第一章 1『マンダラにはいない男』
旧地球エリア第七区画。
昼だというのに、空は薄暗かった。
赤黒い雲が空一面に広がり、太陽の輪郭をぼやけさせている。ビルの隙間を吹き抜ける風は乾いていて、金属と排煙の臭いを運んでいた。
路地では露店商が怒鳴り声を上げ、改造義肢を並べた店主が客と値段交渉をしている。壁には賞金首のホログラムが映し出され、その横をマンダラの警備ドローンが無言で通り過ぎた。
壊れた世界。
だが、人間は慣れる。
空が赤いことにも。
昨日まで隣にいた人間が今日には死んでいることにも。
ネメシス由来の怪物が壁の向こうにいることにも。
この時代を生きる者にとって、それはもう“日常”だった。
そんな雑踏の中を、火神爆は気怠そうに歩いていた。
「……腹減った」
第一声がそれだった。
探偵社への入社試験を終えてから、すでに数時間。
正式に所属が決まり、最低限の説明を受けたあと、「今日は帰っていい」と言われたのだが――爆はまだ帰っていなかった。
理由は単純。
道に迷ったからである。
「クソが……」
爆は苛立ったように頭を掻いた。
第七区画は入り組みすぎていた。
立体道路。
増築された雑居ビル。
上下に伸びた居住区。
空中通路。
地下街。
しかも区画によって空気が違う。高層側は比較的整備されているが、一歩裏へ入れば配管むき出しの違法増築地帯が広がっている。
爆は方向感覚が悪いわけではない。
だが、この街は構造そのものが狂っていた。
「……ん?」
その時だった。
爆の耳が、小さな悲鳴を拾う。
路地裏。
積み上がったコンテナの向こう側。
男の怒鳴り声。
「だから金を出せっつってんだろ!」
「ひっ……!」
少女の声。
爆はため息を吐いた。
「めんどくせぇ」
口ではそう言いながら、足はもう向かっていた。
細い路地へ入る。
奥には三人の男がいた。
全員ガラが悪い。
腕に違法改造を施している奴もいる。ジャケットの内側には拳銃。明らかにまともな人間ではない。
その中央で、小さな少女が壁際へ追い詰められていた。
「ネメシス帰りなら金持ってんだろ?」
「知らねぇなら教えてやるよ。この辺じゃ“通行料”が必要なんだ」
「なぁ?」
三人が下卑た笑いを上げる。
少女は震えていた。
年齢は十歳前後だろうか。
汚れたコートを抱き締め、小さな鞄を必死に守っている。
「……」
爆は数秒だけ眺めた。
別に、正義感が強いわけではない。
困ってる人を放っておけないタイプでもない。
ただ。
こういう連中が、単純に気に食わなかった。
「おい」
爆が声をかける。
三人が振り向いた。
「あ?」
「誰だテメェ」
爆は親指で後ろを指した。
「そのガキ、返せ」
一瞬の沈黙。
そして、男たちは笑った。
「ははっ、なんだコイツ」
「一人で来たのか?」
「英雄ごっこなら他でやれよ兄ちゃん」
中央の男が拳銃を抜く。
安全装置を外す音。
銃口が爆へ向いた。
「消えろ」
乾いた発砲音。
次の瞬間。
男の視界から、爆が消えた。
「――は?」
理解するより先に、衝撃が腹へ突き刺さる。
爆の拳だった。
空気ごと叩き込むような一撃。
男の身体がくの字に折れ、そのまま数メートル吹き飛ぶ。背後のコンテナへ激突し、金属音を撒き散らした。
「が……ッ!?」
残り二人が反応する。
ナイフ。
義手。
同時に突っ込んでくる。
爆は避けない。
踏み込む。
義手の拳が頬を掠める寸前、爆の肩が相手の懐へ入り込んだ。
肘打ち。
骨が砕ける音。
男が吹き飛ぶ。
最後の一人がナイフを振るう。
横薙ぎ。
喉狙い。
素人ではない。
だが。
「遅ぇ」
爆の目が細くなる。
次の瞬間、ナイフごと男の腕が壁へ叩きつけられた。
「ぎゃああああッ!!」
手首が変な方向へ曲がる。
爆はそのまま男の顔面を蹴り飛ばした。
壁に頭を打ちつけ、男が崩れ落ちる。
静寂。
数秒前まで騒がしかった路地が、一瞬で終わっていた。
少女だけが呆然としている。
爆は鼻を鳴らした。
「弱ぇな」
男たちは呻いている。
だが立ち上がれない。
爆はそのまま少女へ近づいた。
「怪我してねぇか」
「……ぁ」
「してねぇなら帰れ」
少女は数秒固まっていたが、やがて慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……!」
「別に」
「お兄ちゃん、マンダラの人……?」
「んー?」
爆は少し考える。
今日入ったばかりだ。
まだ実感もない。
「まあ、そんな感じだ」
少女の目が少し輝く。
その反応に、爆は少しだけむず痒くなった。
「……帰るならさっさと帰れ。次は助けねぇぞ」
「は、はい!」
少女は走って去っていく。
その背を見送りながら、爆は頭を掻いた。
「……腹減った」
結局そこへ戻る。
その時だった。
「へぇ」
背後から声。
爆が振り向く。
路地入口の壁にもたれかかり、一人の男が立っていた。
罪道斬刹。
探偵社で見た男だった。
「見てたのかよ」
「途中からな」
斬刹は笑う。
「躊躇なく殴るタイプだとは思ってたけど、想像以上だ」
「絡まれたから返しただけだ」
「普通、拳銃向けられたらもうちょい焦る」
「避ければいいだろ」
「ははっ」
斬刹は肩を震わせた。
「お前、やっぱ面白ぇな」
「褒めてんのか?」
「一応な」
爆はため息を吐く。
「で、何の用だ」
「迎え」
「あ?」
「万之介さんが呼んでる」
爆の眉が寄る。
「なんで」
「依頼が入った」
斬刹の笑みが、少しだけ鋭くなった。
「お前の初仕事だよ、新入り」




