059
伝う、伝う。
登る、登る。
握る手の微かな震えが、ロープにも伝わる。
堪えなければボロボロと決壊するであろう涙が目尻に溜まり、堪え切れなかった分が頬を伝う。
どうしてこうなったのだろう──どうしてこうなってしまったのだろう。
ただひたすらに、自分が惨めだった。怒りだとか悔しさだとか、そんなものではなく、彼女の胸中を占めていたのは、悲しさだった。
こんなことなら、来るんじゃなかった──来るべきじゃなかった。
そもそも、彼女はこの場所に対してそこまでの執着もなかった──本当は、大した興味などなかったのだ。
そういう風に振舞っていただけで、そういう風に演じていただけで、別になんだってよかったのだ、どうだってよかったのだ。
あの日──リュカが初めてニコレッタの存在を認識したあの日、どうして彼女が穴の近くをうろうろしていたのかと言えば、それは別に穴の中に侵入を果たそうとして、そのために衛兵の隙を窺っていたから──というわけではない。
あの時点での彼女の脳内に、そんな大それたことをしようという発想はなかった。そんなことをしようとして、それが原因で退学だなんてことになれば、それこそ無理を押して学園へ通わせてくれている両親に顔向け出来ないからだ。
ならば何故あの場にいたのか──それは至極単純なことで、彼女が人ごみに混じって野次馬をする勇気がなかっただけのことだ。
友人がいれば、それと共に何があったのかと様子を窺いに行くこともあったのだろう。しかし、彼女にそんな相手はなく、かと言って、一人でそんな集団に混じることも憚られた──なので、それでも少しだけ興味のあった彼女は、皆の話題がその穴から別のものへと移ったタイミングで、ああして一人コソコソと様子を見に行っていたのだ。
それだけだった。
それだけでしかなかった。
だから本当は、そこで終わるはずの話だった。
だが終わらなかった──彼を見つけてしまったから。
初め、小高い場所から意味ありげに眼下を見渡す彼の姿を視界に捉えた時、彼女は当然の結果としてそれを訝しんだ。それが誰だったのかをその時はまだ知らなかったが、それが知人であれ誰であれ、同じようにしたに違いない。
しかし同時に、その目を見て、彼女は直感的に思った──もしかしたら、と。
そして少しして、彼が同じ授業の教室で見たことのある顔だということを思い出すと、彼女はその『もしかしたら』に手を伸ばすことを考え始めた。
彼があの小高い場所で一体何をしていたのか──まずはそれを考え、その次に、自身が何をすべきかを思案した。
その機会は、思ったよりもすぐにやってきた──それも、向こうからやってきた。
美術の授業中の事だった。それまでは基本個人で出来ることしかやらせてこなかった教師が、その日は受講する生徒らにペアを組むことを命じた。互いに相手の顔を見て絵を描けと言ったのだ。
ニコレッタは当然焦った、酷く焦った──そんな相手がいるはずもないのだから。
だから彼女は相手を探すふりをして、誰かが余るのを待つことにした。教室に何人いたのかは覚えていなかったが、二人組を作っていく以上、偶数であれ奇数であれ、確実に誰かは余る──それが出るのを待てばいい。
一人余ればその人と組めばいいのだし、ニコレッタしか残らなくとも、全体が奇数なのだから、それは自分の所為ではない──そう考えていた。
だが、そんなことを考えていたニコレッタに、声を掛けた者がいた──何の偶然か、それは彼だった。まさか声を掛けられるとも思っていなかったニコレッタだったが、ペアを組んでくれるという彼の存在には安堵し、そして同時に高揚した。何故高揚したのかは分からない。早い段階でペアを組む相手を確保することが出来たことに対する喜びなのか、それまで感じていた恐怖にも似た感情への反動であったのか──それは分からない。
しかし、彼女はこの機を逃すまいと、勇気を振り絞り、彼とのコミュニケーションを試みた。それはどこか空回りしていたように思えたが、実際空回りしていたのだが、そこまで悪い結果にはならなかった。彼は、止まることも出来ずに空回りし続けるニコレッタを不思議そうに見ていたが、決して拒絶したりはしなかったのだ。
その後も、話しかければ相手をしてくれた。言葉に詰まれば待ってくれたし、言葉が足りなければ考えて補足してくれた。
初めての会話での設定は、正直なところ出来るのならば捨ててしまいたいところだったが、そうは言っても大した話題などないのだし、それに一度始めてしまったものをそう簡単に引っ込めることも出来ないということで引き摺ったまま、彼女はひたすら彼の気を引き続けた──その設定で振舞い続けているうちに少し楽しくなってきた自分がいたことは否定も出来ないニコレッタだったが、なんにせよ、その関係は良好だった。少なくとも、彼女の視点では。
だから彼女は初めから、ここに本気で忍び込もうと企んでいたというわけではないのだった。どうせ無理だと分かっていたから、だから言えた事なのだ。
人が大言壮語を吐くのは、その人がそれを出来ると本気で考えているからではない──どうせ出来ないと分かっているから、幾らでも大きなことが言えるのである。そうでないものは総じて狂人の類だ──とんでもないことを出来ると本気で信じて口にするなど、凡そ正気の沙汰ではない。
だから。
だから、まさかこうして本気で方策を立てて忍び込むのに成功してしまうとは、考えてもみなかった──リュカにそれを出来てしまう能力があることもそうだし、それを本当に実行させてしまうフューリア王女の考えにも、心底驚かされた。
だがそれ以上に、嫉妬してしまった。
王女からの命令とあらば一も二もなく従うのか、と。
自分がその話をしている間は一度だって実行に移そうとはしなかったというのに。
そんな風に、嫉妬してしまった。
無論、相手が王女であれば──否、王女ほどでなくとも、多少力のある貴族の人間であれば、結局のところ平民でしかない彼はそれを断れはしなかったのだろうということは、誰に言われずとも理解出来るのだが。
共感も出来るのだが。
しかし。
学園に来て初めて出来た友人で、それも歳下とは言え男の子で──だからきっと、ニコレッタにとって彼は特別だったのだろう。
そんな特別が奪われているような気がして、嫌だったのだ。
ニコレッタとて、彼我の差は理解している。始まる前から勝敗が決していることも、理解している。
だがそれでも、何もかも与えられている人間に、自分の唯一を持っていかれるのをよしともしなかった。
恐らくはここが意地の張り所で、勇気の見せ所だった。
しかし──失敗した。
意味もなくムキになって、訳の分からない事ばかり口にして──失敗した。
もしかして、と思った頃には遅かった、踏み込み過ぎていた──失敗した。
あんな風に言い返されて、その場で謝る事さえしなかった──失敗した。
また逃げてしまった、嫌なことがあるとその場から逃げようとする、悪い癖だった──失敗した。
失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。
──失敗した。
「…………」
ロープを伝って穴から地上へと戻ったニコレッタは、そのままどこかへ走っていってしまおうかと、足を寮の方ではなく学園の外へと通ずる抜け道に向け──ようとして、穴のすぐそばにいた人影に、喉を絞められたような声を漏らした。
そこにいたのは、未だ眠りこけている二人の衛兵と、その二人を見張るようにして立ち尽くす、真っ黒な影だった。背丈は彼女と同じくらいで、その全身を黒い装束で覆い隠し、顔には謎の仮面を張り付けていた。
どう考えても不審者で、どう取り繕っても犯罪臭のするその姿に、ニコレッタは叫ぶか迷った──が、それをすれば自分もまたマズい状況に追いやられるであろうことを思い出し、既のところで、出かかった声を押しとどめた。
「おや? お早いですねぇ。お一人ですか? お一人……いえ、独りの様ですねぇ」
黒い影はニコレッタに視線を向けると、ややくぐもった声で言った。
「だ……誰……ですか?」
「誰……。その質問には答えられませんねぇ。ですがまぁ、安心してもらっていいですよ。別に何もしませんから」
「何も……しない……」
「はい。そちらが何もしないのであれば、する理由もありませんしねぇ。なので、魔法を撃つのは諦めてくれると助かるんですけど……」
「──っ」
魔法をいつでも放てるように構えていたことを指摘され、ニコレッタは息を飲む。
彼女とて魔法学園の生徒だ。相手に悟られぬように魔法を構えるといった技術の一つは修めている──故にこそ、それをこの一瞬で見抜くことの異常性もまた、理解出来る。
彼我の差は歴然だった。
「尤も、こちらとあなたでは勝負にもなりませんけどねぇ」
影は──恐らくは女なのだろうが──そう付け加える。表情は見えないが、仮面の奥で嗤われた様な気がした。
「あなた……は……」
少なくとも話は通じる相手だと判断したニコレッタは、警戒はしたままだが、取り敢えず構えを解いた。
「?」
「誰かの命を狙って……いるんですか?」
「それは……下にいる二人の事ですか?」
「……っ」
「だったら安心してもいいですよ。近付くだけでも恐れ多いというのに、殺すだなんて……私には出来ませんからねぇ」
「…………」
把握されている──下に人がいることも、それがどういう人物であるのかも。
迷いはしたが、立ち向かって勝てる相手でもなければ、余計なことをして刺激するわけにもいかない──そう考え、ニコレッタはその場を後にした。
そして、影はそれを見送ると、月を見上げ、
「一応、報告はしておきましょうか」
そう呟いて、仮面の奥で不敵な笑みを浮かべ、「でも誰に報告すれば良いんでしょうか」と、首を傾げた。
△▼△▼△▼△
「…………」
盛大に溜息を吐き、脱力したように、ゆっくりとその場に座り込んだ。ズボン越しに、床のひんやりとした温度が伝わる。
少しの間そうしていると、背後からカツカツと、歩いてくる音が聞こえてきた。足音の主は自分の少し後ろで立ち止まり、小さく鼻を鳴らした。
「何であそこまで言ったんですか?」
ややあって、王女に尋ねた。
「……カッとなったから。いや、あそこで変なこと言わなければ、何もあんな風に言ったりしなかったと思うんだけど……何というか」
変なことというのは、間違えたことを言っているのだろうか。
「嫌いなんですか? 今日の態度見てると、そうとしか受け取りようがなかったんですけど」
「き、嫌いっていうか……。いや、うぅん……まぁ、うん、そうでもないんだけど……」王女はそこで区切り、首を横に振って、歯の隙間から息を吸い込んだ。「でも、苛立ったのは事実よ。向こうは知らないから仕方がない部分もあるけど、私一応あの件の被害者なのよ。それをあろうことか、こっち側が何かひた隠しにしてるみたいに決めつけられて、穿り返されて──それで友好的に接しろと言うのが無理なことだって、分かるでしょ?」
「まぁ、そうでしょうね……えぇ、それは分かってたんですけど……」
嘆息し、同意した。
「……その、悪かったわね。普段から腹芸はそれなりにやってるつもりだったから、大丈夫だと思ってたんだけど……」
「……。任せたのはこちらですし、言ってから二日しかありませんでしたから、別にいい……とは言いませんけど、責められません」
「責めたい気持ちはあるのね」
「責めたいというか、何故あそこであんなミスをしたのか分からないというか……」
「……その、おどおどしてたから、簡単にやり込めると思って油断してたのよ。けど、見たでしょ? いきなりあんな感じで問い詰めて来たから、ちょっと混乱して……」
「…………」
混乱した──と言われると、まぁそうですかとしか返答のしようもなかった。
実際、自分もあそこまで細かく鋭く突っ込まれると思っていなかったところはある。その辺含め、自分は彼女のことなどほとんど何も知らないのだ。
「それにしても……いや、こんなこと言うのもなんだけど、ちょっと凹みすぎじゃない?」
「まぁ……そうですね。……ちゃんと騙せなかったな──と思いまして」
「ちゃんと……騙せなかった?」
「……騙す側にも、責任ってあると思うんですよ。騙す責任……というよりは、騙しきる義務というか。ただ詐欺を働くというだけなら、そんなこと考える必要もないと思うんですけど」
「騙しきる義務……ね」
「これも僕の勝手な拘りなんだとは思いますが」
そう言って、その場から立ち上がり、服を軽く叩いた。
「それで、どうします? 帰りますか? それとも改めて調べますか? 気は乗りませんが、残り時間をどう使うかはお任せしますよ」
「……そうね。調べてから帰りましょうか。折角来たのに、その収穫がつまらない喧嘩だけっていうのは癪だし」
「分かりました。……ただ、もう一時間もないので、出来るだけ手早くお願いしますね」
そう言ってから、歩き出した王女について行く。向かって行くのは行き止まりの方である。
王女は先程指摘されたような四角い角を丸く掃くような調べ方ではなく、懐中電灯のような魔道具を片手に、壁の隙間に何かを差し込んだりしながら、かなり本格的に調べ始めていた──なるほど確かに、これでは違和感を持たれても不思議じゃない。初めからこのくらいであれば、あるいは防げたことなんじゃないのかとも思う。だがまぁ、過ぎたことだ。仕方がない。
「何を探してるんです?」
「鍵よ」言い切ってから、「鍵っていうか……、多分この地下通路にも、どこかに隠された扉があるはずなのよ、だからそれを開く仕掛けね。そうじゃなきゃ、あの男が階段を降りた私と鉢合わせたことの説明がつかないもの」
絶対何かあるはずなのよ──と、王女は言う。
一つだけ、心当たりはあった。
以前ルリと共に襲撃を仕掛けた盗賊のアジト──あの場所には、別の場所とそことを繋ぐ、一方通行の転移装置が設置されていた。
結局アレはヒスイ辺りが回収して、今も複製出来ないかを試みているようだが──それはそれとして、もし同じような物が少なかれどこの世界に存在しているというのなら、そしてこの地下通路にも置かれていた──あるいはあの教頭がそういった物を持っていたのだとすれば、その隠し扉とやらは探すだけ無駄ということになってしまう。
「いや……」
とは言え、それがこの地下通路に設置されていたという可能性は低いだろう──行き止まりになく、それ以外の場所にもないとすれば、考えられるのは爆心地にそれがあったという線だが、あんな中途半端な位置にそんなものがあったとは思えないし、これ自体は決めつけにせよ、明るく照らされたあの一瞬に、自分はそんなものを目撃していない──自分が見逃しただけの可能性は捨てきれないが。
とすると次に考えるべきはそれを教頭が持っていたという可能性だが、その場合はあの爆発で何もかも吹き飛んでいるはずだし、そもそも、携帯型の転移装置は存在しないだろうというのが自分の考えでもある──これについてはさしたる明確な根拠もないのだが、そんなものがあるのならわざわざここに来る必要性は皆無だ。使う場面を人に見られてはいけないのだとしても、教頭室で事足りてしまうのだし。
無論、教頭が設置型の転移装置を一々回収していただけの可能性もあるのだが──それは少し考えづらいか。
ならやはり、隠し扉が存在するのだろうか。
壁の隙間に何かを差し込むことで作動するのではないかという王女の推測は、強ち正しいのかもしれない。残り一時間で探し出せるとも思えないが。
そう思っていると──否、思っていないと、王女から細い金属製の棒を差し出された。
「何です?」
「あなたも探しなさいよ。時間無いんだから」
「…………」
棒を受け取り、王女が探っている壁とは反対側の壁を光で照らしながら、手当たり次第に差し込んでいく。風の流れはやはり感じられないので、取り敢えずはそうするしかない。ただひたすらに地味な作業だが、流石に足元にそれがあることを考慮しなくてはならないというわけでもないので、そう思えば少しは気も楽というものだった。
「一つ、訊いてもいいですか?」
ガリガリと音をたてながら棒を差し込み動かしていきつつ、声だけを掛けた。
「何を?」
「こんな事調べてどうするつもりなんです?」
「……どういう意味?」
「そのままの意味だと思いますが……もし仮にここに隠し扉があったとして、別のどこかへ繋がっていたとして、それを知って、どうするつもりでいるのか──と思いまして」
「…………」
しばし、無言。
ややあって、返答はあった。
「さぁね。今のところどうするかは分からないわ。それが分からないことには判断がつかないところがあるし。……ただ、何も分からないままでいたくないのよ。今まで通りでいたらダメだって、そう思ったから」
心境の変化──ということなのだろうか。
「だから、教頭が何をしようとしていたのかを知りたい……と」
「違うわね。私は自分が何をされそうになっていたのか、それを知らなきゃならないのよ」
「……でももう彼は誰ぞの手によって死にましたよ。その上、お家もお取り潰しになったんでしょう?」
「だからこうして調べるしかないのよ。拷問でも何でもさせられれば楽ではあったんだけど」
「…………」
そういう意味ではなかったのだが、意志は固いようだった。
とは言え、何も進んで危険な真似をしようというのではないのだろうし、自分に言えることはない。
「ならまぁ、頑張ってください」
「頑張る。少なくとも、明日を生きようと思えているうちは──私に出来ることを、頑張る」
意志は──とても固いようだった。
まぁ、だからと言って、そんな王女の心意気に応えて何かが出て来てくれた、というわけでもなかったのだが。
△▼△▼△▼△
いかにもな風体の不審な人物に出くわしたニコレッタは、流石にその足で学園の外へ向かおうとは思わなかった──が、思わなかっただけで、結局彼女は学園の外を、人目を避けるようにしてトボトボと歩いていた。
理由は大したこともなく、自室に戻ることを考えていなかったからである。三階の自室から足場を伝って抜け出した彼女だったのだが、いざ登ろうとすると、これが自身でも不思議なくらいに上手くいかなかったのだ。
正面玄関にはとうに鍵が掛けられているため、そこから這入ることは出来ない。あまり大きな音を立てるわけにもいかないため、あれこれ試すわけにもいかない。今更戻って、二人に事情を話して部屋に戻るのを手伝ってもらうわけにもいかない。そしてその内警備員が巡回してくるであろうことを考えた彼女は、部屋に戻ることを諦め、学園の敷地外へ出たのだった。
元々そうするつもりでいたのだから予定通りだろうと、自分を正当化することも忘れずに。
とは言え、ここから数時間──日が昇り、寮の玄関が開くまでは、どこかで時間を潰さなくてはならない。
金銭などを持ってきているはずもないため、今から宿を借りるというわけにもいかない──が、だからと言ってこのまま歩き続けているのは危険だ。この真っ暗闇の中、活動している人や店が皆無とは言わないが、その多くはニコレッタのような少女にとって凡そ友好的ではない。
であればどこか建物の屋根の上にでも登って、誰の目にもつかない場所で夜が明けるのを待つべきか──そこまで考えて、気がつく。
それならば学園の敷地からわざわざ出る必要もなかった、という事に。
「どうして……」
どうして──こんな事に気が付かなかったのか。
警備員が定期的に巡回しているとは言え、隅の方にある倉庫の屋根の上や、そこかしこにある植え込みの中ででも、同じように時間は潰せる。勿論見つかってしまう可能性は高くもあるが、寮の部屋に戻れなかったからと言って、ここまで出てくる必要はどこにもなかったではないか。
何故、気が付かなかったのか。
それは、彼女が普段通りの思考が出来ない状態にあることを示しているに他ならなかった。
「……っ」
苦々しい表情をして。
自分が思う以上にダメージを負っていたことに気が付き、ニコレッタは足を止めた──しかし、彼女が歩くのを止めたのは、それが原因ではなかったのかもしれない。それも原因だったのかもしれないが、この場合においては違うと言えた。
──気配。
何者かの、それも複数の人の気配──いや、普通に考えれば王都で人の気配を感じないことの方が異常事態なのだが、それ自体は分かりきったことであったのだが、それを抜きにしても、些か異様だった。奇妙だった。不気味だった。
そして、赤い装束に全身を覆った、数人の人影──それが目の前を塞いでいることに、彼女は気が付く。
つい先ほど怪しげな黒い影と言葉を交わしたばかりの彼女だったこともあり、色こそ違ってはいたものの、警戒は一瞬のうちに限界を突破した。
「やぁ、お嬢さん」
しかし、そんなニコレッタの警戒心とは裏腹に、その内の一人が割合気さくに声を掛けてきた。肩のあたりには十四という数字が刺繡されており、壮年の男性を思わせる声質であった。知人の声ではないが、穏やかそうな人の声だとは思った。
「こんな時間にうら若き乙女が一人、一体何をしておられるのですかな?」
「わ、私……は……」
言い淀んだニコレッタに、彼は掌を突き出して、首を横に振った。
「皆まで言わずとも、大体のことは分かります。将来への不安か、家族との不和か……そういった物による家出なのでしょう?」
全然違う。
全然違うが、今のニコレッタは学園の制服を着ておらず、見ただけでそうと分かるような格好はしていない。
であれば、その推測に至るのも不思議ではない──というかむしろ、そう思っておいてもらった方がいいとさえ言えた。
学園に通う生徒がこの時間に外にいることを目の前の彼らが見咎め、そのまま自分を学園にまで引き摺って行かないとも限らない。そうなればここまで来た意味もなく、大目玉を喰らうか、下手をすれば退学処分ということにだってなりかねないのだ。いや勿論、拉致されて人質などにされたり、そのままどこかに売り払われたりするよりかはそれでも全然マシな方ではあるのだが、ここはそういうことにしておいた方がいいだろうと、ニコレッタはゆっくり頷いた。
「なるほど……私にもそういう時期がありました……。えぇ、ありましたとも。あの時の私も暗い夜道を駆けていき、頭を冷やしたものです」若かりし頃を懐かしむような声で、彼は言う。「ですがやはり、こんな時間に出歩くものではありませんね。先日の事件もありましたし、危険です」
「え、えっと……は、はい……」
見た目こそ怪しかったが、話し口は幼いころ近所にいた気のいいおじさんを彷彿とさせるものであったし、この間も特に何かをしてこようという気配は感じられない。
彼らは単純に、こんな時間に外をうろついていた自分を心配してくれているだけなのだと──気を許したというわけでもなかったが、しかしこの時点で、ニコレッタが初めに抱えていた警戒心のような物は、ほとんど薄れてしまっていた。
だからこそ──
「どうですかな。このすぐ近くに、我々が普段使っている集会所があるのですが、寄っていかれませんか?」
「……?」
「あまり広い場所でもありませんが、外を歩き回るよりはずっといいはずです。そこで時間を潰して、心を落ち着けるのがよろしいでしょう。それに、お力になれるかは分かりませんが、話を聞くくらいの事は出来ますしね」
そう言うと、すぐ近くにいた──肩には十七とあるもう一人が頷き、同意を示した。
「そうですよ。寄っていって下さいな」
そちらはやや低めではあったものの、女性の声のように思われた。それもまた、ニコレッタから警戒心をまた一つと取り上げていくものであった。
「わ、分かりました……」
だからこそ──ニコレッタは。
容姿だけでも関わるべからずな彼らに対し、「見た目で人を判断するべきじゃないのかもしれない」などと吞気なことを考えながら、付いて行ってしまったのだった。
△▼△▼△▼△
「──報告は以上となります」
「……分かりました。ありがとうございます」
片膝をついて報告を終えた黒い影──ユリに、サンゴはポットから、青々とした謎の液体をカップに注ぎながら、軽く労いの言葉を掛けた。
ユリはその液体を見て、普段はへらへらとした表情しか浮かべることのないその顔を盛大に歪める。過去のトラウマがそうさせたのだった。
「いえ」顔を戻すと、彼女は続けて問うた。「……それで、どうされますか?」
「どう……ですか」
言いながらポットを置き、サンゴはカップに口を付ける。
それの味を知っているユリとしては、それを口にして顔色一つ変えない彼が恐ろしくて仕方ない。
「現状はどうするつもりもありませんし、どうしようとも思いませんがね」
「そうですか。あの者はそれなりに使い道もあると思ったのですが……」
「どうでしょうね……。まぁ、内部に協力者を作るつもりではいますが、そういう人間はこちらが消したい者を選ぶつもりですので」
「消したい者……ですか。……何故そんな回りくどい真似を?」
ユリは首を傾げる。
殺すだけならば今からでも人を送り込めばそれで済む。それなのに何故、罪を押し付けるような真似をしなくてはならないのか。
好きで殺すわけでもないが、それが一番手っ取り早いというのならそうするべきだろうとも思うのだ。主の──リュカの掲げる大いなる目標の前には、どんなことも些事でしかないのだから。
そんな風に疑問を呈したユリに、サンゴはカップを置き、言った。
「ただ殺すよりは、そうしたほうがいい場合もある……ということですよ──殺してしまうしか手が無ければそうせざるを得ないというだけで、何も無意味な殺人をして回るのが目的ではないのですからね。それに私としては、何物も、何者も、使えるだけ再利用すべきだと考えていますから」
リュカの言っていたエコの精神という物かと、ユリは納得する。
「まぁ、それについてはこちらで手筈を整えている最中ですので、お気になさらず。また手を借りることにはなるかもしれませんがね」
「は。では、それまでは何を?」
「普段通りの仕事をしつつ、指示があるまでは待機を。しばらく忙しかったわけですから、きちんと休んでおいてください。いざという時に動けなくては、何の役にも立ちませんから」
「承知致しました──」
そう言って、ユリは黒い影に戻ると、サンゴの目の前から一瞬にして姿を消した。
彼はそれを見届けると、徐に立ち上がり、クローゼットを開ける。中に入っていた赤い装束を手に取ると、それを身に纏い、
「さて、と。馬鹿共の相手をしに行くとしましょうかね」
心底嫌そうな声で、そう呟いた。
△▼△▼△▼△
ニコレッタが案内された集会所とやらは、それなりの広さのある、しっかりとした建物だった──あまり広くもないと言っていたので、もう少し手狭な場所を想像していたのだが、アレは謙遜というか、保険のような物だったらしい。
戸が開けられると、暖かな室内の空気が外に向かって流れ出て行く。それを顔で受け止め、思った以上に夜の王都は冷えていたらしいことを改めて認識しながら、彼女はすんすんと鼻を鳴らす。何やらいい匂いがする。
料理でもしているのだろうかと考えていると、奥から人が出て来た──とは言え、その人も同じように赤い装束に身を包んでいたので、あまり人という感じもしなかったというのが実の所なのだが、中身が一応人間であることは既に承知しているので、驚きはなかった。
この人の肩にも数字が記されている──と、十九というその数字の意味を考えるだけである。
「おや、皆さんお揃いなようですね」
奥から出て来たその人は言う──明らかにニコレッタの存在を認識してはいたものの、まずは挨拶を優先させることにしたらしかった。
「えぇ。皆考えることは同じなようで。一人でいるのはよくないからと」
十四番の彼が、顔は見えないが──恐らくはにこやかな表情で、そう返した。
「はは、ですね。私もですよ」
「……それにしても、何か作っている最中でしたかな?」
「あぁ、えぇ。スープを作っていたのですよ。早く使ってしまわないと、折角の野菜も傷んでしまいますから」
「おぉ、それは素晴らしい。頂いても?」
「勿論ですとも。ただその前に……そちらの方は?」
と、その人はそこでようやくニコレッタのことを尋ねた。話題が自分に向き、ニコレッタは自然、体を強ばらせる。
「ここに来る途中で出会しましてね。あぁ、知り合いというわけではありませんよ? ただ、この時間に外を出歩いていたものですから、流石に無視も出来まいと思いましてね」
「なるほど」十九番が納得したように首を縦に振る。「やっぱり"いつもの"ですか。人がいいんですから」
「そんな、人がいいだなんて。私のわがままで勝手なことをしている事には違いないのですから、そんな」
「あ、あの、私、お邪魔だったら……その……」
「いえいえ。お邪魔だなんてとんでもない。……あ、折角ならどうです? スープ。温まりますよ」
「そうですよ。それに、ここまで来た方を追い返したりはしません。存分に邪魔していってください」
二人が笑い合いながら言うのを見て、ニコレッタは押し黙る。妙な恰好をした彼らだが、そんな彼らの振る舞いが、つい先ほどまで孤独や寂寥に浸されていたニコレッタにはよく効いたのだった。
「ありがとう……ございます」
少し落ち着いた様子で、ニコレッタは礼を言う。そして促されるまま、入り口から少し進み、部屋の中へと這入っていった。
長机などがいくつか壁際に寄せられており、それをカウンター席の様にして談笑をする者や、床に座り、何かを広げてそれを指差している者、先程の十九番同様、大きな鍋を火にかけて料理をしている者などが見受けられる。
そのどれもが一様に同じ格好をしているというのは奇妙なものでもあったが、もう慣れていた。奇妙なものにも状況にも、こんなに早く慣れることが出来るものなのかと、自身の適応力とでもいうべきものの意外な高さに、ニコレッタは内心苦笑する。
ニコレッタはスープを受け取ると、それを一口。落ち着く味がした。
コンソメと言うのだったか。以前まではなかった味だが、ここ最近になって王都でよく口にするようになったものだ。何で出来ているのかは分からないが、水に溶かすと美味しいスープが出来上がるということで、学食でも使われているものだった。
「…………」
黄金色のスープ、その水面に映る自分の顔を見るニコレッタ。
思えば、自分はこれが何で出来ているかも知らないのか──と、これまで特に気にも留めなかったことを、今更のように考える。
これは口に入れるものだ。
体内に這入るものだ。
果ては己の血肉となるものだ。
それが何であるかを知らないということがどれだけ恐ろしいことか──と、しかし彼女は思わない。そしてその上、それによって甚大な健康被害が齎されるかもしれない可能性を、これまで一度だって考慮したことはない。
思えば、思わないのであった。
それでどうしてあんなことをしていたのか、あんなことを言えたのか。本気でなかったとはいえ、自分が酷く滑稽なことをしていたのだなということを、彼女は自覚した。
「……美味しい」
「それはよかった。私達も、冷めないうちにいただくとしましょうか」
流石に食事はそのままの恰好では出来ないのか、彼らはフードを脱ぎ去り、スープを口にし始めた。
彼ら彼女らの顔を見て初めに思ったのは、やはり普通だなという率直な感想だけだった──変な恰好をしているからと、変な顔をしているわけでもなければ、極端に変な言動をしているわけでもないのかと、そう思ったのだった。
人は無意識に、装いに相応しい振る舞いというものを他人に求めているのかもしれない。
貴族の装いをしていれば、貴族らしい振る舞いを。商人の装いの者には、商人らしい振る舞いを。学生服を着た者には、学生らしい振る舞いを。
そして、おかしな格好をしている者には、おかしな振る舞いを。
改めて考えても見れば、別にそんな振る舞いを真に求めているわけではないと思うのだが。
「それで……」
ややあって、ここまで案内をしてきた内の一人が、ニコレッタの方を見て口を開いた。四十歳前後だろうか、少し目尻の垂れた女性だった。肩の辺りには二十という数字が刻まれている。
「何があったの?」
「……あ……えっと」
「ごめんなさいね、気になっちゃって」
言い淀んだニコレッタに、二十番は軽く謝りながら言う。単に自分の行動が気になったが故の好奇心での質問だったのだろう、あまり深入りする様子でもない。これで踏み込まれようものならたちまち委縮してしまっていたであろうニコレッタだったが、そうされなかったことで余裕が生まれると、どう答えたものかを思案し始めた。
そして少しして、「喧嘩を……してしまって」と、ニコレッタは小さな声で言った。
アレを喧嘩というのが正しいのか、ニコレッタには分からなかったが──しかしそれ以外に言い表しようがなかったのも、また事実である。
「喧嘩? 親御さんと?」
「い、いえ……。その……と、友達と……です」
友達と、言えたのだろうか。自分が勝手にそう思っていただけな様な気もして、その言葉は尻すぼみになった。
「あぁ……お友達と……こんな時間に?」
「え、あ、はい……ちょっと、えっと、会ってて……会っててって言うか、その……一緒に行動してて」
「はぁ……悪い事でも企んでたの?」
「は、はい……あ、でも、ちょっと調べたいことがあったから忍び込んだだけで、あの、本当に悪いことをしてたわけじゃなくて……」
「ふふふっ、大丈夫よ。まぁ、私も若いころは似たようなことしてたしね。それで、その時に喧嘩しちゃったの?」
「……はい。私が……、私がムキになって、怒らせて……それで……」
「あぁ……なるほどねぇ。まぁ、あるわよね、そういうこと。私もよくやるわ」
「そ、そう……なんですか?」
「えぇ、夫としょっちゅうよ。お互い意固地だから、怒鳴り合いの大喧嘩したりしてね……」
「……どうやって、仲直りしてるんですか……?」
尋ねると、二十番は少し難しい顔をした。
「どうやってと言われると……ちょっと難しいかもしれないわね。お互い譲らないから喧嘩もするけど、子供じゃないから。しばらくして頭が冷えてくると、早いとこ謝らなきゃって考え始めるのよ。それで謝りに行こうとすると……」
二十番は苦笑し、続けた。
「不思議なものよね、向こうも同じこと考えてるんだから」
「…………」
「まぁ、若い頃は喧嘩もそんなにしなかったんだけど……、でもそれって、お互い譲り過ぎてたっていうか、気を遣い過ぎてたからだと思うのよね。喧嘩しないようにって」
「喧嘩しないように……」
「えぇ。相手と絶対に喧嘩しない方法って知ってる?」
「え……い、いえ……」
「関わらないことよ。他人となら距離を置いて、家族となら会話をしないようにして……そうすれば喧嘩は起こさずに済む。当たり前よね、喧嘩の原因なんてそのほとんどが会話なんだから。……でもこれって、健全な関係だとは言えないでしょ?」
「そう……ですね……」
「だから、喧嘩が出来るっていうのは──まぁ勿論、したくてしてるわけでもないけど、でもやっぱり、幸せなことだと思うのよね」
それは仲直りが出来ること前提の考えではないか──そう思ったが、口にしなかった。
しなかったというより、出来なかった。
出来なかったというより、人付き合いの不得手なニコレッタには、人付き合いとはそういう思考の下で行うものなのかとも思えてしまったのだった。
「けど思い返してみると……」
二十番はスープを啜り、記憶を辿るように言う。
「私達が子供の頃は、どうやって仲直りしてたんだっけね……」
過去を懐かしむようでもあった。そんな二十番だったが、しばらく沈黙が続くと、その話題を近くにいた別の者に振ることにしたようだった。
「ねぇねぇ、子供の頃、喧嘩した時にどうやって仲直りしてたかとかって、覚えてる?」
話しかけられた二十二番の男性は、「喧嘩ですか?」と、スープを飲み下してから聞き返した。そして目線を左右に泳がすと、困ったような顔をして、「あんまり覚えていませんね……」と口にした。
「もともと大人しい子供だったものですから、喧嘩らしい喧嘩をした覚えはないんですよね……。兄弟はいたので、そっちとの喧嘩ならした覚えもあるんですが……それは結局、母や父に両成敗されていたものですから」
たはは──と、二十二番は言ってから笑った。
「喧嘩の話ですか?」
すると横から、もう一人が会話に割り込んだ。よく見れば、肩には十四という数字が。ニコレッタをここまで案内したその人だった。
「喧嘩と言うよりは、喧嘩した後の話よ。どうやって仲直りしてたかって、覚えてる?」
「あぁ……どうでしょうね……。仲直りなんてしていなかったような気もします」
「喧嘩したらそれっきり?」
「あぁ、いえいえ、そういうわけではなく……、私が子供の頃に住んでいたような地域はそれこそ、治安もよろしくなかったものですから、喧嘩はほとんど殴り合いだったんですよ。でもまぁ、だからこそ──お互い鬱憤だとかをぶつけあって白黒はっきりさせてたからこそ、仲直りなんていらなかったと言いますか……。朝日が昇ったら何事もなかったかのようにケロッとしてたものですよ。今思えば貴重な時期でしたよ、本当に」
「そういうのは男の子特有かもしれないわね……。女同士で殴り合いの喧嘩なんかしたら後が大変だもの」
二十番の女性はそう言ってカラカラと笑った。
「分かります、少し歳の離れた姉が二人いたものですから」十四番はそう言って頷く。「アレは怖かった。男同士の喧嘩と違って力に頼らない分、却って痛々しいんですよね。まぁ、あんまり酷いと母に怒鳴られて、強制的に謝らされていましたが」
「やっぱり子供同士の喧嘩には大人が介入することが多いんですかね? 子供だとその辺、加減が分からなかったりもしますし」
「近くにいれば、そうなるのかとは思いますね。無論、介入し過ぎるのもよくないとは思いますが」
「子供には子供のプライドもあるわけだから、ある程度は静観すべきなのかしらね」
二十番がそう言ったところで、十四番の顔がニコレッタに向けられた。
「それにしても、お嬢さん。ご友人と喧嘩をなされたのですか?」
「え? あ、は、はい……」
「どんな方だったんですか?」
「ど、どんな……」
言われて、考え直して、自分が友達だと考えていたのはリュカで、言い合いをしたのはフューリア王女の方だったことを思い出した。ただ、ニコレッタはリュカ相手にも言いたいだけ言って逃げてきたのだ。ならば、向こうの認識からすればそれもさほど間違いはないのだろう。
「えっと……少し怖いけど話してみるとそうでもない人……と、優しい人……です」
「あぁ、二人いたんですか」
「はい……前者が女の子で……」
フューリア王女は女の子という感じもしなかったが。
「もう片方が男の子と……ふむ」
そこまで聞いて、十四番は顎に手を当てて考え込み、それから口を開いた。
それは──と。
「それは……本当に友達だったのですか?」
「……え?」
弱弱しい声でそう漏らし、ぱちぱちと瞠目する。
いや、確かに、思わないではなかったのだ──自分が勝手にそうだと思っているだけで、相手からは何とも思われていないのではないか、というようなことは。以前ニコレッタがリュカを友達だと言った時、彼はそれを否定しなかった──が、しかし、はっきりと認められたわけではない。だからこそ付き纏っていた不安を、見透かされたような気がした。
だが、十四番は何かに気が付いたような顔をすると、掌を前に突き出し、首を横に振った。
「……あ、すみません、そういう意味ではなくてですね……あなたにとって、本当にただの友達でしかなかったのか、と思いまして」
「……えっと?」
質問の意図が読めず、ニコレッタは首を傾げた。
「こんな時間に会う相手ですし、何か特別な関係だったりするのではと邪推してしまったのですが」
「あら、そうなの?」
「特別……え、あ、そんなっ、ち、違います……!」
身体全体をブンブンと振り回し、否定の意を示した。彼らの装束に負けず劣らず、ニコレッタの顔は真っ赤に染め上げられていた。
「違いましたか。これは失礼を」
「違います……。同じ学園に通ってるだけで……あ」
「──学園?」
と、つい勢いのままに言ってしまったニコレッタの言葉に、十四番が反応した──口にしたのが彼だけだっただけで、二十番も二十二番も、鋭い目でニコレッタを見ていた。ニコレッタは何か不味いことを言ってしまったのではないかと思い、身動ぎする。
「もしかして……ですが。王立魔法学園ではありませんか?」
「あ……えっと……」
「心配しないでも、学園に突き出したりなんかしないよ。でもまぁ、タイミング的に少し、ね」
「は、はぁ……。それは──」
と、ニコレッタが口を開きかけたその時、入り口の辺りがやけに騒がしくなり始めた。
「ん……どうしたのでしょう?」
様子を窺っていると、やはり赤い装束に全身を包んだ数人が急いだ様子で室内へと這入って来る。よく見れば、全員の頭と肩の辺りが少し黒っぽく変色していた。目についた数字は十番台が多い。
どうやら外は雨が降っているらしいと、そこでニコレッタはようやく理解した。
「すみません遅れてしまって……。いやぁ、急に降ってきましたよ」
「おや、雨ですか。タオルはいりますか?」
「あぁ、いえいえ。生憎そこまで濡れてませんから、大丈夫です。ありがとうございます」
「そうですか? ですが冷えているでしょうし、スープだけでも貰ってきてはいかがです?」
「おぉ、それはありがたく……と、その前に、そこの方は? 記憶が正しければ……見覚えのない顔ですが」
「えぇ、つい先程、外をあてもなく歩いているようでしたので連れてきたのですよ。危ないですから」
「なるほど。てっきり、新たな同志かと。……お誘いは掛けたので?」
「いえ、まだです。どうして外をうろついていたのかを話していたところで」
「そうでしたか。あぁ、そういえば──」
と、ニコレッタにはよく聞こえなかったが、挨拶がてら、軽い雑談をしているようだった──彼女は首を窓の方に向けると、外の様子を見る。段々と雨脚は強くなっていっているようで、屋根を叩く雨粒の音もはっきりと聞こえてくる。今の天気ではとても寮へは戻れそうにないなと、どこか安堵したようにニコレッタは思う。
と、そこに。
「──本当ですか!」
やや興奮気味な声が聞こえた。何かあったのだろうかと、ニコレッタの視線は窓から、立ち話をしていた彼らの方へと移動する。彼らもまたニコレッタの方に視線を向けていた。
何だろうと思い、彼女は首を傾げる。普段であれば周囲の人間が自分の方を見ている時ほど怖いものもなかったが、少なくともこの場の人間が自分を嘲笑の種にしていることはないと確信出来たからだろうか、落ち着いていた。
そうして眺めていると、先程まで十四番と会話をしていた十番の赤装束が素早く近づいてきて声を掛けた。
「少しよろしいですか?」
「は、はい……?」
戸惑いながらも返事をすると、
「単刀直入に言います──我々の仲間になりませんか?」
「……え? な、仲間……ですか?」
「はい。我々は世界の真実を追う者……あなたにもその一人になってほしいのです」
「え、あ、あの、何で私……なんですか?」
「それはあなたが王立魔法学園の生徒であるからです。我々は現在彼の学園に隠された秘密を追っているのですが……」十番は首を左右に振る。「なにぶん学園の関係者ではありませんから、学園へはあまり近付くことも出来ない状態でして」
「はぁ……秘密……ですか……」
時宜にかなった話題だと、ニコレッタは感じた。というより、このタイミングでこの話をされた以上、彼らが何の話をしているのか、何をしようと考えているのかは大体予測することが出来たのだった。
「はい。生徒の方であればご存じですよね? 先日起こった王都襲撃事件の日、学園の敷地内に噴き上がった黄金の火柱のことは」
問われて、彼女は首を縦に振る。その当時はすることもなく寮の自室で授業の復習に励んでいた彼女だったが、突如として窓の外から光が差し込んできたことで、何かが起こっていることに気が付いたのだ。とんでもないことが起こっていることは頭では理解出来ていたものの、その時はただ茫然とその光を見ていたのを覚えている。何が起こっていたのか、学園の外が大変な事になっていたこと含め、大体の事を知ったのは次の日の事であった。
「あの光がどうして……その、出たのかを調べてる……んですか?」
「……そうですね。そう受け取ってもらって構いません。まぁ、実際はもう少し違うのですが……とにかく、学園内を調査する上で、その手引きが出来る協力者が必要なんですよ」
「あら、でもその協力者はあの方が用意に動いているという話じゃなかった?」
二十番の女性が疑問を呈すると、十番は「それはそうですが……だからと言ってただ待つだけというのも、それはそれで情けない話でしょう」と言った。そして続けて、「それに、実際に協力をしてもらうのかということと、我々の同志となることとは、直接関係するわけでもありませんし」と、ニコレッタをよそに、彼は言うのだった。
「まぁ、そう言われればそうねぇ……。私達と状況は似てたりするわけだし……」
二十番が、ニコレッタに視線を向けて、どこか悲しそうな声で言った。
「に、似てる……ですか?」
「喧嘩をしたわけじゃないんだけどね。でもここにいる人の多くは、この前の事件で仕事や家族を失っていたりするのよ」
「…………」
何と返せばいいのか分からず、ニコレッタは押し黙る。
「私の旦那もアレで仕事を失って、慌てて避難しようとしたせいで大怪我までして──これからどうすればいいのかって、そんな風に右往左往してたところを、この集いに誘ってもらってね」
二十番はあたりを見渡しつつ言った。
「私もですよ。それに、ここに来て、これまでの考えを一切合切引っ繰り返されたような気になりました。……自分がいかにこれまで何も考えずに生きてきたのかを、自覚させられました」
「そう。我々は真実を暴かなくてはならないんです。もう上にとって都合のいい情報だけを無抵抗で飲まされるのはうんざりですから。全ての真実を明らかにし、世間に公表するのです」
そう語る二人の目は、さっきまでとどこか違っていた。それにえも言えぬ恐怖を感じつつ、ついさっきまでの自分は、あの二人からはこう見えていたのだろうか──と、ニコレッタは思いかけて、
「そして、同志を増やし、革命を起こさなくてはなりません!」
と、続けられた言葉に絶句した。流石に自分があの二人からこう見られていたということはないだろうと確信出来たのだった。
もとより、ニコレッタはリュカとの話のタネ欲しさに自身を偽った紛い物でしかない。引くに引けなくなっただけでしかないのだ。だからあの場で何かが分かったところでそれをどうすることもなかっただろうし、あそこに這入り込んでその結果何も無ければ、その時こそ自分自身収拾のつかなくなり始めていた設定を捨てた上で接することが出来ると思っていたのである。
実際はそうはならず、強者である側のフューリア王女を前にして、ああしておめおめと遁走したのだが。
「革命……?」
革命と言うと、それは国家への反逆を企てているということなのだろうか。
だとすればこの場にいるのは全員、見つかったら即刻処刑されてもおかしくない犯罪者達ということになる。
「えぇ、もはやそれしか手はありません。全てを一度無に帰し、正しさを取り戻さなくては」
「……でも、その、えっと、し、真実って、何について……なんですか?」
「決まってるじゃない、この間の事件のことよ。それを暴くために、学園の中にあるらしい巨大な穴……それを調べに行くのよ」
一瞬、ニコレッタは目を泳がせる。
「この間の事件がただの破壊行為なんかじゃないことはもう皆分かってる。この裏には巨大な意志が動いてるに決まってるのよ……それこそあんなこと、王侯貴族でもなければ出来ないでしょ?」
「は、はぁ……えぇと、繋がりがよく分からない……です。穴を調べたら、それが分かる……んですか?」
どうしたら先日の事件とその二つが繋がるのだろうか。
確かに、王都でも爆発は起こったらしいが、あの時寮から見た黄金の光は爆発と言うより噴火に近かった。王都で起こった爆発とは別種のものだろう。
それに、学園内で同じことが起こっていたのだとして、どうして学園の側には被害があっても被害者がいないのかが分からない。王都では建物のみならず、それなりの犠牲者が出たと聞いている。
それも、どうして校舎を破壊するのではなく地下を爆発させたのか、その意図も不明だ。
同日に起こった出来事ということで、確かに何の関係もないとは言い切れないのかもしれないが、それでも、あの場所を調べたら事件の真相が分かるはずだというのは、些か飛ばし過ぎなように思える。
『雨が降れば地面が濡れるし、濡れた地面を歩けば靴が汚れる。靴が汚れたら洗わなければならないし、洗った靴は乾かさなければならない』というのは正しいが、『雨が降ったら靴を乾かさなければならない』というのは、正しいとは言えない──過程をすっ飛ばしてしまえば成り立たなくなる物もあるのだ。
無論、彼らの中ではその間に当たる部分も存在しているのかもしれないが、今の話だけではそこまでを推察することも出来なかった。
「そうに決まってます。それに、ご存じかは分かりませんが、あの事件が起こる少し前から度々人が消えると言った事が相次いでいたんですよ」
「そ、そう……なんですか?」
「えぇ。攫われた人たちというのが主にスラム街の人間であったり、独り身の方だったり中心で、あまり騒ぎになっている様子ではありませんでしたが」
「中には突然襲われて、攫われそうになって、気が付いたらその辺で目が覚めた人もいたらしいのよ。何があったのかは分からないけど、何者かがそういう手段で人を集めていたところまでは確かね」
「人を……」
「あの日以降はそんな話も聞かなくなったけど……でもそれは計画が第二段階に進んだからに違いないの。あの日の黄金の光、アレがその証拠よ」
そこまで聞いて、ニコレッタの中でも、何となくではあるが話は見えてきた。
彼らの中では、以前から起こっていたらしい誘拐事件とやらと、先日の事件、それから魔法学園内で起きた事が点と線で繋がっていて、そしてそれは権力者が非人道的な実験をするための陰謀である──と、そう考えられているのだろう。
だが学園内でそんな実験が行われていたとして、いつ誰がどうやって誘拐した人間を運び込んでいたというのか、そしてその非人道的な実験はどのような目的で行われているのか、そのあたりは不明だ。相手方の事情
百歩譲って、人間一人くらいであれば確かにフューリア王女の言っていた攻城兵器用の梯子よりは運び込むのも楽そうではあるし、可能性としては考えることも可能だろう。しかし、彼らの伝聞的な話し方からして、それを直接目撃したというわけではないように思える──確たる証拠があってそれらを繋ぎ合わせているわけではなさそうだった。
それに何より、彼らが調べようとしているのがさっきまでいたあの穴なのだとして、だとすれば彼らはその実験があの地下通路で行われていたのだと考えているのだということになるが、それだけはないと言えた。どこに繋がっているのかも分からない階段の存在は別としても、爆発地点に関してはニコレッタも目にしている。凄まじい爆発跡ではあったが、構造的に、あの場所に実験が出来るような空間が存在していたとは思えないのだ──実験の規模にもよるのだろうが。
ややあって、ニコレッタは口を開いた。本当のことを実際に目にした自分だから、彼らの思い込みもどうにか出来ると、そう考えて。
「あ、あの、それは無いと思い……ます」
「……どういうことでしょうか?」
そしてニコレッタは端的に、これまでの事情を改めて話すことにした。個人的な事情までは伏せたものの、自分が見たことや聞いたことを出来る限り明かすことにしたのだった。しかし、彼らの反応は、ニコレッタの望んでいたものとは、想像していたものとは、違っていた。
「そうだったのですか。ですが、本当に全てを調べたのですか?」
「え? い、いや……見て回っただけ……です」
「なら結論を出すのには早すぎますよ。それも、その場にそれらしいものが無かったとして、だとすれば尚更、あの光についての説明が出来なくなりますよね? 爆発跡があったと言ってましたが、そこで何かが爆発したように見せかけられているだけなのではありませんか?」
「で、でも、あんな風に見せかけるのなんて……」
「お嬢さんが何を見たのかは我々には分かりかねますが、相手は権力者です。それくらいの事は簡単にやってのけますよ」
「……でも、あの場所には警備の人もいて……誰も這入れないようにされてました。それなのに……偽装する必要はないと思います」
実際にはその警備を掻い潜り、ニコレッタ含めた三人が這入り込んだことにはなるのだが、それを見越して偽装工作だけをしていたのだとするのは無理があると、ニコレッタは思った。
「確かにそうかもしれません。ですがそれは、お嬢さんだけが勝手に忍び込んだ時の話では?」
「……?」
ニコレッタは目を細め、一点を見つめたまま固まった。
「そこには第五王女がいたという話でしたよね?」
「は、はい。王都の復興が優先だから、穴の調査には人を回せないから、だから自分で調べるって……」
「それがまず嘘なんですよ。お嬢さんがあの場所にある真実に近づきつつあることを知って、それを騙すために仕組んだことなんです。それに、人を回せないというのも当然でしょう。隠しているであろうものの大きさを鑑みれば、容易に人を近付けるなんて、出来るわけがありませんから」
「そ、そんなことは……」
ない──と、言おうとして、何かを隠そうとしていたフューリア王女の姿が脳裏をよぎり、ニコレッタは唇を噛んだ。目の前の彼らの言うことがどこかズレていると思う気持ちと、フューリア王女が自分を騙そうとしていたのではということを否定出来ない気持ちとが混在していた。
無論、後者を認めたところで前者が正しくなるわけではない。逆もまた然りで、これらは両立するものである。
だが、何故だかそんな気がした。そうなってしまうような気がしてしまった。相手は今日初めて会ったような存在で、本来ならそんな相手の言葉が響くわけもなかっただろうに、それを否定出来ない自分を認識してしまったのだった。
「…………」
何も言わず、ニコレッタは俯いた。空になったボウルに、目線が落ちる。人参か何かだろうか、オレンジ色の小さな破片が目に留まる。
そして頭の中で、どこか冷静さを取り戻し始めると、今度はここからどうしたものかと思案し始めた。
正直、もうこれ以上ここにいる理由はなかったし、いたいとも思えなかった。先程の発言からもそうだが、彼らはその思想や計画を暴かれようものなら重罪を免れることの出来ない存在だ。そんな彼らとこれ以上一緒にいて、何か少しでもメリットがあるようには思えないし、仮に何か一つあったとしても、そんなものは極刑に処されかねないというたった一つのデメリットによっていとも容易く粉砕される。
だとすればどうすべきか──下手に刺激しないようにこの場を去るべきなのだろう。
「あ、あの、すみません、私やっぱり、もう帰ります……。夜中に抜け出してたことがバレたら、どうなるか分からないので……。えっと、これ、ご馳走様……でした」
ニコレッタがボウルを床に置きながら言うと、
「あら、でも外はこの雨よ? 流石にこの中外に放り出せないわよ」
二十番の女性が、先程までの様子とは打って変わって、ニコレッタを心配するような口調で、窓の方とニコレッタとを交互に見ながら言った。
そこでニコレッタは、そうだったと思い返す。見れば、雨脚は先ほどよりもずっと強くなっている。嵐と言うほどでもないが、こんな中を学園まで戻るとなると、それなりに危険だ。
それも学園の敷地まで戻ったところで、ニコレッタには寮の自室に戻る術がない。運良く雨を凌げる場所を見つけられたとして、夜が明けるまで待たなければならないとなると、まず間違いなく風邪をひく。別にこの際、風邪などひいてしまっても構わないのだろうが──そんなものは自業自得なのでせめてもの報いとして受け取っておくべきなのだろうが、しかしなんにせよ、ここから去る上手い言い訳は思いつきそうになかった。
こうなったら思い切り走って逃げるべきだろうかと、そんな選択肢が現実的になり始める。流石にそこまですれば追ってくることはないだろうと思いたいが──と、その時、目の前に赤い何かが差し出された。
「取り敢えず、これだけ被っていてください。この後、リーダーがいらっしゃるので、その方の話だけでも聞いてみてはいかがでしょうか。それでもと言うのであれば、その時は無理強いもしませんから」
見てみれば、その赤い何かは彼らが着ているのと同じ装束であった。ニコレッタはそれを受け取ってしまい、周囲に視線を向ける。周囲もまたうんうんと頷きながら、同じようなことを言った。
困った話だったが、同時に道も出来た。話だけ聞いて、その上でやっぱりと言うことにすれば、それが一番穏便だ。余計に揉める心配もしなくていい。
そう思い、ニコレッタはそれを被った。視界は狭まったが、少し息はしづらいが、肌触りはいい。制服なんかに使われている布と似たような心地がした。
そうしていると、今度は部屋の奥が騒がしくなり、それに合わせてこれまで顔を見せていた人達が一斉に顔を隠し、やがて静まり返った。反応からして、この集団の領袖とも言うべき存在が来たのだろうと、ニコレッタは察した。
「────」
そしてその人が姿を現した──皆と同じ、赤い装束を纏って。
だが周囲の誰とも、圧倒的に格が違っていることを、ニコレッタは理解した。それこそ、さっき穴から出てすぐに出くわした謎の黒い人物以上の実力者であることを、直感で察した。まともに相対せばまず勝ち目はない。
無言のまま、いつの間にか用意されていた台の方へと歩いていく。皆はそれを黙って待つ。足音が鳴り止むと、咳払いが一つ聞こえて、その人の目線が全体を見回す。
「皆さんお集まりのようで」
そんな低い声が聞こえると、一斉に布のはためく音がして、ニコレッタは周囲を見る。姿勢を正し、胸に手を当てているようだった。
「まず初めに訊いておきたいのですが──一人多くありませんか?」
間違いなくニコレッタの方に視線を向けながら、その人は問う。ニコレッタは装束の中で息を荒くしながら、どうしたものかと狼狽える。
すると、「この方は新しき同志です」と、近くから声が聞こえた。ニコレッタは否定しようとしたが、この空気感で何かを否定することを恐れ、ぎこちなく頷いた。
「……そうですか。まぁいいでしょう。我ら『赫き烈火の集い』が、あなたを歓迎します」
その人が拍手をすると、全員が一斉にニコレッタの方を向き、一心不乱に拍手をする。それは強制されているようにも、周囲と競っているようにも見えた──自分の方がより強い拍手を送っているのだと、そう主張するように見えた。
恐怖を感じ取りつつ、ニコレッタは仕方なく会釈をする。そしてしばらくの後、皆の意識は再び前へ向く。
「今日は生憎の雨ですが、故にこそ我らはより一層、この火勢を強めねばなりません。憎き権力者らを粉砕し、腐ったこの国を焼き払う日は近い──!」
何やら演説のようなものが始まった。含まれる単語には強い言葉が多い上、一切誤魔化そうと言う気がないのか、表に出れば言い逃れのしようのない表現が多発していた。しかし皆は──聴衆は、その言葉の一つ一つを復唱するように声を上げて行く。先程までの和気藹々とした空気とは打って変わって、凡そ冷静さなどという物はこの場に存在していないようだった。
だが、彼女にとって衝撃的であったのは、寧ろその後の事だった。それまでの演説は確かに、聴く人が聴けば刺さるものもあるのだろう。ニコレッタには理解出来ないものであっても、彼らには心の深いところで響いたのだと考えることも出来る。それでも、その後に彼らが見せた行動については、理解も共感も納得も、何一つ出来ないものであった。
ニコレッタは恐怖の中、怒号飛び交うその光景を眺める。突如として裏切り者だと名指し──実際には番号だったが──された人物が、仲間であるはずの周囲の人々から一斉に袋叩きにされ始めたのである。袋叩きと言っても、それは批判であるだとか、罵詈雑言をぶつけられたであるとか、そういった比喩的な表現ではなく、本来の意味での袋叩き──複数人による集団暴行であった。一切の手加減も躊躇もなく、全方位から攻撃が加えられていく。その上恐ろしいのは、何度か暴力を振るうと後ろに控えている人間に順番を変わるように引っ込んでいくところだった。中途半端に理性を残しているのが、この暴力がただ扇動されて行っているだけではないことを示しているようだった。
そんな中、ニコレッタは全身が震えるのを自覚しながら、少し前の己の選択を呪った。今この状況で「やっぱり帰ります」などと言えるわけがない。そんなことを言えばどうなるかなど、想像に難くない。標的が自身に変わりかねない選択だ。
そうしてニコレッタは流れるままに、『赫き烈火の集い』なる集団への加入を果たすことになった。




