第一章 2『神威滝壺』
ネメシスの夜は、眠らない。
旧地球エリアの外周を囲う巨大隔壁。その向こう側には、人類が捨てた世界がどこまでも広がっている。
焼け焦げた荒野。
崩れた高層都市。
空間が歪み、重力が狂い、化け物が徘徊する死地。
世界政府マンダラは、その危険地帯を総称して《ネメシス》と呼んでいた。
そして今も、そのネメシスのどこかで、人が死に、街が壊れ、怪物が生まれている。
遠くで爆発音が響いた。
窓ガラスが微かに震える。
赤黒い空には雲が垂れ込み、巨大隔壁の照明だけが街並みをぼんやりと照らしていた。
そんな終わった世界の片隅に、《探偵社》は存在している。
旧雑居ビル二階。
錆びた外階段。
割れたネオン看板。
入口横には、雑に貼られた依頼募集の紙。
“迷い猫探し歓迎”と書かれているのを見た瞬間、火神爆は頭を抱えた。
「いや絶対もっとあるだろ仕事内容」
ソファに寝転がりながら、爆が心底嫌そうに言う。
入社試験から三日。
正式に探偵社へ所属したものの、彼の想像していた“超常戦闘専門組織”と、現実の仕事内容にはあまりにも差があった。
「世界政府直属だぞ?」
「そうですね」
「化け物討伐とか極秘任務とかじゃねぇの普通」
「昨日は猫でした」
「しかも普通にコンビニの裏にいたしな」
爆の言葉に、カウンター席に座っていた暁照夜が小さく笑う。
細身の青年だった。
黒髪。
眠そうな目。
どこか気怠げな雰囲気。
だが、その男の周囲だけ妙に影が濃い。
照明のせいではない。
彼の足元から伸びる影そのものが、生き物みたいに揺れているのだ。
「でも、爆さん強かったですよ」
「どこを褒めてんだお前」
「猫を捕まえる時の踏み込み、床抜けてましたし」
「加減ミスっただけだ」
爆がソファの背もたれへ頭を預ける。
天井を見上げる。
古い蛍光灯がジジ、と嫌な音を鳴らしていた。
世界政府直属。
超常戦闘専門。
ネメシス関連事件を扱う探偵社。
そう聞けば聞こえはいい。
だが現実は、猫探し、荷物運び、酔っ払い同士の喧嘩仲裁。
試験で見たあの異常な戦闘は何だったのかと思う。
「……まぁ、平和ならそれでいいんじゃないですか」
照夜がコーヒーを飲みながら呟く。
爆は鼻を鳴らした。
「絶対平和じゃねぇだろこの世界」
窓の外を見る。
旧地球エリア。
一応、人類の安全地帯。
だがその実態は、“比較的マシ”というだけだ。
ネメシスから流れ込んだ怪物。
違法オド兵器。
人体改造。
密輸組織。
殺し屋。
狂信者。
犯罪組織ネオノクス。
この世界では、何が起きても不思議ではない。
むしろ、“何も起きない”方が異常だった。
その時だった。
ギシ。
事務所の奥で床が鳴る。
爆がそちらを見る。
暗い廊下。
その奥から、一人の女が姿を現した。
長い黒髪。
白い肌。
切れ長の瞳。
腰には一振りの黒刀。
神威滝壺。
彼女が歩くだけで、空気が変わる。
別に殺気を出しているわけではない。
だが、生物としての“格”が違う。
近くにいるだけで神経が削られる。
爆は未だに、この女の気配に慣れなかった。
「なんだよ滝壺」
「……別に」
低い声。
感情の薄い返事。
滝壺はそのまま窓際まで歩くと、壁にもたれながら外を眺めた。
月光が横顔を照らす。
その瞳だけが、獣みたいに微かに光って見えた。
爆は思い出す。
入社試験。
あの時見た紫色の斬撃。
空気そのものを切断したような剣速。
そして、一瞬だけ感じた“死”。
あれは人間の剣じゃなかった。
「なぁ」
「何」
「お前のあの技さ――」
その瞬間だった。
ピタ。
滝壺の目が細くなる。
同時に。
照夜の影が床で逆立った。
「……来ます」
照夜が静かに言う。
空気が変わった。
爆にも分かる。
事務所の下。
ビルの一階。
何かいる。
しかも、一つじゃない。
グチャ。
グチャ。
濡れた肉を引きずる音。
骨が擦れる音。
何かが階段を上がってくる。
「なんだこの音……」
誰も答えない。
代わりに、滝壺が静かに刀へ手をかけた。
その動作だけで空気が張り詰める。
次の瞬間。
――ドゴォンッ!!
入口扉が吹き飛んだ。
木片が弾ける。
埃が舞う。
そして。
そこから現れた“それ”を見て、爆は眉をひそめた。
「……なんだよ、これ」
人型。
だが、人間ではない。
顔の半分が裂けている。
目玉が三つある。
腕が異様に長い。
口が胸まで裂け、そこから黒い液体が垂れていた。
しかも一体ではない。
後ろから、次々と現れる。
腐臭。
熱気。
異常な殺気。
照夜が目を細めた。
「ネメシス産……?」
化け物の一体が爆へ飛びかかる。
速い。
だが。
「おっせぇ」
爆の足が床を砕いた。
一歩。
踏み込んだ瞬間には、赤黒い刀身が怪物の顔面へ叩き込まれている。
――轟音。
爆発。
怪物の上半身が吹き飛んだ。
肉片と黒い血が壁へ飛び散る。
だが、それでも終わらない。
後ろからさらに二体。
三体。
四体。
「数多っ!?」
「下がって」
次の瞬間。
紫色の斬光が事務所を横断した。
ズバンッ――!!
空気が裂ける。
侵入しかけていた怪物たちが、一瞬で両断された。
斬られたことにすら気づいていない。
遅れて肉体が滑り落ち、黒い血が床へ広がる。
静寂。
だが。
グチャ。
グチャ。
まだ下から音がする。
照夜の影が蠢いた。
「……まだいますね」
滝壺が静かに刀を構える。
黒刀《宵丸》。
その刀身を見た瞬間、爆の背筋に寒気が走った。
刀が、生きている。
そんな錯覚を覚える。
滝壺の瞳が僅かに緑色へ染まった。
獣みたいな光。
そして。
彼女は小さく呟く。
「……来る」




