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21 峻厳として森はそこにあった


 うなだれる親方の身体を、メルトが優しくベッドに押し戻した。


 されるがままに横たわった親方が、私に向かって手を伸ばした。


「頼みがある」


 手袋を外していたため触れることに若干のためらいを抱いた私の手のひらを、親方は強い力で握った。


「ギリアムはまだ村にいる。龍脈がいつ破裂するかわからんから一緒に避難しろといったんだが、勇者が来るまでダンジョンコアをだれにも渡すわけにはいかんと聞かなかった。エレノアも一緒だ。自分がいるかぎり、ギリアムも無茶はしないはずだと残る道を選んだ」


 エレノアならばそうするだろうと思った。

 そして、どれほどの逆境にあろうと最後の瞬間までギルド存続の可能性を探し続けるだろうことも予想できた。

 ギルドマスターであるギリアムの思想をもっとも強く受け継いでいるのは、親方でも私でもない。

 文字通り、幼い頃からギルドマスターに育てられたエレノアだ。

 彼女こそが、冒険者ギルドの申し子だった。


「おれを襲ってきたのは、ただのオーガじゃねえ。まちがいなく称号持ちの変異種だ。いずれ自分の群れを作ってジェネラルかキングに進化するだろう。いま、森の中にはそんなのがゴロゴロいる。どいつもこいつも龍脈の影響を受けて猛り狂ってやがる」


 ゆっくりとした平坦な口調で親方が言った。

 深く刻まれていた眉間の皺がほぐれていき、全身が弛緩していくのが見てとれた。

 親方の額に添えられたメルトの手のひらが、柔らかな光をほのかに発している。

 鎮静の魔法だった。


「勇者が来るまでなんて、悠長なことをいってる場合じゃなくなっちまった。そもそも、勇者が来たところで、占領に必要な軍隊が森を抜けられるとも思えねえ。単独で乗り込んできたところで、あたり一帯更地にする勢いで暴れまわるくらいしかできることはねえだろう。そうなったら、いまゴートに閉じ込められてるデルモンドやアルカードの連中ともども、ギリアムとエレノアも吹き飛んじまう。それを防ぐことができるのは、アッシュ、おまえだけだ。コアの扱いに長けたおまえなら、勇者のかわりに龍脈を破裂させることなくあの地にダンジョンを定着させることができるだろう。頼む、アッシュ。二人を助けてやってくれ」


 言いおえた親方の手から、ゆっくりと力が抜けていった。


 ふいに記憶がよみがえった。

 幼い頃、私の手を握りしめながら息を引き取った神父の手のひら。

 カサカサに乾ききって細い枝のようだった指の感触。


 あのとき、私は命を託されたと感じた。

 なにがあろうと、あがいて生き抜くだけの強さを求められた気がした。


 同じだ。

 親方からもまた、命を託された。

 そう思った。


「大丈夫。眠っただけですわ」


 親方の手をベッドに戻しながら、メルトが言った。


「あとはゆっくり眠って体力の回復を待つだけです」


 メルトの言葉にうなずきを返すと、私は立ち上がった。




 救護室を出て中庭にまわった。

 この砦に足を踏み入れたときの喧噪が嘘のように人の姿はなく、そこかしこに設置された無人の天幕がうら寂しく風にはためいていた。


 陽の光はすでにない。

 薄墨で描いたようにもやがかった風景のなか、西の空の彼方だけが暮れなずむ太陽の名残をとどめてぼんやりと朱に染まっていた。


 装備品倉庫に足を運んだ。

 出発した兵士、冒険者たちが目につくかぎりの武器や防具を身につけていったのだろう。

 めぼしい装備はあらかた持ち出されていた。


 隣にあった営繕倉庫はいくらかましだった。

 野営に用いる天幕や寝袋などの棚は空になっているが、施設維持に必要な日用工具は残っている。


 俊敏な動作を阻む道具はいらない。

 武器はすべて手足の延長線と考えろ。

 ギルドマスターの教えが脳裏によみがえった。


 骨格と関節を筋肉でくるんだ生き物である以上、その肉体の可動域には限界がある。

 腱を切れば関節は動かなくなり、主要な臓器を破壊すれば死にいたる。

 それは人間も魔獣も変わらない。

 そして、身体能力だけを見れば、人間はあらゆる動物のなかでも最弱の部類に入る。

 武器も持たず、防具で肌を覆わなければ、我々は飢えた野犬や闘争本能をむきだしにした猫にすら噛み殺されるのだ。


 かつて、修練を続けて体得した剣術に慢心し、細身のショートソードだけを担いでクエストをこなす私を、ギルドマスターは稽古をつけてやるといって木刀一本で叩きのめしてみせた。

 正確にいえば、木刀すらまともに使うことはなかった。

 向き合い、私が足を踏み出すと同時に彼は木刀を投げつけてきたからだ。


 とっさに飛んできた木刀を弾き落とした私の顔めがけ、ギルドマスターの足が地面を蹴って砂を巻き上げた。


 その後はひたすら大地を転がされ続けた。

 膝横を蹴られて体勢を崩したところを掌底によってのけぞらされてしまえば、あとは肩を押し下げるだけで簡単に仰向けに倒れてしまう。


 立ち上がろうとするたび、ギルドマスターは私の腕を足で払った。

 人間は二本足で直立する動物であるということを嫌というほど思い知らされる結果になった。

 腰を支点として身体を起こすためには、手首か肘で上半身を支える必要がある。

 そんなあたりまえの動作の理屈を、このときまで私は考えたこともなかった。


 人間相手の剣術など、四つ足の獣を前にすればなんの役にも立たない。

 ましてや魔物のなかには多足他腕や鞭のように撓る触手で攻撃してくるものもいる。

 かたちすら定かでない埒外の生き物を相手に、腕で振りまわす剣だけで立ち向かうなど自殺行為以外のなにものでもない。


 ギルドマスターはその言葉どおり、あらゆる武器を自由自在に使いこなしてみせた。

 目につくあらゆる道具が、彼が手に持った瞬間、危険な凶器となるように思えた。


 倉庫の棚をあさり、草むしりに使う片手持ちの鎌を二丁、両の腰帯に差した。

 携行用の小型シャベルを背嚢に固定し、外套のなかに着こんだベストには天幕設営に用いるペグを持てるだけ詰め込んだ。

 頑丈なザイルをひと巻き、腰に吊るす。


 外へ出て、塁壁の上に昇った。

 太陽は完全に沈み、あたりは夜の帷に包まれている。

 塁壁の角かどで篝火が焚かれているが、物見の姿はなかった。

 砦に詰めていた多くの者たちがいなくなったことで、張り詰めていた緊張が切れたのかもしれない。

 赤く揺れる篝火の光に照らされた敷地には、弛緩した空気が漂っているように感じた。


 人の営為に背を向け、眼下に広がる森を見た。


 鬱蒼と茂る木々の群れが、硬質な満月の光を浴びて静まりかえっていた。

 吸い込まれるように蒼く、飲み込まれるように黒い。

 あらゆる人々の希望を寄せつけず、峻厳として森はそこにあった。


「行きますの」


 沈鬱な声に振りかえると、同じように森を見据えるメルトの姿があった。


「せめて夜が明けるまで待てばと思いますが、いまのあなたには闇夜こそがふさわしいのかもしれませんわね」


 言葉を返すことなく、私はうなずいた。

 私にとって、闇は行動を阻害するものではない。

 視界はわずかな影の濃淡も見逃さず、踏みしめる葉の一片まで察知できる。

 視覚に頼るまでもない。

 闇の揺らぎが生命の動きを教えてくれるだろう。


 メルトがふところから闇色の結晶を取り出し、私に差し出した。

 杖の勇者が封印されているアストラル体だった。


「持っていきなさい。あなたならば、使い方をまちがえないでしょうから」


 結晶を受け取ると、体内に内包された闇属性の魔力が反応したのか、全身が大きく脈動しているような感覚にとらわれた。

 胸の内に混沌とした塊が生まれ、制御する間もなく何倍にも膨張していこうとする感触。

 自分が乗っ取られてしまうような不安が、この結晶にはある。

 まちがいなく、この結晶のなかに杖の勇者はいた。

 かつて私が取り込み、その肉体の構成要素を徹底的に焼き尽くした杖の勇者は、魂だけの存在となってなお、怨嗟の声を上げつづけていた。


 結晶をベルトのポーチに収め、満身の力を込めて拳を握りしめた。

 体中に巻きつけていた包帯が、パキパキと音を立ててひび割れていく。

 メルトが聖属性の魔力を染みこませて作ったその包帯は、間断なく治癒魔法を浸透させることで私の肉体を焼き固めていたが、これから先、私に聖魔法が必要になることはない。


 限界まで細粒化して粉末となった包帯が、青白い光を放ちながら立ちのぼっていく。

 まるで全身が青い炎に包まれたようだった。


 漆黒の滴のような私の姿に気圧されたのか、メルトが一歩後ずさった。


 私は振りかえることなく塁壁の外へ足を踏み出し、虚空へと身を投げ出した。



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