〈17〉あの時のこと
小田原さんのお店のカードを受け取ったあの日、帰りがけに立ち寄ろうと思っていたら「今日は定休日なんだ。また明日おいで」と言われてしまい、「お店のココア」はお預けとなった。
確かに、休日じゃなければ店員さんが高校に遊びに来れるはずがない。
そこから数日経ち、今日ようやくチャンスを得た。放課後になるまでの間にどれだけ頭の中が授業内容で埋め尽くされていっても、「お店のココア」のことが常にその片隅に居座っていた。近い未来に非日常が約束された状態で過ごす日常は、どこかソワソワするものだった。
毎日同じような行動を繰り返していたせいで習慣を固定化し過ぎてしまい、それによって生きる楽しみを排除しすぎていたことも、この浮ついた気分に拍車をかけていたのだろう。自転車小屋に着いて荷台にバッグを括りつけようとしたとき、ゴムの荷ひもを手から落としたりしてスムーズに作業が進まなかった。
―――――
いつもなら通り過ぎている信号の交差点の手前で自転車を降り、砕石の敷かれた駐車場へ自転車を押して歩いた。駐車場には小さな乗用車が一台だけ停まっていて、その隣にうちの高校ではない他校生のナンバーのシールが張られた自転車が2台停まっていた。僕はその2台の隣に並べるようにして自分の自転車を停めた。
喫茶店のちょっと重めの扉を開けると、フワッと珈琲の香りが僕を包み、エアコンで良く冷やし乾かされた空気が制服に染み込んだ湿気と熱をみるみる引き剥がしてくれた。扉に取り付けられたカラカラと音を立てる金属製の何かにつられて、エプロン姿の爽やかなおじさん、もとい小田原さんがこちらの存在に気が付いた。
「いらっしゃいませ。さっそく来てくれたんだね。」
「こんにちは。」
「こんにちは。お好きな席へどうぞ。」
店内を見渡すと、入り口から向かって左の窓際の席に小綺麗な老夫婦が座っていた。僕は入り口から向かって右の窓際の席を選んだ。荷物をカゴに置いて着席すると、空間の奥の方に階段があるのが見えた。上を見上げてみれば、吹き抜けの先にロフトのような2階席がある。ここから見る限りでは、上の階に人の姿はない。
(ちょっと失敗だったな。2階にすればよかった。)
こういう場所では、周りに人がいない方が落ち着くのだ。自分の小さな選択を小さく後悔したが、今更移動するのも面倒臭くなってしまった。
僕は机の上のメニュー表を手に取って眺めた。コーヒーと紅茶それぞれに、いくつか種類がある。そのリストの下の方に「ココア」の3文字を見つけた。ちょうどその時、小田原さんがテーブルの近くまで来てくれた。
「ご注文お決まりでしたら、お伺いしますよ。」
初対面の時はあんなにフランクだった人のかしこまった言葉遣いが、新鮮に感じられた。むしろこっちの方がこの人の本来の姿なのではないかとさえ思えた。それにしても、ココアがきっかけで誘ってくれたのに、何頼むのか一応聞くんだ。僕はメニューを指さしながら注文した。
「ココアでお願いします。」
「はい(笑)、ココアですね。」
小田原さんはどこか楽しげに笑った。そして笑顔が爽やかだ。
「サイズはどうしますか。S、M、Lから選べますよ。」
考えてなかった。安い方が良いけれど、量が少ないのも寂しい。せっかくだから奮発するか。
「じゃあ、Mで。」
「ホット、アイスはどちらにしますか。」
「アイスで」
質問が次々に飛んでくるので、僕は反射的に応えた。
「かしこまりました。ご注文は以上でよろしいですか。」
「はい。大丈夫です。」
「かしこまりました。」
小田原さんは注文のメモを閉じる。
「ありがとうね。さっそく来てくれて。」
「いえいえ。」
「あそこの棚にマンガとか置いてあるから、好きに読んでいいからね。」
「ありがとうございます。」
小田原さんはカウンターに戻っていった。事務的なやり取りが完了するとフランクな感じに変化した小田原さんに、大人の切り替えスキルを垣間見たような気がした。
「あ」
今更になって気付いた。アイスココアを頼んでしまった。いつもは胃を労わって缶のホットココアを買っていたのに、無意識にいつもと違うものを選んでしまった。外が暑かったせいだろうか。
小田原さんを呼び戻すのも面倒臭いし、アイスだってきっと美味しいのだろうから別にいいや、と一瞬前の失敗を放り投げた。
僕はカウンターの近くに置かれた小さな本棚の所に行き、何か面白そうなマンガが無いか探索をした。ふと、何巻もズラリと並ぶタイトルが途中で途切れて、雑誌が挟まっているのを見つけた。やや新しめの自動車の雑誌のようだ。僕はマンガに挟まれたそれを本棚から引き抜き、座席まで持ち帰った。
適当にページを開くと、最近発売されて間もない新型のコンパクトカーの特集が組まれていた。様々な角度から撮影された車体が誌面のあちこちに散りばめられ、その隙間を縫うように細かな説明文が並べられていた。そこから一つページをめくると、ダッシュボード全体を映した画が現れた。僕はハンドルとメーターパネルを見ながら、この車を運転する場面を頭に思い浮かべた。
アクセルを踏むと車が進む感覚って、どんな感じなんだろう。自転車は車輪と自分の足がダイレクトにつながっている。けど、自動車を走らせた時の感触はあれとは違うはずだ。
僕は自転車のハンドルを握っているときの感触と、車の助手席に座っているときに感じる横方向の重力のような感覚を頭の中で合成しようと試みた。しかし、どうしてもあの忙しなく回る足の感覚を取り除くことができなかった。
僕は妄想を諦め、おとなしく雑誌の説明文を読みはじめた。この車、とにかく収納が多いらしい。2ページ目をめくって中ほどまで読み進めたころ、小田原さんがアイスココアを運んできてくれた。
「お待たせしました。アイスココアです。」
グラスが机に置かれる。良く冷えているそれには細かい水滴が付いている。
(濡らしたらまずいな。)
僕は咄嗟に手に広げていた雑誌を閉じて机から引っ込め、会釈した。
「車、好きなの?」
「え?あ、はい。」
ぎこちない返事をしてしまった。さっきまで雑誌を読むことに夢中になりすぎていたせいだろうか。
「どの車に乗ってみたいとかある?」
「うーん。まだ分からないです。あ、とりあえずMT車選びたいですね。」
「いいね。うまく扱えるようになると楽しいよ。あれは。」
あまり大した内容の会話でなくても、自分の好きな話題で誰かと話すのは楽しいと思った。そもそも、会話自体を楽しいと感じたのはいつ振りだろう。基本的には疲れる営みのはずなのに。もしかしてこの人は、この世に数少ない「気の合う人」なのでは?という考えが浮かびそうになった所で、慌ててそれを抑圧したくなった。
(こんなの全部営業トークだって。金になるから喋ってくれるんだ。)
心が暖まりそうになったのを冷たい理性が急速冷凍した。油断してはならない。自分は他人に好かれる人間じゃないのだ。ただ、車の話をする今の状況を楽しいと感じる気持ちは、振り払うことができなかった。
「良い車と出会えると良いね。」
「そうですね。もうちょっとこの雑誌お借りします。」
「どうぞどうぞ。ゆっくりして行ってね。」
小田原さんがテーブルから離れようとしたとき、ふとカウンターの上にこの前もらったお店のカードの束があるのが目に入った。
「あの、」
「はい、何でしょう」
小田原さんはこちらを振り返る。さっきまで話していたこととは全く関係の無い疑問が突然頭に降ってきて、尋ねてみたくて仕方が無くなってしまった。
「そういえば、このお店はなんで『喫茶イケダ』っていうんですか?」
後ろの方から、ガチャンと音がした。誰かがマグカップを乱暴に置いたっぽい。
「池田さんっていうのはね、このお店を作った人の名前だよ。僕は跡を継いだんだ。」
小田原さんは柔らかく微笑みながら応えてくれた。
「そうだったんですね。」
「そうなんです。」
「……」
「……」
疑問があっさり解決された所でつい満足してしまい、言葉が止まってしまった。
(あ……、何か言わなきゃ)
ここは僕が会話を続けなきゃいけない場面なのに、続ける動機を失ったせいで何も返せない。僕から出る言葉はそう無さそうだと察した小田原さんが口を開こうとした、その時だった。
「あれ、永二?永二じゃん!」
ふいに高いところから声がした。上を見上げると、吹き抜けの2階から誰かが顔を引っ込める瞬間を目撃した。どこかで聴いたことがあるような声だった。声の主が、階段を降りてきた。
「よ!中学振り!」
「矢野くん?」
矢野くんが満面の笑みで手を振っていた。僕はその明るさを素直に受け取って良いものなのか、戸惑った。
(矢野くんは僕に嫌気が差していたんじゃないのか……?)
矢野くんが僕の座る席に近付いてくる。
「へーい、元気してた?」
「い、一応?」
僕にとってはどう返せばいいのか分からないあいさつだ。この会話を英会話に翻訳したら「nice to meet you」とかになるんだろうか。
そんなことを考えていると、小田原さんは僕たちに軽く一礼してカウンターの中に戻っていった。カウンターの中の小田原さんからはいつの間にか笑顔が消えていて、その真顔の迫力に少し怖さを感じた。さっきまでの柔らかな笑顔がウソのようだ。
心から笑っているように見えていたけど、やっぱりあれはプロが織りなす作り物の営業スマイルだったのか。……自分は他人に好かれるような人間じゃないし。
「お前もここの常連だったの?」
「いや、初めてだけど。」
矢野くんは嬉しそうな顔をしている。僕が、他人に、好かれるはずは……。
「そうか。まあ、この街の高校生なら一度は来る店だもんな。」
「そうなの?」
確かに高校生の自転車がいつも駐車場に1、2台置かれているのを見かけるけど、そんなに定番の店だったのか。知らなかった。
「そうだと良いんだけどね~」
カウンターの中で小田原さんが柔らかく苦笑いしていた。矢野くんが話を盛っていただけだった。
「矢野くん学校で口コミ広げて来てよ。」
「まーかせーなさいって。」
矢野くんは胸のあたりを片手でトントンしながら言った。
「お前今日部活とか休みなの?」
矢野君は僕の向かいの席に座った。
「いや、そもそも帰宅部なんだけど。」
「あ、そうなんか。すまん。まあ、オレも幽霊部員みたいなもんだけどな。こういう寄り道に時間使う方が楽しいし。」
「僕、普段寄り道とかしてないよ。自分の部屋と教室を行ったり来たり。」
矢野くんの言葉が一旦止まった。そして呆れるように苦笑しながら口を開いた。
「……お前、真面目だな。」
「余裕が無いだけだよ。」
「じゃあ何?家から帰ったら遊びもせずに教科書の暗記でもしてんの?『シップスクラークか』とか」
「何それ?」
自分で思っていたよりも低い声が出た。マズい。これじゃまるで怒ってるみたいだ。
「い、いやそんな。お前を責めようとしたつもりは……」
やっぱり。誤解されてしまった。今すぐ正したい所だけど、それ以上に気になってしまうことがあった。感情を好奇心が上回る。
「いや、そうじゃなくて、『シップスクラーク』って、何?」
「あ、そっち?」
矢野君はキョトンとした顔をしている。
「まだ習ってなかった?元素の周期表のやつ」
「周期表?習ったけど…」
水兵リーベから始まるアレ。そんな語呂合わせ、あっただろうか。あ、もしかして。
「……シップはすぐ来る?」
「何それ?」
今度は矢野君が首を傾げる番だった。僕は覚えている範囲で呪文を詠唱した。
「なぁに間がある、シップはすぐ来る、あぁ閣下はスコッチのヴァクロマン。笛子にゃどうせ会えんが、ゲル、アス、セ、ブロー、クリプト…」
「ちょ、ちょっと待てい!なに?!バスロマン?!」
「ヴァクロマン!入浴剤じゃねぇよ。」
「その語呂合わせホントに合ってんの?」
「うちの学校だとそう習ったんだけど。」
「ハハハハ!お前んトコの先生クセがすごいな。そりゃ一度聴いたら忘れらんねーわ!」
矢野君とは通う高校が違う。所変われば、文化も違うということか。矢野君はひとしきり笑った後に言う。
「永二、ずいぶんと顔明るくなったな。」
「そう?」
「ああ。『影のある目』をしなくなった」
「?」
影のある目、という言い方があまりピンと来なかった。単に僕の顔が暗かったのなら、はっきりそう言えばいいのに。まあでも、これだけは確実に言える。
「良く分からないけど、そういうの特に自覚してないな。」
「俺から見たら随分変わったよ。小学生の頃は本当に目に光が無かったからな。昔の智沙姉さんと同じ目をしてた。」
「智沙姉…さん?……ああ、あの時の!」
小学生の頃、家出と称して矢野くんの親戚の家への帰省に同行した時、お世話になった人だ。
「やっぱり会わせて正解だったのかもな。一時はどうなるかと思ったけど。」
「……本当にごめん。」
「いや、あのことはもういいんだって。だってあれだろ?あの時はもう暗くなってたし、叉油瓜さんの所で保護してもらった方が安全だったんだろ?あん時はオレもガキだったし、我儘が通らなくて拗ねてただけだから。」
もういい、と言いつつ、つい掘り返してしまうあたり、多かれ少なかれ心に引っ掛かりがあったのだろう。当時も大人たちの助言に促されて形式的に和解のフリみたいなことをしたけど、やっぱりお互いあの時のことを解決しきれてはいなかったようだ。時が積み重なった今なら、昔話のついでみたいに本当のことを伝えられそうな気がした。
「いや、実を言うとさ、矢野くんたちの所に戻るの気が引けてたんだよね。」
「え、じゃあ居なくなったのワザとだったの?」
「……うん。」
「……そっかぁ。オレ避けられてたかぁ。」
矢野くんはイスの背にもたれながら反り返るように伸びをした。
「お互い様じゃない?中学の時話しかけづらかったんだけど。」
「オレも話しかけづらかったよ。クラスも別になってたしな。んで、だんだん面倒臭くなってた。」
「……そうだったんだ。僕は、矢野くんのことが怖くなってたから…。」
「何で?!オレ別にグレたりヤンキーになったりしてないぞ?!」
「いや、見た目とかじゃなくて、何て言えばいいんだろ、こんなに自分の存在を受け入れてくれる人がこの世にいるはずが無い、いつか絶対に疎外されるって思い込みが強かったから、その時が来る前に逃げようと思っちゃったんだよね。」
「オレは永二が消えると思って本当に怖かった。」
矢野くんの表情から笑顔が消えていた。
「目の前で人が消えようとする所を目撃するなんて二度と御免だよ。」
「……」
言葉が詰まった。矢野くんの顔を見て、家出の最後に味わったあの緊張感が蘇ってきた。しかし、それはすぐにどこかへ流れていった。
「まあでも、永二も智沙姉さんも消えないでちゃんと戻ってきたしな。もう大丈夫だろ。」
矢野くんは何事も無かったかのようにまた笑っていた。ただ、僕の中にまた一つ引っ掛かりが出来た。
「智沙姉さん…も?」
「ん?言ってなかったっけ?智沙姉さんも昔、永二と同じことしたんだよ。んで、本当に危なくなっていよいよ……って所をオレが見つけて、寸前で止めた。その時の智沙姉さんも……『影のある目』をしてたんだよ。だからお前のことも急いで拾った。」
「そうだったんだ……。ありがとう。家出を手伝ってくれて。あの時は本当に助かった。」
「あいよ。ついでに智沙姉さんにもお礼言っとけよ。あの時から一度も会ってないだろ。」
「そうだね。今度久しぶりに憩いの家、行ってみようかな。」
「受験終わってからな」
「……そうだね(笑)」
喫茶店で初めて飲んだ「お店のココア」は、特別なくらいに美味しかった。
なろうの存在は、識字率の賜物。ありがたや。




