成長の見込めない相手と張り合ってどうするというのか。


「へ?」


 突っ込まれて、アジサイは呆けた表情を見せる。しかし、サクラの言わんとするところを理解すると、「あ……」と、声を漏らした。


「あなたねぇ……」


「いや、だって……人間じゃないですか、ほとんど」


 と、声を尻すぼみさせるアジサイに、


「この際だから訊いておきたいんだけど」


 と、声のトーンを落とし、声量をやや小さめにして言う。そして言いながら、サクラはアイリスをちらと見る。まだ野菜を切るのに集中しているらしく、サクラ達の方を気にする様子はない。何やらブツブツとよく分からないことを──恐らくは脳内にでも浮かんだ脈略の無いことを口にしながら、包丁を上下に動かしている。そういう所まで人間に寄せられると、いよいよ怖気が奔る。


「な、何ですか?」


 真面目な話になることを悟ったか、アジサイは少し背筋を伸ばす。


 そんなアジサイにサクラは視線を戻し、一呼吸置き、


「アレをどうするつもりでいるの?」


 と、親指でアイリスを指しながら、アジサイの瞳をじっと見て、答えることから逃げることを許さないという絶対の気迫と共にそう問うた。


「どうする? それは言いました通り……えっと……」


 アジサイは言い淀む。一言でこれだという答えを、彼女は持ち合わせていなかった。そんなアジサイに、サクラは口を開く。


「あなたは自分が今何をしているのか──それは理解している。けど、その先に何を見据えているのか──それが何も分かっていない状態なのよ」


「その先……」


「えぇ。あなたはアレをほとんど人間みたいなものだと言ったけど、ほとんどはほとんどであって、等しいものではない──リュカがほとんど神のような存在であったとて、やっぱり人間であることに違いはないのと同じように。とすれば、どんなに人間らしさを叩き込んだところで、アレは人間にはなれない。今は色々やらせているけど、それでその後どうするつもりでいるの?」


「…………それは」


「別に今すぐ捨ててこいみたいな話をしてるわけじゃないわよ。リュカが様子見の判断を下した時点で、私もそれに従うつもりではいるから。……でも、リュカが様子を見ると言ったのは恐らく、あなたがアレに感情移入しているからっていうのもあるのよ」


「私が……ですか?」


「そう。だけどそのあなたが何のビジョンも持たず、ただ漠然と次から次に何かをさせてるだけというのでは困る──そういう話よ。あなた、アレをどうするつもりでいるの?」


「…………」


 再度、同じ質問。アジサイは黙り込む。そして黙ったまま、サクラの目をじっと見る。初めから答えが返ってくることなどあまり期待していないかのような、答えが返ってこないことを前提としてこんな質問をしているかのような、そんな目をして、サクラはアジサイを見つめていた。


「ならサクラ様は……」


「…………」


「私が今この場で、一切合切を放り出してアイリスの処遇をサクラ様に任せたとしたら、どうするつもりでいますか?」


 質問に質問で返すと、サクラは少しだけ困ったような顔をした。怒られるかもしれないとアジサイは構えたが、そうはならなかった。


「正直、そう訊き返されると弱るのよね。このままここに置いておくべきだと考えているわけじゃない。だからと言って、目の届かない場所に捨てて来るなんて手が取れるわけもない。『教会』連中に見つかったらそれこそ一大事だし、何かの拍子に虐殺を開始しないとも限らないから。なら破壊するのかと言ったところで、リュカがそれを諦めている時点で私にその判断は取れない。時間をかけてヒスイに分析を進めさせて、彼女を殺す為の方策を編み出させるにしても、いつまで掛かるか不明だし、それまでは結局自分達で管理してなきゃいけない。それにそもそも、そんな方策が果たして本当にあるのかどうかも分からないような状態で、ヒスイをそれに縛り付けていられるほど、私達は暇を持て余してはいない。だから、アジサイには意地の悪い質問をしてみたけど、私自身、明確な答えは持ち合わせていないのよ──いや、どうしたいかは決まっているけど、どうすればいいのかが分からない状態……なのかしらね。世界の果てに何でも吞み込んでしまうようなゴミ箱でもあれば、こんな風に考えなくてもすんでいたのかもしれないけど」


 ゴミ箱という言葉に、アジサイの眉がピクリと動く。


「そんなに……嫌いですか?」


「別に。好きも嫌いもないわ。ただ危険だという話。……まぁ、その辺については、リュカに色々言われもしたんだけど」


「危険……」


 アジサイはまたしても黙った。サクラは首肯する。


「けれども、先の通り、私自身明確にどうすればいいかが定まっているわけじゃないから、当面はリュカの判断に従うつもりでいる」


 いつだってリュカの判断に従っているはずのサクラが、珍しくそう言った。


 それはつまり、今回の件においては、最悪の場合、リュカの判断ではなく自分の判断で行動するつもりでいるということの宣言でもあったのだろう。無論、リュカが強く言えば、サクラとて自分の意見は引っ込めるのだろう。しかし、リュカもリュカでサクラの判断は尊重している。サクラがこうすると明確に定めた時、果たしてリュカがそこに強く口を挟むだろうか。それは恐らくないと言えた。何しろ唯一アイリスと交戦したのが、その恐ろしさだとか強さだとかを身をもって知っているのが、他でもない彼なのだ。リュカは現状アジサイの選択を見守ってくれていることになるわけだが、こと安全面という話になれば、それはアジサイだけの話ではなくなる。そうなればやはり、限度はあるだろう。


 そんな風に思案するアジサイに、サクラは続ける。


「……だからそれまでに考えておきなさい。アレをどうするつもりなのか、そしてそうするために何をするつもりでいるのか、何をするべきなのか。今すぐに答えを出せというわけではないけど、なるべく早いうちに」


「……でもそんなの、私がどうしたいかなんて、大体決まってるじゃないですか。……それでもいいんですか?」


 アイリスがかつてどんな存在だったか──それは確かに消えない過去として、事実として、歴史として、そこにあり続けることにはなるのだろう。付いて離れぬ影のように、後を追って回るのだろう。


 しかし、アジサイはアイリスという個を、アイリスという子を、手放したくはない──見放したくはない。まだたった一日と少しでしかないこの関係ではあったが、心の底からそう思えた。


「……かもしれないわね。でもまぁ、それがちゃんと考えて出した答えなら──今みたいに何となくそう考えてるだけとかじゃなく──目標地点と道筋を具体案含めてきちんと明示出来るだけのものなのだとしたら、その時は私だって一緒に考えてあげる。勿論、その上でどうなるかまでは、私にも分からないけど」


「サクラ様……」


「要するにいつもと同じよ。作戦立案なんかも、ある程度形に出来ていなければどうしようもないでしょ? こうなればいいなっていう願望だけじゃ何も話し合えないのよ」


「……はい」


 そこまで言って、サクラはアジサイに近付くと、両手をそっと背中側に回し、アジサイの身体を抱き寄せた。背中を右手で軽くトントンと叩きながら、もう片手でアジサイの後頭部を撫でる。アジサイはサクラの胸に顔を埋め、身を預けた。


 そうしていると、それまで野菜を切っていたアイリスが振り返り、そんな二人を見て、眉を八の字に曲げた。


「二人は何をしているのですか?」


 尋ねると、サクラがアイリスの方に視線を遣り、答えた。


「……何と言われるとよく分からないけど。料理は終わったの?」


「いいえ。見事な手付きで野菜を切り終えることに成功したアイリスは、これから指示書の通りに本格的な調理へと移行するつもりなのですが、そこで少し問題が発生しました。なのでアイリスは助力を求めます」


「問題……ですか?」


 アジサイが顔を上げ、疑問符を浮かべた。


「はい。これを見てください」


「これは……クロユリの所で売ってる料理本……ですよね。これが何か問題でも?」


「大問題です! ここを見てください!」そう言って、アイリスは分量の項目を指で示す。「調味料の所がほとんど"適量"としか書かれていません! 適量という言葉の意味は既に把握していますが、この適量が一体どれほどの量を指しているのかが、これだけでは理解出来ません!」


「あぁ……なるほど。そういうのは味を見ながら少しずつやっていくものなんですよ」


「……? 意味が分かりません。昨日のリュカリュカはそんなことしていませんでした」


「主様は……まぁ、私達もですけど、その辺は慣れていますから」


「理解不能。理解不能。理解不能。どうして慣れていない者が参考にするであろうこの指示書に、慣れていないと分からないことが書いてあるのですか? 欠陥品です。不親切です」


「まぁまぁ。私も一緒に見てあげますから、その感覚を覚えていってください。覚えるのは得意でしょう?」


 不満をあらわにするアイリスを宥めるように、アジサイは言う。


「はい。得意です。切る前の芋の形状もきちんと記憶してあります」


「それは多分覚えてなくてもいいと思いますけど……」アジサイはサクラから離れると、台所の方へと向かっていく。「ちょっとそれ見せてください」


 そしてアイリスから料理本を受け取ると、それを見ながら、食材の量に応じた調味料の分量を教え込み始めた。時折味見をさせながら、薄い味や濃い味、薄過ぎる味や濃過ぎる味を身をもって覚えさせていく。とは言え、この味付けを他の料理に適用することは出来ないため、アジサイがここで覚えさせようとしているのは味を見るということの方だ。アイリスの味覚が人間のそれと同じかどうかは不明なものの、ある程度の基準を設けてやりさえすれば、後はそれを記憶し、再現するだけでいい。


「……よし」味見をし、アジサイはスプーンを流し場に置く。「こんなものでいいでしょう」


「完成ですか?」


「もう少し火を通したら完成です。このままでは少し硬いので」


「そうですか……でもこれでアイリスは料理というものを覚えました」


 懐から紙とペンを取り出すと、アイリスはテーブルに向かう。そして紙を広げ、スラスラと何かを書き込み始める。


 料理をしてみて分かったことや感じたことなんかを書いているのだろうと、先程のアジサイとの会話を思い出し、サクラは納得した。尤も、料理をしてみた感想などそんなにポンポン出て来るようなものでもないとは思ったが──しかしサクラがそれを忘れてしまっているだけで、初めてであれば思うことも感じることも、色々あるのだろう。野菜の皮を剥くのが面倒だったとか、水が冷たかったとか、微塵切りに時間が掛かっただとか、そういう所謂嫌な部分にしか目が向かないのは、慣れてきた証拠でもある。


 しばらく待ち、アジサイは火が通ったかを確認するため、野菜に串を差し込む。問題はないようだった。火を止めると、アジサイはアイリスに皿を取るよう指示する。アイリスが言われた通りに皿を取り出すと、そこに料理を盛り付け、運ぶ。


 これが夕飯の場合は人が多いため食堂まで運ばなければならなかったりするが、個々人が勝手に摂ることの多い昼食の場合は、基本的に厨房の中に置かれた数人掛けのテーブルで済ませることがほとんどである。


 サクラはどうしたものかとしばらくその場に立ち尽くしていたが、カチャカチャと食器が置かれる音がし始めると、テーブルの方へと向かい、並べられた、アイリスの作った料理を前に着席した。別に毒を仕込んでいたというわけでもないことは分かり切っているのだから、手を伸ばすことは簡単なはずだった。だと言うのに、手が伸びない。これは何もアイリスが触れたものなど死んでも口にしたくはないというような差別感情ではなく、ちょっとした意地のようなものだった。


 そんなサクラだったが、目の前の二人が首を傾げているのを見て、「まぁ、無駄にする方が恥よね……」と小さく呟くと、食器を手に取り、目の前の料理を食べ始めた。


「どうですか? アイリスは味の感想が聞きたいです。でも否定の言葉は聞きたくないです」


 アイリスはサクラの顔を覗き込んで尋ねた。


 サクラは一度食器を置き、咀嚼したものを飲み下すと、水を飲んでから言った。


「それじゃあ感想とは言えないでしょ」料理に目を落とす。「……でもまぁ、そうね。驚いたわ。昨日の今日でここまでやるとは思ってなかった」


「……? それは味の感想ではありません。アイリスは味がどうかを訊いています」


「…………」


 サクラはアジサイに視線を向けた──が、アジサイはそれに気が付く様子もなく、料理を食べ進めていた。


「……美味しいわよ。食べやすいサイズに切られているし、火もちゃんと通っていて」


 少しばかり気恥ずかしかったのか、それとも負けたような気でもしたのか、サクラはそう言ってから顔を逸らした。


「それはよかったです」


「よかったですね、アイリス」


 タイミングを計ったように顔を上げたアジサイがアイリスと仲良さげに放しはじめたのを見て、サクラは溜息を吐くと、食べるのを再開した。


 人が作ったところで、そうでない者が作ったところで、作り方さえ同じであればその味は変わらないのか──と、そんなことを感じた。サクラはこの料理というものを人間のすることだと考え、その思考を基に、それをするアイリスを人間の真似事をしているのだと考えていたわけだが、こうなると最早、何が人間を人間たらしめているのか、何が化物を化物たらしめているのか、まるで分からなかった。


 人間を人間たらしめているものなど、端から存在していないのかもしれない。


 無論、人であろうが人でなかろうが、そんなことを問題視しているのではなく、サクラは初めから一貫して、このアイリスという存在の危険性を問題視していたはずなのだが──しかしアイリスがそのような素振りを見せないばかりに、サクラはその問題点の方を『危険か否か』から『人か否か』にズラしてしまいそうになっていた。


 今のサクラは、アイリスを認めないための理由を探してしまっているのだ──なにがしかの理由を元にアイリスを否定するのではなく、否定が先にあって、その上でその否定を正当化するための理由を探しているのだ。


 だからそんな風に思考がズレてしまう。


「…………」


 ──これでは駄目だ。


 人間であっても危険ならば排除するというのは当然の事なのだから、いつもやっていることなのだから、大事なのは相手が人であるか否かではないはずだ。いつ暴れ出すかも分からない『暫定災害』という存在──この危険性だけに焦点を絞るべきなのだ。そしてそこだけに目を向けた際、現状のアイリスに危険な部分というのは見当たらない。


 いつ何が起こるのか分かったものではないという点についてはその通りだが、しかしそれはアイリスに限った話でもないと言えばその通りでもあるのだし、それに少なくとも、現時点のアイリスはサクラ達の中の誰かを傷つけたりしていなければ、害そうというような気配も感じられはしない──可能かどうかで話をするのなら、そもそもこの屋敷にいる全員が危険な存在ということになるので、実行が可能であるかどうかということと、実行するかどうかは切り分けて考えるべきだろう。絶対にそんなことはないと断言できるが、サクラとて、この屋敷の人間を害そうと思えば、それは実行可能な事なのだ──出来てしまうことなのだ。


 無論、リュカには勝てないのだろうが。


 人かどうかは問題ではなく、危険かどうかの話をするのなら、現時点ではそこまで危険な存在だとも言えはしない──なのだとすれば、サクラがアイリスを邪険にするだけの理由というのが果たして何なのか、一体それはどこにあるものなのか、彼女自身、判然としないのだった。


 サクラと言う存在が本能的な部分で合わないと感じている事に、サクラと言う人格が理由を求めているだけなのだろうか。


 だとすれば納得も出来る──これもまた先程の、アイリスを否定する理由を探している状態と同じだ。またそこに行きついてしまった。


 だが、煎じ詰めれば、問題というのはそこに収斂するのだろう。


 サクラは分からないのだ──自分がどうすべきなのかが。勿論、この件について一体どうしたいのかと問われれば、それにはアジサイ達を守りたいと答えるだけなのだが、しかしその為にこうするべきだという答えを持ち合わせていないのである。だから取り敢えずリュカに従ってアジサイに任せるというようなことを言ったわけだが、それが正しい選択だという確信だってありはしないのだから、心の中に靄は残る──こんなことで悩むようではこれから先が思いやられるというものだった。


 結局、考えれば考えるだけ堂々巡りになりそうだと、サクラは先に食べ終えることを優先することにした。そして食事を済ませると、食器の片付けを引き受けることに。一人黙々と皿を洗いながら、ああでもないこうでもないと、一体どんな結論が出れば納得出来るのかも定まっていないようなことを思案し続け、結局何度考えても同じ場所に着地するだけなことに溜息を吐くと、洗い終えた皿を布巾で拭っていきながら、別なことを考え始めた──とは言え、そのほとんどが今日ここにいないリュカのことになってしまうのだが。


「クロユリとスズランと……ピクニックとか言ってたかしら」


 皿を棚に戻しつつ、サクラは呟く。


 リュカを取られている状態とは言え、クロユリとスズランの二人が相手のためか、あまり嫉妬という感情は湧かなかった──かの第五王女と同じことをしようというのなら全力で嫉妬し、憎悪を向け、妨害に走っていたであろうことは違いないのだが──この場合は、怪我なく楽しんで帰ってきてほしいと思うだけだ。


 思うだけだ。


「そう……思ってるのよね……?」


 自分で自分が分からなくなる──そんなサクラだった。

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