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〈16〉可もなく不可もない毎日

僕は自販機の前に立ち、ガラスの向こうに並ぶ飲み物たちを眺めていた。「つめた~い」と「あたたか~い」が半分ずつ占めている。


コーヒー、紅茶、サイダー、レモネード。エナドリもある。僕は飲まないけど。この高校に置かれた自販機は商品のバリエーションが幅広い。たまに公園で見かけるような、コーヒーと緑茶と水くらいしか売ってない自販機とは大違いだ。そういうところに限って、唯一ちょうど飲みたいと思ったミルクティーが売り切れていたりする。ここなら多少の売り切れがあっても他の選択肢が豊富だから助かる。


3台並ぶ自販機のうち、真ん中のものにコインを入れた。今回は「あたたか~い」缶のココアのボタンを押した。家でいつも飲んでいる粉のココアと同じ銘柄だ。もうあまり寒くない時期に入っているが、ホットのやつを選んだのは胃を冷やしたくなかったからだった。


熱を強く帯びた缶を右手に左手に転がしながら、教室に戻った。



僕は自分の席に戻ると、ココアの缶の口を何となく上下に回転させて振った。中身が均等になるころを見計らい、タブを起して一口飲む。


「……」


もう一口飲む。


「……なにこれ。」


疲れた脳に糖分が染み渡るのと同時に、明らかにおかしい酸味を感じた。しかし、腐敗臭は無い。例えるなら、甘い吐瀉物。


(ハズレ引いたかな…?)


家で飲む粉ココアはあんなにおいしいのに、同じ名を冠する市販品がマズいわけがない。これはきっと不良品だ。そう思って飲むのをやめようと思ったが、目の前の糖分欲しさに結局半分ほど飲んでしまった。


飲みかけの缶を机の上に置くと何かの拍子に落としてしまいそうだったので、窓のフチに置いた。窓際の席で助かった。


ガラガラガラ。


次の科目の先生が教室に入ってきた。まだ口の中には逆流した胃液みたいな風味が残っていた。僕は慌てて机の横のリュックから水筒を取り出し、紅茶を飲んでザワつく味覚を洗い流した。缶のココアは後で捨てた。



―――――



糖分を補給したお陰か、先生が語る授業内容がするすると頭の中に入ってくるような気がした。教科書の問いを解く時間になると教室の空間を支配していた先生の声が止んで、ペンが紙の上を滑る音に包まれた。


僕は一通りの問いを解くと、なんとなく窓の外を見た。校庭の向こう側に一本の鉄塔が立っていた。休み時間のときにクラスメイトが話していたのはアレのことのようだ。確かに、電線らしきものはつながっていない。その代わり、細い避雷針のようなものが上に突き出ていた。そしてそれを囲うように、白くて長い卒業証書入れの筒のようなものが4本くっついている。休み時間のあの3人はあそこに住み着こうとしていたのか。あまり快適じゃなさそうだ。


鉄塔の向こうから、一羽の鳥がこちらに向かって飛んでくるのが見えた。つい目で追っていると、校舎の隣に位置する体育館の屋根の上に降り立った。数秒静止した後、その場をトコトコ歩き出した。ハトだ。


忙しない動きで2、3歩くらい歩いては、立ち止まって足元をつついている。その頭上に、黒い影が突然降ってきた。カラスだ。ハトは頭を蹴られて態勢を崩した。2羽の鳥が羽根をバタつかせながらもみ合っている。


(ハト大乱闘だ)


そのうちハトの動きが弱くなっていき、完全にカラスがハトを抑え込んだ。闘いの動きがおよそ止まったところで、僕は再び教科書の問いを見た。答え合わせの前にもう一度自分の回答が間違っていないか見直した。一通り目を通した後、また窓の方を見ると、体育館の屋根に白っぽい羽根が散らばっていた。その中心で、カラスがハトの羽根をむしり取っているのが見えた。



「カラスがハト喰ってる!」



僕は思わず叫んでしまった。静かな教室に声が響く。


ガタガタ


僕の席の後ろに続く窓際のクラスメイト達が皆立ち上がって窓の方を見ていた。


「うわホントだ。……喰ってる。」


「マジか」


「えぇ……」


教室の方を振り返ると、窓際以外の席の者も何人かが窓の方を見ていた。しかし、すぐに皆興味が薄まっていくように、一人、またひとりと静かに着席していった。先生もチラッと少しだけ窓の方を見ていたけど、何事もなかったように手元の教科書を読んでいた。僕は特に怒られるようなことも無く、その後も普通に授業は進んでいった。問いは一問だけ間違えた。



―――――



一日の授業が全て終了し、僕はいつも通り教室から解放された。自転車小屋で荷台にバッグを固定していると、遠くの方で吹奏楽部が息の長い和音を飛ばしていた。曲のようには聴こえないから、たぶんウォーミングアップか何かだろう。


一年生の時の体験入部で誘いを断っていなかったら、きっと今頃僕もあの場所にいたのかもしれない。初めは興味があったけど、練習が夜の8時まで続くことがあると聞いて入るのをやめた。夜は眠りたい。それに勉強する時間を圧迫してしまうだろうと思った。


今は遊んではいけないのだ。


流行りのゲームさえ手を出さなくなった。たぶん、我を忘れる程夢中になってしまうだろう。


大学に入って、車を手に入れて、自由になりたい。青春を生贄に捧げるくらいしないと、それらは僕の手には届かない代物だろうと思っていた。


幸い、クラスメイト達が先生の目を盗んでゲームを持ち込んで休み時間に遊んでいたから、横から見学させてもらってちょっとだけ楽しむことはできた。今はそれで我慢するしかない。


いつものように頭の中をぐるぐる巡らせながら、僕は朝来た道を自転車で逆にたどり始めた。



―――――



時々赤信号に捕まりながら、街中の歩道をのんびりと進んでいく。自らの身体を淡々と運ぶ単純作業が心地良い。街道沿いのコンビニの看板が目に映る。


(そうだ。)


ふと、寄り道をしてみたくなった。帰らなきゃいけない場所は変わらない。けど、自分の行く道は、自分で決めた方が、楽しいに決まっている。


乗用車5台分くらいの小さな駐車場の隅に自転車を停める。お店でサクッとアメリカンドッグを買ってくると、サドルにまたがりながらハンドルの上で紙袋を開封した。ちょっとだけ日の陰った駐車場の隅で、マスタードと小麦に包まれた甘い魚肉をほおばる。自ら選択した寄り道。縛りの多い高校生活の中で、つかの間の自由を感じた。



家に到着すると、夕飯らしきにおいがした。アメリカンドッグのカロリーはすでにペダルを回す燃料として消費し尽くしていた。自室に着くと肩と右手で運んできた荷物を置き、おもちゃみたいなラジカセの電源を入れてラジオを聴きつつ制服から私服に着替える。ラジオのパーソナリティが2人で風水の話をしていた。


そういえば中学生の頃に部屋の配置換えをしたことで、小学生の時みたいに部屋の中が居間から全て丸見えになるようなことは無くなっていた。ただその代わり、使い勝手がとても悪くなった。


「風水的に子供が勉強家になるから」という理由で部屋の場所と勉強机の位置が決められ、他の家具はスペース的にやむを得ない位置に追いやられた。その結果部屋の中央の大部分をコタツが占領し、ベッドがふすまの目の前を横切って塞ぐように置かれ、出入りするときはベッドを一度踏み越えねばならなくなった。


夜寝るときには真横から誰かが廊下を通る足音が響き、朝になれば寝ている真横のふすまが開いて、至近距離から金切り声の「起きろ」が飛んでくる。


相変わらずの飼育小屋だ。ちなみに小学生の頃を過ごした以前の部屋は、風水的には「色気が増すばかりで他は駄目になる部屋」だったそうな。両親は僕をガリ勉に仕立て上げたいらしい。のんびりと着替えを終えるとラジオを消し、僕はちょっと遠くなった居間に向かった。



居間では父が癇癪を起していた。



「おい!味噌汁とご飯の位置が逆だ!オレに死ねというのか?!」


「なんでそうなるの。そんなこと言ってないでしょ。」


母が呆れるように返して、台所に戻っていった。父の目の前に置かれた(うつわ)は確かに、左に味噌汁、右にご飯となっていた。いつもの景色とちょっと違う。


「これは葬式の置き方だ!」


母がいなくなった後の居間で父が叫ぶ。


なるほど、そういうことか。それにしても、全ての発言の声量が大きくて、心臓に悪い。これ以上大声を聞きたくなかったから、僕は父の器の左右を修正した。


「たぶん、そんなに深く物を考えられる人じゃないと思うよ。」


「……このくらいは常識だ。」


少しの間の後、父は静かにそう言った。母に対し、思い当たる節でもあったのかもしれない。僕はまだテーブルまで運ばれていない食器を運ぶため、台所へ向かった。大皿に盛られた肉じゃがを置いた時、父が落ち着いた口調でつぶやいた。


「家の中でくらい、気ぃ遣わなくていいんだからな。」


「?」


この人は一体何を言っているのだろう、と思った。僕は特に何か親切なことをしたつもりは無いのに。実は「人に親切にする=人に気を遣う」という意味ではないのだ、ということを知るのは、ずいぶん後になってからのことだった。


そういえば、荒れ狂う父に対していつの間にか自分の言葉で諫められるようになっていた。高校生になって語彙が増えただけなのだろうけど、父の方が年を取って弱ってきたかのようにも思えて少しさびしさを感じた。


(相変わらず、気の休まらない家だな。)


気は休まらなくとも、この人の元にいれば食いっぱぐれるようなことだけは絶対に無いという絶大な信頼感だけは確かにあったのだ。生き物として強い人のはずだった。これからは、自分が強くならねばならない。



―――――



僕はその後も自分の部屋と教室を行き来するだけの同じような毎日を過ごした。時々通学路の途中のコンビニで買い食いをするくらいで、それ以外の時間はほとんど教科書を脳みそにインストールするだけのマシンのように過ごした。


そうして夏休みが近づいてきたある日、僕は放課後の帰り際に糖分が欲しくなって、渡り廊下の自販機コーナーへ向かった。するとそこには、見慣れない爽やかなおじさんが立っていた。新任の先生かな。……この時期に?


「こんにちは。君も峰大生?」


「えっ」


突然話しかけられたかと思えば、大学生と間違われた。なんで?高校の敷地内にいるのに?


「僕はここの生徒ですが……」


「あ、そうなの?これは失礼。制服じゃなかったから、つい」


ガコン


おじさんは自販機から飲み物を取り出す。そういえば、今日は体育の時に汗をかきすぎて、体操着の代わりに予備でリュックに入れていたTシャツを着ていた。制服のYシャツも登校時の自転車移動で汗を吸っていたから、着ていなかった。放課後過ぎてあとは帰るだけだから問題無かろと考えていたのだった。


「いえいえ。大丈夫です。昔から老けて見られるので。」


中学生の時にだって、高校生と間違われたことがある。


「いや、そんな。人より大人びているんだよ。」


「それは……どうも。」


おじさんの言葉に何て返すのが正解なのか一瞬分からなかったけど、昔こんな返しをする別のおじさんを見たのを思い出して、セリフを真似してみた。「どうも」って、便利な言葉だ。


「今日さ、この高校のOBの子たちがあいさつに戻ってくるからおいでってここの先生に誘われてさ。来てみたんだよ。何年か前に購買を手伝ってたことがあってね。」


「そうだったんですか。あ、それでさっき峰大生って」


「そうそう。今日来てるのはみんな峰大に進学した子たちなんだって。まあ、地元の大学だし、気軽に遊びに来れるからね。」


おじさんは手に持っていたペットボトルの蓋を開けてお茶を一口飲んだ。


「そういえば、もしかして自販機使う?」


「あ、はい。」


「ごめんね。ちょっとジャマしちゃった。」


「いえいえ。」


避けてもらった手前素早く用事を済まさねばと焦った僕は、とっさに自販機のボタンを押した。押した後で、気付いた。買ったのは、この前と同じ缶ココアだ。


「あ、」


「どしたの?」


「……何でもないです。」


自販機の反対側の壁を背もたれにして、僕は缶のフタを開けた。ちょっと警戒しながら、鼻に近付ける。変なにおいは特に無い。やっぱりこの前のは不良品だったのだろうか。僕はグイッと中身を飲んだ。……この前と全く同じ味がした。


(うわ、マズ……)


この明らかに異常な酸味を(まと)う風味は、不良品ではなく仕様だったようだ。


「なんか、美味しくなさそうだね、それ。」


隣でペットボトルのお茶を手にしたおじさんが言う。


「え、何で…」


「そんなに顔しかめてたら、マズそうに見えるよ。」


顔に出てたらしい。無意識だった。


「そう、ですね。はい。あまりおいしくないです。」


「それならさ、」


おじさんはズボンの左のポケットに手を入れると、財布を取り出して中身を探り出した。そして一枚のカードを取り出すと、片手で僕に手渡してきた。カードには、どこか見覚えのあるお店のロゴマークが入っていた。


「喫茶イケダ」


裏面には簡単な地図が描かれている。


「僕の店に来てみてよ。喫茶店やってるんだけど、ココアも出してるから。店主の小田原と申します。お店で飲むココアは缶よりおいしいと思うよ。」


思い出した。通学路の途中の信号の交差点の所にあるお店だ。うちの高校の生徒の自転車が何台か停められているのを見た覚えがある。高校生で喫茶店とかオシャレな青春送ってるなとか考えながら、毎日素通りしてた。


最近日も伸びてきているし、少しくらい帰宅が遅くなっても大丈夫か。


「是非。お店のココア、飲んでみたいです。」


......オシャレな青春、してみる?

人間との絡みが無い時って、世界の方を見てる。

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