63 吼える虎、見晴かす羊
カシューと戎兵衛は、たがいに下着ひとつの姿になると死体を積み込んだ小舟を川の中ほどに沈めた。
蜥蜴だけでも埋葬してやりたいという気持ちはあったが、急ぐ必要がある以上、いたしかたなかった。
川からあがると、教会裏口の階段にぐったりと座りこんでいる陽炎の姿が見えた。
蜥蜴の死亡を確認した直後から、真っ青な顔に脂汗を浮かべ、立ちあがろうとしてふらつく彼女を、戎兵衛が甲斐甲斐しく支えていた。
治癒魔法をかけつづけたことによる魔力の枯渇かと思っていたが、尋常でない消耗具合がカシューには気になった。
「女将だが、大丈夫か」
脱ぎ捨ておいた衣服を身につけながら傍らに声をかけると、頭からシャツをかぶろうとしていた戎兵衛が、一瞬動きを止めた。
雑な仕草で残りの服を着こみ、強く息を吐いた。
「お嬢の治癒魔法は、この国の聖属性や光属性持ちの魔導師が使う魔法とはちがうんでさ」
言葉こそ丁寧だが、持てあました感情がにじみ出ていることがわかる刺々しい口調だった。
訝しんだカシューが顔を向けると、戎兵衛はばつが悪そうに目を背け、ぼそぼそと口を開いた。
「長えこと国で毒味役をつとめてたお嬢の身体は、どんな毒にも慣れきってる。それこそ、一服盛られた毒物から、さっきの蜥蜴みてえに自分自身の血の濁りで生みだされる毒までです。お嬢の治癒魔法は、自分の身体の特性を利用して相手の毒を吸い取ることで身につけた魔法なんでさ」
「つまり、あれはヒールではなくキュアの延長線にある魔法なのか」
聖職者たちの使う毒素消化の魔法は、あくまでも体内の毒素を消し去る効果しかない。
蜥蜴の最期は、あらゆる肉体的苦痛から解放されたような、安らぎに満ちたものだった。
「魔法についての難しい話はあっしにはわかりやせん。問題は、お嬢の魔法は相手の苦しみを代わりに引き受けて癒やすってことなんです」
その言葉の意味を理解したカシューは、弾かれたような勢いで遠くで座りこむ陽炎に目をやった。
「そういうこってす。お嬢はいま、肉体が死んでいこうとする苦しみに耐えている」
出発の準備を整えたカシューが周囲の確認をしていると、戎兵衛をともなった陽炎が近づいてきた。
足取りこそしっかりしているが、目元は青黒い隈に縁取られ、髪は汗にまみれて額に張りついている。
どうみても万全な体調には見えなかった。
「おれひとりで行く。戎兵衛とふたり、どこかで身体を休めたほうがいい」
カシューが声をかけると、陽炎は眦を吊りあげた。
「旦那、わしを見損なわないでくんな。これしきのことでお役目を投げ出すような、やわな生き方はしとらん」
説得を試みようとしたカシューが口を開くまえに、陽炎はたたみかけるように言葉をつづけた。
「助けに向かう相手はお姫さんなんじゃろう。助け出したあと、旦那と戎兵衛だけでどうやって世話をするつもりじゃ。女手が必要になるのは目に見えておる。わしを連れていかんで、なんとする」
返答に詰まったカシューが戎兵衛に目を向けると、なにかを悟ったような目をした戎兵衛が首を振った。
「急がなきゃならん。街道に出ている暇はないから、最初から山のなかを突っ切ることになる。がむしゃらに走るぞ。ついてこれなくなったら、問答無用で戎兵衛に背負わせるからな」
「先陣切って駆け抜けてくれるわ」
鼻をならして猛々しい笑みを口元に浮かべる陽炎の背後で、顔を沈痛に歪ませた戎兵衛がうつむいていた。
川に沿ってしばらく走ると、水面の行く手を阻むようにしてそそり立つ断崖に行きついた。
ここから先、川の流れは山麓を伝って曲がりくねり、山をいくつか越えた平野部で再び姿をあらわして滔々とした大河に合流するまでのあいだ、道すらない谷間の底に消えることになる。
かつてあった軍用連絡道というのは、山岳を迂回して伸びる街道に対し、強引なショートカットを試みて切り拓かれたものなのだろう。
カシューは昨夜メルトとかわした会話を思い出していた。
街道を半日ほど進んだ先、かろうじて山と呼べる程度の標高しかない名もなき山の中腹から、かすかなダンジョンの反応が出ている。
冒険者ギルドや地元の商人に情報を当たったが、そんな所にダンジョンがあるという話を、誰も聞いたことがないらしい。
ゴブリンや歩き茸程度しか湧かない低ランクダンジョンだろうが、細い龍脈の一端にも重なっているので探索に赴いてみるつもりだ。
メルトはそう言っていた。
蜥蜴が最期に残した廃棄されたダンジョンという言葉とは明らかに食い違う内容だが、長年、軍部の裏面を覗いてきたカシューにはおおよその内情が読めていた。
緊急時の行軍に用いる連絡道の存在を秘匿するために、あえてダンジョン側を廃棄扱いにして冒険者や猟師などを近づけないようにした。
平時に長く浸かってきた軍も、小規模とはいえ活性状態にあるダンジョンが付近にある道をわざわざ使うこともなく、そうこうしているうちに何十年という月日がたって連絡道、ダンジョンともに忘れ去られたというのが実情だろう。
軍隊の秘密主義が作りだす歴史の謎とその真相として、時おり耳にするたぐいの話だった。
軍用街道がどこから来てどこへ向かうのか、カシューにはわからない。
ひとまずはそのダンジョンを探し、付近に伸びる道を発見する必要があった。
アデリーン王女一行がいつどこを通過するのかはわからないが、王都から出発している以上、逆方向に辿れば行き会うことができるだろう。
「この断崖を登ると、いくつかある山並みの頂上付近まで一気に出られる。木々の梢に遮られて道がどこにあるかはわからんと思うが、ダンジョンの位置ならわかる。そこを起点にして、王女一行の気配を探る」
カシューが断崖を見上げて言うと、戎兵衛が不思議そうに訊ねた。
「ダンジョンの位置がわかるって、目印でもついてるんですかい」
カシューは戎兵衛に向きなおると、自分の目元を指さした。
「魔眼だよ。魔力を籠めると、魔法を使おうとしている相手の魔力の動きや、空気中を漂う魔素の流れが見えるようになる」
「ダンジョンから溢れる魔力を見つけるって寸法かい。便利なものじゃな」
感心したように呟く陽炎にうなずくと、カシューはささくれだった崖の壁面に手をかけて全身を持ちあげた。
ある程度登ったところで適当な亀裂を見つけると、両手を差しこんで体勢を安定させ、体重をかけた両脚を交互に動かしながら這うように登攀していく。
黙々と登りつづけるうち、谷底を流れる川の水音が遠くなり、かわりに背中に吹きつける風の音が耳元で渦巻くようになった。
空を飛ぶはずの鳥の鳴き声が、上からではなく下から届いてくる。
額を流れる汗が目に入り、ひどくしみた。
口からはふいごのような荒い息が吐き出されるばかりで、いくら吸っても胸の苦しさが楽になることはない。
下を見れば必ず足がすくむ。
上を見上げれば気が遠くなる。
カシューは目のまえの岩壁だけを見つめ、ひたすらに手足を動かしながら、さきほど戎兵衛と陽炎に聞かせた自分の言葉を考えていた。
ふたりに嘘をついたわけではないが、話した内容がすべてというわけでもなかった。
たしかにカシューは、強化された魔眼によって自分の周囲に漂う魔素を認識できるようになった。
教会で蜥蜴たちの襲撃を受けた際、獣人として鋭敏な感覚を持つ戎兵衛よりも詳細に人数や位置を察知してみせた芸当も、強化前の魔眼しか持たないカシューではできなかっただろう。
においや音、光といった要素に加え、魔素の色や濃度、流れを感知できる能力は周辺の気配を探るうえで絶大な威力を発揮する。
風についた色を目で見るようなものだが、しかし逆にいえば、それだけのことでしかない。
だからこそ、出力を上げた魔力を直接放出するなどというバカげた発想を実践してみたが、制御できない破壊光線など、まともな攻撃手段とはいえないだろう。
結局のところ、魔眼とは視覚に依存する五感の延長線にすぎないとカシューは認識していた。
強化されていようといまいと、目である以上、ないものは見えない。
はるか視界の彼方に隠れているダンジョンなど、見分けられるはずもなかった。
首を横に向けると、危うげのないしなやかな動きで断崖を登っていく戎兵衛と陽炎の姿が目に入った。
平地を四つ足で闊歩する獣のように、美しい姿だった。
壁にへばりつき、ずるずると這いのぼるしかない自分の無様さに腹が立ったが、頭を振り払って四肢に力を込めた。
鋭利な石の先端を何度も掴んだせいで、手のひらに無数の切り傷がつき、血が溢れだしていた。
布を巻いて止血すべきだったが、足場が悪く、岩壁から手を離しては体勢を維持できそうになかった。
全身で伸びあがって岩をつかみ、身体を持ちあげようと体重をかけたとき、流れた血で指先が滑った。
とっさに踏みしめた爪先が岩肌をさまよい、上半身が致命的なまでにのけぞった。
体内の血液が一気に逆流したように全身が総毛立った。
一瞬の浮遊感に包まれたあと、内臓が引っ張り上げられるような不快感が湧きあがってきた。
もはや落下は逃れようがなかった。
果てしない青空を掴もうと伸ばした自分の腕が網膜に焼きついたとき、カシューは耐えきれない恐怖に強く目を閉じた。
「旦那!」
悲鳴のような戎兵衛の叫びとともに、伸ばしていたカシューの腕が掴まれた。
「そっちの手も伸ばせ! 足をつけて登ってこいっ。もう頂上だ!」
目を見開いたカシューが見たものは、崖の上に這いつくばって自分の腕を握りしめる、歯を食いしばった戎兵衛の顔だった。
そのとなりでは同じように身を乗り出した陽炎が、なんとかカシューの身体を掴もうと必死になって腕を伸ばしている。
カシューは声にならない悲鳴をあげながら、もう一方の腕を持ちあげて陽炎の手を掴んだ。
もがくようにして這い上がってきたカシューをなんとか引き寄せると、戎兵衛と陽炎は息をあえがせて倒れこんだ。
「旦那、あんためちゃくちゃだ。こっちの寿命が縮みましたぜ」
「まったくだよ。コブの旦那といい、あんたといい、おまえさんたちにつきあってるとこっちの命がいくつあっても足らん」
口々にぼやくふたりを無視し、いまだ恐怖に震える足を叩いて立ちあがったカシューは、息を整えようと咳き込みながら視線に魔力を籠めた。
メルトが地上に世界樹を降臨させる手伝いを依頼してきたとき、カシューが対価として彼女に望んだものがあった。
メルトと協力体制をとるとなれば、カシューは本来の所属元である組織から課された常時監視任務を放棄することになる。
組織の目を欺く以上、不信感を抱かせないためにも勇者一行の現在地は常に把握し、必要とあればすぐに合流できるようしておく必要があった。
旅路の要所で一行の居所を伝える目印を残す。
それがカシューが望んだ対価であり、メルトが放った強力な魔力波の残滓は、カシューの魔眼でしか感知することのできない目印だった。
眼下に広がる山並み。
鬱蒼と茂る木々に隠され、どこにダンジョンの入り口があるのかはわからなかったが、カシューの魔眼は、淡く輝く霧が煙るように立ちこめている一角を、たしかにとらえていた。




