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43 牙は息を潜める


 執務机に手をついたコブの声には、深い疲労が滲んでいた。


 神の宣託からはじまって、女神の降臨だの魔王や四天王といわれても、まるで現実味がわかない話だった。

 自分たちは神話のなかで生きているわけではない。

 だからこそ、コブは現実に迫り来る脅威とのあいだに乖離(かいり)を感じ、対処法をはかりかねているのだろう。

 カシューも同じだった。

 異世界から召喚された勇者。

 手足が五本ずつ、ついていたりするのだろうか。


「自分の任務は、異世界人三名の監視および戦闘後に発生した物資鹵獲(ろかく)とありますが、ほかに従事者はありますでしょうか」


「特殊案件従事者である羊は、基本的に単独での斥候任務に専念してほしい。国内各所に連絡地点をもうけて定期的に伝令員を接触させるので、報告はそのさいでかまわない。鹵獲品が発生した場合は、回収のための後方支援部隊を適宜(てきぎ)、派遣させる」


「任務開始時期は」


「訓練課程を修了した勇者三名の出発と同時を予定している。三名は現在、女神の監督のもと王城内にて訓練中だが、訓練期間に関しては不明。よって、特殊案件従事者、羊は集合命令が出るまで待機せよ」


 背筋を伸ばしたコブが敬礼し、カシューは敬礼を返した。


「命令書は最後まで読んだかね」


 テーブルの上に置かれた書類に目をやりながら、コブが訊いた。


「すべて記憶しました」


「では、規定どおり抹消処分を実行する」


 コブは執務机のひきだしから手提げ金庫のような箱を取りだすと、小さな魔石のはめ込まれた蓋を開いた。

 カシューが命令書をなかにおさめたのを確認し、蓋を閉じて気密ロックをかけた。


「右のボタンを」


 カシューが魔石の右側にあるボタンに親指をのせ、コブが左側に親指をのせた。


「三、二、一で」


「一と同時ですか。それとも一のあと」


 カシューが尋ねると、コブがにやりと笑ってこたえた。


「あとで」


「じゃあ、三、二、一、ハイで」


 ふたりそろって合図をかけてボタンを押すと、蓋の魔石が赤く輝いた。


 確認のためコブが蓋を開けると、かすかな煙がたちのぼった。

 命令書は、跡形もなく焼却されていた。




 夕刻、ねぐらの長屋に戻ったカシューは、王城内の官僚庁舎から聞こえてくる業務定刻の鐘を待って街に出た。


 貴族街と平民街の境界、城壁に近いため入り組んだ路地の奥に、その店はあった。


 地下に降りていく階段通路の横に、小さくアンパースと書かれた看板がはめこまれていた。

 その名のとおり、路地は行き止まりになっている。

 階段の先はくりぬかれた城壁の内部に通じているのだろう。

 違法建築もいいところの店だった。


 階段を降りた先にあった扉を開けると、天上から吊されたいくつものランプが放つ、柔らかな光に溢れた空間が目に飛びこんできた。


 横長の店内には、どうやって運び入れたのか、壁に沿ってゆったり四人は囲めそうなダイニングテーブルが四卓据えられており、奥には厨房とそれを仕切るカウンター席が(しつら)えられていた。


 地下にもかかわらず空気が澄んでいることに、カシューは驚いた。

 耳を澄ませたが、(よど)んだ空気を入れかえる空調の耳障りな音も聞こえない。

 おそらく、壁の向こうの見えない部分にまで店の空間は広がっているはずだった。

 おそろしく金がかかっている。


 カウンター席に、肉づきのよすぎる背中を丸めて座っている姿があった。

 客はほかにいない。

 店内に存在する人間は、カウンターの向こうでグラスを磨く背の高い猫耳の女と、厨房で調理する同じ獣人の男。

 ふたりはカシューが扉を開けたとき、一瞬だけ視線をよこしたが、それ以外の反応を見せることなく作業をつづけていた。


 カシューはカウンターに向かうと、コブのとなりに腰かけた。


「やあ。小腹がすいていたんで、先にやらせてもらってるよ」


 見れば、コブの目のまえには鮮やかな青い陶磁の皿が置かれていた。

 皿のなかには、みずみずしく赤い断面をさらけだした肉が、短冊状に切られて盛りつけられている。

 コブは右手の指ではさんだ二本の棒で器用に肉片をつまむと、小皿にそそがれた黒い液体を軽くつけ、口に運んだ。

 もとから柔和な目尻がさらに下がり、騙されても笑っていそうな顔になった。


「肉を生で食うのか」


「魚の刺身だよ。ここの大将はジパニカで免許皆伝まで修行していたイタマエでね。さらに猫の獣人だから魚の鮮度にはうるさい。大将を口説いてまでこの店を開いたのは、大成功だったよ」


「やっぱりコブの店か。何軒目だ」


「五軒目。もうすっからかんさ」


 若い頃、再会したコブの趣味は食べ歩きだった。

 二十五年が過ぎたいま、それは趣味の範疇を越えた道楽の域に達していた。

 まだ見ぬ美食を求めてスラムの屋台まで食べ歩き、これはという料理人を見つけると私費を費やして後援し、店を用意して好きなようにメシを作らせる。


 しばらくして店が軌道に乗ると、コブはカシューを誘った。

 コブの舌にまちがいはなく、どの店も驚くほど美味かったが、カシューがそれらの店にひとりで足を運んだことはなかった。

 その日暮らしの冒険者として入るには敷居が高く、諜報員として入るには剣呑(けんのん)すぎると思ったからだった。


「ここの場所はすぐにわかったかい」


「ああ。洗濯室を抜ける秘密通路の三番出口といったら、地形的にここの行き止まりしかないからな」


 命令書の最後に、コブの筆跡で書かれていた道案内。

 それはかつての王宮住人が使っていた、忘れられた脱出経路のひとつだった。


 カシューですら、その存在を見つけたのは偶然だった。

 生まれもった魔眼がなければ、気がつかなかっただろう。

 コブが知っているとは思わなかったが、考えてみれば、彼は二十五年も王城を根城に活動しているのだ。

 手当たりしだいに文献を読みあさり、王城のすみからすみまで知り尽くしていてもおかしくはないはずだと思いなおした。


 いつのまにか、厨房の奥にいたはずの男がカウンターに出てきていた。

 動いた気配を感じなかった。

 いくら猫系獣人とはいえ、動きがしなやかにすぎた。

 かなりできる男だと、カシューは思った。


 コブから大将と呼ばれていた男は、カシューのまえに立つと小鉢をカウンターに置いた。


「まだなにも頼んでいないんだが」


 横からのぞきこんだコブが言った。


「突き出しだよ。注文した料理が出てくるまで、酒だけじゃ口さみしいからつまみをひと皿だすんだ。たいていは作りおきしておけるつけ合わせだけど、僕もこの突き出しははじめて見る。大将、これなに」


「湯通しした鮭の皮を油で揚げて、柚皮(ゆずかわ)出汁(だし)()えたもんです。はじめてのお客さんに生の魚は口慣れないでしょうから」


 まだ若い、優男(やさおとこ)風の見た目からは想像もつかないほどの低くしわがれた声だった。

 カシューと目があうと、大将はくしゃりとゆがませた笑顔で会釈を返し、厨房へと戻っていった。


 我ながら奇妙なほど心が浮き立っているのを、カシューは感じた。

 居心地のいい秘密基地のような店と、腕の立つ男が見せてくれる歓待。

 興味を引く料理と、それを美味そうに食う気のおけない友人。

 きっと酒も美味いはずだ。


 小鉢の横に添えられていた二本の棒を手にとった。

 コブの手つきを観察しながら、見よう見まねで動かしてみる。

 それほど器用に動かなかった。


「箸はこうやって使うんだ」


 口に運ぶまえに落としてしまう箸づかいに悪戦苦闘していると、横から手を伸ばしてきたコブが、小鉢の中身をごっそりとつまんで口に入れた。

 一、二度咀嚼したあと、その目が見開かれ、口角がゆっくりと上がっていった。


「おい、おれに出された突き出しだぞ」


「さっさと食べないきみが悪いんだ」


「食うな」


 さらに箸を伸ばしてきたコブを押しのけ、カシューが小鉢を引き寄せると、忍び笑いとともに木製のフォークがさしだされた。

 顔を上げると、口元に手を当てた女と目があった。


「こんなオーナーには見切りをつけて、さっさと独立したほうがいいぞ」


「オーナーなんてダメなくらいがちょうどいいのさ。そのぶん、よくできた店員が居着くから」


「ちげえねえ」


 かすかに聞こえたつぶやきに目をやれば、黙々と包丁を動かしていた大将が、小刻みに肩を揺らして笑いを噛み殺していた。


 女がカシューのまえに指でつまめる程度の小さなグラスをおいた。


 男が大将ならば女は女将(おかみ)なのだろうが、赤いシャツの上にダークグレーのベストを羽織り、タイトなトラウザーをはいた姿はバーテンに近かった。

 女にしては手が大きく、分厚い手のひらをしていた。

 わずかに節くれだって長い指は、指先もつけ根も硬くしまっている。

 自分と同じ暗器使い。

 得物(えもの)は細身の投げナイフにナックルだろうと、カシューは見当をつけた。


 女は手に持った水差しのような容器を、グラスに向けてかたむけた。

 かすかにとろみを感じさせる透明な液体が流れ落ち、溢れそうになる寸前でなめらかな表面を見せた。


「あとはご自由に」


 背の高さにみあった豊かなアルトで言った女は、グラスのとなりに水差しを滑らせると厨房に入っていった。


 カシューはグラスをつまみあげた。

 内部を満たした液体は、水のように透きとおっているが、香りは芳醇な酒精を主張していた。

 蒸留酒に特有の、鼻孔の奥に突きささるとげとげしいアルコール臭ではない。

 包みこむように広がって染みこんでくる、まろやかな匂いだった。


 グラスの大きさからしてひと息に(あお)ろうかと思ったとき、コブが声をかけてきた。


「ショットじゃない。なめるように飲む酒だよ。ジパニカの主食である米から造られた酒でね。舌と喉で味わって、鼻で豊穣を感じるんだ」


 よくわからなかった。

 とにかく少量ずつゆっくり飲めばいいのだろうと、口に含んだ。

 コブの言ったとおりだった。


「美味い水みたいだな。でも酒だ。いい酒だ」


「発酵の度合いによって、甘くもなるし辛くもなるんだ。原料の米と水がちがえば、香りも口当たりもかわってくる。ワインは量を飲むと味覚がぼやけてくるけど、これは逆に舌がすっきりする。繊細な味わいの料理に、とてもあう酒だよ」


 まるで自分がつくったよう自慢するコブの声を聞きながら、厨房にいたふたりもまんざらでもない顔をしていた。


 その後に出てきた料理は、ジパングの食い物といえば屋台で出されるソバやウドンのことだと思っていたカシューにとって、どれも驚きの連続だった。


 ジパニカ人がブリと呼んでいる魚の照り焼き。

 ぶつ切りにした切り身を炭火で炙り、外側だけ火を入れることで旨みを凝縮させたカツオのタタキ。

 小さなブロック状に切り分けた身をショウガとタレで炊き上げたマグロの角煮。

 調理したあとに出る使いどころのない頭や骨を、東方のラディッシュといっしょに煮てつくるあら汁。


 コブは新しい皿が置かれるたび、魚の種類や調理法、食べ方にいたるまでカシューに指南した。


 正直、コブの説明がなければ、口に入れようとは思わなかっただろう。

 塩を振って焼いただけとおぼしき大きな魚の頭が皿にのって出てきたときは、なんの手抜きかと思ったが、小皿にとりわけられた目の周辺から頬にかけての肉を噛みしめてからは、その可食部分の少なさを恨めしく思う自分に驚くはめになった。


 そして酒の美味さ。

 強火で炙った(ひれ)を先ほどの酒に入れると、その香りだけで口内に唾液が染みだしてくるのがわかった。


 出てくる料理をすべて堪能したあと、手酌でそそいだ酒を口に運んだコブがぽつりと言った。


「きみにこの料理を食わせたかったんだ」



店内の雰囲気は、銀座とか赤坂にある鮨屋をイメージしています。

もちろん、作者は行ったことありません。

寿司はくるくる回るもんだと思っています。

ついでにいうと、酒も飲めません。

私はウソつきです。


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