046
入学から一週間が経過し、選択授業の希望調査票を提出してから、更に数日後。
特に抽選などはなく、それぞれ希望通りの授業が始まると、それと同時に、自分と王女との交際はいよいよもって周囲に広まることと相成った。元からそうなのではないかと言う噂自体は、一部と言うか大部分の間でまことしやかに囁かれてもいたそうだが、それが本人らの口から事実であると認められた形である。
当然、それは一大ニュースとして、学園中を走り抜け、突き抜けて行った。
自分の元へ何かを訊きに来たのは予想通り、いつもの四名だけだったのだが、それこそ王女の方へは何人もの貴族令嬢が群がったようで、それに辟易した彼女に引っ張られるようにして、人目に付きにくい場所までやってきていた。そこは学園の敷地でも端の方で、そこからは少し遠くに王都の街並みを見ることが出来る。そしてそんな場所まで自分を案内した王女は、そんな街並みを数分ほど黙って眺めると、やがて口を開いたのだった。
「思ってた以上に騒ぐのね、皆」
ともすれば吹く風にかき消されてしまうような声量で、ぼそりと。
「こういった閉鎖空間内では、そこで起こる事が全てですからね」
学校だとか会社だとか。
そういったある種の村社会では、そこで起こる些細な事こそが大事件であり、それ以外の場所で起こる大事件は些細なことになってしまうのである。
だから、この王国のどこかで飢饉が起ころうが、隣の国で革命が起ころうが、そんなものは彼ら彼女らにとってはいまいちピンとこない、関係のないニュースでしかない。
無論、そんなことが起これば自分達だって無関係ではいられないということは理解もしているし、当然ながら、それはその人の中の物事の優先順位が丸々引っ繰り返ってしまったなどという話ではない。人を殴ることと殺すこと、どちらがより罪が重いかと問うて、前者と答えたりするようになってしまったというようなことはない。食事をすることとチェスをすること、どちらが大事かと問われて、チェスと答えるようになったりもしていない。その辺の価値観はそのままだ。
だというのに、人は遠くの大事件よりも、身近で起こったちょっとした事件の方をより大きく見てしまうのである。
何というか、遠近法のようである。
「このままの勢いだと、あっという間に学内の域を出そうだけど」
王女はこちらにちらと視線を向け、言った。
「それならそれでいいんじゃないですか? そこまでの支障もありませんし。寧ろ、広がれば広がるだけ、上は本当のことを言い難くなりますから」
「だといいんだけど。でも、変な方向に広まったらそれこそ、これ以上大変なことになる前に止めようってことにもなりかねないわけだし……」
「だとすれば、そうなる前に教頭の悪事の証拠を見つけて白日の下に晒してやらないといけませんね」
「分かってるけど。それについては協力してくれないのよね」
「するしないではなく、やりようがありませんから。無責任なことも言えませんし」
「責任は取りたくないということ?」
「違いますよ。責任を取りたくないというよりは、背負いきれない責任を負うべきではないという考えです」
「賢明ね」
「僕は賢くないのでは?」
「……結構根に持つのね」
「そうでもないですよ」
王女は、ふぅん、と手を束ね、柵にもたれ掛かる。
風になびく前髪が目にかかり、それを顔を振って払った。
「そろそろ髪切ろうかしら」
王女は呟く。
自分はそれをただの独り言だとしか捉えることが出来なかったし、もしそうでなかったとしてどう返せばいいのかなど分からなかったので、ぼんやりと街を眺めながら黙っていたのだが──そうしていると、横から肘で突かれた。
「何か言いなさいよ」
「何かと言われましても。まぁ、切るなら切ればいいんじゃないですか?」
王女の長い髪は手入れも行き届いていて綺麗だとは思うが、鬱陶しいというのであれば軽くするべきだろう。
「はぁ……こういう時はどういう髪型がいいとか、そういうことを言いなさいよ」
「何故ですか?」
「一応恋人だもの。その間くらいはあなたの好みに染まってあげてもいいわよって、そう言ってるの」
「あぁ……そういう……」
「光栄なことでしょう? ……なんて、そんなこと微塵も思うタイプではないわよね」
「微塵もとは思いませんけど。でもまぁ、そうですね」
「少しでもそう思うのなら、最初の私の提案に一日考える時間を使った挙句断ったりはしないでしょ」
「それとこれとはまた話が別です。僕は基本的に後ろ向きな人間なので、メリットよりもデメリットの方にしか目がいかないんですよ」
「つまらない生き方ね」
王女はそう言ってから、「あぁ、でも安心していいわよ」と言った。
そして続けて、
「あなたが今後どれだけつまらない生き方をしていたとしても、私がそれ以上につまらない人生を送っているから。最下位だけは免れられるわ」
と、何にもならないフォローのようなことを口にした。
しかしどうなのだろう。こういう場合、一番下から二番目とかの方がよっぽど惨めに思える。
最下位ならいっそワーストワンでそれを自虐的にネタにすることも出来るのだろうが、下から数えて二番目三番目では、それも難しい。
「……この話は止めておきましょうか」
「……そうね」
しばし無言の間が流れ、王女は「それで? 何か注文はないの?」と、話を戻し、尋ねてきた。
「そうは言いましても……その髪、何か理由があって伸ばしてたわけじゃないんですか?」
「理由……? そんなものないけど」
「そうですか。てっきり願掛けか何かかと……あ」
髪を伸ばす、あるいは伸ばした髪を切ることが願掛けになるのは日本での話だ。こちらにはそんな風習はない。
なので、変なことを言ったかもしれない。
そう思って途中で言葉を切った。
ただ、王女は特に深く考えることをしなかったのか、「変わった風習ね。願いが叶うまで髪を伸ばすだなんて」と言うだけだった。
「まぁ……そうですね。思い切った決断をする時に髪を切ったり……願いが叶うまでは髪を伸ばし続けたり……その辺は自由ですが」
「なら、折角だし、私の婚約が白紙に戻るまでは切らないでおこうかしら。でも、邪魔ではあるのよね」
「編みましょうか?」
「編む……ね。あれちょっと嫌いなのよね。首の後ろに何かあるような感じがして」
王女は髪に指を通しながらそう言った──編む、と言うと大抵の場合は三つ編みの、それもシンプルな物しか出て来ないので、だからそう言ったのだろう。
たまに髪の毛をこれでもかと編み込んでいる人はいるのだが、それとて技術として完成したものではなく、そして基本的にそういったことが人々に共有されるためのメディアがないので、結局はその個人で止まってしまうのである。この辺はやはり剣術だとか体術だとかと似ている。
「別の編み方なら多分そのあたりの異物感はなくせると思いますけど……やります?」
「へぇ……まぁ、物は試しね」
流石に立ったままやるわけにもいかないと、土を隆起させ、硬化させ、簡素な椅子を作り上げた。そして王女は迷うことなくそこに座る。
自分は後ろに回り、許可を取ると、髪を編み始めた。椅子から土の腕を生やすことで、作業自体は何倍もの効率で行える。
「ねぇ、訊きたいんだけど」
「何か?」
「この学園の入学試験……どれくらい本気で臨んだの?」
「どれくらい……と言われると……まぁ、受かれないとまずいと思ってたので、相当頑張って準備はしましたが」
「本番でそれは活かせたの?」
「用意していたものはほとんど使えませんでした。構えている時というのはそういうものですし、別にいいのですが」
「……ふぅん」
王女は尋ねておきながら、心底つまらなさそうな反応を見せた。
「将来は宮廷魔道士にでもなるの?」
「なれませんよ」
「なれるでしょ。なんなら、今いる連中は軽く叩き潰せるわよ」
「能力の話ではなく、人間関係だとか、派閥争いだとか、権力闘争だとか、そういう面でなれないんです」
「あぁ、そっち……。でも、あなたの兄はそういうことも結構やっていると聞くけど」
「知ってるんですか?」
「噂程度よ。会ったことはないわ」
噂、か。
そう言えば、フラウドも何故か知っていたのだよな。この学園に推薦書を書けるような人間なのだから、そちらにもツテがあったりするのかもしれない。
というか、エレインについてはどうするつもりなのだろうか。フラウドの言うようにあの推薦状を受け取ったこの学園だが、今のところエレインに対する特別な接触などはない。
現状は放置気味というか、一般魔法を学ぶ他生徒と同じ教育を受けているわけだが、ずっとこのままというわけもないだろうし、もしそうなら、大枚叩いてこんな場所に通わせている意味はない。
取り敢えず授業中、分からないことがあったりすれば自分が分かる範囲で教えているのだが、それもアザミの知識にほとんどを頼っている以上、あまり当てにし続けるわけにもいかないのである──アザミはその体質故に、幼くして居場所を失っているので、基本独学の知識しかないのだ。
話が逸れた。
「……まぁ、僕は僕で、兄は兄ですから」
「同じ血を引いてるんでしょ?」
確かに、同じ血は引いている。
しかし、それだけだ。
自分は本当の意味で父親の息子ではないし、兄の弟でもない──リュカの皮を被った何かでしかないのである。
「……まぁ、そういうことはやりたい人間がやればいいんです。僕には向きません」
王女は「ふぅん」と、またしてもつまらなさそうに言った。
面白い返しをした覚えはないので、当たり前でもある。
それからしばらく髪を編み込み続け、五分ほどが経過し、髪のセットは完了した。これまで散々サクラやクロユリの髪を整えたりもしてきたので、多少長いくらいでは手古摺ることもない。
「どんな感じなの?」
「手鏡とか無いんですか?」
「無いわ。部屋に置いてるから。持ってるなら貸しなさい」
「持ってませんよ……」
溜息混じりにそう言いつつ、考える。
水溜まりでも作って覗き込ませればいいだろう──いや、氷でも似たようなものは作れるだろうか。
条件にもよるが、氷の反射角は確か約五十度ほどだったはずなので、反射して反射して反射して──五角形をした氷のプリズムを形成すれば鏡のようになってくれるのでは無いだろうか。
そう思い、地面から氷を生やした。
「氷……?」
「鏡です」
「そういうこと」原理を理解しているわけではないのだろうが、王女は頷き、そして氷を覗き込んだ。「あ、可愛い……」
恐らく素直に、王女はそう口にしていた。
「ならよかったです」
「……ありがと」
△▼△▼△▼△
風に揺れる木々の葉──その隙間から、リュカとフューリアを見つめる一つの影があった。
それは学園の制服を身に纏い、オレンジ色の髪を軽く束ねている。
彼女はサクラの命で学園に潜入している三人娘の一人、名をユリである。そんなユリは細い木の枝の上に器用に座り込み、じっと彼らを観察していた。
「何の話をしてるんですかねぇ」
「それを調べるのがユリの仕事じゃないの?」
小さく声がして振り向くと、すぐ近くの別の木の枝の上に、茶髪の少女が立っていた。
「あぁ、シャクヤク、戻ってたんですねぇ」
「まぁ、さっきサクラ様に報告を終えてね。本当に怖かった」
「怒髪天でした?」
「そこまでではなかったけど……でも、主様の目的に気が付かなかったら、そのままこの国を滅ぼしにかかってたんじゃないかしら」
「はぁ。それはただ計画が早まるだけの話なような気もしますけどねぇ」ユリは言い、リュカの方へ視線を戻した。「……それで、その目的と言うのは何です? 主様が何を考えているのか、分かったんですか?」
「端的に言えば、『教会』の連中を引き摺り出すこと。そのために主様はあの王女との偽りの恋人として振舞う事を決めた……ということみたいだけど」
そう簡単に説明をして、シャクヤクは軽く辺りを見回す。ユリは「へぇ……」と、それ以上の興味は示さなかった。
「それで、ボタンはどこに行ったの?」
「今は……エレイン様とイリーナの護衛をしてますよ。このタイミングだと下手をしでかす輩がいないとも限りませんし、それにそもそも、リュカ様に警護が必要なのかという話でもありますしねぇ」
「それはそうだけど……」
サクラからは臨機応変に動くことを求められているシャクヤク達ではあるので、本人が必要だと思ったのなら文句も言えないと、口にしようとした言葉を一度飲み込み、息を吐いた。
「それで、会話は聴き取れなさそう?」
尋ねると、ユリは首を横に振った。
「今日は風が強いですしねぇ。室内であればこの距離でも聞き取れるんですけど……」
「もう少し近付けないの?」
「これ以上は気が付かれますよ。ギリギリです」
ユリはそう返してから、呟くように続けた。
「主様は周囲に魔力を持つ生命体が接近すれば気が付きますし、それが見知った人間の物であれば、魔力の流れ方だけでその個人をも特定してしまいますから。教室だとか、周囲に人が大勢いるような場所ではそれをしている様子もありませんけど……、こういった場合は流石に警戒しているでしょうしねぇ」
それについてはシャクヤクも把握している。
詳しい原理は不明なものの、彼は魔力を用い、不可視の檻のようなものを作ることで、その範囲内に足を踏み入れた魔力を持つ生命体を逆算的に感知することが出来るのだ。
しかしユリの言うように、周囲に大勢の人間がいるような状況下では、感知対象が多すぎて混乱してしまうからという理由で、リュカはそれを発動させていない──シャクヤクやボタン、ユリがリュカに気が付かれずに学園に潜入出来ているのは、それによるところが大きかった。
だがこのような、人の少ない場所においてはその限りでもない。なのでこの距離が限界だと言うのであれば、これ以上の接近を試みるべきでは無いのだろう。
「けど、こうしてみると……何というか、普通にいい感じに見えますよねぇ」
ユリがしみじみと言う。
いい感じ──と言うのは、つまりはそういうことなのだろう。それについて、シャクヤクは頷くことが出来ないではなかった。
が、しかし。
「ユリ、分かってるとは思うけど……」
「分かってます。意味もなくサクラ様を怒らせるような報告書は書きませんよ」そう言ってから、悪戯っぽい笑みを浮かべて続けた。「……まぁ、あることないこと全部書いたらどうなるのかなぁっていうのは、気になるんですけどねぇ……」
「本当にやめて。その報告書を持っていくのは誰だと思ってるの?」
「え? シャクヤクじゃないんですか?」
「だからやめてって言ってるの」
シャクヤクは先程までの事を思い出し、顔を強張らせ、体を震わせた。
「分かりましたよ。けど、それなら、ああいうのはどう報告すればいいんですかね?」
ユリはフューリアの髪を編むリュカを指差し、尋ねた。
「……あぁいうのは……ほら、談笑していたとか、一行に纏めてしまえばいいんじゃない?」
一瞬返答に迷ったが、そう返した。
「談笑……。確かに噓は吐いてませんけど、事実を正しく報告しないというのはどうなんでしょうかねぇ」
「それは……」
無論、問題がないとは考えていない。ユリの指摘は尤もであったし、その件に関してサクラに改めて確認を取ろうものなら、その際の返答は容易に想像が出来る。
しかし、出来ることならば避けたい──そう思うばかりである。
そんなシャクヤクに、ユリは畳み掛けるように続けた。
「それに、あの髪を編むという行為。アレがサクラ様に宛てた何か特別なメッセージだとか、極秘の暗号、あるいは作戦開始の合図だったとしたら、それを正しく伝えられていないというのは、問題じゃないですかねぇ?」
「……そんなことある?」
「さぁ? 例え話なので分かりませんけど。でも、無いとは言えませんよねぇ? あるかもしれないし、ないかもしれない。ないかもしれないけど、あるかもしれない」
そんなことを言い出せば切りがない──そう思ったシャクヤクだったが、ユリは続けて言った。
「でも問題なのは、そうだった時ですよねぇ」
「もしそうだとして、それなら共有されてないとおかしいでしょ」
「そうでもないと思いますよ? 情報の漏洩を避けるために敢えて共有しないという手を取ることだってあるはずですし、おかしくはないです」
「情報の漏洩……まぁ……」
シャクヤクは考える──確かに、下手に暗号の内容を理解してしまっていると、報告書にそれが混じりかねない。
その報告が恙なくサクラの下へ届けばいいが、そうならなかった場合の事を考えると──その可能性は否定出来なかった。
「そうでなくても、情報は人の視点を広げることもあれば、逆に視野を狭めたり、考えを偏らせてしまうこともありますからねぇ。薬にも毒にもなる、取扱注意な代物です。もし純粋な情報だけを求めるのなら、余計なものは排除すべきです」
それも、他者を介するなら尚更──と、ユリは付け加えた。
「けど、合図なんて、そんなの知らなければ見逃しかねないじゃない」
シャクヤクは言う。
確かに、アレが何かしらの暗号である可能性は否定出来ない──無論、暗号なら流石にもう少し分かり易いものを選ぶはずだとは思っているが──しかし、もしそうだったとして、その全てを正確に描写し、報告をすることは不可能だ。
そこまでのことを期待されても困るというものだった。
「おや。おやおやおや。心外ですねぇ。私が見逃すとでも?」
「そ、そりゃ信頼はしてるけど──」
「でもまぁこの世の中に絶対はないですからねぇ。私でも見逃すときはあるかもしれません」
「…………」
「だからこそこうやって頑張ってるんですけど……シャクヤク?」
「いや、うん。……話が逸れたけど、じゃあ、あの光景もくまなく伝えるべきってこと?」
「そうですねぇ。そういう仕事の一つ一つ、その積み重ねこそが信頼に繋がるわけですから」うんうんと首を縦に二回振るユリ。「なので、正直私も気は進みませんが、きちんと書き記しておきます──それがいつか、世界の救済に繋がると信じて……!」
ユリはぐっとこぶしを握り締め、真面目な顔を見せると、ペンを握り直し、手元の手帳に走らせ始めた。
「さっきと言ってる事違うし……」
それを見、シャクヤクは頭を抱えた。
「ところでシャクヤク」書く手は止めぬまま、ユリは口を開く。「一人孤独に記録を取り続ける私の話し相手になりに来てくれたのはとても嬉しいんですけど、いつまでもここにいていいんですか? ボタンがいるとは言え、一応向こうの反応も見ておくべきでは?」
「別に話し相手になりに来たわけじゃないけど……」
また何か良からぬことを考えているのではないかと思い観察をしに来たのと、釘を刺しに来ただけである。無論、話し相手になりにきたつもりが毛ほども無いかと言われれば、また話は変わるが。
「でもそうね。そろそろ戻って一般生徒に混ざり直しておかないと」
「わざわざそんな意気込まなくても、シャクヤクなら二秒で溶け込めますよ」
「それは何、貶してるの?」
「まさか。シャクヤクのその、キメロディーペのような完璧な擬態スキルは、サクラ様達からも大絶賛されていたじゃないですか」
「キメロディーペって何……?」
シャクヤクは変なものでも見るかのような目をユリに向け、首を傾げた。
「周囲の環境や背景に合わせて体の色を自由自在に変える魔物ですよ」右手の人差し指をピンと立て、それをくるくると、円を描くように回しながら言った。「見たことないんですか?」
「さぁ……多分ないと思う」
「そうなんですか。まぁとにかく、貶してはいませんよ」
「はぁ……なら、そろそろ戻るから、ちゃんと書いておいてよ? 変な脚色とかは加えないで」
シャクヤクは言う。
念押しして言う。
それでもなお不安は残る。
「それ毎回言ってますよねぇ。私、そんなに物覚え悪くないですよ? 悪かったら務まりませんし」
「それは知ってるけど、毎回言わないと「今日は何も言われてないから」とか言って、碌でもないことしでかさないとも限らないでしょ」
「誰の話してるんですか?」
「あなたのこと言ってるんだけど」
「えぇ……」ユリは分かりやすくショックを受けたようなポーズをとった。「シャクヤクの中で、私ってそんな虫みたいな思考回路したクズだと思われてるんですか? もしかして、内心何食ったらこんな奴が出来上がるんだとか思われてるんですか?」
「え、あ、そ、そこまでは言わないわよ? 可愛いところもあるとは思ってるし──」
シャクヤクは慌ててフォローに入った。
しかし。
「でも私も時々そう思います。色々バランスよく食べるようにはしてるんですけどねぇ」
何が悪いんでしょうか──と、ユリ。
「…………」
「ん? 何か言いました?」
「いや、何も。ユリだけ腐りかけのものしか食べさせてもらえてないんじゃない?」
シャクヤクは呆れたように、冷たく言った。
「そんなぁ……」
「じゃ、頑張って」
「はい。ボタンにもよろしく言っておいてください」
ユリがそう言うと、シャクヤクは風と共に姿を消していた──それを確認すると、ユリは再び手帳にペンを走らせていく。
「それが事実なのであれば、そして脚色を加えていないのであれば、表現方法に関しては何の指定もされてませんよねぇ……」
リュカに髪を触られるフューリアの顔が少しばかり赤くなっているのを見て、ふふふと、ユリは嗤ったのだった。
△▼△▼△▼△
「これは何……? どう解釈すればいいの……?」
夜。
上げられた報告書を読み、頭を抱えるサクラの姿があった。
部屋に這入ってきたシャクヤクが真っ青な顔をして、報告書の入った封筒を渡すなりなんなり一目散に逃げだしたその時点で、何とはなしに嫌な予感はしていた。しかし昼頃にも、リュカに恋人が出来たという報告をしに来たシャクヤクが似たような顔をしていたこともあり、それ関連で少し言い辛いことがあったのだろうと考えていたのだ。
が、蓋を開けて見れば。
否、封を開けて見れば。
「これは……官能小説の新人賞に送る原稿でしょうか?」
アジサイの放ったその言葉が全てであった。
「この国の王女の名前の入った原稿なんて送ったら大変なことになるでしょ」
「それはそうですが……。まぁ、主様の名前があるあたり、報告書で間違いはないんだと思いますけど……」
「これを書いたのはユリ……よね?」
尋ねられ、アジサイが報告者の名前を確認する。
「そのようです」
「だとすれば、まぁ、彼女の事だから、禁止されて無いからこれでもいいだろう──と判断しただけなんでしょうけど……」
「シャクヤクが逃げたのはそういうことですかね。別に責めたりはしないのに……」
「責めたりはしないというよりは、規則としてほとんど何も定めていないから、責めることが出来ないの間違いね」
言いながら、サクラはリュカが以前言っていた『万人の万人に対する闘争』という言葉を思い返していた。
人は自然状態では利己的な生き物であり、己の利益のために他者との争いを繰り返すのである──と。
ルリと言いユリと言い、彼らの行動は、法律や規則という物の正しさや必要性をこれでもかと証明しようとしているとしか思えない。尤も、これらの行動が何の利益を本人らに齎しているのかについては、甚だ疑問であるが。
「では、改めて規則を定めるべきでしょうか?」
「そうね。規則……と言うよりは、フォーマットを作成しましょうか。今後方々に複数の人間を送り込むことになるのでしょうし、その時の為にも、報告書の書き方を統一してしまった方が楽ね」
「なるほど……それにより、書き手によるブレを減らすことも出来る……ということですか」
「えぇ。それの作成だけど、お願いしてもいいかしら?」
「はい。お任せください。早急に取り掛かります」
「……本当に大丈夫? 忙しかったら無理に頼んだりもしないわよ?」
「問題ありません。つい先日、新刊は書き上げて納入し終えていますから。今の私は無敵です」
むんっ──と、アジサイは力こぶを見せつけるように構えた。
「あら、今回は早めに仕上げたのね。いつもは締め切りがどうのと騒いでいるのに」
サクラがそう言うと、アジサイは苦笑した。
「思いの外筆が進んだもので……。いつもの三倍速く仕上げることが出来ました」
「へぇ……」サクラは椅子の背に体を預けると、目を閉じて言った。「なら、刊行されたら読ませてもらうことにするわ」
「原稿でしたら今すぐにでもお持ち出来ますが?」
「どうせなら本の形で読みたいのよ。……それにしても、こんな形で一気に名を上げるとは思ってなかったわ。ハイドレン先生?」
「いえ。どれもこれも、全て主様のお陰です」
「どれもこれもが彼だけの功績というわけでもないでしょう?」
「それはそうですが……この道を示し、そのための知識をくださったのは、紛れもなく主様ですから。それにきっと、私がペンを握り始めた時点で、主様には今の私の姿が見えていたのでは──と思います」
「そう……。まぁ、今は新進気鋭の作家として知名度を伸ばすことに専念してちょうだい。それと並行して、新聞社の中により深く潜り込んでもらう必要もあるけど……」
アジサイに仕事を押し付けすぎているのではないかと、サクラは常々思う──がしかし、アジサイ以外に同じことを頼める人間もいないのもまた事実であった。
「記者が各地から上げてくる情報にいち早く触れられるというのは、これ以上ない利点ですからね」
サクラは軽く頷く。
「今後、より迅速に情報を収集出来る仕組みは作り上げていくつもりだけれど、それまでの繋ぎとしてはこれ以上ない存在……ただ当然、分かってはいると思うけど、『教会』の連中もあなた同様に紛れ込んでいるかもしれないということには留意しておきなさい」
「はい。万事ぬかりなく進めて参ります」
そう言ってアジサイは恭しく頭を下げ──再び先程の報告書に目を向けた。
「それにしても、この報告書──内容だけ見れば憤慨ものだというのに……、書き方がアレなせいで、怒るに怒れませんでした」
ムキになれないと言いますか──馬鹿馬鹿しくなったと言いますか──と。
アジサイは小さく呟く。
「ユリが彼女なりに考えた結果……なのかしらね」
「まぁ……ほとんど悪ふざけだとは思いますけど……」笑い混じりに言って、続けた。「表現力は高いんですよね。情景描写も丁寧で、その場面が思い浮かべやすいと言いますか。磨けば光りそうではあるんですよね……」
確かにと、サクラは同意を示した──尤も、実際に目にした光景をそういう表現で書くという行為と、ゼロからその光景含めて話を作るのとでは、何もかも違ってくるのだが。
「それで、あの、サクラ様」
「何?」
「この報告書……お借りしてもよろしいでしょうか?」
「……何でかしら」
サクラの声のトーンが少し落ちた。
アジサイは少しモジモジとしながら、
「先ほどは怒るに怒れなかったと言いましたが、それでも不満が全くないというわけではないので……その、王女の部分を私の名前に書き変えてやろうかと思いまして……」
そう言った。
「……アジサイ」
「……っ!」
「……その、私の分もお願いしていいかしら」
「は、はいっ!」
夜は更けていく。




